第90話 受け継がれた光
「私たち帝国皇族の始祖です」
ヴィオレットの言葉が、静まり返った会議室へ重く落ちた。
初代皇帝レオン一世の妻。
すべての聖霊の声を聞き、人と聖霊を繋いだ王。
聖霊王アステリア。
五百年以上もの間、帝国の歴史から失われていた名だった。
「初代皇帝に伴侶がいたこと自体は、建国神話にも残っている」
最初に口を開いたのはアレクシスだった。
「だが、その女性の名も素性も伝わっていない」
「帝国に残る最古の記録でも、
レオン一世を支えた伴侶がいたと記されているだけだ」
レオンハルトも続ける。
「その人物が、共和国で女神として伝えられていたアステリアだったというのか」
「はい」
ヴィオレットは迷いなく頷いた。
共和国には、アステリアという名が残った。
星や湖に結びつき、人々へ恵みを与える神話上の女神として。
一方の帝国には、聖霊の存在と皇族が受け継ぐ祝福が残った。
けれど、共和国では聖霊そのものが忘れられ、
帝国ではその始まりにいたアステリアの名が失われた。
どちらの国も、同じ歴史の異なる部分だけを受け継いでいたのだ。
「根拠は、碑文だけか」
ルーファスが尋ねる。
娘の報告を聞く父親ではなく、帝国皇帝として真実を確かめる声だった。
「いいえ。遺構には、アステリア様が生前、
水と聖霊の術式へ残した記憶がありました」
ヴィオレットに続き、ルシアンが説明する。
「本人の意識が今も遺構に残っているわけではありません。
生きていた時代に、遥か未来へ届くよう言葉と記憶を残したものです」
そこには、人間であるレオンと出会い、
互いに傷ついた人々と聖霊を守るため手を取り、
やがて夫婦となった二人の姿があった。
そして、二人の間に生まれた子どもたちも。
「アステリア様は、白銀の髪と紫水晶の瞳を持っておられました」
ルシアンが告げる。
自然と、家族の視線が互いへ向いた。
ルーファス。
レオンハルト。
アレクシス。
ヴィオレット。
クリスティ。
現代の帝国皇族へ、強く残されてきた色。
だが、ヴィオレットはすぐに続けた。
「ただし、レオン一世とアステリア様の子どもたちが、
皆同じ姿だったわけではありません」
アステリアと同じ白銀や紫を受け継いだ者もいれば、
レオンに似た色を持つ者もいた。
その両方を受け継いだような子もいる。
色も容姿も、一人ずつ異なっていた。
「では、この色だけが特別だったわけではないのですね」
クリスティが、自分の白銀の髪へ触れる。
「はい。アステリア様自身も、
髪や瞳の色が子どもたちの価値を決めるものではないと、
はっきり残しておられました」
白銀の髪も、紫水晶の瞳も、玉座へ座る資格として生まれたものではない。
民の上へ立つ者を選別する印でもない。
遥か昔、一つの家族へ受け継がれたいくつもの色の一つが、
長い世代を重ねる中で皇統へ強く残り、
いつしか皇族の権威と正統性を象徴する色となった。
「皇族だから与えられた色ではないのだな」
レオンハルトが静かに言う。
「家族から受け継いだものが、結果として俺たちまで残った」
「そういうことです」
ヴィオレットは頷いた。
クリスティは、自分の髪から姉へ視線を移す。
その向こうには、今ここにいないもう一人の白銀の髪を持つ妹がいた。
それは皇族であることを証明するためだけの色ではない。
遥か昔の家族から、長い時を越えて自分たちへ届いた繋がりの一つだった。
「祝福についても、私たちの理解とは少し異なっていました」
ルシアンが次の資料を開く。
「皇族がアステリア様から受け継いだのは、聖霊を従わせる権利ではありません。
心からの声が、聖霊へ届くための道です」
「道?」
アレクシスが聞き返す。
「誰かを愛し、守りたいと願う。その声が聖霊へ届き、
応えたいと思った聖霊が自らの意思で力を貸す。それが祝福の本来の形です」
受け継いだ道があるから、皇族の願いは聖霊へ届きやすい。
けれど、何を願うかは一人一人異なり、それへ応える聖霊も違う。
だから祝福の形も、それぞれ異なる。
クリスティは自分の両手を見つめた。
「では、私の太陽の祝福も……皇女だから与えられたものではないのですね」
「はい」
ルシアンが頷く。
「クリスティ様の願いへ、聖霊たちが応えたものなのでしょう」
誰かが無事であること。
傷ついた者が再び立ち上がれること。
大切な人々が、幸福に生きること。
クリスティが心から望み続けてきたものだった。
「力が強いことは、支配する権利が大きいという意味ではない」
リカルドが静かに口を開く。
「むしろ、何のために使うのかを、より強く問われるということでしょう」
ルーファスは短く頷いた。
「そうだな」
そして、ヴィオレットは次の記録へ手を置く。
「アステリア様は、災厄を封じたのち、残された力を三つの形へ分けました」
一つは、子孫の心からの声が聖霊へ届くための道。
一つは、すべてが終わったあと、傷ついた大地へ再び命を迎えるための聖霊王の涙。
そして最後の一つは。
「アステリア様自身の内に残した、ごく小さな光です」
誰も言葉を挟まなかった。
「アステリア様は、聖霊王としての強大な力と永き命を手放しました。
その小さな光だけを自らに残し、
レオン一世と同じ時の中で生きることを選ばれたのです」
永遠に近い時を生きる聖霊王としてではなく。
夫と共に年を重ね、子どもたちの成長を見守り、
家族として同じ時間を歩いていくために。
それは、永遠を奪われたのでも、命を犠牲にしたのでもない。
彼女自身が望み、選び取った人生だった。
「アステリア様は、レオン一世と共に年を重ね、家族に囲まれて生涯を終えました」
「レオン一世より先に?」
ルーファスの声が、僅かに低くなる。
「はい」
ヴィオレットは静かに頷いた。
「最期まで、レオン一世が傍にいました」
ルーファスは卓上の資料を見つめたまま、しばらく動かなかった。
愛する妻を、自分より先に失う。
その痛みを、彼は知っている。
けれど、レオンの喪失はルーファスのものと同じではない。
レオンとアステリアは共に年を重ね、子どもたちが成長する姿を見守り、
長い人生の末に別れの時を迎えた。
突然すべてを奪われたルーファスには得られなかった時間を、二人は確かに生きた。
「共に年を取り、その最期を見送ることができたのか」
誰へ聞かせるでもなく、ルーファスが呟く。
「はい」
ルーファスは目を閉じ、長く息を吐いた。
「……それもまた、幸福だったのかもしれぬな」
それ以上は語らなかった。
もしフェリシアが生きていたなら。
共に子どもたちの成長を見守り、いつか孫に囲まれ、
互いに白くなった髪を見て笑う日もあったのかもしれない。
叶わなかった未来を思う痛みと、
それでもレオンとアステリアが得た時間への静かな羨望が、
その短い言葉へ滲んでいた。
「遺構には、
アステリア様が亡くなったあとにレオン一世が残した記録もありました」
ヴィオレットは続ける。
そこに映っていたのは、年老いたレオン一人だった。
妻の死後も、未来へ必要なものを残すために歩き続けた男。
その記録の冒頭で、彼はこう名乗った。
「『私は、レオン。かつて黎明の剣を携え、
アステリアと共に災厄へ立ち向かった者』」
ヴィオレットは一度言葉を切る。
「『そして、彼女の夫であった者だ』」
深い静寂が落ちた。
五百年以上もの間、帝国はレオン一世を偉大な皇帝として讃えてきた。
けれど、彼が未来へ伝えたかった自分は、玉座へ座った支配者だけではない。
一人の女性を愛し、その生涯を共に歩んだ夫だった。
「レオン一世は、アステリア様の言葉と記憶、
未来へ残された力を守るために、二つの遺構を整えました」
すべてを一か所へ集めれば、いずれ誰かが独占するかもしれない。
都合のよい部分だけを選び、力や権威として利用する者が現れるかもしれない。
だから、記録と遺産を分けた。
片方だけでは、真実へ辿り着けないように。
異なる知識を持つ者の言葉へ耳を傾けなければ、答えを得られないように。
「そして、ここからが現在の私たちに直接関わる問題です」
ヴィオレットは、黒い根が描かれた一枚の図を卓上へ広げた。
大地の奥深くへ伸びる幾重もの根。
その中心にある、種子にも心臓にも見える黒い核。
「災厄の種です」
会議室の空気が再び張り詰める。
ルシアンが説明を引き継いだ。
「この種は、悪しき誰か一人が生み出したものではありません。
人にも聖霊にも恐れや悲しみはあります。それ自体が罪なのではありません」
人間は聖霊を恐れ、その力を利用しようとした。
聖霊は人間を恐れ、傷つけられたことを理由に人間すべてを拒むようになった。
互いが自分の痛みだけを見つめ、相手へ与えた痛みを忘れた。
恐れに呑まれ、傷つける選択を重ねるほど、
災厄の種はその嘆きを喰らい、大地の底で成長した。
「つまり、人間だけの罪でも、聖霊だけの罪でもないのだな」
レオンハルトが言う。
「はい。当時は現在の帝国も共和国も存在していません。
今の二つの国が、過去の責任を押しつけ合うための記録でもありません」
ヴィオレットが頷いた。
「同じ過ちを繰り返さないために残されたものです」
五百年以上前。
レオン一世とアステリアは災厄へ立ち向かい、
その根を断ち、深い狭間へ核を封じた。
だが、完全に終わらせることはできなかった。
いつか再び芽吹く日に備え、未来へ三つの力を残した。
ヴィオレットは、図の横へ三つの印を書き加える。
星。
黎明の剣。
銀の雫。
「順序が重要です」
最初に使うのは、ルリスティが受け継いだ星導の魔導銃。
「星が、道を開きます」
災厄の核そのものを撃ち壊すのではない。
次元の奥へ隠された根と核へ至る道を開くための力。
次に。
リカルドの傍らに置かれた白銀の剣へ、ヴィオレットは視線を移した。
「黎明の剣が、災いを断ちます」
星が開いた道を通り、根と核そのものを断つ。
そして。
「核が完全に消滅したことを確認したあとでのみ、聖霊王の涙を使います」
「順序を違えれば?」
アレクシスが尋ねた。
「災厄が残ったまま大地へ新たな生命力を与えることになります」
ルシアンの声が低くなる。
「傷を癒やすことと、災いを終わらせることは同じではありません。
根が残っていれば、涙の力さえ災厄の糧となる可能性があります」
「星が道を開き、黎明が根と核を断つ。
その消滅を確認したあと、涙で大地を癒やす」
アレクシスが確認する。
「その順序です」
どれか一つでも欠ければ、完全には終わらない。
「聖霊王の涙は、今どこに?」
クリスティが尋ねる。
「ルリスティが持っています」
ヴィオレットは、妹の胸元で星の隣へ加わった銀の雫を思い出した。
「涙は、ルリスティとマルセリア大佐が共に受け取りました」
ルーファスたちの表情が僅かに変わる。
「なぜ、マルセリア大佐が?」
レオンハルトが尋ねた。
「正確な条件は分かりません」
ヴィオレットは慎重に答える。
「ただ、マルセリア大佐はルリスティの星の祝福が初めて強く現れた時、
その中心にいました。そして後に、クリスティの太陽の祝福にも救われています。
彼の魔力には、二つの祝福へ触れた痕跡が残っています」
「古代の術式がそれへ反応した可能性はあります」
ルシアンが補足した。
「ですが、それだけが理由だったのかまでは断定できません」
クリスティは少し考えたあと、静かに言った。
「それでも、あの二人が一緒に選ばれたことを、不思議だとは思いません」
ルリスティは誰かを守ることはできても、
自分が守られることを受け入れるのが苦手だ。
自分の命や幸福を、いつも責任より後へ置いてしまう。
「マルセリア大佐は、ただルリスティを守る人ではありません」
クリスティは親友の姿を思い浮かべる。
「ルリスティが、自分も生きて帰りたいと思える理由の一つなのだと思います」
ヴィオレットは何も言わなかった。
共和国で見た二人を思い返す。
互いを守るだけではない。
互いが互いに、生きて戻る理由になり始めている。
だが、そこまでを今この場で説明する必要はなかった。
「もう一つ、確認したい」
レオンハルトが碑文の写しへ目を落とす。
「『失われた世界は再び一つとなる』。
これは、帝国と共和国を再び一つの国へ戻せという意味か?」
「違います」
ヴィオレットは即座に答えた。
「レオン一世がこの言葉を残した時代には、
現在の帝国も共和国も存在していません」
二人が生きた時代にあったのは、人と聖霊が同じ世界で暮らしていた社会だった。
そこから長い時を経て、人々は異なる国を築き、
それぞれの文化と歴史を積み重ねた。
それを一つへ塗り潰す必要はない。
「失われたのは、互いへ続く道です」
ヴィオレットは言った。
「同じ世界に生きていることさえ忘れてしまうほど、途絶えてしまった繋がりです」
クリスティが静かに続ける。
「違う国のまま」
そして、姉を見る。
「同じ世界を生きる」
「はい」
ヴィオレットは頷いた。
帝国には聖霊と祝福が残った。
共和国にはアステリアの名が残った。
帝国側の遺構には黎明の剣と星導の魔導銃が残され、
共和国側の遺構には聖霊王の涙と、それらを使うために必要な記録が残された。
どちらか一方だけでは、真実へ辿り着けない。
どちらか一方だけでは、災厄を終わらせることもできない。
「帝国だけでは、解決できぬのだな」
ルーファスが言った。
「できません」
ヴィオレットは明確に答える。
「共和国だけでも不可能です」
「共和国側では、ルリスティ様が正式な報告の準備を進めています」
ルシアンが続ける。
「その後、両国政府による合同会議を求める方針です」
ルーファスは卓上に並ぶ資料を見渡した。
災厄の種。
黎明の剣。
星導の魔導銃。
聖霊王の涙。
そして、五百年以上の時を経て、
異なる国で生きる二人の皇女へ受け継がれた太陽と星。
帝国もまた、決めなければならない。
誰を共和国へ送り。
誰へ、これからの帝国を託すのか。
長い沈黙のあと、ルーファスが顔を上げようとした。
その時。
「お父様」
クリスティの声が、会議室へ響いた。
全員の視線が集まる。
クリスティは、ゆっくりと立ち上がった。
父の目を真っ直ぐに見つめる。
皇女としてではない。
これからの帝国を担おうとする者として。
その顔に、迷いはなかった。




