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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第五章 星と黎明の記憶
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第89話 初代皇妃の帰還

帝都の城門が見えた時、ヴィオレットは膝の上で重ねていた手へ、

無意識に力を込めた。


白い城壁。その奥にそびえる皇城。

幼い頃から見慣れ、長く離れていても、帰れば自然と胸が安らぐ場所。


けれど今日、ヴィオレットが皇城へ持ち帰るものは、

出発した時とはあまりにも違っていた。


五百年以上もの間、失われていた歴史。

聖霊王アステリアと、初代皇帝レオン一世。

皇族が受け継いできた祝福の起源。

そして、共和国で生きる妹が、遺構の最深部で見つけた答え。


馬車の向かいにはルシアンが座り、

その膝には幾重もの保護術式を施した鞄が置かれていた。


共和国側の遺構で書き写した碑文、水鏡へ残された記憶の記録、

クルトワが作成した見取り図、軍事上の危険性を整理した資料。

そして、調査に参加した五人でまとめた第一次報告書。


一つとして、失うことは許されない。


「もうすぐですね」

ルシアンの声に、ヴィオレットは窓の外から視線を戻した。

「ええ」


「報告の順序は、確認したとおりで?」

「まず、ルリスティが無事であることを伝えます。

お父様も兄上たちも、クリスティも、それを最も案じているはずです」

「そうですね」


その後で、遺構の発見経緯とアステリアの正体、皇族の祝福、災厄の種、

そして未来へ残された三つの力について報告する。

術式と聖霊についてはルシアンが補足する予定だった。


「ヴィオレット様」

「何ですか」

「ルリスティ様は、きっと大丈夫です」


ヴィオレットは僅かに目を細めた。


「なぜ、そう思うのですか」

「一人ではありませんから」

ルシアンは穏やかに答えた。


「マルセリア大佐も、クルトワ中佐もいます。

辺境防衛軍の兵たちも、ルリスティ様を信頼しています」

「……そうですね」


ルリスティは、共和国で確かな居場所を築いている。

クラウスから受け継いだ軍、共に戦う仲間、守るべき民。

そして今は、帝国にも家族がいる。


共和国で別れた日、ルリスティはルーファスを初めて「お父様」と呼んだ。

ルーファスは娘へ、いつでも帝国はお前を待っていると告げた。

だから、急かす必要はない。

ルリスティが自ら進むべき時を決めるまで、待てばよい。


「行きましょう」

「はい」


馬車は静かに帝都へ入った。


◇


ヴィオレットとルシアンの帰還は、

表向きには通常の外交任務からの帰国として処理された。

大々的な出迎えはない。


二人は最低限の身支度を済ませると、すぐに皇帝の私的会議室へ向かった。


扉の前にはルーファス直属の近衛騎士が立ち、

周囲には防音と探知阻害の術式が展開されている。

室内には、すでに家族が揃っていた。


皇帝ルーファス、クリスティ、レオンハルト、アレクシス。

そして、クリスティの隣にはリカルドが立っている。

公的な謁見ではなく、皇族が家族として話すための部屋だった。


だが今は、誰一人として腰を下ろしていない。

ヴィオレットが入室した瞬間、全員の視線が集まった。


「ただいま戻りました」

ヴィオレットが礼を取る。

「共和国での調査任務を終え、帰還いたしました」


隣でルシアンも深く頭を下げる。


本来なら、皇帝が帰還を労い、着席を命じたのちに報告が始まる。

だが、ルーファスはそのすべてを後へ回した。


「ルリスティは無事だったか」

落ち着いた声だった。

それでも、娘を案じる父親の気持ちは隠されていない。


「はい。無事です、お父様」


室内に張り詰めていた空気が、目に見えて緩んだ。

ルーファスがゆっくりと息を吐き、アレクシスも肩の力を抜く。

レオンハルトは静かに頷いた。


クリスティはすぐに問いを重ねた。

「怪我はしませんでしたか?」

「ありません」


「食事は取っていましたか? 休息を削って無理をしていませんでしたか?」

「クリスティ。一度に聞きすぎだ」

アレクシスが苦笑する。


「ですが、ルリスティのことです。

本人が大丈夫だと言っても、そのまま信じることはできません」

共和国で見た妹の姿を思い出し、ヴィオレットは頷いた。

「そのとおりです」


「やはり」

「ですが、マルセリア大佐とクルトワ中佐が、よく見ていました。

無理をしすぎないよう、何度も止められていましたから」

ルシアンの補足に、クリスティはようやく表情を緩めた。


「今も、砦にいるのですね」

「はい。共和国政府への報告準備を進めています」

「ルリスティなら、そうします」


ルリスティは責任を途中で投げ出さない。

帝国皇族であることが判明したからといって、

共和国で生きてきた十九年を捨てるような人ではない。


「まず共和国で果たすべき責任を終えるつもりです」


ルシアンの説明に、ルーファスは迷いなく頷いた。


「当然だ。クラウス殿が育てた娘だ。

自らが背負ったものを放り出し、帝国へ来るような子ではない」


幼いルリスティを保護し、

皇女としてではなく一人の娘として愛したクラウス・トリウリッド。

彼が遺した手紙を、この場にいる者は皆知っている。


「私はあの子へ、待つと伝えた。

いつでも帝国はお前を待っている、と。約束を違えるつもりはない」


「はい」

クリスティも頷く。

「ルリスティは、来られるようになったら必ず来てくれます。

それまでは、私たちが待てばよいのです」


「必要なら、こちらから共和国へ赴けばいい」

レオンハルトが言った。


「次に会う場所が帝国でも共和国でも、家族であることは変わらないからな」

アレクシスも笑って頷いた。


誰も、ルリスティを取り戻そうとは言わなかった。

彼女は誰かに奪われていたわけではない。

共和国で愛され、自らの人生を築いてきた。


帝国皇族であることも、共和国軍人であることも、

どちらも今のルリスティを形作る大切な一部だった。


「お父様」

ヴィオレットが呼ぶ。


「何だ」

「ルリスティは……私を、お姉様と呼んでくれました」


室内へ沈黙が落ちた。

最初に反応したのはアレクシスだった。


「本当に?」

「はい」


「ルリスティが、自分から?」

「何度も確認しないでください」


いつものヴィオレットらしい返答だったが、その声は普段より柔らかい。

アレクシスの顔へ素直な喜びが浮かんだ。


「よかったな、ヴィオレット」

「はい」


ヴィオレットは、はっきりと頷いた。


「最深部で、最初に近づいてきたのもルリスティです。私へ……抱きつきました」


今度はレオンハルトまで僅かに目を見開いた。


アレクシスは胸元を押さえる。


「それは、少し羨ましいな」

「お兄様も、抱きついてほしいのですか」


「いや……」

否定しかけてから、アレクシスは苦笑した。

「いつか、ルリスティが俺を兄だと思ってくれたら嬉しい。それだけだ」


レオンハルトも静かに頷く。

二人とも、まだルリスティから「お兄様」と呼ばれてはいない。

だが、それを急かすつもりはなかった。


呼び名は求めて得るものではない。

ルリスティ自身が、そう呼びたいと思った時にこそ意味を持つ。


「クリスティは?」

アレクシスが妹を見る。

「双子の姉なのだから、お姉様と呼ばれたいか?」


「いいえ」

クリスティはあっさりと答えた。

「私は今までどおりで構いません」


「姉なのに?」

「ルリスティは、ルリスティです」


クリスティは穏やかに微笑む。


「私たちは、姉妹であると知るより前から対等な親友でした。

親友であり、姉妹でもあります。どちらも私にとって大切です」


室内の空気が柔らかく和らいだ。

ルリスティはすでに、帝国にいる家族へ少しずつ手を伸ばしている。


父を父と呼び。

姉を姉と呼んだ。


共和国での人生を捨て、帝国へ戻るという意味ではない。

自分の中へ、新しい家族の居場所を作り始めたということだった。


ルーファスは、しばらく何も言わずヴィオレットを見つめていた。

やがて、穏やかに告げる。


「そうか。あの子が、自ら姉と呼んだか」

「はい」

「……よかったな、ヴィオレット」


その短い言葉に、父としての深い安堵が滲んでいた。


ヴィオレットは静かに頭を下げる。

「はい」

家族としての報告は、ここまでだった。


ルシアンが表情を引き締め、保護術式を施した鞄を開く。

「陛下。

ここからは、ルリスティ様たちと共に遺構で確認した内容をご報告いたします」


卓上へ、共和国から持ち帰った資料が並べられた。


室内の空気が変わる。

家族の安堵から、帝国と世界の未来へ向き合う緊張へ。

ヴィオレットも碑文の写しを広げた。


「私たちが発見した遺構は、

共和国で女神アステリアにまつわる場所として伝えられていたものです」


ルーファスが資料へ視線を落とす。


「ですが、アステリアは神ではありませんでした」


ヴィオレットは、一人一人の顔を見渡した。


「すべての聖霊の声を聞き、人と聖霊を繋いだ王――聖霊王アステリア」


そして、その名に続く真実を告げる。


「初代皇帝レオン一世の妻であり、私たち帝国皇族の始祖です」


誰も、すぐには言葉を発することができなかった。


五百年以上もの間、帝国が失い続けてきた名が。

その日、

初めて、皇城へ帰還した。



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