第87話 同じ時を生きたい
野営地へ戻った夜。
旧監視所の周囲には、幾つもの天幕が張られていた。
見張りの兵士を除けば、ほとんどの者がすでに休息へ入っている。
長い一日だった。
人と聖霊が共に暮らした時代。
聖霊王アステリアと、初代皇帝レオン一世。
二人が未来へ遺した言葉と、傷ついた大地を癒やすための涙。
ルリスティは天幕の中で横になっていたが、眠ることができなかった。
目を閉じるたび、水の記憶が浮かぶ。
年老いたアステリアの手を包むレオン。
妻を失ったあとも、その願いを未来へ届けるため、二つの遺構を築いた男の姿。
――永遠を失うのではありません。
――あなたと同じ時を、生きるのです。
アステリアの言葉が、何度も胸へ戻ってくる。
ルリスティは毛布の上から胸元へ触れた。
星の隣では、聖霊王の涙が淡い銀色に輝いている。
けれど今、確かめたいのは、遥かな昔から遺された光ではなかった。
呼吸をし、体温を持ち、自分と同じ今を生きている、一人の人間。
ルリスティは静かに身体を起こした。
◇
天幕を出ると、冷たい夜気が頬へ触れた。
頭上には無数の星。
小さくなった焚き火には、赤い熾火だけが残っている。
旧監視所の崩れた石壁の傍に、人影があった。
ジェイクだった。
外套を肩へ掛け、平らな石へ腰を下ろしている。
ルリスティが近づくと、彼は足音だけで気づき、立ち上がろうとした。
「そのままでいてください。大佐は、まだ療養中です。」
「この程度なら問題ありませんよ。」
「私が問題だと思います。」
有無を言わせない声に、ジェイクは僅かに笑い、大人しく座り直した。
「承知しました。」
ルリスティも隣へ腰を下ろす。
夜の静けさの中、二人でしばらく星を見上げた。
「眠れませんか。」
「……はい。」
ジェイクも同じらしい。
傷が痛むのかと尋ねると、彼は首を横へ振った。
「今夜は、頭の方が休ませてくれないようです。」
何を考えているのかは、聞かなくても分かった。
「アステリアと、レオン一世のことを?」
「ええ。」
それきり、ジェイクは何も尋ねなかった。
ただ隣で、ルリスティが話し始めるのを待っている。
いつもと同じだった。
だからこそ今夜は、自分から言わなければならない。
「大佐。」
「はい。」
「今日、アステリアが人間として生きることを選んだ理由を知りました。
永遠の命より、レオン一世と同じ時を生きることを望んだ。
……以前の私なら、理解できなかったと思います。」
ルリスティは、自分の手元へ目を落とした。
「終わりがあるものを選ぶことが、怖かったからです。」
父を失ってから、一人で立とうとしてきた。
誰よりも強く。
誰よりも働き。
誰かに支えてもらわなければ立てない自分を、見せまいとした。
大切なものを作らなければ、失うこともない。
どこかで、そう思っていた。
「ですが、大佐が倒れた時に分かりました。」
ジェイクの瞳が、僅かに揺れる。
「手を伸ばさなければ、失わずに済むわけではありません。」
距離を置いても、名前をつけなくても。
大切なものは、大切なままだ。
認めないようにしても、失いかけた時の恐怖は何一つ小さくならなかった。
「怖いものは、怖いままでした。」
「ルリスティ。」
「ですから。」
ルリスティは、震えそうになる指を強く握った。
「怖くても、同じ時を生きる方を選びたいと思いました。」
ジェイクが息を止める。
ルリスティは、逃げずに彼を見た。
「大佐と。」
小さな声だった。
それでも、はっきりと届いた。
「大佐と、同じ時を生きたいです。」
ジェイクは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が不安になり、ルリスティの指先へ力が入る。
「何か、言ってください。」
「申し訳ありません。」
ジェイクは、ゆっくりと息を吐いた。
「何を言っても足りない気がしまして。」
いつもの余裕を持った笑みではない。
嬉しさを持て余しているような、少し困った顔だった。
「あなたが同じ時を生きたいと言ってくださった。
それだけで十分なはずなのですが。」
ジェイクは、隣へ腰を下ろしたルリスティを見つめた。
「もっと近くへ来てほしいと思っています。」
その言葉に、ルリスティの頬が熱くなる。
二人の間には、まだ僅かな隙間が残っていた。
逃げようと思えば、逃げられる。
聞こえなかったふりをすることもできた。
けれど今夜、自分は手を伸ばすためにここへ来た。
ルリスティは、石台の上でジェイクの方へ身体を向けた。
「大佐、怪我をしている場所は、どこでしたか。」
「今さらですか。」
「抱きついたら、痛む場所を聞いています。」
ジェイクの瞳が、はっきりと見開かれた。
ルリスティは、自分で口にした言葉に耐えられなくなり、僅かに顔を背ける。
「嫌なら、構いません。」
「嫌なはずがないでしょう。」
返答は、驚くほど早かった。
「ただ、俺から引き寄せれば、あなたを驚かせてしまいそうです。」
ジェイクは、膝の上へ置いていた手を開く。
「あなたから来ていただけますか。」
ルリスティは小さく息を吸った。
そして、自ら残っていた距離を縮める。
傷へ触れないよう気をつけながら、外套の上からジェイクの背中へ腕を回した。
彼の胸元へ、そっと額を寄せる。
服越しにも分かる体温。
耳を澄ませれば、速くなった心臓の音が聞こえた。
いつも冷静なジェイクも、自分と同じように緊張している。
その事実に、ルリスティの胸が熱くなった。
ジェイクは、すぐには抱き返さなかった。
彼女が途中で怖くなり、離れたくなる可能性を残している。
「ルリスティ。腕を回しても?」
抱きついたのはこちらなのに、それでも彼は確認する。
ルリスティは、ジェイクの服を少しだけ強く掴んだ。
「……聞かなければ、分かりませんか。」
「分かっています。ですが、あなたの口から聞きたい。」
声には微かな笑みが混じっている。
ルリスティは、彼の胸へ顔を寄せたまま答えた。
「抱き締めてください。」
その瞬間、ジェイクの腕がゆっくりと背中へ回った。
傷へ響かないよう身体を動かしながら、ルリスティを胸元へ包み込む。
片方の手が背中へ。
もう片方が、白銀の髪へ触れる。
「近いですね。」
「あなたから抱きついておいて?」
「……そうですが。」
「離しましょうか。」
腕が僅かに緩む。
本当に、望めば離すつもりなのだ。
ルリスティは咄嗟に腕へ力を込めた。
「離さないでください。」
ジェイクの呼吸が止まる。
次の瞬間、先ほどより少しだけ強く抱き寄せられた。
「承知しました。離しません。」
耳元へ届く声が、いつもより低い。
ルリスティは目を閉じた。
怖さが消えたわけではない。
この温もりを失う日が、絶対に来ないわけでもない。
それでも、いつかを恐れて、今ここにあるものから逃げる必要はなかった。
「大佐。」
呼びかけると、ジェイクの腕が僅かに動く。
「生きていてくださって、ありがとうございます。」
今度は、はっきりと抱く力が強くなった。
「……その言葉は、俺の方が言うべきかもしれません。」
彼はルリスティの髪へ頬を寄せる。
「あの時、俺を諦めずにいてくださった。」
僅かに掠れた声が続いた。
「そして今、俺と同じ時を生きたいと言ってくださった。」
ルリスティは、ゆっくりと顔を上げた。
思っていたよりも、ずっと近い。
ジェイクは頬へ手を伸ばしたが、触れる直前で止める。
「ここへ触れても?」
「先ほどから、ずっと触れています。」
「ここは別です。」
ルリスティは少し迷い、自分から彼の掌へ頬を寄せた。
大きな手は温かい。
「ルリスティ。」
名前を呼ばれただけで、胸の奥が震えた。
彼の顔が、ゆっくりと近づく。
最後まで、ルリスティの答えを待っている。
彼女は、逃げるためではなく、迷わないためにジェイクの外套を握った。
星明かりの下。
二人の間へ残されていた最後の距離が、静かに消えた。
◇
「戻りましょう、ヴィオレット様。」
ルシアンは声を潜め、ヴィオレットの腕をそっと引いた。
崩れた石壁の向こうでは、ルリスティがジェイクの腕の中にいる。
眠れず天幕を出たヴィオレットが妹の姿を見つけ、様子を見に来たところだった。
「ですが、ルリスティが……。」
もう一度そちらを見ようとするヴィオレットの前へ、ルシアンがさりげなく立つ。
「大丈夫です。」
「しかし。」
「今、僕たちが出ていけば、マルセリア大佐に一生恨まれます。」
「そこまでですか。」
「僕なら絶対に恨みます。」
即答だった。
ヴィオレットは少し黙り、やがて頷く。
「……見なかったことにしましょう。」
「ありがとうございます。大佐に代わってお礼を申し上げます。」
「なぜあなたが。」
二人は足音を立てず、その場を離れた。
野営地へ戻る途中、ヴィオレットが小さく息を吐く。
「ルリスティが、自分から誰かを求められるようになってよかったです。」
「はい。」
今度は茶化さず、ルシアンも柔らかく笑った。
「それに今日は……お姉様と呼んでもらえました。」
「嬉しかったでしょう。」
「……はい。」
その返事を聞いて、ルシアンの表情がさらに和らぐ。
「本当によかったですね、ヴィオレット様。」
しばらく歩いたところで、ヴィオレットが足を止めた。
「ルシアン。」
「はい。」
「いつまで腕を掴んでいるのですか。」
「あ。」
ルシアンが慌てて手を離そうとする。
だが、その前にヴィオレットの指が触れ、そのまま掌が重なった。
「腕を引かれると歩きにくいです。」
「……。」
「ルシアン?」
ルシアンは繋がれた手を見つめたまま固まっていた。
「ヴィオレット様から……?」
「声を抑えてください。」
「はい。でも嬉しいです。」
「それは顔を見れば分かります。」
「ヴィオレット様から手を繋いでくださったのに、
平静でいろという方が無理です。」
繋いだ手を確かめるように、ルシアンの指が嬉しそうに絡む。
「……指まで絡める必要がありますか。」
「嫌でしたか?」
途端に少しだけ不安そうな顔になる。
ヴィオレットは一瞬黙った。
「嫌とは言っていません。」
「では、このままで。」
立ち直るのも早かった。
「ルシアン。」
「嬉しいです。」
「聞いていません。」
「言いたかったので。」
ヴィオレットは呆れたように息を吐いた。
それでも、手は離さない。
ルシアンは隠す気もなく上機嫌で、その手を大切そうに握ったまま歩いていた。
◇
どれほどの時間が過ぎたのか。
気づけば、ルリスティはジェイクの胸元へ額を寄せ、静かな心音を聞いていた。
「大佐。アステリアは、幸せだったと思いますか。」
「思います。」
その答えは迷いがなかった。
「永遠を失っても?」
ジェイクは、ルリスティの白銀の髪へそっと触れる。
「彼女自身は、失ったとは考えていなかったのでしょう。
愛する者と過ごす時間を得たと思っていた。」
胸元から伝わる鼓動は、変わらず穏やかだった。
今、この瞬間を共に生きている音。
「私も、いつかそう思えるでしょうか。」
「思わせます。」
あまりに迷いのない返事に、ルリスティが顔を上げた。
「随分と自信がありますね。」
「ええ。」
ジェイクは穏やかに笑う。
「俺と同じ時を生きてよかったと、あなたが思えるようにする。
それが、これからの俺の願いです。」
「……勝手に決めるのですね。」
咎めるような言葉とは裏腹に、ルリスティは少しだけ彼の胸へ身体を預けた。
ジェイクの笑みが深くなる。
「いけませんか。」
「願うだけなら、許します。」
「ありがとうございます。」
頭上では、星々が変わらず輝いていた。
永遠ではない二人の時間を。
それでも確かに選び取った、今という瞬間を。
静かに見守るように。
◇
翌朝。
朝食の場へ現れたジェイクを見て、クルトワが不思議そうに首を傾げた。
「大佐。昨日より顔色がよいようですが。」
「十分に休めましたので。」
少し離れた場所では、ルシアンが何かを察したようにジェイクを見る。
二人の視線が一瞬だけ重なった。
ルシアンは何も尋ねず。
ジェイクも、何も語らない。
ただ、互いに僅かに頷き合った。
そこへ、ルリスティが姿を現す。
「おはようございます、司令。」
「おはようございます、大佐。」
いつもと同じ挨拶。
いつもと同じ呼び方。
けれど、目が合った一瞬だけ、ルリスティの頬へ僅かな赤みが差した。
「大佐。」
小さな声で呼ぶ。
「はい。」
「あとで、傷の状態を確認します。」
「承知しました。」
「二人で。」
ジェイクの瞳が、ほんの僅かに揺れた。
「……承知しました。」
ルリスティはそれ以上何も言わず、ヴィオレットたちの方へ歩いていく。
ジェイクは、その背中を静かに見送った。
後悔している様子はない。
むしろ、ほんの少しだけ自分から近づこうとしている。
ならば、なおさら死ぬわけにはいかなかった。
この先にどれほど困難な戦いが待っていようと、
必ず彼女の隣へ、生きて戻る。




