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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第五章 星と黎明の記憶
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第87話 同じ時を生きたい

野営地へ戻った夜。


旧監視所の周囲には、幾つもの天幕が張られていた。

見張りの兵士を除けば、ほとんどの者がすでに休息へ入っている。


長い一日だった。

人と聖霊が共に暮らした時代。

聖霊王アステリアと、初代皇帝レオン一世。

二人が未来へ遺した言葉と、傷ついた大地を癒やすための涙。


ルリスティは天幕の中で横になっていたが、眠ることができなかった。


目を閉じるたび、水の記憶が浮かぶ。

年老いたアステリアの手を包むレオン。

妻を失ったあとも、その願いを未来へ届けるため、二つの遺構を築いた男の姿。


――永遠を失うのではありません。

――あなたと同じ時を、生きるのです。


アステリアの言葉が、何度も胸へ戻ってくる。


ルリスティは毛布の上から胸元へ触れた。

星の隣では、聖霊王の涙が淡い銀色に輝いている。

けれど今、確かめたいのは、遥かな昔から遺された光ではなかった。


呼吸をし、体温を持ち、自分と同じ今を生きている、一人の人間。

ルリスティは静かに身体を起こした。


◇


天幕を出ると、冷たい夜気が頬へ触れた。


頭上には無数の星。

小さくなった焚き火には、赤い熾火だけが残っている。

旧監視所の崩れた石壁の傍に、人影があった。


ジェイクだった。

外套を肩へ掛け、平らな石へ腰を下ろしている。

ルリスティが近づくと、彼は足音だけで気づき、立ち上がろうとした。


「そのままでいてください。大佐は、まだ療養中です。」

「この程度なら問題ありませんよ。」

「私が問題だと思います。」


有無を言わせない声に、ジェイクは僅かに笑い、大人しく座り直した。

「承知しました。」


ルリスティも隣へ腰を下ろす。

夜の静けさの中、二人でしばらく星を見上げた。


「眠れませんか。」

「……はい。」

ジェイクも同じらしい。

傷が痛むのかと尋ねると、彼は首を横へ振った。


「今夜は、頭の方が休ませてくれないようです。」

何を考えているのかは、聞かなくても分かった。


「アステリアと、レオン一世のことを?」

「ええ。」


それきり、ジェイクは何も尋ねなかった。

ただ隣で、ルリスティが話し始めるのを待っている。

いつもと同じだった。

だからこそ今夜は、自分から言わなければならない。


「大佐。」

「はい。」


「今日、アステリアが人間として生きることを選んだ理由を知りました。

永遠の命より、レオン一世と同じ時を生きることを望んだ。

……以前の私なら、理解できなかったと思います。」


ルリスティは、自分の手元へ目を落とした。

「終わりがあるものを選ぶことが、怖かったからです。」


父を失ってから、一人で立とうとしてきた。

誰よりも強く。

誰よりも働き。

誰かに支えてもらわなければ立てない自分を、見せまいとした。


大切なものを作らなければ、失うこともない。

どこかで、そう思っていた。


「ですが、大佐が倒れた時に分かりました。」

ジェイクの瞳が、僅かに揺れる。

「手を伸ばさなければ、失わずに済むわけではありません。」


距離を置いても、名前をつけなくても。

大切なものは、大切なままだ。

認めないようにしても、失いかけた時の恐怖は何一つ小さくならなかった。


「怖いものは、怖いままでした。」

「ルリスティ。」

「ですから。」


ルリスティは、震えそうになる指を強く握った。

「怖くても、同じ時を生きる方を選びたいと思いました。」

ジェイクが息を止める。


ルリスティは、逃げずに彼を見た。

「大佐と。」

小さな声だった。

それでも、はっきりと届いた。


「大佐と、同じ時を生きたいです。」


ジェイクは、しばらく何も言わなかった。

その沈黙が不安になり、ルリスティの指先へ力が入る。


「何か、言ってください。」

「申し訳ありません。」

ジェイクは、ゆっくりと息を吐いた。


「何を言っても足りない気がしまして。」

いつもの余裕を持った笑みではない。

嬉しさを持て余しているような、少し困った顔だった。


「あなたが同じ時を生きたいと言ってくださった。

それだけで十分なはずなのですが。」

ジェイクは、隣へ腰を下ろしたルリスティを見つめた。

「もっと近くへ来てほしいと思っています。」


その言葉に、ルリスティの頬が熱くなる。


二人の間には、まだ僅かな隙間が残っていた。

逃げようと思えば、逃げられる。

聞こえなかったふりをすることもできた。

けれど今夜、自分は手を伸ばすためにここへ来た。


ルリスティは、石台の上でジェイクの方へ身体を向けた。


「大佐、怪我をしている場所は、どこでしたか。」

「今さらですか。」

「抱きついたら、痛む場所を聞いています。」


ジェイクの瞳が、はっきりと見開かれた。

ルリスティは、自分で口にした言葉に耐えられなくなり、僅かに顔を背ける。


「嫌なら、構いません。」

「嫌なはずがないでしょう。」

返答は、驚くほど早かった。


「ただ、俺から引き寄せれば、あなたを驚かせてしまいそうです。」

ジェイクは、膝の上へ置いていた手を開く。

「あなたから来ていただけますか。」


ルリスティは小さく息を吸った。

そして、自ら残っていた距離を縮める。

傷へ触れないよう気をつけながら、外套の上からジェイクの背中へ腕を回した。

彼の胸元へ、そっと額を寄せる。


服越しにも分かる体温。

耳を澄ませれば、速くなった心臓の音が聞こえた。


いつも冷静なジェイクも、自分と同じように緊張している。

その事実に、ルリスティの胸が熱くなった。


ジェイクは、すぐには抱き返さなかった。

彼女が途中で怖くなり、離れたくなる可能性を残している。


「ルリスティ。腕を回しても?」


抱きついたのはこちらなのに、それでも彼は確認する。

ルリスティは、ジェイクの服を少しだけ強く掴んだ。

「……聞かなければ、分かりませんか。」


「分かっています。ですが、あなたの口から聞きたい。」

声には微かな笑みが混じっている。


ルリスティは、彼の胸へ顔を寄せたまま答えた。

「抱き締めてください。」


その瞬間、ジェイクの腕がゆっくりと背中へ回った。

傷へ響かないよう身体を動かしながら、ルリスティを胸元へ包み込む。


片方の手が背中へ。

もう片方が、白銀の髪へ触れる。


「近いですね。」

「あなたから抱きついておいて?」

「……そうですが。」

「離しましょうか。」

腕が僅かに緩む。


本当に、望めば離すつもりなのだ。

ルリスティは咄嗟に腕へ力を込めた。

「離さないでください。」


ジェイクの呼吸が止まる。

次の瞬間、先ほどより少しだけ強く抱き寄せられた。

「承知しました。離しません。」


耳元へ届く声が、いつもより低い。

ルリスティは目を閉じた。


怖さが消えたわけではない。

この温もりを失う日が、絶対に来ないわけでもない。

それでも、いつかを恐れて、今ここにあるものから逃げる必要はなかった。


「大佐。」

呼びかけると、ジェイクの腕が僅かに動く。


「生きていてくださって、ありがとうございます。」

今度は、はっきりと抱く力が強くなった。


「……その言葉は、俺の方が言うべきかもしれません。」

彼はルリスティの髪へ頬を寄せる。

「あの時、俺を諦めずにいてくださった。」

僅かに掠れた声が続いた。

「そして今、俺と同じ時を生きたいと言ってくださった。」


ルリスティは、ゆっくりと顔を上げた。

思っていたよりも、ずっと近い。


ジェイクは頬へ手を伸ばしたが、触れる直前で止める。

「ここへ触れても?」

「先ほどから、ずっと触れています。」

「ここは別です。」


ルリスティは少し迷い、自分から彼の掌へ頬を寄せた。

大きな手は温かい。


「ルリスティ。」


名前を呼ばれただけで、胸の奥が震えた。


彼の顔が、ゆっくりと近づく。

最後まで、ルリスティの答えを待っている。

彼女は、逃げるためではなく、迷わないためにジェイクの外套を握った。


星明かりの下。

二人の間へ残されていた最後の距離が、静かに消えた。


◇


「戻りましょう、ヴィオレット様。」

ルシアンは声を潜め、ヴィオレットの腕をそっと引いた。


崩れた石壁の向こうでは、ルリスティがジェイクの腕の中にいる。

眠れず天幕を出たヴィオレットが妹の姿を見つけ、様子を見に来たところだった。


「ですが、ルリスティが……。」

もう一度そちらを見ようとするヴィオレットの前へ、ルシアンがさりげなく立つ。


「大丈夫です。」

「しかし。」

「今、僕たちが出ていけば、マルセリア大佐に一生恨まれます。」

「そこまでですか。」

「僕なら絶対に恨みます。」

即答だった。


ヴィオレットは少し黙り、やがて頷く。

「……見なかったことにしましょう。」

「ありがとうございます。大佐に代わってお礼を申し上げます。」

「なぜあなたが。」


二人は足音を立てず、その場を離れた。


野営地へ戻る途中、ヴィオレットが小さく息を吐く。

「ルリスティが、自分から誰かを求められるようになってよかったです。」

「はい。」

今度は茶化さず、ルシアンも柔らかく笑った。


「それに今日は……お姉様と呼んでもらえました。」

「嬉しかったでしょう。」

「……はい。」


その返事を聞いて、ルシアンの表情がさらに和らぐ。

「本当によかったですね、ヴィオレット様。」


しばらく歩いたところで、ヴィオレットが足を止めた。

「ルシアン。」

「はい。」

「いつまで腕を掴んでいるのですか。」

「あ。」

ルシアンが慌てて手を離そうとする。


だが、その前にヴィオレットの指が触れ、そのまま掌が重なった。

「腕を引かれると歩きにくいです。」

「……。」

「ルシアン?」


ルシアンは繋がれた手を見つめたまま固まっていた。

「ヴィオレット様から……?」

「声を抑えてください。」

「はい。でも嬉しいです。」

「それは顔を見れば分かります。」

「ヴィオレット様から手を繋いでくださったのに、

平静でいろという方が無理です。」


繋いだ手を確かめるように、ルシアンの指が嬉しそうに絡む。

「……指まで絡める必要がありますか。」

「嫌でしたか?」

途端に少しだけ不安そうな顔になる。


ヴィオレットは一瞬黙った。

「嫌とは言っていません。」

「では、このままで。」

立ち直るのも早かった。


「ルシアン。」

「嬉しいです。」

「聞いていません。」

「言いたかったので。」


ヴィオレットは呆れたように息を吐いた。

それでも、手は離さない。

ルシアンは隠す気もなく上機嫌で、その手を大切そうに握ったまま歩いていた。



◇


どれほどの時間が過ぎたのか。

気づけば、ルリスティはジェイクの胸元へ額を寄せ、静かな心音を聞いていた。


「大佐。アステリアは、幸せだったと思いますか。」

「思います。」

その答えは迷いがなかった。


「永遠を失っても?」

ジェイクは、ルリスティの白銀の髪へそっと触れる。

「彼女自身は、失ったとは考えていなかったのでしょう。

愛する者と過ごす時間を得たと思っていた。」


胸元から伝わる鼓動は、変わらず穏やかだった。

今、この瞬間を共に生きている音。


「私も、いつかそう思えるでしょうか。」

「思わせます。」

あまりに迷いのない返事に、ルリスティが顔を上げた。


「随分と自信がありますね。」

「ええ。」

ジェイクは穏やかに笑う。

「俺と同じ時を生きてよかったと、あなたが思えるようにする。

それが、これからの俺の願いです。」


「……勝手に決めるのですね。」

咎めるような言葉とは裏腹に、ルリスティは少しだけ彼の胸へ身体を預けた。


ジェイクの笑みが深くなる。

「いけませんか。」

「願うだけなら、許します。」

「ありがとうございます。」


頭上では、星々が変わらず輝いていた。


永遠ではない二人の時間を。

それでも確かに選び取った、今という瞬間を。

静かに見守るように。


◇


翌朝。

朝食の場へ現れたジェイクを見て、クルトワが不思議そうに首を傾げた。


「大佐。昨日より顔色がよいようですが。」

「十分に休めましたので。」

少し離れた場所では、ルシアンが何かを察したようにジェイクを見る。


二人の視線が一瞬だけ重なった。

ルシアンは何も尋ねず。

ジェイクも、何も語らない。

ただ、互いに僅かに頷き合った。


そこへ、ルリスティが姿を現す。

「おはようございます、司令。」

「おはようございます、大佐。」


いつもと同じ挨拶。

いつもと同じ呼び方。

けれど、目が合った一瞬だけ、ルリスティの頬へ僅かな赤みが差した。


「大佐。」

小さな声で呼ぶ。

「はい。」

「あとで、傷の状態を確認します。」

「承知しました。」

「二人で。」


ジェイクの瞳が、ほんの僅かに揺れた。

「……承知しました。」

ルリスティはそれ以上何も言わず、ヴィオレットたちの方へ歩いていく。


ジェイクは、その背中を静かに見送った。


後悔している様子はない。

むしろ、ほんの少しだけ自分から近づこうとしている。


ならば、なおさら死ぬわけにはいかなかった。


この先にどれほど困難な戦いが待っていようと、

必ず彼女の隣へ、生きて戻る。

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