第86話 未来の子らへ
螺旋階段の先に待っていたのは、天井のない円形の祭壇だった。
高い岩壁に囲まれた遺構の最上部。
頭上には青空が広がり、足元には谷を映す大きな水鏡が横たわっている。
その中央に、一つの石碑が立っていた。
大部分を埋めるのは、深く真っ直ぐな文字。
刻む力が強すぎたのか、ところどころ石の表面が僅かに欠けている。
「レオン一世の文字です。」
ヴィオレットが呟いた。
ただし、中央には薄い銀板が嵌め込まれていた。
そこにだけ、アステリアと同じ柔らかな文字が残されている。
「アステリアが生前に遺したものを、レオン一世がここへ収めたのでしょうか。」
ルリスティが尋ねる。
ルシアンは銀板へ流れる魔力を調べた。
「銀板の方が古いですね。後から、この石碑へ嵌め込まれたようです。」
「これまでの記録とも一致します。」
クルトワが記録板へ書き留める。
その時、ルリスティの胸元で星と聖霊王の涙が同時に輝いた。
水鏡へ波紋が広がり、一人の男の姿が浮かび上がる。
◇
現れた男は、これまでの記憶で見たレオン一世よりも明らかに年老いていた。
髪の多くは白くなり、目元には深い皺。
腰には黎明の剣があるものの、身につけているのは簡素な衣だった。
彼は一人、石の椅子へ腰掛けている。
その隣には、もう一脚の椅子。
誰も座っていない。
背には、星を象った小さな飾りが掛けられていた。
レオン一世は、記録を始める前に一度だけ空席を見た。
それから正面へ視線を戻す。
『この場所へ辿り着いた者へ。』
低く、静かな声だった。
『私は、レオン。』
『かつて黎明の剣を携え、アステリアと共に災厄へ立ち向かった者。』
『そして、彼女の夫であった者だ。』
ルリスティの胸が締めつけられる。
王とも、皇帝とも名乗らなかった。
最初に語ったのは、アステリアの夫としての自分だった。
『アステリアは、すでに私の隣にはいない。』
視線が、僅かに空席へ向く。
『彼女は、聖霊として永く生きる道ではなく、
私と同じ時を生きることを選び――私より先に、その生涯を終えた。』
声は揺れていない。
けれど、その静けさの奥にあるものを、誰も軽いとは思わなかった。
『この遺構は、彼女が亡くなったあと、私が築いた。』
『彼女が遺した言葉。水へ残した記憶。そして、未来のために分けた力。』
『それらが失われぬよう、二つの場所へ収めた。』
水鏡へ、図面を広げるレオン一世の姿が映る。
一つは、星の谷。
もう一つは、地下深くへ築かれた黎明の遺構。
『星の谷には、アステリアの涙と願いを。』
『黎明の地には、災厄の根を断つ剣と、核へ至る道を穿つ銃を。』
『すべてを一つの場所へ集めるべきではないと考えたからだ。』
『剣だけを得た者は、斬ることを答えとするだろう。』
『涙だけを得た者は、根が残ることを知らず、大地を癒やそうとするだろう。』
『星のみを得た者は、自らの示す道こそ唯一だと信じるかもしれない。』
ルリスティは胸元の星へ触れた。
力そのものが悪いわけではない。
けれど、一つの力だけで答えを決めれば、必ず何かを見失う。
『ゆえに私は、異なる道を通らなければ辿り着けぬ場所へ、力と記録を分けた。』
『異なる知識を持つ者たちが互いの言葉へ耳を傾け、
自らが知らぬものを認めた時にのみ、すべての答えが揃うように。』
ヴィオレットとクルトワが、互いを見る。
皇統古代文字を読む者。
共和国の古代文字を読む者。
術式を読み解く者。
星を継ぐ者。
そして、星と深く共鳴した者。
誰か一人では、この遺構のすべてへ辿り着けなかった。
レオン一世が求めたのは、一人で答えを得る者ではない。
自分だけでは足りないと認め、異なる者の言葉を聞ける者たちだった。
◇
レオン一世が、石碑の銀板へ手を置いた。
『ここからは、アステリアが生前に遺した言葉だ。』
水鏡へ白銀の光が広がる。
姿は現れない。
代わりに、あの子守歌を歌っていた柔らかな声が響いた。
『我が子たちへ。』
『そして、遥か先に生まれる子らへ。』
『長い時が流れれば、人々は遠い土地へ移り、
異なる言葉と習わしを持つようになるでしょう。』
水鏡へ、一つの共同体から旅立つ人々が映る。
山を越える者。
川を下る者。
遠い土地へ、新たな暮らしを築く者。
『同じ出来事を、異なる物語として伝えることもあるでしょう。』
『それを、誤りだとは思いません。』
『異なる道を歩むことは、互いを裏切ることではありません。』
人々は異なる衣服をまとい、異なる家を建てていく。
それでも、その手には同じ場所から持ち出した小さな種があった。
各地へ蒔かれた種は、それぞれ違う花を咲かせる。
『けれど、相手の声が聞こえなくなった時。』
アステリアの声が、僅かに低くなった。
『自分の知る姿だけで、その者のすべてを決めないでください。』
『道が途絶えたからといって、
その先にいた者まで失われたと決めないでください。』
ルリスティは息を呑んだ。
百五十年前。
帝国と共和国は道を失い、互いを滅びた国だと思った。
アステリアが今の二国を予見したわけではない。
ただ、遠く離れた者たちが、相手を知ろうとする道まで閉ざさぬよう願った。
その言葉が、今を生きる二つの国へ重なる。
『私たちの暮らした形へ戻る必要はありません。』
『あなたたちには、あなたたちの時代があります。』
『私たちの失敗を知り、同じ道を避けるために過去を使ってください。』
『誰かを責める武器にも、未来を縛る鎖にもしないでください。』
白銀の光が、水鏡の上で揺れる。
『あなたたち自身の心で、愛する世界を選んでください。』
声は、そこで途切れた。
◇
再び、レオン一世の声が響く。
『妻の名を、国を治めるための権威として掲げることはしなかった。』
水鏡へ、子どもたちの姿が映る。
アステリアと同じ白銀の髪や紫水晶の瞳を持つ者。
レオンに似た色を受け継いだ者。
そのどちらも受け継いだような姿の者。
色も容姿も一人ずつ異なっていた。
『彼女は、自らの名と血が利用され、
子どもたちが力を求める者の道具となることを恐れた。』
銀板から、アステリアの声が重なった。
『私の子らは、聖霊王の力を受け継ぐための器ではありません。』
『一人一人が、自らの心と人生を持つ者です。』
『私や夫から受け継いだ髪や瞳の色も、聖霊へ声を届ける道も。』
『その者の人生を、誰かが奪う理由にはなりません。』
ルリスティの胸へ、クラウスの姿が浮かんだ。
彼もまた、特別な血を引く者としてではなく、一人の娘としてルリスティを守った。
『ゆえにアステリアは、私へ願った。』
『彼女の名を権威のために用いないこと。』
『聖霊王の血を、誰かを従わせる根拠にしないこと。』
『子どもたちが、それぞれの人生を選べるよう守ること。』
レオン一世は、アステリアの存在そのものを消したわけではなかった。
初代皇帝の傍に偉大な伴侶がいたことは伝承へ残した。
だが、その正体や皇族との繋がりを、王権の根拠として掲げなかった。
『しかし、名を権威から遠ざければ、いつか真実そのものが薄れる。』
レオン一世は空席を見る。
『だから私は、力を求める者ではなく、
彼女の言葉を受け取る者が現れる日まで、この場所へ真実を託すことにした。』
アステリアの名は帝国では失われた。
一方、遠い土地では星と湖の女神として残った。
異なる場所へ。
異なる形で。
彼女が生きた記憶は、完全には消えなかった。
レオン一世は再び正面を見る。
『ここへ来た者が、何者であるかを私は知らない。』
『どのような名を持ち、何を守るためにこの記録を開くのかも。』
『ゆえに、私はお前たちへ正しさを命じない。』
その声が、僅かに強くなる。
『恐れを理由に、道を閉ざすな。』
『怒りを理由に、相手の声を奪うな。』
『傷ついたことを忘れる必要はない。』
『だが、その傷へ未来を決めさせるな。』
ルリスティの胸元で、聖霊王の涙が温かな光を放つ。
『そして、一人ですべてを背負おうとするな。』
『己にないものを持つ者の手を借りよ。』
『異なる景色を見てきた者の言葉を聞け。』
『同じ答えを持てぬ時こそ、声を届け続けよ。』
水鏡へ、異なる者たちが手を取り合う姿が映る。
人間と聖霊。
剣を持つ者と、傷を癒やす者。
遠い土地から来た者たち。
異なるまま、同じ場所へ立っている。
『願わくは。』
『お前たちが、我らの知らぬ未来を恐れず。』
『お前たち自身の愛する世界を、選べるように。』
記録は、そこで終わるかと思われた。
だが、レオン一世は隣の空席へ視線を向けた。
『これでよいだろうか。』
小さな声だった。
『アステリア。』
返事はない。
彼女は、もうこの世にはいない。
けれど、水鏡の奥から、あの子守歌が流れ始めた。
レオン一世は驚いたように目を見開き、やがて僅かに笑う。
『そうか。』
空席へ手を伸ばす。
誰の手にも触れない。
それでも、そこに彼女がいるかのように、星の飾りへ静かに指を重ねた。
『ならば、あとは彼らへ任せよう。』
水の記憶が、ゆっくりと薄れていく。
最後に残ったのは、年老いたレオン一世と、空席へ差し伸べられた手。
そして、遠い昔から流れ続ける子守歌だった。
◇
祭壇へ静寂が戻った。
ルリスティは、レオン一世の姿が消えた場所を見つめていた。
妻を失ったあとも、その願いを終わらせることなく、未来へ言葉を繋いだ一人の夫。
「心の中では、ずっとアステリアと共に造っていたのでしょう。」
ヴィオレットが、子守歌の余韻が残る水面を見つめる。
ルリスティは静かに頷いた。
その時、石碑から掌ほどの銀板が浮かび上がる。
表には星と昇る太陽。
裏には銀の雫。
ルシアンが魔力を確かめた。
「持ち出すための記録です。主要な碑文と、水の記憶が写されています。」
さらに調べ、続ける。
「ただし、帝国と共和国、
双方の文字を読める者が揃わなければ再現できないようです。」
「最後まで、一人へは委ねなかったのですね。」
ヴィオレットとクルトワが両側から手を伸ばす。
二人の掌へ跨がるように、銀板が静かに降りた。
「共和国へ戻るまでは、私が保管します。」
「記憶を再現する時には、私も立ち会います。」
二人は短く頷き合った。
◇
「ルリスティ。」
ヴィオレットが妹を呼ぶ。
「帝国へ戻ったら、この記録を父上と兄上たちへ伝えます。」
ヴィオレットは、自らの白銀の髪へ触れた。
「名もなき伴侶としてではなく、聖霊王アステリアとして。
レオン一世の妻であり、私たち皇族へ繋がる始祖として。
そして、聖霊へ声を届ける道を未来へ遺した方として。」
権威として祭り上げるためではない。
白銀の髪も、紫水晶の瞳も。
レオンから子どもたちへ受け継がれた色も。
どれも、父と母から子へ渡された家族の色に過ぎなかった。
一人の女性と一人の男性から始まった家族が、
長い時の中でさまざまなものを受け継ぎ、その一部が今の皇族へ続いている。
その事実と、アステリアが未来へ残した願いを正しく伝えるために。
ヴィオレットが小さく微笑む。
「一緒に持ち帰りましょう。」
ルリスティの瞳が僅かに揺れた。
一緒に、失われた歴史を。
互いの国を一つへ戻すためではない。
別々の場所で生きてきた者たちが、もう一度互いを知るために。
ルリスティは一度目を伏せ、それから姉を真っ直ぐに見た。
「はい。」
小さな声。
けれど、迷いはなかった。
「ヴィオレットお姉様。」
ヴィオレットの瞳が大きく見開かれる。
ルリスティの頬は僅かに赤い。
それでも、視線を逸らさない。
「一緒に、持ち帰りましょう。」
ヴィオレットの瞳から涙が溢れた。
長い間、求めることさえできなかった言葉。
妹自身が、自分を姉として呼んでくれた。
「はい。」
涙を拭うことも忘れ、ヴィオレットは頷く。
「ルリスティ。」
一歩近づいたものの、抱き締めてよいのか分からず足を止めた。
その迷いに気づいたルリスティが、自ら残った距離を進む。
姉の胸元へ額を寄せ、そっと身体を預けた。
ヴィオレットは息を呑み、壊れやすいものへ触れるように妹の背中へ腕を回す。
強くは抱かない。
離れたくなれば、すぐに離れられるように。
けれど、ルリスティは逃げなかった。
「温かいですね。」
「……はい。とても。」
ヴィオレットの声は涙に震えていた。
二人の白銀の髪が、風の中で重なる。
遥か昔、一つの家族から始まった色が、長い時を越えて今、同じ場所へ並んでいた。
少し離れた場所では、ルシアンが目元を押さえている。
「泣いているのですか。」
クルトワが小声で尋ねた。
「風が目に入っただけです。」
「そうですか。」
「中佐も泣いていますよね。」
「水鏡が眩しいだけです。」
二人は、それ以上追及しなかった。
ジェイクは何も言わず、
ルリスティが自ら姉の腕を離れるまで、いつもの半歩後ろで待っていた。
◇
祭壇から光が消え、水鏡の反対側へ帰路が現れた。
五人は、一人の父と母へ感謝を捧げるように静かに頭を下げた。
谷を戻る途中、ジェイクの歩調が僅かに遅くなる。
ルリスティは、すぐに足を止めた。
「大佐。休みます。」
「まだ歩けます。」
「私が休みたいのです。」
朝にも聞いた言葉に、ジェイクの口元が僅かに緩む。
「では、お付き合いします。」
二人は道端の石へ腰を下ろした。
ルリスティが水袋を差し出す。
「疲れは?」
ジェイクは少し考え、正直に答えた。
「少しあります。」
「最初から、そう言ってください。」
「約束は守っています。」
「どの約束ですか。」
「必ず、生きて戻るという約束です。」
水袋を受け取る際、二人の指が触れた。
ルリスティは手を引かず、自らジェイクの手へ重ねる。
「どうされましたか。」
「確認です。」
「何の?」
ルリスティは、重ねた手を見つめた。
「大佐が、ここにいることの。」
ジェイクは、すぐには強く握らない。
ルリスティが掌を預けるのを待ち、それから柔らかく指を包んだ。
「いますよ。」
「はい。」
「これからも。」
永遠を約束する言葉ではない。
それでも今、隣にいることを選び続けることはできる。
「……はい。」
二人の手は、立ち上がるまで繋がれたままだった。
◇
旧監視所へ戻った頃には、空が夕焼けへ染まっていた。
待機していた兵士たちが五人の無事を確認し、安堵の息を漏らす。
「本日は、ここで休みます。」
ルリスティの指示を受け、兵士たちはすぐに準備へ動き始めた。
監視所の背後では、谷へ続いていた石畳が淡い光に包まれている。
銀の草原。
青い花。
白銀の葉を持つ木々。
少しずつ、その輪郭が薄れていった。
「再び、閉じるのですね。」
ヴィオレットが隣へ立つ。
「役目を終え、必要となる時まで眠るのでしょう。」
ルシアンが答えた。
ルリスティの胸元で星が一度だけ輝き、谷の奥から同じ光が返される。
やがて石畳は消え、そこには森と岩壁だけが残った。
星の谷は、再び世界から姿を消した。
だが、そこへ残されていた言葉は、もう失われていない。
「明日、砦へ戻りましょう。」
そして、帝国と共和国へ記録を届ける。
過去の者たちが、今の二つの国を予見していたからではない。
異なる土地で、異なる歴史を受け継いだ者たちが。
自分たちの意思で、道を繋ぎ直すために。
「はい、ルリスティ。」
ヴィオレットが妹の隣へ並ぶ。
ルリスティは、一度だけ姉を見る。
まだ新しい呼び方には慣れていない。
それでも、祭壇だけの言葉にはしたくなかった。
「戻りましょう、お姉様。」
ヴィオレットの顔へ、柔らかな笑みが広がった。
その少し後ろで、ルシアンも嬉しそうに笑う。
ジェイクはルリスティの半歩後ろへ立ち、
クルトワは未来へ持ち帰る銀板を胸へ抱いていた。
夕暮れの空に、一番星が輝く。
その光は、遠く離れた二つの土地を同じように照らしていた。
一つへ戻るためではない。
異なるまま、互いを知るために。
声が届かなくなった時にも、その先に生きる者の存在を二度と失わないために。
百五十年間途絶えていた道が。
今、自分たちの意思によって再び繋がろうとしていた。




