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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第五章 星と黎明の記憶
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第86話 未来の子らへ

螺旋階段の先に待っていたのは、天井のない円形の祭壇だった。


高い岩壁に囲まれた遺構の最上部。

頭上には青空が広がり、足元には谷を映す大きな水鏡が横たわっている。


その中央に、一つの石碑が立っていた。

大部分を埋めるのは、深く真っ直ぐな文字。

刻む力が強すぎたのか、ところどころ石の表面が僅かに欠けている。


「レオン一世の文字です。」

ヴィオレットが呟いた。


ただし、中央には薄い銀板が嵌め込まれていた。

そこにだけ、アステリアと同じ柔らかな文字が残されている。


「アステリアが生前に遺したものを、レオン一世がここへ収めたのでしょうか。」

ルリスティが尋ねる。


ルシアンは銀板へ流れる魔力を調べた。

「銀板の方が古いですね。後から、この石碑へ嵌め込まれたようです。」


「これまでの記録とも一致します。」

クルトワが記録板へ書き留める。


その時、ルリスティの胸元で星と聖霊王の涙が同時に輝いた。

水鏡へ波紋が広がり、一人の男の姿が浮かび上がる。


◇


現れた男は、これまでの記憶で見たレオン一世よりも明らかに年老いていた。

髪の多くは白くなり、目元には深い皺。

腰には黎明の剣があるものの、身につけているのは簡素な衣だった。


彼は一人、石の椅子へ腰掛けている。


その隣には、もう一脚の椅子。

誰も座っていない。

背には、星を象った小さな飾りが掛けられていた。


レオン一世は、記録を始める前に一度だけ空席を見た。

それから正面へ視線を戻す。


『この場所へ辿り着いた者へ。』

低く、静かな声だった。


『私は、レオン。』

『かつて黎明の剣を携え、アステリアと共に災厄へ立ち向かった者。』

『そして、彼女の夫であった者だ。』


ルリスティの胸が締めつけられる。

王とも、皇帝とも名乗らなかった。

最初に語ったのは、アステリアの夫としての自分だった。


『アステリアは、すでに私の隣にはいない。』

視線が、僅かに空席へ向く。


『彼女は、聖霊として永く生きる道ではなく、

私と同じ時を生きることを選び――私より先に、その生涯を終えた。』


声は揺れていない。

けれど、その静けさの奥にあるものを、誰も軽いとは思わなかった。


『この遺構は、彼女が亡くなったあと、私が築いた。』

『彼女が遺した言葉。水へ残した記憶。そして、未来のために分けた力。』

『それらが失われぬよう、二つの場所へ収めた。』


水鏡へ、図面を広げるレオン一世の姿が映る。


一つは、星の谷。

もう一つは、地下深くへ築かれた黎明の遺構。


『星の谷には、アステリアの涙と願いを。』

『黎明の地には、災厄の根を断つ剣と、核へ至る道を穿つ銃を。』

『すべてを一つの場所へ集めるべきではないと考えたからだ。』


『剣だけを得た者は、斬ることを答えとするだろう。』

『涙だけを得た者は、根が残ることを知らず、大地を癒やそうとするだろう。』

『星のみを得た者は、自らの示す道こそ唯一だと信じるかもしれない。』


ルリスティは胸元の星へ触れた。

力そのものが悪いわけではない。

けれど、一つの力だけで答えを決めれば、必ず何かを見失う。


『ゆえに私は、異なる道を通らなければ辿り着けぬ場所へ、力と記録を分けた。』

『異なる知識を持つ者たちが互いの言葉へ耳を傾け、

自らが知らぬものを認めた時にのみ、すべての答えが揃うように。』


ヴィオレットとクルトワが、互いを見る。


皇統古代文字を読む者。

共和国の古代文字を読む者。

術式を読み解く者。

星を継ぐ者。

そして、星と深く共鳴した者。


誰か一人では、この遺構のすべてへ辿り着けなかった。


レオン一世が求めたのは、一人で答えを得る者ではない。

自分だけでは足りないと認め、異なる者の言葉を聞ける者たちだった。


◇


レオン一世が、石碑の銀板へ手を置いた。

『ここからは、アステリアが生前に遺した言葉だ。』


水鏡へ白銀の光が広がる。

姿は現れない。

代わりに、あの子守歌を歌っていた柔らかな声が響いた。


『我が子たちへ。』

『そして、遥か先に生まれる子らへ。』

『長い時が流れれば、人々は遠い土地へ移り、

異なる言葉と習わしを持つようになるでしょう。』


水鏡へ、一つの共同体から旅立つ人々が映る。


山を越える者。

川を下る者。

遠い土地へ、新たな暮らしを築く者。


『同じ出来事を、異なる物語として伝えることもあるでしょう。』

『それを、誤りだとは思いません。』

『異なる道を歩むことは、互いを裏切ることではありません。』


人々は異なる衣服をまとい、異なる家を建てていく。

それでも、その手には同じ場所から持ち出した小さな種があった。

各地へ蒔かれた種は、それぞれ違う花を咲かせる。


『けれど、相手の声が聞こえなくなった時。』

アステリアの声が、僅かに低くなった。

『自分の知る姿だけで、その者のすべてを決めないでください。』

『道が途絶えたからといって、

その先にいた者まで失われたと決めないでください。』


ルリスティは息を呑んだ。

百五十年前。

帝国と共和国は道を失い、互いを滅びた国だと思った。


アステリアが今の二国を予見したわけではない。

ただ、遠く離れた者たちが、相手を知ろうとする道まで閉ざさぬよう願った。

その言葉が、今を生きる二つの国へ重なる。


『私たちの暮らした形へ戻る必要はありません。』

『あなたたちには、あなたたちの時代があります。』

『私たちの失敗を知り、同じ道を避けるために過去を使ってください。』

『誰かを責める武器にも、未来を縛る鎖にもしないでください。』


白銀の光が、水鏡の上で揺れる。

『あなたたち自身の心で、愛する世界を選んでください。』

声は、そこで途切れた。


◇


再び、レオン一世の声が響く。

『妻の名を、国を治めるための権威として掲げることはしなかった。』


水鏡へ、子どもたちの姿が映る。


アステリアと同じ白銀の髪や紫水晶の瞳を持つ者。

レオンに似た色を受け継いだ者。

そのどちらも受け継いだような姿の者。

色も容姿も一人ずつ異なっていた。


『彼女は、自らの名と血が利用され、

子どもたちが力を求める者の道具となることを恐れた。』


銀板から、アステリアの声が重なった。

『私の子らは、聖霊王の力を受け継ぐための器ではありません。』

『一人一人が、自らの心と人生を持つ者です。』

『私や夫から受け継いだ髪や瞳の色も、聖霊へ声を届ける道も。』

『その者の人生を、誰かが奪う理由にはなりません。』


ルリスティの胸へ、クラウスの姿が浮かんだ。

彼もまた、特別な血を引く者としてではなく、一人の娘としてルリスティを守った。



『ゆえにアステリアは、私へ願った。』

『彼女の名を権威のために用いないこと。』

『聖霊王の血を、誰かを従わせる根拠にしないこと。』

『子どもたちが、それぞれの人生を選べるよう守ること。』


レオン一世は、アステリアの存在そのものを消したわけではなかった。

初代皇帝の傍に偉大な伴侶がいたことは伝承へ残した。

だが、その正体や皇族との繋がりを、王権の根拠として掲げなかった。


『しかし、名を権威から遠ざければ、いつか真実そのものが薄れる。』

レオン一世は空席を見る。

『だから私は、力を求める者ではなく、

彼女の言葉を受け取る者が現れる日まで、この場所へ真実を託すことにした。』


アステリアの名は帝国では失われた。

一方、遠い土地では星と湖の女神として残った。


異なる場所へ。

異なる形で。

彼女が生きた記憶は、完全には消えなかった。


レオン一世は再び正面を見る。

『ここへ来た者が、何者であるかを私は知らない。』

『どのような名を持ち、何を守るためにこの記録を開くのかも。』

『ゆえに、私はお前たちへ正しさを命じない。』


その声が、僅かに強くなる。

『恐れを理由に、道を閉ざすな。』

『怒りを理由に、相手の声を奪うな。』

『傷ついたことを忘れる必要はない。』

『だが、その傷へ未来を決めさせるな。』


ルリスティの胸元で、聖霊王の涙が温かな光を放つ。


『そして、一人ですべてを背負おうとするな。』

『己にないものを持つ者の手を借りよ。』

『異なる景色を見てきた者の言葉を聞け。』

『同じ答えを持てぬ時こそ、声を届け続けよ。』


水鏡へ、異なる者たちが手を取り合う姿が映る。

人間と聖霊。

剣を持つ者と、傷を癒やす者。

遠い土地から来た者たち。


異なるまま、同じ場所へ立っている。


『願わくは。』

『お前たちが、我らの知らぬ未来を恐れず。』

『お前たち自身の愛する世界を、選べるように。』


記録は、そこで終わるかと思われた。

だが、レオン一世は隣の空席へ視線を向けた。


『これでよいだろうか。』

小さな声だった。

『アステリア。』


返事はない。

彼女は、もうこの世にはいない。


けれど、水鏡の奥から、あの子守歌が流れ始めた。

レオン一世は驚いたように目を見開き、やがて僅かに笑う。


『そうか。』

空席へ手を伸ばす。

誰の手にも触れない。


それでも、そこに彼女がいるかのように、星の飾りへ静かに指を重ねた。

『ならば、あとは彼らへ任せよう。』


水の記憶が、ゆっくりと薄れていく。

最後に残ったのは、年老いたレオン一世と、空席へ差し伸べられた手。

そして、遠い昔から流れ続ける子守歌だった。


◇


祭壇へ静寂が戻った。

ルリスティは、レオン一世の姿が消えた場所を見つめていた。

妻を失ったあとも、その願いを終わらせることなく、未来へ言葉を繋いだ一人の夫。


「心の中では、ずっとアステリアと共に造っていたのでしょう。」

ヴィオレットが、子守歌の余韻が残る水面を見つめる。

ルリスティは静かに頷いた。


その時、石碑から掌ほどの銀板が浮かび上がる。

表には星と昇る太陽。

裏には銀の雫。


ルシアンが魔力を確かめた。

「持ち出すための記録です。主要な碑文と、水の記憶が写されています。」

さらに調べ、続ける。

「ただし、帝国と共和国、

双方の文字を読める者が揃わなければ再現できないようです。」


「最後まで、一人へは委ねなかったのですね。」

ヴィオレットとクルトワが両側から手を伸ばす。

二人の掌へ跨がるように、銀板が静かに降りた。


「共和国へ戻るまでは、私が保管します。」

「記憶を再現する時には、私も立ち会います。」

二人は短く頷き合った。


◇


「ルリスティ。」

ヴィオレットが妹を呼ぶ。

「帝国へ戻ったら、この記録を父上と兄上たちへ伝えます。」


ヴィオレットは、自らの白銀の髪へ触れた。

「名もなき伴侶としてではなく、聖霊王アステリアとして。

レオン一世の妻であり、私たち皇族へ繋がる始祖として。

そして、聖霊へ声を届ける道を未来へ遺した方として。」


権威として祭り上げるためではない。

白銀の髪も、紫水晶の瞳も。

レオンから子どもたちへ受け継がれた色も。

どれも、父と母から子へ渡された家族の色に過ぎなかった。


一人の女性と一人の男性から始まった家族が、

長い時の中でさまざまなものを受け継ぎ、その一部が今の皇族へ続いている。

その事実と、アステリアが未来へ残した願いを正しく伝えるために。


ヴィオレットが小さく微笑む。

「一緒に持ち帰りましょう。」


ルリスティの瞳が僅かに揺れた。

一緒に、失われた歴史を。

互いの国を一つへ戻すためではない。

別々の場所で生きてきた者たちが、もう一度互いを知るために。


ルリスティは一度目を伏せ、それから姉を真っ直ぐに見た。

「はい。」


小さな声。

けれど、迷いはなかった。

「ヴィオレットお姉様。」

ヴィオレットの瞳が大きく見開かれる。


ルリスティの頬は僅かに赤い。

それでも、視線を逸らさない。

「一緒に、持ち帰りましょう。」


ヴィオレットの瞳から涙が溢れた。

長い間、求めることさえできなかった言葉。

妹自身が、自分を姉として呼んでくれた。


「はい。」

涙を拭うことも忘れ、ヴィオレットは頷く。

「ルリスティ。」


一歩近づいたものの、抱き締めてよいのか分からず足を止めた。

その迷いに気づいたルリスティが、自ら残った距離を進む。

姉の胸元へ額を寄せ、そっと身体を預けた。

ヴィオレットは息を呑み、壊れやすいものへ触れるように妹の背中へ腕を回す。


強くは抱かない。

離れたくなれば、すぐに離れられるように。

けれど、ルリスティは逃げなかった。


「温かいですね。」

「……はい。とても。」

ヴィオレットの声は涙に震えていた。


二人の白銀の髪が、風の中で重なる。

遥か昔、一つの家族から始まった色が、長い時を越えて今、同じ場所へ並んでいた。


少し離れた場所では、ルシアンが目元を押さえている。

「泣いているのですか。」

クルトワが小声で尋ねた。

「風が目に入っただけです。」


「そうですか。」

「中佐も泣いていますよね。」

「水鏡が眩しいだけです。」

二人は、それ以上追及しなかった。


ジェイクは何も言わず、

ルリスティが自ら姉の腕を離れるまで、いつもの半歩後ろで待っていた。


◇


祭壇から光が消え、水鏡の反対側へ帰路が現れた。

五人は、一人の父と母へ感謝を捧げるように静かに頭を下げた。


谷を戻る途中、ジェイクの歩調が僅かに遅くなる。

ルリスティは、すぐに足を止めた。


「大佐。休みます。」

「まだ歩けます。」

「私が休みたいのです。」


朝にも聞いた言葉に、ジェイクの口元が僅かに緩む。

「では、お付き合いします。」


二人は道端の石へ腰を下ろした。

ルリスティが水袋を差し出す。


「疲れは?」

ジェイクは少し考え、正直に答えた。

「少しあります。」

「最初から、そう言ってください。」


「約束は守っています。」

「どの約束ですか。」

「必ず、生きて戻るという約束です。」


水袋を受け取る際、二人の指が触れた。

ルリスティは手を引かず、自らジェイクの手へ重ねる。


「どうされましたか。」

「確認です。」

「何の?」


ルリスティは、重ねた手を見つめた。

「大佐が、ここにいることの。」


ジェイクは、すぐには強く握らない。

ルリスティが掌を預けるのを待ち、それから柔らかく指を包んだ。


「いますよ。」

「はい。」

「これからも。」


永遠を約束する言葉ではない。

それでも今、隣にいることを選び続けることはできる。


「……はい。」

二人の手は、立ち上がるまで繋がれたままだった。


◇


旧監視所へ戻った頃には、空が夕焼けへ染まっていた。

待機していた兵士たちが五人の無事を確認し、安堵の息を漏らす。


「本日は、ここで休みます。」

ルリスティの指示を受け、兵士たちはすぐに準備へ動き始めた。


監視所の背後では、谷へ続いていた石畳が淡い光に包まれている。


銀の草原。

青い花。

白銀の葉を持つ木々。

少しずつ、その輪郭が薄れていった。


「再び、閉じるのですね。」

ヴィオレットが隣へ立つ。


「役目を終え、必要となる時まで眠るのでしょう。」

ルシアンが答えた。


ルリスティの胸元で星が一度だけ輝き、谷の奥から同じ光が返される。

やがて石畳は消え、そこには森と岩壁だけが残った。

星の谷は、再び世界から姿を消した。

だが、そこへ残されていた言葉は、もう失われていない。


「明日、砦へ戻りましょう。」

そして、帝国と共和国へ記録を届ける。


過去の者たちが、今の二つの国を予見していたからではない。

異なる土地で、異なる歴史を受け継いだ者たちが。

自分たちの意思で、道を繋ぎ直すために。


「はい、ルリスティ。」

ヴィオレットが妹の隣へ並ぶ。

ルリスティは、一度だけ姉を見る。


まだ新しい呼び方には慣れていない。

それでも、祭壇だけの言葉にはしたくなかった。

「戻りましょう、お姉様。」

ヴィオレットの顔へ、柔らかな笑みが広がった。


その少し後ろで、ルシアンも嬉しそうに笑う。

ジェイクはルリスティの半歩後ろへ立ち、

クルトワは未来へ持ち帰る銀板を胸へ抱いていた。


夕暮れの空に、一番星が輝く。


その光は、遠く離れた二つの土地を同じように照らしていた。

一つへ戻るためではない。

異なるまま、互いを知るために。


声が届かなくなった時にも、その先に生きる者の存在を二度と失わないために。


百五十年間途絶えていた道が。

今、自分たちの意思によって再び繋がろうとしていた。


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