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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第五章 星と黎明の記憶
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第85話 傷を癒やす時

「聖霊王の涙……。」

ルリスティがその名を口にすると、銀色の雫が淡く輝いた。


深い青の光に満たされた部屋の中央。

透明な器が、床にも天井にも繋がることなく静かに宙へ浮かんでいる。

器の中は澄んだ水で満たされ、

その中心には、一粒の銀色の雫だけが形を崩さずに揺れていた。


共和国の神話に語り継がれてきた、女神の涙。

枯れた土地を再び命の育つ場所へ変え、濁った水を清めるもの。


だが、目の前にあるそれは、神が人間へ一方的に与えた奇跡ではなかった。

聖霊王アステリアが自らの力を分け、遥か未来へ残したもの。

傷ついた世界へ、もう一度命を迎えるために託した願いだった。


ルリスティが無意識に一歩を踏み出す。


「お待ちください。」

クルトワの声が飛び、ルリスティは足を止めた。

「何かありますか。」


「器の周囲へ、複数の術式が重ねられています。」

クルトワは観測器を掲げながら、慎重に部屋の中央へ近づいていく。

水晶の中には銀と青の細い線が現れ、

器を守るように幾重にも巡ったあと、床へ刻まれた文字へ繋がっていた。


「侵入者を攻撃するものではないと思います。

ですが、無理に触れれば、涙そのものが再び封じられる可能性があります。」

「破壊されるのではなく?」


ルシアンが器を観察しながら尋ねる。

「誰にも使えない状態へ戻るのでしょう。未来へ託すための力なら、

奪われるくらいなら眠り続けるよう作られていても不思議ではありません。」


ルリスティは、器へ伸ばしかけていた手を下ろした。


胸元の星は強く反応している。

近づけと促しているようにも感じるが、

星の導きが、すぐに手を取れという意味だとは限らない。


「先に碑文を確認しましょう。」

ヴィオレットが、部屋を囲む壁へ目を向けた。


深い青色の石壁には、銀の文字が輪を描くように刻まれている。

皇統古代文字。

共和国の古代文字。

そして、両者の原型と思われる、さらに古い文字。

三種類の文字と術式が、透明な器を中心として複雑に重なり合っていた。


「一人では読めませんね。」

ヴィオレットが呟く。


クルトワも記録板を開いた。

「私も共和国の文字だけならば読めますが、中央の文字は先ほどより複雑です。」


ルシアンは壁へ近づき、魔力の流れを探る。

「術式記号と文章が組み合わされています。

言葉だけではなく、魔力が流れる順番も確認する必要がありそうです。」


三人は器の周囲へ分かれた。

ヴィオレットが皇統古代文字を。

クルトワが共和国の古代文字を。

ルシアンが、その間を繋ぐ原型文字と術式を調べ始める。


ルリスティとジェイクは、少し離れた位置から三人の作業を見守った。

「長くかかりそうですね。」

「大佐は、今のうちに休んでください。」


即答され、ジェイクが僅かに眉を上げる。

「まだ何も言っていませんが。」

「長時間、立ったままでした。」

「よく見ていらっしゃる。」

「当然です。」


ルリスティが壁際の石台を示すと、ジェイクは素直に腰を下ろした。

彼女が三人のもとへ戻ろうとすると、外套の端へ軽く指が掛かる。

「何でしょう。」

「あなたも少し休んでは?」


「私は怪我人ではありません。」

「砦を出てから、ほとんど休んでいないでしょう。」

「先ほど休憩しました。」

「あれは俺を休ませるためでしょう。」


ジェイクは外套から手を離した。

「今は、できることもなさそうです。」


碑文の解読へ没頭する三人を見る。

確かに、今の自分が加われることはない。


ルリスティは少し迷い、その隣へ腰を下ろした。

石台は十分に広い。

それでも二人の間に残ったのは、肩が触れないほどの僅かな隙間だけだった。


「疲れていませんか。」

今度はジェイクが尋ねる。

「少しだけです。」

「正直で結構です。」

「大佐に言われたくありません。」

「それもそうですね。」

ジェイクの口元が僅かに緩む。


二人の前では、銀の雫が静かに揺れていた。

アステリアは永い時を手放し、それでも人として生きることを選んだ。


「アステリアは……怖くなかったのでしょうか。」

「死ぬことが?」

「はい。」


少しの沈黙のあと、ジェイクが答える。

「怖かったと思います。」

「それでも、選んだ。」

「恐れよりも、望むものがあったのでしょうね。」


レオンと同じ時を生きること。

子どもたちの成長を見届けること。

終わりの日まで、妻として、母として生きること。


「俺も、死ぬのは怖いですよ。」

ルリスティが隣を見る。

「そうは見えません。」


「見せないようにしていますから。」

「なぜですか。」

「部下を率いる者が、毎回怯えていては困るでしょう。」


軽く笑ったあと、ジェイクは銀の雫へ視線を戻した。

「ですが、今は以前より死にたくないと思っています。

……生きて戻りたい場所が、はっきりしましたので。」


何を指しているのか、問い返す必要はなかった。

ルリスティは膝の上にあった手を石台へ下ろす。

ジェイクの手から、指一本分ほどの距離。


触れてはいない。

けれど、届く場所だった。

少しして、小指の先がそっと重なる。


「必ず、生きて戻ってください。」

「約束します。」

「以前も、同じ約束をしました。」

「なら、何度でも。」


小指が僅かに絡む。

「あなたが信じられるまで、何度でも約束します。」

ルリスティは、その指を引かなかった。



◇


「読めました。」

しばらくしてヴィオレットが声を上げ、

ルリスティとジェイクは同時に立ち上がった。


クルトワの記録板には、解読された文字が順番に並べられている。

単独では意味を成さなかった文章が、

三種類の文字と術式の流れを重ねることで、一つへ繋がっていた。


「最初は、皇統古代文字です。」

ヴィオレットが壁を見上げ、読み上げる。


「『傷ついた大地を癒やそうとする者へ』」


続いて、クルトワが共和国の古代文字を読んだ。

「『この雫を、慈しみのみで用いてはならない』」


「慈しみのみで?」

ルリスティが眉を寄せる。

「大地を癒やすためのものではないのですか。」


「続きがあります。」

ルシアンが術式へ慎重に魔力を流すと、銀の文字が定められた順に輝いた。


ヴィオレットが次の一文を読む。

「『傷を癒やすことと、災いを終わらせることは同じではない』」


クルトワが続けた。

「『根が残るうちに水を清めれば、種は新たな命を、再び己の糧とするだろう』」


全員の表情が変わった。


クルトワが透明な器を見つめる。

「先に使えば、災厄の種を弱めるどころか、力を与える可能性がある。」


「癒やされた土地へ再び命が根づき、その命が恐怖や悲しみに晒されれば、

種は新たな嘆きを喰らうことができる。」

ルシアンが静かに続けた。


ルリスティは胸元の星を握った。

聖霊王の涙は、災厄を倒すための武器ではない。

順番を誤れば、救おうとした命を再び災厄へ差し出すことになる。


「だから、記録は二つの遺構へ分けられたのですね。」

ヴィオレットが呟く。

「涙だけを見つけた者が、善意からすぐに使うことのないように。」


「一方には、大地を癒やすための涙。」

クルトワも頷く。

「もう一方には、根を断つための剣と、そこへ至る道を開く武器。

一方だけでは、正しい使い方へ辿り着けない。」


壁の中央にある原型文字が、さらに強く輝いた。


ルシアンが浮かび上がる言葉を読み解く。

「『星は、道を示す』」

その一文へ、ルリスティの星が反応した。


「『黎明は、根を断つ』」

遠い帝国の地下遺構へ残されていた、白銀の剣。


「『涙は、すべてが終わったあとに流される』」


三つの役割。

三つの順番。


星。

剣。

涙。


「魔導銃の役割が、ここに?」


ルリスティが壁へ近づく。


星の紋章の下には、一挺の武器が刻まれていた。

長い銃身。

引き金。

漆黒の武器へ集う、無数の星。


ルリスティが受け継いだ、星導の魔導銃と同じ形だった。


ヴィオレットが、その隣にある皇統古代文字を読む。

「『災厄の種は大地に根を張りながら、その核を狭間へ隠す』」


続いて、クルトワが共和国古代文字を読み上げる。

「『目には映らず、通常の魔力でも捉えられぬ場所へ』」


ルシアンの視線が鋭くなる。

「次元の狭間。黒淵の内部です。」


災厄の種が、完全には滅びなかった理由。

地上へ伸びた根を断たれても、核は通常の世界から外れた場所へ残り、

長い時間をかけて再び根を伸ばす。


「では、魔導銃は……。」

ルリスティが、銃の浮き彫りを見つめる。


ヴィオレットがその下の文字を読んだ。

「『星の光を撃ち出し、隠された核へ至る道を穿つもの』」


「核を直接破壊する武器ではない?」

「道を作るための武器です。」

ルシアンが答える。

「狭間へ隠された核を、この世界へ繋ぎ止める。黎明の剣が届くように。」


漆黒の魔導銃が、災厄の核へ道を開く。

白銀の剣が、その道を通して根と核を断つ。


そして、すべてが終わったあと。

聖霊王の涙が、瘴気に侵された大地を癒やす。


「二つの武器が揃わなければ、災厄を断つことはできない。」

ヴィオレットが呟いた。

「かつて、アステリアとレオン一世が並んだように。」


ルリスティも壁画を見上げる。


星と黎明。

聖霊王と人間。

異なる力を持つ者が、同じ目的のために並び立つ。

その形が、未来へ残されていた。


「魔導銃を使うのは司令です。」

ジェイクが告げる。

「黎明の剣を使うのは、アークファイント卿。」


リカルド・アークファイント。

クリスティの専属騎士であり、帝国近衛騎士団長を務める男。


だが今の彼は、星導の魔導銃が開く道の意味を知らない。

ルリスティも、この遺構へ来るまでは知らなかった。


「必ず、この記録を届けなければなりません。」

ルリスティの声へ、司令としての強さが戻る。

「アークファイント卿だけではありません。

クリスティにも、帝国と共和国の双方にも。」


「一文字も漏らさず記録しています。」

クルトワが答える。

「ですが、文字だけでは伝えきれないものもあります。」


「水の記憶は、持ち出せないでしょうか。」

ヴィオレットが尋ねると、ルシアンは透明な器と周囲の水路を調べた。

「遺構から切り離せば、記憶そのものが失われる可能性があります。

ただ、同じ魔力の流れを再現できれば、断片を映すことはできるかもしれません。」


「帰還後に試しましょう。」

ルリスティが頷く。

「今は、涙を受け取る方法です。」


◇


碑文の最後には、透明な器を開くための言葉が残されていた。


ヴィオレットが皇統古代文字を読む。

「『涙を託される者は、傷を忘れぬ者でなければならない』」


クルトワが共和国古代文字を続ける。

「『憎しみを抱かぬ者ではない。憎しみに、未来を選ばせぬ者』」


ルリスティの瞳が、僅かに揺れる。


恐れない者。

怒らない者。

悲しまない者。


そのような者を、アステリアは求めていない。


傷ついたことを忘れず。

失ったものを、なかったことにもせず。

それでも、その痛みに未来を決めさせない者。


「次は、原型文字です。」

ルシアンが術式を追う。

「『一人で持つことなかれ。力の重さを、一つの心へのみ委ねることなかれ』」


透明な器の下へ、二つの小さな紋章が浮かび上がった。

一つは星。

もう一つは、重なり合う二つの手。


「二人で受け取るということでしょうか。」

ヴィオレットが尋ねる。


ルシアンは、紋章を繋ぐ魔力の流れを調べた。

「星の力を持つ者と、その力へ深く共鳴する者を求めているようです。」


「皇族が二人必要なのですか。」

クルトワが問いかける。


「血統や魔力量だけを判別しているわけではないと思います。」

ルシアンは首を横へ振った。


「この古い術式が、何を読み取っているのかまでは分かりません。

ただ、星の紋章から伸びた魔力は、

別の者へ残された祝福の痕跡を探しているように見えます。」


ルリスティが星の紋章の前へ立つと、胸元のレリーフが強く輝いた。

床の星も、同じ銀色に染まる。

「こちらは、ルリスティ様ですね。」


では、もう一つは誰なのか。

ヴィオレットが重なる手の紋章へ近づくと、淡い紫の光が反応した。

だが、完全には灯らない。

「私ではない……。」


「加護の強さの問題ではありません。」

ルシアンの視線が、やがてジェイクへ向けられた。


黒淵でルリスティの星の祝福が初めて覚醒した時、その光と深く共鳴した人間。

さらに、クリスティの太陽の祝福によって命を繋がれたことで、

今もその魔力には二つの祝福の痕跡が残っている。


「大佐が、最も強く星の力と繋がっています。」


クルトワも観測器を確認した。

「先ほど道を開いた術式が、大佐を受け入れた理由と同じなのかもしれません。」


なぜそれが受領の条件となるのか。

古代の術式を、現代の理論だけで完全に説明することはできない。

ただ、この力を一人だけへ背負わせず、

同じ光へ触れた人間と共に受け取らせようとしていることは読み取れた。


「アステリアの隣にいたレオン一世も、聖霊ではありませんでした。」

ヴィオレットが静かに言う。

「この遺構が求めているのは、同じ血を持つ者ではないのでしょう。」


ルリスティはジェイクを見た。

「大佐。」

「はい。」

「試していただけますか。」

「もちろんです。」

迷いのない返事だった。


ジェイクはルリスティの隣へ立つ。

ルリスティが星の紋章へ右手を置き、

ジェイクは重なり合う手の紋章へ左手を添えた。

だが、最初は何も起きなかった。


「違ったでしょうか。」

「いえ。もう一つ、何か……。」


ルシアンが術式を追う中、ヴィオレットが碑文の最後へ気づいた。

「まだ一文あります。『手を重ねよ』と。」


ルリスティの肩が、僅かに揺れた。

皆の前ではある。

だが、必要な条件なら迷っている場合ではない。


二人は床の紋章から手を離し、透明な器の前で向き合った。


ジェイクが左手を差し出す。

ルリスティは、その掌へ自ら右手を重ねた。


今度は、彼が待つ必要はなかった。

ルリスティから指を伸ばし、ジェイクの手を握る。


彼の青い瞳が、ほんの僅かに見開かれた。

それでも、喜びを大きく表へは出さない。

彼女が自ら選んだ距離を、静かに受け止める。


「ルリスティ。」

人前で名を呼ばれ、彼女の指が微かに強張った。

けれど、手を引くことはない。

「離しません。」

ジェイクが低く告げる。


遺構の条件へ答えた言葉なのか。

それとも、別の意味も含んでいるのか。

ルリスティには分からなかった。

ただ、自分も指へ力を込める。


「……お願いします。」

二人の繋いだ手から、銀色の光が溢れた。

床の星と、重なり合う手の紋章が同時に輝く。


透明な器を囲んでいた術式が、外側から一つずつほどけていった。

青い光が消え、銀の文字が水へ溶け、最後に器の表面へ亀裂のような光が走る。


割れたのではない。

花が開くように、透明な器の上部が静かに広がっていった。


中から立ち上がった一筋の水が二人の周囲を巡り、繋いだ手へ触れる。


その瞬間、ルリスティの胸へ懐かしい声が届いた。

今度は、子守歌ではない。

言葉だった。


『痛みを、忘れないで。』

柔らかな女性の声だった。

聞いたことなどないはずなのに、なぜかルリスティには分かった。

アステリアだ。


耳から聞こえたのではない。

星と水を通じ、心へ直接届いた遠い残響。


『けれど、痛みだけを見つめないで。』

ルリスティの瞳へ、薄く涙が滲む。

『失われた命を、戻すことはできません。』


銀色の雫が、器の中からゆっくりと浮かび上がる。

『この涙は、悲しみをなかったことにするものでもありません。』


失われた命は戻らない。

奪われた時間も、失ったものも、元通りにはならない。

聖霊王の力でさえ、それを変えることはできない。


『ただ、傷ついた場所へ、もう一度命を迎えるためのもの。』


銀の雫が、二人の繋いだ手の上へ降りてくる。

触れた瞬間、冷たさではなく、春の日差しのような温もりが広がった。


『過去を忘れるためではなく。』

『過去と共に、未来を生きるために。』


光が強くなる。


ルリスティは目を閉じた。

ジェイクの手の温度だけが、はっきりと分かる。


失ったもの。

傷ついたこと。

恐れたこと。


そのすべてを消す必要はない。

抱えたままでも、未来を選ぶことはできる。


アステリアが、レオンと同じ時を生きることを選んだように。

自分もまた、隣に立つ者と共に、これからを選ぶことができる。


銀色の雫は、二人の手の中で小さな結晶へ姿を変えた。


透明な結晶の中心には、一粒の銀光が浮かんでいる。

星と雫を組み合わせたような形だった。

やがて結晶はルリスティの胸元へ浮かび上がり、星のレリーフの隣へ収まった。

細い銀鎖が自然に伸び、二つの遺物を並べて繋ぐ。


星と涙。

導く力と、癒やす力。


「受け取った……。」

クルトワの声が震えていた。


長い年月、誰にも触れられなかった聖霊王の力が、

今、ルリスティの胸元で静かに揺れている。


ジェイクは、まだ彼女の手を握っていた。

「大丈夫ですか。」

「はい。」


ルリスティは目を開き、頬へ伝った涙を空いている手で拭う。

「声が聞こえました。」



「アステリアの?」

ヴィオレットが近づく。

「はい。」

ルリスティは胸元の結晶へ触れ、受け取った言葉を一つずつ伝えた。


「この涙は、失った命を戻すものではありません。悲しみを消すものでもない。

傷ついた場所へ再び命を迎え、過去を抱えたまま未来を生きるための力です。」


ヴィオレットの瞳へ、再び涙が浮かんだ。

「アステリアらしい言葉ですね。」


「はい。」

ルリスティは静かに答えた。


その時になって、まだジェイクと手を繋いでいることへ気づく。


指は、深く重なっていた。

扉を開いた時よりも。

先ほどの広間で触れた時よりも、自然に。


「大佐。」

「はい。」

「もう、条件は満たしたと思います。」

「そうですね。」

それでもジェイクは、すぐには手を離さなかった。


彼の目に、からかう色はない。

ただ、ルリスティ自身がどうしたいのかを待っている。


「離しましょうか。」

低い声で尋ねられ、ルリスティは周囲を見た。


ヴィオレットは気づかないふりをして、胸元の結晶を観察している。

ルシアンは明らかに気づいているが、懸命に壁へ視線を向けていた。

クルトワも、記録板から顔を上げない。


「……もう少しだけ。まだ、何が起きるか分かりませんので。」

ジェイクの目元が、柔らかく細められた。

「承知しました。」

二人の手は、そのまま繋がれていた。


◇


聖霊王の涙が器から離れると、部屋を満たしていた青い光が少しずつ薄れていった。

役目を終えた透明な器は、水へ溶けるように形を失い、床の水路へ流れ込んでいく。

代わりに、奥の壁へ三つの紋章が浮かび上がった。


星。

昇る太陽を戴く一振りの剣。

銀の雫。


三つの光が、一本の道の上へ並んでいる。


その下では、皇統古代文字と共和国古代文字が左右から伸び、

中央で一つの文章を形作っていた。


ヴィオレットとクルトワが、それぞれの側へ立つ。


ヴィオレットが皇統古代文字を読む。

「『星が、道を開き』」


クルトワが共和国古代文字を続ける。

「『黎明が、災いを断ち』」


最後の一文だけは、二つの文字が重なるように刻まれていた。

二人は顔を見合わせ、声を揃える。

「『涙が、世界へ新たな朝を迎える』」


三つの紋章が一斉に輝き、壁がゆっくりと開いていく。


その先にあったのは、新たな部屋ではない。

上へ続く、長い螺旋階段だった。


階段の中央には細い水が流れている。

銀色の光を帯びた水は上方から下り、

彼らの足元を通り抜けて遺構全体へ広がっていた。


「出口でしょうか。」

クルトワが上を見上げる。


「外から入った時より、高い場所へ続いています。」

ルシアンが水の流れへ手をかざした。

「遺構の最深部は越えました。上には、別の空間があるようです。」


ルリスティの胸元で、星が階段の先を示す。

だが、聖霊王の涙は逆の方向へ――彼らが通ってきた遺構の奥へ、

淡い光を向けていた。


二つの遺物が、異なる方向を示している。


「何を意味しているのでしょう。」

ヴィオレットが尋ねる。


ルリスティは星を見たあと、後方の暗い通路を振り返った。

「星は、これから進むべき道を。

涙は、忘れてはならないものを示しているのかもしれません。」


アステリアとレオン。

人と聖霊。

共に生きた時代。


裏切りと断絶。

災厄の種。

そして、遥か未来の子どもたちへ遺された願い。


そのすべてを、持ち帰らなければならない。


ルリスティは、ジェイクと繋いでいた手を静かに離した。

指先へ残る温もりを確かめるように、一度だけ手を握る。


「進みましょう。この遺構が伝えようとしていることを、最後まで受け取ります。」


五人は螺旋階段を上り始めた。


ルリスティとジェイクが並び、その後ろをヴィオレットとルシアンが続く。

クルトワは記録板を抱え、最後尾から何度も壁の紋章を確認していた。


階段の中央には、細い水が絶えず流れている。

銀色の光を帯びた水は足元をすり抜け、彼らが辿ってきた遺構の奥へと戻っていった。


一段。

また一段。

上るにつれて、水音が変わっていく。


細い流れだった音が、

いつしか大きな湖の波が岸へ寄せるような響きへ変わっていた。


「上から、光が。」

ヴィオレットの声に、全員が顔を上げる。

螺旋階段の先へ、白い光が差し込んでいた。


ルリスティの胸元で、星と聖霊王の涙が同時に淡く輝く。


ここまで導いてきた星。

過去を忘れぬために託された涙。

二つの光を胸に、ルリスティは最後の段へ足を掛けた。


長い年月、誰にも届かなかった遺構の最上部へ。

アステリアとレオンが、遥か未来へ託した最後の言葉を受け取るために。


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