第84話 同じ時を生きる
細い通路の壁には、三つに分かれた星の光が刻まれていた。
一つは、多くの子どもたちへ。
一つは、銀色の雫へ。
そして最後の一つは、白銀の女性自身の胸へ。
その傍らでは、剣を携えた男が彼女の手を握っている。
ヴィオレットは、通路の入口に刻まれていた碑文へもう一度目を向けた。
「『永遠を手放すのではありません』」
一行目を確かめ、続く言葉を読む。
「『あなたと同じ時を、生きることを選ぶのです』」
ルリスティは壁画から目を離せなかった。
聖霊王アステリアは、人間よりも遥かに長い時を生きる存在だったのだろう。
だが壁画の彼女は、自らの胸に残る小さな光を迷いなく見つめている。
隣に立つ初代皇帝レオン一世だけが、その手を強く握っていた。
「こちらにも文字があります。」
ヴィオレットが、壁画の下へ続く碑文を見つける。
皇統古代文字。
先ほどの「我が子たちへ」と同じ、丁寧で柔らかな筆跡だった。
「『災厄の種を封じたのち、いつか再び芽吹く日に備え、
私は残された力を三つの形へ分けました』」
全員の視線が、三つの光へ集まる。
「『一つは、我が子らと、その先へ続く者たちへ』」
壁画では、アステリアから放たれた光が子どもたちの胸へ宿っていた。
白銀の髪を持つ者も、父親に似た色の髪を持つ者もいる。
幼い子どもから、剣を持つほど成長した者まで、
そのすべてへ細い光が繋がっていた。
ヴィオレットが続きを読む。
「『聖霊へ心が届く道を、彼らの中へ残します。
力を命じるためではなく――誰かを愛し、守り、
その幸いを願う心が、聖霊へ届くように』」
「これが……皇族の加護の始まり。」
ルシアンが低く呟いた。
受け継がれたのは、同じ力そのものではない。
未来の子どもたちが聖霊へ心を届けるための道。
その願いへ聖霊が応えた時、初めて祝福は形となる。
ヴィオレットがルシアンを見る。
「だから、加護の現れ方が人によって異なるのでしょうか。」
「可能性は高いと思います。
受け継がれているのは、聖霊へ繋がるための道なのでしょう。」
ルシアンは壁画を見つめたまま続けた。
「そこへ、本人の心や願いに応じた聖霊が応える。
だから同じ皇族でも、現れる祝福が異なるのだと思います。」
ルリスティの脳裏へ、クリスティの姿が浮かんだ。
周囲の者を照らし、守る「太陽の祝福」。
あれは特別な力をそのまま受け継いだのではなく、
誰かを照らし支えたいと願うクリスティの心へ、聖霊が応えたものなのだろう。
ならば、自分の星も同じなのかもしれない。
自分の願い。
守りたいもの。
その答えが「星の祝福」として現れ、遥か昔に遺された漆黒の魔導銃が応えた。
「続いて、二つ目です。」
ヴィオレットの声に、ルリスティは碑文へ意識を戻した。
「『二つ目は、傷ついた大地へ残します』」
壁画では、銀色の光が一粒の雫へ集まり、透明な器へ収められている。
「『たとえ災厄の根を断つことができても、
長い年月をかけて染み込んだ瘴気までは消えません』」
「『大地は傷つき、水は濁り、命は戻る場所を失うでしょう』」
クルトワの表情が変わった。
「現在の黒淵周辺に残っている瘴気……。」
二つの国を百五十年間隔ててきた黒淵には、今も濃い瘴気が残されている。
災厄の種を滅ぼしても、大地へ染み込んだものまでは消えない。
ヴィオレットはさらに読み進めた。
「『その時、この雫を大地へ還してください。
私の力が残っている限り、水は記憶を取り戻し、
傷ついた命を再び迎えるでしょう』」
「聖霊王の涙……。」
ルリスティが呟く。
女神の涙が枯れた大地へ命を戻したという共和国の神話。
それは比喩ではなく、アステリア自身が未来へ残した力だった。
クルトワは壁画の雫を見つめる。
「涙という名ではありますが、実際には聖霊王の力を凝縮したものなのでしょう。」
「けれど、アステリアはそれを『力』ではなく『涙』と呼んだ。」
ルリスティが静かに答えた。
傷ついた大地と、失われた命。
そこへ再び命が戻ることを願って残したものなら、
単なる魔力の塊ではないのだろう。
「では、最後の一つは?」
ジェイクが壁画を見上げた。
アステリアの胸へ戻る、小さな光。
三つに分かれた中で最も弱く見える。
ヴィオレットは続きへ視線を移し、ゆっくりと読み上げた。
「『最後の一つは、私自身へ残します』」
壁画のアステリアが、自らの胸へ手を添えている。
「『聖霊王として永く在るためではなく――あなたの妻として』」
ヴィオレットの声が僅かに震えた。
「『そして、子どもたちの母として。残された時間を、生きるために』」
水の音だけが通路へ響く。
アステリアは、聖霊王として生き続けるために力を残したのではない。
レオンと。
子どもたちと。
家族として生きるための時間を残した。
「ですが……。」
クルトワが戸惑ったように尋ねる。
「聖霊王としての力を失えば、アステリアはどうなるのですか。」
ルシアンが壁画へ目を凝らした。
アステリアを包んでいた光は、三つへ分かれたあと、ほとんど消えている。
「おそらく、聖霊としての永い命も失われたのでしょう。
人間と同じように時を重ね、いつか命を終える身体になったのだと思います。」
ヴィオレットは、その先へ続く碑文を確認した。
「……ここから、筆跡が変わっています。」
先ほどまでの柔らかな文字とは違う。
硬く直線的で、刻まれた深さにも乱れがあった。
ルリスティが文字を覗き込む。
「レオン一世が刻んだのでしょうか。」
「分かりません。ですが、先ほどまでとは明らかに違います。」
ヴィオレットは慎重に読み上げた。
「『私は、彼女へ問うた。それでよいのかと』」
続く文字へ指を滑らせる。
「『聖霊王としての力を手放し、永き命を手放し、
いつか私より先に命を終えるかもしれぬ道を選んで――
それで、本当によいのかと』」
一部だけ、文字が深く乱れている。
刻んだ者の手が震えていたのかもしれない。
ルリスティは壁画のレオンを見た。
彼は、アステリアの手を強く握っている。
止めたい。
それでも、彼女自身の意思を奪うことはできない。
その葛藤が、浮き彫りからさえ伝わってくるようだった。
ヴィオレットは、その先へ視線を移した。
「……まだ、同じ筆跡が続いています。」
短い一文。
「『彼女は笑った』」
そして、そのすぐ下から文字が再び柔らかな筆跡へ変わっていた。
「ここからは、アステリア自身の言葉だと思います。」
ヴィオレットが読む。
「『永遠を手放すのではありません』」
通路の入口で読んだ言葉。
だが今は、その意味がまったく違って聞こえる。
「『あなたと同じ時を、生きることを選ぶのです』」
「『朝を迎え、日が暮れ、季節が巡り、子どもたちが大きくなる姿を、
あなたの隣で見守る。それを、失うとは呼びません』」
壁画のアステリアは、レオンの頬へ手を添えている。
「『永遠よりも、私はその時間を望みます』」
沈黙が落ちた。
ジェイクは何も言わず、ルリスティを見る。
彼女もその視線に気づいた。
人間の命は有限だ。
いつか終わる。
それでも、終わりがあるから価値が失われるわけではない。
終わる日まで、共に生きることを選ぶ。
遥か昔、聖霊王は永遠よりもそれを望んだ。
ルリスティは、ジェイクから視線を外せなかった。
彼を失いかけた時、命が永遠ではないことを強く思い知らされた。
だから怖い。
けれど、終わりを恐れるあまり、共に過ごせる今を拒むことも違うのだろう。
ジェイクが、ほんの少しだけ目を細める。
今は、先人たちの記録を読む時だ。
それ以上は、二人きりになってから。
言葉にせずとも、その意思は伝わった。
◇
通路の先には、再び小さな水盤があった。
ルリスティの胸元の星が光ると、水面に過去の情景が浮かび上がる。
鮮明な記録ではない。
色も声も途切れ途切れだった。
けれど、そこに映っているのが戦いや儀式ではなく、
家族の日常であることはすぐに分かった。
小さな家。
朝の光が差し込む食卓。
白銀の髪を持つ女性が、幼い子どもの髪を何度も結び直している。
少し離れた場所では、剣を携えた男が別の子どもへ外套を着せていた。
前後を間違えたらしく、子どもが笑う。
女性も振り返って笑った。
男は不満そうに何かを言いながら、慎重に外套を直している。
水面が揺れた。
次に映ったのは、広い庭。
子どもたちが走り回り、小さな聖霊たちがその周囲を飛んでいる。
アステリアは木陰で幼子を膝へ乗せ、
レオンは少し離れた場所で成長した子どもへ剣を教えていた。
剣を弾かれ、子どもが転ぶ。
レオンは駆け寄りかけたが、子どもが自分で立ち上がるのを見て足を止めた。
アステリアが何かを言う。
レオンが短く返すと、彼女は笑った。
「初代皇帝も、普通の父親だったのですね。」
ルシアンが微笑ましそうに呟く。
ヴィオレットも僅かに笑った。
「少なくとも、子どものこととなると冷静ではなかったようです。」
再び年月が進む。
子どもたちは成長し、アステリアの姿にも変化が現れ始めた。
白銀の髪と紫水晶の瞳は変わらない。
だが、目尻には薄い線が増え、頬の輪郭も以前より柔らかくなっていた。
クルトワが息を呑む。
「本当に、老いている……。聖霊が、人間と同じように。」
アステリアは、自分の髪へ混じったさらに白い一房を摘み、レオンへ見せている。
彼のこめかみにも、薄い白髪が現れていた。
二人は笑いながら、同時に互いの髪へ触れる。
その瞬間に交わされた言葉が、壁へ刻まれていた。
ヴィオレットが柔らかな筆跡を読む。
「『あなたと同じになりました』」
アステリアの言葉。
続いて、隣にある硬い筆跡へ目を移す。
「『最初から、同じであった』」
レオンの答えだった。
聖霊と人間。
王と剣士。
異なる命として出会っても、レオンにとっては最初から隣へ並ぶ相手だった。
ルリスティは目を伏せた。
隣ではジェイクが、穏やかな表情で水面を見ている。
◇
記憶は、さらに年月を進めた。
子どもたちは大人になり、それぞれ伴侶や仲間を連れて家へ戻るようになった。
アステリアは以前よりゆっくり歩く。
庭へ出る時には、レオンが自然に腕を差し出し、二人は同じ速さで歩いていた。
彼の髪にも白いものが増えている。
それでも腰には、変わらず黎明の剣があった。
水面が大きく揺れる。
次に映ったのは、夕暮れの寝室だった。
寝台には、年老いたアステリアが横たわっている。
周囲には成長した子どもたち。
その傍らで、レオンが彼女の手を両手で包んでいた。
アステリアは一人ずつ子どもたちへ手を伸ばし、最後にレオンを見る。
男は何も言わず、その手へ額を寄せた。
水面の光景が滲む。
ルリスティの喉が詰まった。
ヴィオレットは口元へ手を当て、その背中へルシアンがそっと手を添える。
今回は、ヴィオレットも拒まなかった。
アステリアは最後に微笑み、ゆっくりと目を閉じた。
光が消える。
やがてレオンが、包んでいた彼女の手を自分の頬へ当てた。
声は聞こえない。
ただ、その背中が震えていることだけは分かった。
水面が暗くなり、記憶はそこで途切れた。
◇
長い間、誰も言葉を発しなかった。
ルリスティは、自分の頬へ涙が伝っていることに気づいた。
隣を見ると、ヴィオレットも静かに涙を流している。
アステリアは、自分が望んだ人生を生きた。
レオンの隣で朝を迎え、子どもたちの成長を見守り、
共に老い、家族に囲まれて生涯を終えた。
その時間は永遠ではない。
けれど、決して失われたものでもなかった。
「幸せだったのでしょうか。」
ルリスティが、誰にともなく尋ねる。
「はい。」
答えたのはヴィオレットだった。
「きっと、とても。」
その声に迷いはない。
「私も、そう思います。」
ルリスティも頷いた。
ジェイクが、彼女のすぐ傍へ立つ。
皆がいるから、手は取らない。
ルリスティは少しだけ身体を傾けた。
外套の袖が、ジェイクの腕へ触れる。
ほんの僅かな接触。
それでも今は十分だった。
「ルリスティ。」
ヴィオレットに呼ばれ、姉を見る。
「先ほどの言葉を、覚えておきたいと思います。」
「どの言葉ですか。」
ヴィオレットは壁の碑文へ目を向けた。
「『永遠を手放すのではありません。あなたと同じ時を、生きることを選ぶのです』」
ルリスティは隣のジェイクを一度だけ見て、静かに頷いた。
「はい。」
忘れない。
永遠ではなくても。
いつか終わるとしても。
同じ時を生きることには、確かな意味がある。
◇
水盤の底で、小さな光が生まれた。
銀色の光は水の中を進み、奥の壁へ届く。
新たな碑文が浮かび上がった。
皇統古代文字。
だが、アステリアの柔らかな筆跡ではなく、直線的で深く刻まれた文字だった。
ヴィオレットが碑文へ近づく。
「先ほどのものと同じ筆跡です。」
ルリスティも壁を見る。
「では……レオン一世?」
「その可能性が高いと思います。」
ヴィオレットは最初の一行を読み、息を止めた。
「『我が最愛の妻、アステリアへ』」
それは歴史のためでも、後世へ偉業を伝えるためでもない。
すでにこの世を去った妻へ向けた、手紙だった。
ヴィオレットはゆっくりと読み進める。
「『あなたが逝ったあと、家はひどく静かになった』」
「『子どもたちは、それぞれの道を歩んでいる』」
「『あなたが望んだように、人と聖霊が共に暮らせる国を残そうとしている』」
「『私も、まだ止まるわけにはいかない』」
壁には、年老いたレオンが机へ向かう姿が刻まれていた。
広げられた図面には、二つの遺構。
帝国側へ残された地下施設。
そして、今彼らが立つアステリアの遺構。
さらに、黎明の剣と星導の魔導銃。
ヴィオレットが続きを読む。
「『災厄の種は、完全には滅びていない。
あなたと共に、その根を断ち、深い狭間へ封じた』」
「『だが、いつか再び芽吹く日が来る。
その時、私たちの子らが、同じ過ちを繰り返さぬように』」
レオンは妻の死後も、未来へ必要なものを残し続けた。
二つの遺構。
災厄と戦うための武器。
そして、分けて託された一つの歴史。
「『私は、あなたの涙を星の谷へ残す』」
ヴィオレットが次の一行を読む。
「『私の剣と、あなたのために作った銃は、黎明の地へ』」
ルリスティの胸元の星が震えた。
「あなたのために作った銃……。」
星導の魔導銃は、レオンが自分のために作ったものではない。
アステリアのための武器だった。
だから星の力へ反応し、その星を継ぐルリスティへ受け継がれた。
「まだ続いています。」
ヴィオレットが再び読み上げる。
「『二つの遺構へ、真実を分けて残す』」
「『一方のみを知れば、人は再び、力だけを求めるだろう』」
「『剣だけを得れば、災厄を斬ることしか考えぬ。
涙だけを得れば、傷を癒すことしか考えぬ』」
そして、最後の一文。
「『根を断ち、大地を癒し、そして嘆きを生まぬ道を選ぶ。
そのすべてを知った者だけが、再び災厄へ立ち向かえる』」
帝国側の遺構。
共和国側の遺構。
片方だけでは、答えへ辿り着けない。
レオンとアステリアが、異なる存在でありながら手を取ったように。
二つの記録を合わせた時にのみ、未来へ進む道が見える。
ヴィオレットは、最後の文字へ指を添えた。
「……最後です。」
一度、息を吸う。
「『アステリア。いつか、すべてを終えたなら』」
声が僅かに掠れた。
「『私も、あなたのもとへ行く』」
「『それまでは、もう少しだけ待っていてほしい』」
文字は、そこで終わっていた。
妻を失った悲しみも、自らの孤独も長くは綴られていない。
ただ、彼女と共に始めたことを最後まで終える。
その約束だけが残されていた。
クルトワが壁の図面を見つめる。
「レオン一世は、アステリアが亡くなったあとも二つの遺構を整え続けた。
妻との約束と、未来へ必要なものを残すために。」
ルシアンも二つの遺構を結ぶ線を見る。
「そして、いつか二つが再び繋がる日を待った。」
ルリスティは胸元の星を握った。
レオン一世が待っていた未来。
アステリアが願った、遥か先の我が子たち。
その子孫である二人の姉妹が、今ここにいる。
帝国の記録を知るヴィオレット。
共和国の神話を知るルリスティ。
二人が共に訪れたからこそ、失われた歴史は一つへ戻り始めた。
その時、水盤の奥で石壁が静かに開いた。
その先には、深い青の光に満たされた部屋。
中央には、小さな透明の器が浮かんでいる。
器の中で揺れているのは、一粒の銀色の雫。
長い年月、傷ついた大地を癒す日を待ち続けていた聖霊王の力。
ルリスティは、その光を見つめた。
「聖霊王の涙……。」
銀の雫が応えるように、淡く輝いた。




