第83話 受け継がれた光
扉の向こうから聞こえる子守歌は、言葉として聞き取れるほど明瞭ではなかった。
声なのか。
水の流れる音が、そう聞こえているだけなのか。
それさえ分からない。
それでも、ルリスティの胸には確かな懐かしさがあった。
生まれた時から知っていたような、幼い頃、眠りへ落ちる前に何度も聞いたような。
けれど記憶を探しても、その歌を口ずさんでくれた者の顔は浮かばない。
「ルリスティ。」
ヴィオレットに呼ばれ、ルリスティは胸元の星を握ったまま姉を見た。
「聞こえますか。」
「歌のようなものが?」
「はい。」
ヴィオレットも扉へ耳を澄ませる。
「私にも聞こえます。」
ルシアンも耳を澄ませたが、やがて首を横へ振った。
「僕には水音しか聞こえません。」
「私もです。」
クルトワにも聞こえていない。
ジェイクが姉妹を見比べる。
「お二人にだけ届いているのでしょうか。」
「皇族の血か、加護へ反応しているのかもしれません。」
ルシアンは扉へ近づいた。
「少なくとも、この先はお二人へ向けて残された場所なのでしょう。」
扉には、一人の女性が刻まれている。
長い髪には白銀の鉱石が埋め込まれ、瞳には紫色の石が嵌め込まれていた。
腕には幼子。
その周囲には、人間と聖霊の子どもたち。
女性は、そのすべてへ同じ穏やかな眼差しを向けていた。
その下には、皇統古代文字でただ一言。
――我が子たちへ。
「開ける方法はありますか。」
ルリスティが尋ねる。
ヴィオレットは文字の周囲を調べたが、これまでのような装置は見当たらなかった。
「鍵を求めている扉ではないのかもしれませんね。」
ジェイクが告げる。
「では、何を?」
「呼びかけられた者が、それに応えることではありませんか。」
ルリスティは扉を見つめた。
我が子たちへ。
もし本当に、自分たちがその言葉の先へ繋がる者なら。
必要なのは力ではない。
遠い母の呼びかけへ、子が応えること。
ヴィオレットを見ると、姉も同じことを考えたらしい。
二人は言葉を交わさず、扉の前へ並んだ。
「ヴィオレット様。」
「はい。」
ルリスティは一度、息を整える。
扉の女性は、自分たちと同じ白銀の髪として表されている。
瞳には紫色の石。
偶然ではないと、胸元の星が告げているようだった。
「私たちは、あなたの声を聞きに来ました。」
ルリスティが告げると、ヴィオレットも続けた。
「失われた言葉を、受け取りに参りました。」
扉は動かない。
だが、向こうから聞こえていた子守歌が僅かに近くなった。
「歌が……。」
「はい。」
ルリスティは無意識にヴィオレットの手へ触れた。
指先が重なる。
ヴィオレットは驚いたものの、すぐに柔らかく握り返した。
扉から漏れた光が、二人の白銀の髪を照らす。
ルリスティの星が輝き、ヴィオレットの身体からも淡い紫の光が滲み出した。
二つの光が、繋いだ手を通じて重なる。
扉に刻まれた女性の瞳が紫色に輝き、
腕へ抱かれた幼子の胸には小さな星が浮かんだ。
低い音とともに、扉がゆっくりと左右へ開く。
水の香りを含んだ柔らかな風が流れ出した。
遠い昔の記憶が、息を吹き返したような風だった。
◇
扉の先は、これまでの広間よりも小さかった。
高い天井も、壮大な石柱もない。
中央には円形の水盤があり、その周囲へ低い石の椅子が並んでいる。
壁に刻まれているのは、戦いではなかった。
幼子を抱く母親。
子どもの手を引く父親。
食卓を囲む家族。
転んだ子どもを起こす大人。
泣く子へ寄り添う小さな聖霊。
遥か昔のものとは思えないほど、身近な暮らしだった。
「ここは……記録を保管する場所というより、家の中のようですね。」
ヴィオレットが室内を見渡す。
「王のための部屋には見えません。」
クルトワの言う通り、石の椅子にも目立った装飾はない。
ルシアンは、部屋に満ちる魔力を調べた。
「術式はありますが、封印や防御のためのものではありません。」
「何のためですか。」
ルリスティが尋ねる。
「記憶を残すためでしょう。」
その時、ルリスティの星から伸びた銀光が水盤へ触れた。
柔らかな子守歌が、部屋全体へ広がる。
今度は、ルシアンたちにも聞こえていた。
古い言葉の意味までは分からない。
それでも、幼子を眠りへ導く歌だということは誰にでも分かった。
「壁に文字があります。」
ヴィオレットが、水盤の奥にある碑文へ近づいた。
皇統古代文字。
これまで見たどの碑文よりも、丁寧で柔らかな線で刻まれている。
命令でも、歴史の記録でもない。
大切な相手へ宛てた手紙のような文字だった。
ヴィオレットは最初の一行を読む。
「『我が愛しき子らへ』」
声が僅かに震える。
ルリスティも姉の隣へ立った。
「読んでください。」
ヴィオレットは頷き、続きを読み上げる。
「『この言葉を読む頃、私はすでに、あなたたちの傍にはいないかもしれません』」
「『けれど、悲しまないでください。命の形が変わっても、
私たちが共に過ごした時間まで失われることはありません』」
母から子へ向けた言葉。
読み進めるほど、その事実が確かなものになっていく。
「『あなたたちが笑ったこと。初めて歩いたこと。
泣きながら、私の服を掴んだこと』」
ヴィオレットが次の一文へ目を移した。
「『父上の腕の中で眠ったこと』」
ルリスティの指が、胸元の星へ強く触れる。
父上。
アステリアの子どもたちにとっての父。
その人物が誰なのか。
答えは、もうほとんど示されていた。
クルトワが低く呟く。
「この方には、本当に子どもがいたのですね。」
神話の女神ではない。
人と共に暮らし、子どもを育てた一人の母。
ヴィオレットは続きを読む。
「『あなたたちの父は、不器用な人です。
誰よりもあなたたちを愛しているのに、上手く言葉にすることができません』」
あまりにも私的な言葉だった。
「『それゆえ、きっと剣の稽古や国のことばかりを教えようとするでしょう。
そのような時には、話が長いと笑って差し上げなさい』」
ルシアンが僅かに目を瞬き、ジェイクの口元にも薄い笑みが浮かぶ。
ヴィオレットの声にも温かさが混じった。
「『ですが、決してその愛を疑わないでください』」
「『あなたたちが生まれるたび、彼は夜が明けるまで眠りませんでした。
何度も寝台を覗き込み、息をしているか確かめていました』」
「『私が心配しすぎだと笑うと、あなたも同じだと返されました』」
ルリスティは思わずジェイクを見る。
目が合うと、彼が僅かに眉を上げた。
「何ですか。」
「……何でもありません。」
すぐに碑文へ視線を戻す。
けれど、ジェイクが倒れたあと、何度も呼吸を確かめた自分を思い出していた。
遥か昔の神話の人物だった二人が、急に身近な存在へ変わっていく。
ヴィオレットが次の言葉を読んだ。
「『あなたたちは、私と父上から、それぞれの色を受け継ぎました』」
姉妹が同時に息を呑む。
「『私と同じ白銀の髪や紫の瞳を持つ者もいれば、
父上に似た色を受け継いだ者もいます』」
「『白銀は、聖霊の光を映す色。紫の瞳は、命と命を繋ぐ星の色。
けれど、父上から受け継いだ色もまた、
あなたたちが家族から受け取った大切なものです』」
ヴィオレットは、ゆっくりと続きを読んだ。
「『どの色を受け継いだとしても、それを誇る必要はありません。
髪や瞳の色が、あなたたちを尊い者にするのではないのです』」
「『他者を愛し、守り、その幸いを願う心。
その心を持ち続ける限り、
受け継いだ光は、あなたたちの内で輝き続けるでしょう』」
ルリスティは、自分の白銀の髪へ触れた。
帝国では、皇族の証。
共和国では、神話の女神を表す色。
けれど、始まりから特別な者だけへ与えられた印ではなかった。
母に似た子もいた。
父に似た子もいた。
その中で、白銀の髪と紫の瞳もまた、長い時を越えて子孫へ受け継がれてきた。
ただの血の証ではない。
一つの家族の中で、親から子へ渡されていった色だった。
「皇族の白銀と紫は……。」
ヴィオレットが呟く。
「アステリアから受け継がれたものだったのですね。」
ルシアンも碑文を見上げる。
「では、皇族の加護も……。」
答えるように、まだ文章は続いていた。
ヴィオレットが読む。
「『私の子らよ。あなたたちには、聖霊を従わせる力はありません』」
全員の表情が変わった。
帝国では、皇族は強い聖霊の加護を受ける血筋とされている。
時には王権の証とも語られてきた。
だが、その始まりにいるアステリアは明確に否定していた。
「『聖霊は、誰にも従いません。
力によって命じることも、血によって支配することもできません』」
ヴィオレットは続ける。
「『あなたたちが受け継ぐものは、
命令する力ではなく、心から発した声を聖霊へ届けるための道です』」
「道……。」
ルシアンが息を呑む。
皇族へ受け継がれたものは、聖霊を従わせる力ではない。
人の心が、聖霊へ届くための繋がり。
「『人を愛し、人を守り、その幸いを願う心。
その声へ聖霊が自ら応えた時、人の願いは光となり、この世に奇跡をもたらす』」
水盤が淡く輝いた。
壁に描かれた人々と聖霊の姿が、一つずつ照らされていく。
傷ついた子どもへ手を差し伸べる者。
作物を分け合う者。
魔物の前へ立ち、大切な者を庇う者。
その願いへ、自らの意思で応える聖霊たち。
「『祝福は、他者を支配するための力にあらず』」
ヴィオレットの声が響く。
「『人の心と、応える聖霊の願いが重なった時に生まれる光。
その形は、人の願いと、声へ応えた聖霊によって異なるでしょう』」
ルリスティの胸元で、星が強く輝いた。
クリスティの太陽の祝福。
ルリスティの星の祝福。
歴代皇族へ現れてきた、さまざまな加護。
同じ血を継いでいても、その力が一人ずつ異なる理由。
始まりにあったのは、支配でも権威でもない。
それぞれの願いと、その声へ応えた聖霊の意思だった。
ルシアンが、先ほどの壁画を思い返す。
「だからアステリアは、聖霊を拘束した人間たちへ告げたのですね。
心を奪い、力だけを得ることはできないと。」
クルトワも深く息を吐いた。
「共和国では、女神の恵みは祈りによって与えられるものと考えられてきました。」
「帝国では、聖霊の加護は皇族の血へ宿るものと。」
ヴィオレットが続ける。
「どちらも、すべてが間違っていたわけではない。」
「ですが、本当の意味を半分ずつ失っていた。」
ルリスティは碑文を見つめた。
血によって受け継がれたのは、聖霊へ声を届ける道。
そこへ本人の願いと、応える聖霊の意思が重なる。
それが、皇族の祝福だった。
◇
碑文の中央には、小さな空白があった。
その先から、文章の調子が変わる。
これまでは、アステリア自身の子どもたちへ向けた言葉。
ここからは、さらに遠い未来へ。
ヴィオレットが読む。
「『そして、遥か先に生まれる我が子らへ』」
ルリスティが顔を上げた。
「『私の顔も、声も知らぬ者たち。
私を母と呼ぶこともない、遠い時代の子どもたちへ』」
水盤へ、二人の姿が映る。
白銀の髪。
紫水晶の瞳。
同じ血から生まれながら、異なる国で育った姉妹。
「『あなたたちが、どのような国を築いているのか、私には分かりません。
どのような名を名乗り、どのような言葉を話しているのかも知りません』」
ヴィオレットの声が僅かに震える。
「『けれど、あなたたちの心と聖霊を結ぶ道が、遠い時代にも残ることを願います』」
最後の部分は、他の文字よりも深く刻まれていた。
「『願わくは――この光が、遥か先に生まれる我が子たちの心にも宿らんことを』」
その瞬間。
ルリスティの胸元から銀の光が溢れ、ヴィオレットの身体を淡い紫の光が包んだ。
二つの光が水盤へ落ちる。
水面へ、一人の女性の姿が浮かび上がった。
白銀の髪。
紫水晶の瞳。
腕には幼い子ども。
聖霊王アステリア。
だが、その顔に王としての威厳はない。
眠る我が子を見下ろす、穏やかな母の表情だった。
やがてその隣へ、剣を腰に下げた人間の男が現れる。
男は不器用な手つきで子どもの頬へ触れた。
アステリアが何かを言う。
男が眉を寄せると、彼女は楽しそうに笑い、子どもを渡した。
男は緊張した様子で小さな命を抱く。
顔立ちは光に隠れている。
だが、腰にある剣の意匠は明瞭だった。
昇る太陽。
黎明の剣章。
長い外套。
腰の短剣。
左肩を留める円形の飾り。
これまでの碑文と、帝国に残る初代皇帝像の特徴。
そのすべてが、一つの名へ繋がった。
「……初代皇帝レオン一世。」
ヴィオレットの呟きは、もはや曖昧な推測ではなかった。
水の記憶の中で、男は子どもを抱いたままアステリアを見る。
彼女は、その肩へそっと頭を寄せた。
二人の関係にも、もう疑いの余地はない。
共に戦った者。
人間と聖霊の街を築いた者。
そして、夫と妻。
子どもたちの父と母。
水面の光景がゆっくりと薄れていく。
最後に、二人の手が重なった。
その間には、幼い子どもの小さな指。
静寂が戻った。
「聖霊王アステリアは……。」
ヴィオレットの言葉が止まる。
ルリスティが、その先を引き継いだ。
「初代皇帝レオン一世の妻。」
二人は同時に、自分たちの白銀の髪へ触れた。
「私たちの……。」
ヴィオレットの瞳へ、薄く涙が浮かぶ。
「始祖です。」
共和国で女神として語られてきた存在。
帝国では名を失った初代皇帝の伴侶。
その正体は、聖霊王。
レオン一世の妻。
そして、今を生きる皇族たちへ、
その血筋と、聖霊へ声を届ける道を繋いだ最初の母だった。
ルリスティは、水盤へ映る自分を見る。
白銀の髪。
紫水晶の瞳。
共和国では女神の色。
帝国では皇族の色。
そのどちらでもありながら、本当はもっと単純だった。
母から子へ。
子から、その先へ。
長い時間を越えて受け継がれた、家族の色。
「ルリスティ。」
ヴィオレットが呼ぶ。
ルリスティは姉を見る。
目元には涙が残っていた。
けれど、それは悲しみではない。
失われていた家族を、ようやく見つけた者の顔だった。
「私たちは、同じものを受け継いでいたのですね。」
「はい。」
ルリスティは、ヴィオレットの手へもう一度指を重ねる。
今度は、扉を開くためではない。
ヴィオレットが僅かに目を見開いた。
「ヴィオレット……。」
名前だけで、言葉が止まる。
姉と呼ぶには、まだ胸の中の何かが追いつかない。
けれど、以前のように「様」を続けることもできなかった。
ヴィオレットは急かさない。
ただ、妹の手を柔らかく握り返す。
「はい。ルリスティ。」
今日、名前だけを呼ぶことができた。
それで十分だった。
少し離れた場所では、ルシアンが目元を和らげて二人を見守っている。
ジェイクも、ルリスティの背中を静かに見つめていた。
クルトワは記録板を開いたまま、しばらく筆を動かせずにいる。
やがて深く息を吐いた。
「共和国史が……根底から変わります。」
「帝国史もです。」
ヴィオレットが答える。
「ですが、まずは最後まで知る必要があります。」
ルリスティは、水盤の奥へ続く細い通路を見た。
その壁に刻まれているのは、先ほどまでの穏やかな家族の姿ではない。
一人の女性が、星の光を三つへ分けている。
一つは、子どもたちへ繋がる光の道へ。
一つは、銀色の雫へ。
そして最後の一つは、女性自身の胸へ。
その傍らでは、人間の男が彼女の手を握っている。
ヴィオレットは、壁画の下にある文字を読んだ。
「『永遠を手放すのではありません』」
そして、続く一文。
「『あなたと同じ時を、生きることを選ぶのです』」
聖霊王アステリア。
永き時を生きるはずだった存在。
彼女は、聖霊王として持っていた力を三つの形へ分けた。
遥か未来の子孫へ残す道。
傷ついた大地を癒やすための、聖霊王の涙。
そして最後に残した僅かな光とともに、
聖霊王としての永い時を手放し、レオンと同じ時間を生きることを選んだ。
その選択が何をもたらしたのか。
答えは、通路の先に残されていた。




