第79話 隠された道
夜明け前。
旧監視所の内部には、すでに人の動く気配が満ちていた。
護衛兵たちは火を起こし、携行食や水袋を確認している。
クルトワは必要な観測器具を選び、革鞄へ詰め直していた。
監視所の外では、ルシアンとヴィオレットが周囲の魔力を調べている。
東の空は、薄い青から白へ変わり始めていた。
谷を囲む山々はまだ暗く、その輪郭だけが朝靄の向こうへ浮かんでいる。
「寒くありませんか。」
ルシアンが振り返る。
「大丈夫です。」
そう答えながらも、ヴィオレットは外套の襟元へ指を添えた。
ルシアンは何も言わず、自分の首へ巻いていた布を外す。
「では、念のために。」
「ルシアン。」
「谷へ入れば、もっと冷えるかもしれません。」
明るく告げ、ヴィオレットの首元へ布を巻く。
風が入らないよう丁寧に整える手つきに、迷いはなかった。
「僕は動けば温かくなりますから。」
すでに綺麗に巻かれてしまった布へ触れ、ヴィオレットは小さく息を吐く。
「……ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
ルシアンは満足そうに笑い、朝靄に包まれた谷へ視線を戻した。
監視所から続く古い山道は、途中で斜面へ突き当たり、左右へ分かれている。
昨夜、星の光が示した道筋はその先にあるはずだった。
だが、目の前には切り立った岩壁と深い森しか見えない。
「やはり、道があるようには見えませんね。」
ヴィオレットが目を凝らす。
「見えないようにされているのでしょう。」
ルシアンが片手を伸ばすと、指先から淡い光が広がった。
だが、数歩先で歪み、霧へ溶けるように消える。
「結界はあります。ただ、侵入者を弾くものではありません。」
「では?」
「目と意識を逸らすためのものでしょう。
道があると分かっていても、僕の魔力では正しい場所を捉えられません。」
背後から足音が近づいた。
ルリスティとジェイクだった。
ルリスティは旅装の上から濃紺の外套を羽織り、
首からは星のレリーフを下げている。
ジェイクの腰には、護身用の短刃だけが残されている。
「大佐。お身体に変化はありませんか。」
「ありません。痛みも、眩暈も、息苦しさも。」
淀みのない返答に、ルシアンが小さく笑った。
「すっかり慣れていらっしゃいますね。」
「毎日、同じ確認を受けていますから。」
「必要な確認です。」
ルリスティが僅かに眉を寄せる。
ジェイクは穏やかに頷いた。
「分かっています。異変があれば、すぐに伝えます。」
「必ずです。」
「約束します。」
ようやくルリスティが頷いた。
その様子を見ていたヴィオレットの口元へ、僅かな笑みが浮かぶ。
以前より、二人の距離は柔らかくなっていた。
ルリスティは心配を隠さず、ジェイクもそれを当然のように受け止めている。
「全員、揃いましたね。」
観測器具を抱えたクルトワが、護衛兵たちと共に監視所から出てきた。
「夜明けの光で変化が起きる可能性があります。
まずは、昨夜の碑文を確認しましょう。」
◇
煤けた石壁には、星と三本の波を組み合わせた紋章が残されていた。
昨夜は淡く輝いていたが、今は普通の彫刻へ戻っている。
ヴィオレットがその前へ立ち、ルリスティも隣へ並んだ。
クルトワとルシアンは少し距離を取り、周囲の魔力を観察する。
ジェイクは、何かが起きればすぐに動ける位置でルリスティの後方に立った。
ヴィオレットが碑文へ指先を触れる。
「『星を継ぐ子よ』」
静かな声が、薄暗い監視所へ響く。
「『失われし道を、恐れることなかれ』」
ルリスティの胸元で、星が淡く瞬いた。
「『水は記憶し、星は導く』」
銀の光がルリスティの指先を伝い、壁の紋章へ伸びていく。
「『二つの光が巡り会う時、隠されし湖への道は、再び開かれん』」
最後の言葉が響いた。
だが、道は現れない。
クルトワが水晶器を確認する。
「魔力は集まっています。ですが、何かが足りません。」
「二つの光……。」
ヴィオレットは碑文を見つめた。
その時、監視所の細い窓から朝日が差し込む。
最初の光が石床を横切り、壁の紋章を金色に照らした。
それでも、変化はない。
「夜明けの光ではないようです。」
クルトワが告げる。
ヴィオレットは、隣のルリスティを見た。
「これは、今ここへ二つの力を揃えよという意味ではないのかもしれません。」
「どういうことですか。」
「二つの光が、すでに巡り会ったことを示す必要があるのではないでしょうか。」
ルリスティの脳裏へ、一人の姿が浮かんだ。
自分と同じ白銀の髪。
同じ紫水晶の瞳。
遠く離れた場所で育ち、黒淵を越えて再会した双子の姉。
「クリスティ……。」
その名を口にした瞬間、胸元の星が強く瞬いた。
澄んだ銀の輝き。
その中心へ、温かな金色の光が灯る。
クリスティの太陽の祝福と巡り会ったあの日から、星の奥へ残されていた光だった。
「太陽と、星……。」
ヴィオレットが息を呑む。
銀と金。
二つの光が紋章の上で重なった。
低い音が監視所全体へ響く。
足元の青黒い石が光を帯び、
床へ刻まれた細い線が星座のように繋がりながら、外へ伸びていく。
「動きます!」
クルトワが水晶器を掲げた。
「基礎全体へ魔力が流れています!」
後世に積み直された灰色の石ではない。
その下にある青黒い基礎部分が、音もなく左右へ分かれていく。
奥から現れたのは地下階段ではなかった。
朝靄に包まれた、細い石の道。
岩壁を通り抜け、山の奥へ伸びている。
入口の空気は、水面のように静かに揺れていた。
「道が……。」
ヴィオレットが呟く。
ルリスティは胸元の星を握り、その先を見つめた。
昨夜の地図にだけ描かれていた、失われた谷。
その入口が、目の前へ開いている。
「結界が壊れたわけではありません。」
ルシアンが揺れる空気を観察する。
「僕たちが、道を認識できるようになったのです。」
「長い年月、道自体はここにあった。
しかし条件を満たさない者には、岩壁としか認識できなかった。」
クルトワの声には、隠しきれない興奮があった。
記録板へ手を伸ばしかけた彼へ、ルリスティが声を掛ける。
「中佐。記録は後です。」
「……承知しました。」
名残惜しそうに手を戻す。
開かれた道から伸びた光は、
ルリスティとヴィオレットの足元を照らし、ルシアンとクルトワへも細く繋がった。
最後に、ジェイクの手首を包む。
何かを確かめるように数度明滅し、やがて光が定着した。
一方、オリビアや護衛兵たちの前には透明な壁が残っている。
兵士の一人が手を伸ばすと、柔らかな光に押し戻された。
傷つけるのではなく、これ以上は進めないと静かに告げる結界だった。
「何を基準に選んでいるのでしょう。」
ルシアンが透明な壁へ手を添える。
クルトワは水晶器を確認したが、やがて首を振った。
「分かりません。ただ、この道が我々五人を受け入れていることは確かです。」
何が条件なのかは、まだ断定できない。
ただ、星を継ぐルリスティだけではなかった。
ヴィオレットも、ルシアンも、クルトワも、そしてジェイクも。
五人だけが、結界の向こうへ進むことを許されていた。
オリビアは不満そうにジェイクを見たものの、
結界を越えられない以上、同行はできない。
治療用品をルシアンへ預け、ジェイクへ改めて無理をしないよう念を押した。
「日没までに戻られない場合は、砦へ伝令を出します。」
護衛隊の指揮官が敬礼する。
「お願いします。」
ルリスティは必要最低限の食料と水を確認した。
ジェイクが荷物へ手を伸ばしかける。
その瞬間、ルリスティの視線が向いた。
彼は何も言わず、手を戻す。
代わりにルシアンが荷物を受け取った。
「僕が持ちます。大佐は歩くことへ集中してください。」
「あなたまで司令側ですか。」
「無理をしたら、四人で止めることになっています。」
「それは勝ち目がありませんね。」
「最初から無理をしなければよいのです。」
ルリスティが告げると、ジェイクは素直に頷いた。
「承知しました。」
◇
最初に結界を越えたのは、ルリスティだった。
揺れる空気の中へ一歩踏み込む。
冷たい水へ全身を通したような感覚が走り、思わず目を閉じた。
次の瞬間。
頬へ柔らかな風が触れる。
目を開くと、そこにあったのは、外から見えていた岩壁ではなかった。
細い石畳の道が、深い谷の奥へ伸びている。
両側には銀色を帯びた草が生い茂り、その間には小さな青い花。
朝露を宿した花弁が、星のように淡く輝いている。
頭上を覆う木々は深い緑色だが、葉の裏側だけが白銀に光っていた。
風が吹くたび、谷全体が静かな光の波に包まれる。
ルリスティは言葉を失った。
長い年月、人の目から隠されていた場所。
だが、荒れ果ててはいない。
まるで、誰かに守られ続けてきた庭のようだった。
背後で空気が揺れ、ヴィオレットが姿を現す。
続いてルシアン、クルトワ、ジェイク。
目の前の景色を見たヴィオレットが息を呑んだ。
「綺麗……。」
その声が、静かな谷へ落ちた。
鳥の声はしない。
獣が草を踏む気配もない。
ただ、風と水の音だけが遠くから聞こえていた。
「魔物の気配はありません。」
ルシアンが周囲を見回す。
「それどころか、生き物の気配そのものが極端に少ない。」
クルトワは銀色の草へ近づき、触れないよう観察した。
「外部から隔離されていたのでしょう。
植物も、共和国で確認されているものとは少し異なります。」
「採取しますか。」
「今は控えます。」
クルトワは首を振った。
「この場所の均衡を崩す可能性があります。まずは遺構の性質を確認すべきです。」
ルリスティは胸元の星へ触れた。
レリーフは、谷へ入った瞬間から淡い光を放ち続けている。
星の先端は、石畳の続く方向を示していた。
「進みましょう。」
一行は、ルリスティを先頭に谷の奥へ歩き始めた。
◇
石畳は古く、所々を苔や木の根に覆われていた。
それでも、人が通れないほどには崩れていない。
ルリスティのすぐ後ろをジェイクが歩き、その後ろにヴィオレットとルシアン。
最後尾にはクルトワが続く。
やがて道は緩やかな上り坂になった。
ジェイクの歩調が、ほんの僅かに遅くなる。
ほとんどの者なら見落とすほどの変化。
だが、ルリスティはすぐに足を止めた。
「一度、周囲を確認します。クルトワ中佐、この辺りの魔力を調べてください。」
「承知しました。」
クルトワが水晶器を取り出す間に、ルリスティは道脇の平らな石を示す。
「大佐は、ここで周囲の警戒をお願いします。」
司令としての声音だった。
ジェイクは何かを言いかけたが、
意図を察したように口元を緩め、素直に腰を下ろす。
ルリスティは痛みと疲労を確認した。
痛みはない。
だが、疲れは僅かにある。
今回は正直な返答だった。
「無理をする前に、止めていただきました。」
「本来は、自分で止まるべきです。」
ルリスティが差し出した水袋を、ジェイクは小さく笑って受け取る。
「次からは気をつけます。」
「次からも、です。」
「承知しました。」
少し離れた場所では、
クルトワとルシアンが水晶器を確認し、ヴィオレットも道端の石柱を調べている。
ルリスティはジェイクの隣へ腰を下ろした。
肩が触れないほどの、僅かな距離。
しばらくして、彼の外套の袖へ指先を触れさせる。
ジェイクはその小さな接触へ気づいた。
すぐには手を取らない。
ルリスティが離れないことを確かめてから、石の上へ置いた指を僅かに動かした。
指先が重なる。
「心配をかけましたか。」
「……少し。」
「申し訳ありません。」
「謝るくらいなら、無理をしないでください。」
「無理はしません。」
ルリスティは、念を押すように彼を見る。
「約束です。」
ジェイクは重なった指を僅かに曲げた。
「はい。あなたの後ろを歩けなくなるような真似はしません。」
ルリスティは答えなかった。
ただ、その指先を引くこともしなかった。
◇
休憩を終え、再び道を進む。
やがて木々の間から、細い水の流れが現れた。
岩の隙間から湧き出した水が、石畳の横を並走するように流れている。
水は驚くほど澄み、底の白い小石まで見えた。
クルトワがしゃがみ込む。
「自然にできた水路ではありません。」
水辺には、規則正しく削られた青黒い石。
旧監視所の基礎と同じ石材だった。
「水路そのものにも、微弱な魔力が流れています。」
ルシアンの言葉へ応じるように、ルリスティの星が一度瞬いた。
水面にも同じ光が映り、銀色の線となって谷の奥へ走っていく。
「『水は記憶し、星は導く』」
ヴィオレットが、碑文の言葉を呟く。
「この水が、遺構までの道を覚えているのでしょうか。」
「比喩ではなかった可能性があります。」
ルシアンは流れを観察する。
「帝国には、水へ魔力や記憶を留めたという古い伝承があります。
ただ、術式そのものは残っていません。」
クルトワも続けた。
「共和国では、水晶や金属へ魔力の痕跡を残す技術はありますが、
水そのものを媒体とする方法は確認されていません。」
仕組みは分からない。
だが、水路が星の光へ反応していることだけは確かだった。
一行は水の流れに沿って進んだ。
道は次第に広くなり、古い石柱が一定の間隔で現れ始める。
刻まれているのは、星と波だけではなかった。
花。
木々。
翼を持つ小さな人影。
炎や風を思わせる渦。
ルシアンが一つの石柱へ近づく。
「これは、聖霊を表しているのかもしれません。」
「聖霊?」
クルトワが聞き返した。
「帝国では、自然の力には意思を持つ存在が宿ると考えられています。
火、水、風、大地。皇族の加護も、聖霊に由来するとされています。」
「単なる魔力現象ではなく、意思を持つ存在として?」
「はい。ただ、現代で直接姿を見た者はほとんどいません。
帝国でも、信仰や古い学説として残っているものです。」
クルトワは石柱の小さな人影を見る。
「共和国の古い神話にも、女神に仕える光の子どもたちという表現があります。」
「同じものを、異なる言葉で伝えていたのかもしれませんね。」
その時、ヴィオレットが隣の石柱へ目を留めた。
風雨に削られてはいるが、皇統古代文字が残っている。
「読めますか。」
ルリスティが傍へ寄る。
「一部だけです。」
ヴィオレットは慎重に文字を追った。
「『星と水の記憶を守る庭』」
ルリスティは周囲を見回す。
銀の草。
青い花。
白銀の葉を持つ木々。
確かに、軍事施設や研究所より、誰かが大切に守ってきた庭に見える。
ヴィオレットはさらに読む。
「『訪れし者よ。命あるものを傷つけることなかれ』」
クルトワが、観察していた草から僅かに距離を取った。
「採取を控えて正解でした。」
ルシアンも頷く。
「この場所は、侵入者を傷つけるためではなく、
何かを守るために隠されていたのでしょう。」
ルリスティは胸元の星を見下ろした。
漆黒の魔導銃へ変わる星。
その力が導いた先にあるのは、争いのための施設ではない。
命を守る庭。
そのことに、不思議な感覚を覚えた。
◇
石畳の終わりへ辿り着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
木々が途切れ、目の前に大きな岩壁が現れる。
中央には、巨大な石門。
青黒い石で造られた扉には、湖を囲む星々の彫刻。
その左右には、翼を広げた小さな存在や、花と木々、人間らしき姿が刻まれていた。
門の前には浅い水盤がある。
谷を流れてきた水路はそこで終わり、澄んだ水を静かに湛えていた。
風はないのに、水面には小さな波紋が絶えず広がっている。
五人は、門の前で足を止めた。
「ここが……。」
ルリスティの胸元で、星が強く光る。
銀光が水盤へ落ち、星の形をした波紋を作った。
石門には、複数の文字が刻まれている。
クルトワが左側へ近づいた。
「こちらは、共和国の古代文字です。」
「読めますか。」
「一部は。」
クルトワは、風化した文字を追う。
「『星と湖を守る者。豊穣をもたらす母……』」
途中で言葉を止めた。
目を見開き、もう一度文字を確認する。
「中佐?」
クルトワは、信じ難いものを見るように門を見上げた。
「最後に、名が刻まれています。」
共和国では、子どもでも知っている名。
遥か昔から語り継がれ、神話の中にしか存在しないと考えられてきた女神。
クルトワが、その名を読み上げる。
『アステリア。』
その瞬間、水盤の水が淡い銀色に輝いた。
ヴィオレットとルシアンが息を呑む。
ルリスティは、門へ刻まれた文字を見つめたまま動けなかった。
星と湖と豊穣を司る、共和国神話の女神。
その名を実在した者のものだと考える者はいない。
だが今、その名を刻んだ石門が確かに目の前にある。
「アステリアの遺構……。」
ルリスティが呟く。
胸元の星が、答えるようにもう一度瞬いた。
長い年月、世界から切り離されていた谷の最深部。
そこで、神話の中へ埋もれていた者の名が、初めて歴史の前へ姿を現した。




