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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第五章 星と黎明の記憶
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第78話 旧監視所の夜

旧監視所は、長い年月を経て半ば廃墟となっていた。


石造りの外壁には蔦が絡み、見張り台へ続く階段の一部も崩れている。

それでも一階部分の壁と屋根は残り、雨風をしのぐには十分だった。


辺境防衛軍の兵士たちは内部の安全を確認すると、

床に積もった砂や枯れ葉を掃き出し、寝泊まりの準備を始める。


その傍らで、クルトワは荷物を下ろすより先に、

小型の観測器を壁や床へ当てていた。


「中佐。」

ルリスティに呼ばれ、クルトワが振り返る。

「何か見つかりましたか。」


「監視所そのものから、強い魔力は検出されていません。

ただ……この建物は、共和国軍が一から建てたものではありませんね。」

「旧王国時代の建造物を改修したと、記録にはあります。」


「外観は一致します。しかし、土台だけが明らかに古い。」

クルトワは床と壁の境へしゃがみ込んだ。


壁に使われた灰色の石。

その下にある青黒い石。

色も質感も、明らかに異なっている。


「上部は後世に積み直されたものでしょう。ですが、

この基礎には継ぎ目がほとんどありません。岩盤を直接削ったか、あるいは――」

「魔導術で、一つの形へ成形した。」

ルシアンが隣へしゃがみ込み、青黒い石へ慎重に魔力を流す。


やがて、僅かに首を傾けた。

「ほとんど反応しません。ただ、完全に拒んでいるわけでもないようです。」

「何か感じますか。」

「こちらの魔力を受け入れるか、見極めているような……妙な感覚ですね。」

クルトワはすぐに記録板へ書き留めた。


ルリスティは二人の会話を聞きながら、胸元の星へ触れる。

到着した時には淡く光っていたレリーフも、今は沈黙していた。


この周辺に何かがある。

それだけは間違いない。

だが、入口も道も見つからない。


「本格的な調査は明朝から行います。」

ルリスティが告げた。

「間もなく日が沈みます。

地形も把握できていない状態で、暗闇を進むのは危険です。」


「賛成です。」

クルトワが立ち上がる。

「今夜のうちに、過去の記録と周辺地形を照合しておきます。」


「僕は基礎と、崩落の危険がある場所を確認します。」

「お願いします。」


その時、入口から声がした。

「司令。」


振り向くと、ジェイクが小さな革袋を持って立っていた。

ルリスティの視線が、その袋から彼の顔へ移る。


「大佐。それを置いてください。」

「毛布が入っているだけです。」

「中身の問題ではありません。」

「十歩ほど運んだだけですが。」

「可能な限り身体を休めるよう、言われていたはずです。」


ジェイクは手元の袋を見下ろした。


重くはない。

だが、ルリスティの表情を見る限り、理屈を並べても無駄だろう。


「分かりました。」

素直に床へ置く。

近くにいた兵士が慌てて駆け寄った。


「申し訳ありません、大佐。自分が運びます。」

「頼む。」


兵士が袋を抱えて去ると、ジェイクは空になった両手を僅かに広げた。


「これでよろしいですか。」

「はい。」

「随分と厳重に監視されていますね。」

「大佐に限っては、必要な措置です。」

「嫌ではありませんが。」


小さく笑われ、ルリスティは何か言い返しかける。

だが、すぐ近くにクルトワとルシアンがいることへ気づき、口を閉じた。


「休憩場所を確認してきます。」

それだけ告げて奥へ向かう。


ジェイクが当然のように後を追おうとしたところで、ルシアンが隣へ並んだ。


「大佐は、さすがに余裕がありますね。」

「何の話ですか。」

「今のです。

僕なら、あれほど心配していただいたら、嬉しさが全部顔へ出てしまいます。」

「あなたは、隠す必要がないでしょう。」


ジェイクが視線を向けた先では、

毛布を確認していたヴィオレットがちょうど顔を上げていた。

ルシアンが嬉しそうに手を振る。

ヴィオレットは困ったように微笑みながら、小さく振り返した。


「確かに、隠せていませんね。」

ジェイクがそう言うと、ルシアンは悪びれもせず笑った。

「隠す気もありません。」

「なら、見習う必要もなさそうです。」


ルシアンは少し考え、素直に頷いた。

「そうかもしれません。」


二人は顔を見合わせ、僅かに笑った。


◇


日が沈む頃には、監視所の内部も最低限寝泊まりできる状態になっていた。

中央の広間には火が焚かれ、その周囲へ簡素な椅子や木箱が並べられている。


夕食後、ジェイクはオリビアの診察を受けた。

発熱もなく、傷にも変化はない。

ただし翌日の歩行は短距離に限り、痛みや息苦しさがあれば即座に調査から外す。

そう念を押され、ジェイクは反論しかけた。


だが、少し離れた場所でルリスティが頷いているのを見て、

諦めたように口を閉じた。


その後、広間ではクルトワの広げた古い地図を全員で囲んでいた。

「旧監視所から谷へ続く道は、少なくとも三本あります。」

クルトワが地図へ線を引く。

「現在も通れる可能性があるのは中央だけです。

東側は崖崩れ、西側は森に呑まれています。」


「光が目撃された場所に近いのは?」

「中央です。ただ、記録に不自然な点があります。」

年代の違う二枚の地図が並べられた。

「こちらは約百八十年前。もう一方は、約百二十年前です。」


ルシアンが見比べる。

「谷が一つ消えていますね。」


古い地図には、中央の山道から南へ分岐する細い谷。

だが、後世の地図には何も描かれていない。


「地形が変わった可能性は?」

「大規模な崩落や地震の記録はありません。」


ヴィオレットが地図へ顔を近づける。

「古い地図の誤りでしょうか。」


「さらに古い複数の地図にも、同じ谷があります。」

クルトワの答えを受け、ルシアンが空白を指でなぞる。

「谷が消えたのではなく、認識できなくなった可能性があります。

幻惑か、意識を逸らす結界かもしれません。」


ルリスティの指が、星のレリーフへ伸びた。

だが、まだ反応はない。


「明日は中央の道を進みます。」

「承知しました。」

クルトワが地図を畳もうとした時、ヴィオレットがある一点へ目を留めた。


「少し待ってください。」

消えた谷の入口近く。

そこには、小さな記号が書き込まれていた。

星の下へ、三本の波線を重ねたような印。


「この記号を、どこかで見たことがあります。」

「帝国でですか。」

クルトワが尋ねる。


「おそらく。」

ヴィオレットは形を追いながら、記憶を探る。

「皇族の古い儀礼書に、よく似た印が使われていました。

詳しい意味までは伝わっていませんが……。」


ルシアンも覗き込む。

「聖霊文字に似ていますが、文字そのものではなさそうですね。」

「共和国の古代文字でもありません。」


「何を表す印か、分かりますか。」

ルリスティに尋ねられ、ヴィオレットはしばらく考えた。


「確か……『導き』や『帰還』に関する儀式で使われていたと思います。」

「帰還……。」

ルリスティの指が、胸元の星へ触れた。


その瞬間。

レリーフが淡く輝いた。

火とは異なる、冷たく澄んだ銀光。

そこから伸びた細い光が、地図の記号へ重なる。


誰も声を発しなかった。

星と波が重なった瞬間、古い地図の上へ淡い光の線が走る。

描かれていなかった細い道筋が、谷の奥へ向かって浮かび上がった。


「これは……。」

ルシアンが身を乗り出す。


クルトワはすぐに記録板を引き寄せた。

「消えた谷へ続いています。」


光の線は中央の山道から外れ、何も記されていない斜面を通り抜けている。

そして最奥で、小さな湖のような円を描いて止まった。


「この場所に湖はありません。」

クルトワが告げる。

「少なくとも、現在の地図には。」


「過去には?」

「確認できる記録にも残っていません。」


ヴィオレットは、光る円を見つめていた。

この三か月、共和国側の伝承を調べる中で知った一つの名が脳裏へ浮かぶ。


アステリア。

星と湖に結び付けて語られる、共和国神話の女神。

だが、今はまだ口にするには証拠が足りなかった。


「明日は、この光が示した道を探します。」

ルリスティが告げる。

「中央の山道から分かれる地点までは既存の道を進み、

その先はクルトワ中佐とルシアン殿に魔力の流れを確認していただきます。」


「承知しました。」

「任せてください。」


やがて星の光は消え、地図には古い線だけが残った。

それでも、隠された道筋は全員の記憶へ刻まれていた。


◇


打ち合わせの後。

ルリスティとヴィオレットは、監視所の一角に用意された寝室へ入った。

元は兵士の休憩室だったらしく、狭い室内に簡素な寝台が二つ並んでいる。


ルリスティが外套を脱ごうとすると、

銀鎖が留め金へ引っ掛かり、胸元の星が揺れた。


「お待ちください。髪と鎖が絡んでいます。」

ヴィオレットが背後へ回り、白銀の髪をそっと持ち上げる。

「痛くありませんか。」

「大丈夫です。」


慎重に鎖を外す。

絡まりは解けたが、持ち上げた髪が少し乱れていた。

ヴィオレットが手を止めていると、ルリスティが肩越しに振り返る。


「……整えていただいても構いません。」

「よろしいのですか。」

「はい。」


ヴィオレットはゆっくりと妹の髪へ指を通した。

絡まりを解き、背中へ真っ直ぐ流していく。

その手つきは、幼い頃に何度も夢見たものより、ずっと慎重だった。


「できました。」

「ありがとうございます、ヴィオレット様。」


向き直った二人の視線が重なる。

ヴィオレットは何かを言いかけたが、

急いではいけないと思い直して静かに微笑んだ。

ルリスティも、ほんの僅かに口元を緩める。


「明日は、長く歩くことになるのでしょうか。」

「おそらく。」

「マルセリア大佐のお身体は、大丈夫でしょうか。」


ルリスティの表情へ、ごく薄い不安が浮かんだ。


「本人は問題ないと言っています。」

「信じていらっしゃらないのですね。」

「大佐は、自分の怪我に関してだけは信用できません。」


あまりに迷いのない答えに、ヴィオレットが僅かに笑う。


「ですが、ルリスティの言葉なら聞いてくださるのでしょう?」


ルリスティはすぐには答えなかった。

やがて、胸元の星へ視線を落とす。


「……もう二度と、あの人を失いかけるのは嫌なのです。」


小さな声だった。

ヴィオレットは驚いたように妹を見つめ、それからそっと手を重ねた。

「大丈夫です。」


ルリスティが顔を上げる。


「マルセリア大佐は、ルリスティの傍へ戻ろうと、生き抜かれたのでしょう。」


いつでも離れられるような、柔らかな触れ方だった。


「それに今は、私たちもおります。無理をなさるようなら、皆で止めましょう。」

「……はい。」

ルリスティの手が、ほんの少し姉の指へ重なった。


「おやすみなさい、ルリスティ。」

「おやすみなさい、ヴィオレット様。」


呼び方は、まだ変わらない。

それでも二人の間にあった遠慮は、少しずつ薄れ始めていた。


◇


深夜。


監視所の広間では、火が小さくなっていた。

ルシアンとクルトワは隣室で休み、護衛兵たちも交代で見張りについている。

ジェイクは壁際の簡易寝台へ横たわっていたが、眠りは浅かった。


やがて静かな足音が近づく。

目を開けると、外套を羽織ったルリスティが立っていた。


「起こしましたか。」

「いいえ。」


身体を起こそうとするジェイクを、ルリスティがすぐに制する。

「そのままで構いません。今は休息時間です。」


ジェイクの口元が緩んだ。

「では、ルリスティ。」


彼女は僅かに目を伏せたものの、以前ほど大きく動揺しなかった。

寝台の隣にある木箱へ腰を下ろす。


「眠れないのですか。」

「少し、星が気になって。それと、大佐の様子を確認しに来ました。」


ルリスティは痛みや息苦しさを尋ね、差し出された手首へ指を添えた。

熱も脈も問題ない。


「これで安心できましたか。」

「……分かりません。」


手を離し、星のレリーフを見る。


「明日、何があるのでしょう。

私の力に反応した場所なのに、私はこの星について何も知りません。」

「知るために行くのでしょう。」

「怖くはないのですか。」


ジェイクは少し考え、静かに答えた。

「怖くないと言えば、嘘になります。

何が待っているのか分からない場所へ進むのですから。」


予想していなかった返答に、ルリスティが彼を見る。

「それでも、行くのですね。」

「あなたが進むと決めたなら。」

迷いのない声だった。


「俺は、あなたが戻れるように傍へいます。」

ルリスティの瞳が僅かに揺れる。

「大佐は、そういうことを簡単に言いますね。」


「簡単ではありません。」

ジェイクは真っ直ぐに彼女を見た。

「あなたの傍へ立つと決めた時から、考えてきた答えです。」

それ以上の説明はなかった。


自分が彼女の傍にいること。

その選択に迷いがないこと。

今は、それだけで十分だった。


「……ありがとうございます。」

ルリスティの肩から僅かに力が抜けた。


その時。

胸元の星が、ごく淡く明滅した。

ルリスティが顔を上げる。

星の先端は、監視所の奥にある崩れかけた石壁へ向いていた。


「大佐。」

「ええ。」


二人は壁へ近づく。

煤けた石が隙間なく積まれているだけに見えた。


だが、ルリスティが表面へ触れた瞬間、星が強く光る。

銀光の中へ、細い線が浮かび上がった。

星。

その下に、三本の波。


夕食時に地図で見つけたものと、同じ紋章だった。


「ここにも……。」


ルリスティが呟く。


異変に気づき、ルシアンとクルトワが駆けつけた。

続いてヴィオレットとオリビアも姿を見せる。


「どうしましたか。」


ルリスティが壁を示した。

ヴィオレットは紋章の前へ立ち、息を呑む。

その下には、さらに細かな文字が刻まれていた。


クルトワが水晶灯を近づける。

「共和国の古代文字ではありません。」


ルシアンも文字を確認した。

「聖霊文字に近いですが、僕にも読めません。」


ヴィオレットだけが、言葉を失ったように立っていた。

「ヴィオレット様?」

ルリスティが呼ぶ。


やがてヴィオレットは、確かめるように文字の形を追った。

「……読めます。」


全員の視線が集まる。


「これは、帝国皇族へ伝えられている古い文字です。」

「なぜ、その文字が共和国側の監視所に?」

クルトワの問いに、ヴィオレットは答えられなかった。


皇統へ秘かに伝えられてきた文字。

古い儀礼書や誓約文の一部にだけ残されたもの。

その文字が、共和国辺境の石壁へ刻まれている。


ヴィオレットは、ゆっくりと読み上げた。


「『星を継ぐ子よ』」


ルリスティの手が、胸元のレリーフを握る。


「『失われし道を、恐れることなかれ』」


静かな監視所へ声が響く。


「『水は記憶し、星は導く』」


そして、最後の一文。

「『二つの光が巡り会う時、隠されし湖への道は、再び開かれん』」


沈黙が落ちた。


帝国皇族へ伝わる文字。

共和国に残る星と湖の伝承。

ルリスティへ継承された星の祝福。

別々に存在していたものが、少しずつ繋がり始めている。


クルトワはすぐに碑文を書き写した。

ルシアンは石壁へ手を添え、残された魔力を確かめる。

「ただの道標ではないと思います。」


「どういうことですか。」

ルリスティが尋ねる。


「この場所そのものが、隠された道へ至る仕掛けの一部なのかもしれません。

星の力で紋章を現し、そこに残された言葉を読む。

少なくとも、その二つが何らかの条件になっている可能性は高いでしょう。」


「では、明日になれば。」

「何らかの変化が起きる可能性があります。」


クルトワが壁を見上げる。

「誰にも見つけられなかったのではない。」

その声には、学術的な興奮と未知への畏れが混ざっていた。

「条件を満たす者が訪れるまで、道そのものが隠されていたのです。」


ルリスティはヴィオレットを見る。


自分が星を目覚めさせた。

だが、碑文を読めたのはヴィオレットだけ。

どちらか一人では、ここまで辿り着けなかった。


「ヴィオレット様。」

「はい。」

「来ていただいて、よかったです。」

飾り気のない、率直な言葉だった。


ヴィオレットの瞳が僅かに揺れる。

「私も……ここへ来ることができて、よかったと思います。」


姉妹の間に、静かな微笑みが交わされた。


その背後ではルシアンが嬉しさを隠せず、ヴィオレットを見つめている。

ジェイクもルリスティのすぐ隣に立ち、何も言わずその表情を見守っていた。


星と水の紋章は、石壁の上で淡く輝き続けている。

夜が明ければ。

長い間隠されていた谷への道が、彼女たちの前へ姿を現すかもしれない。


星が示した場所は、もうすぐそこまで迫っていた。


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