第77話 星を追う者たち
旧防衛線に残された魔力観測器が異常を記録し、
監視兵が夜空へ立ち昇る光の柱を目撃してから、三か月が過ぎた。
異変が起きたのは、ジェイクがルリスティを庇って重傷を負い、
ルリスティの星の祝福が初めて目覚めた夜とほぼ同時刻だった。
この三か月、クルトワを中心とする先行調査班は、
長く使われていなかった旧街道の状態を確認し、
光が現れた地点までの経路を絞り込んできた。
街道は各所で崩れ、軍用地図へ記された地形も長い年月の中で変化している。
魔物の生息域や古い結界の有無を調べ、
安全な経路を確保する作業には予想以上の時間を要した。
その間、帝国からも新たな報告が届いている。
帝国側の一行が帰還してから三週間後。
クリスティの太陽の祝福へ応じるように、
初代皇帝レオン一世へ繋がる地下遺構が開かれたという。
ならば、共和国側で確認された異変もまた、
ルリスティの星の祝福へ反応したものではないか。
確証はない。
それでも、ルリスティの胸元にある星のレリーフは、
光が目撃された場所を記した地図へ近づけるたび、淡い温もりを帯びた。
旧街道の安全確認が終わり、必要な観測器具も揃った。
ようやく、本格的な調査隊を送り出せる段階へ至ったのだ。
夜明け前。
辺境防衛軍本部では、
黒淵の共和国側北東域へ向かう一行の出発準備が進められていた。
◇
卓上には、黒淵周辺で確認された魔物の出現地点を記した地図が広げられていた。
以前はほとんど毎日のように増えていた印も、
黎明の道が現れてからは目に見えて減っている。
黒淵から現れる魔物の数は少なくなり、大規模な襲撃も起きていない。
脅威が消えたわけではない。
それでも、常に戦闘を想定していた前線には僅かな余裕が生まれていた。
ルリスティは地図から顔を上げ、向かいに立つガレスを見る。
「私たちが不在の間、本部と前線の指揮をお願いします。」
「ああ。任せておけ。」
今回の調査には、ルリスティに加え、
第一部隊長のジェイクと第二部隊長のクルトワも同行する。
主要な指揮官が同時に本部を離れる以上、
長く前線を支えてきたガレス以上に、留守を任せられる者はいなかった。
「魔物の動きは静かだ。
だが、警戒を緩めるつもりはない。何かあれば、すぐに伝令を出す。」
「お願いします。」
ルリスティは頷いたものの、視線はしばらく地図へ残っていた。
ガレスが呆れたように笑う。
「心配するな。お前が戻るまで、ここは俺たちが守る。」
「心配しているわけではありません。」
「そういうことにしておいてやる。司令が留守の間くらい、古参兵を信用しろ。」
からかうような口調だったが、その目は真剣だった。
ルリスティは短く沈黙したあと、地図を畳む。
「……信用しています。」
「なら、向こうのことだけ考えてこい。」
ガレスは、ルリスティの首元で揺れる銀色のレリーフへ視線を向けた。
「星が呼んでいるんだろう。」
ルリスティの手が、星のレリーフへ触れる。
「何があるのか、確かめてきます。」
「ああ。こっちは任せろ。」
ルリスティは地図をガレスへ預け、司令室をあとにした。
◇
本部の外では、二台の馬車へ魔力観測器や測量器具、
簡易結界を展開するための魔導杭が積み込まれていた。
兵士たちが食料と装備を確認する傍らで、
ジェイクは医療兵のオリビアから最後の注意を受けている。
ひと月ほど前まで身体を支えていた車椅子は、もう必要ない。
短い距離なら以前と変わらない足取りで歩けるものの、
完全に回復したわけではなかった。
長時間歩けば体力を消耗し、傷の深かった箇所には鈍い痛みも残る。
戦闘訓練への復帰も、まだ許可されていない。
今回の移動は馬車を基本とし、徒歩での行動にも厳しい制限が設けられていた。
オリビアが差し出した同行許可書へ目を通し、ジェイクが眉を寄せる。
「休憩の間隔まで指定されるんですか。」
「大佐がご自分で適切に休める方なら、ここまで細かく決める必要はありません。」
「無茶をするつもりはありませんよ。」
オリビアは何も答えず、ジェイクを見つめた。
少し離れた場所にいたガレスも、同じような目を向けている。
「……必要な時には休みます。」
「必要かどうかを判断するのは、同行する私と司令です。」
「俺の意見は?」
「参考にはします。」
「参考にしかならないんですか。」
「これまでの実績を踏まえた判断です。」
オリビアは平然と答え、許可書をルリスティへ渡した。
長時間の歩行は禁止。
移動は馬車を優先すること。
戦闘行為は禁止。
疲労や発熱、傷の痛みが確認された場合は、
本人の意思にかかわらず行動を中止させること。
最後の一文には、二重の下線まで引かれていた。
「内容は確認しました。」
ルリスティが許可書を閉じる。
「マルセリア大佐。」
「はい。」
「記載された条件には、必ず従っていただきます。」
「分かっています。」
「戦闘行為は禁止です。危険が迫った場合も。」
ジェイクの返答が、一瞬遅れた。
ルリスティは静かに彼を見る。
「魔導銃は預かります。護身用の短刃だけにしてください。」
「そこまでする必要がありますか。」
「あります。」
「ですが――」
「預かります。」
有無を言わせない声だった。
ジェイクはしばらくルリスティを見つめ、やがて腰の魔導銃を外す。
「……司令がそこまで仰るなら。」
ルリスティは差し出された銃を近くの兵士へ預けた。
「大佐は警護要員ではありません。
現地での判断と、旧防衛線に関する情報提供をお願いします。」
「承知しました。」
その様子を見ていたガレスが低く笑う。
「諦めろ、マルセリア。お前は司令に余計な心配をかけるな。」
「善処します。」
「善処ではなく、言うことを聞け。」
「……分かりました。」
そこへ、ヴィオレット、ルシアン、クルトワが本部から出てきた。
ヴィオレットは動きやすい旅装の上から白い外套を羽織り、
ルシアンも長距離移動を想定した簡素な服装をしている。
「ルリスティ。」
ヴィオレットが自然に妹の名を呼んだ。
敬称も役職もない呼び方は、この三か月ですっかり馴染んでいる。
「何が見つかったとしても、一人で抱え込まないでください。」
「はい。ヴィオレット様も。」
「ええ。」
姉妹が頷き合う。
その隣では、ルシアンがヴィオレットの鞄へ手を伸ばした。
「ヴィオレット様。そちらは僕が持ちます。」
「自分で持てます。」
「知っています。でも、僕が持ちたいんです。」
ヴィオレットは小さく息を吐きながらも、鞄を預けた。
クルトワのもとへ、護衛隊と観測班から準備完了の報告が届く。
ルリスティは全員を見渡した。
「では、出発しましょう。」
◇
二台の馬車は、朝の街道を黒淵北東部へ向かって進んでいた。
先頭の馬車には、クルトワと観測器具を扱う兵士たち。
後方の馬車には、
ルリスティ、ジェイク、ヴィオレット、ルシアンが向かい合って座っている。
オリビアは護衛兵と共に御者台へ乗り、
休憩のたびにジェイクの状態を確認することになっていた。
本部周辺の建物が次第に遠ざかり、窓の外には広い農地と低い丘陵が続いている。
馬車が窪みを越えるたび、車体が規則的に揺れた。
ジェイクは進行方向を向く座席へ背を預けていた。
長時間同じ姿勢を取ることが負担なのか、時折僅かに座り直している。
そのたびに、ルリスティの視線が彼へ向いた。
四度目に、ジェイクが口元を緩める。
「司令。俺の様子を確認するのは、今ので四回目です。」
「確認などしていません。」
「そうですか。」
目には明らかな笑いが浮かんでいる。
ルリスティは追及を避けるように地図へ視線を落としたが、
すぐに彼の腰元へ目を留めた。
座席との間に挟まれていた薄いクッションが、足元へ落ちている。
小さく息を吐き、身を屈めてそれを拾い上げた。
「大佐。」
「はい?」
「傷へ負担がかからない姿勢を保つよう、言われていたはずです。」
「なくても平気ですよ。」
「平気かどうかを決めるのは、大佐ではありません。」
言いながらクッションを差し出すと、
ジェイクは一瞬それを見てから、素直に受け取った。
「……承知しました。」
今度は逆らわず、背中へ戻す。
それを確認して、ルリスティも地図へ視線を戻した。
向かいでは、ルシアンが窓から入る風へ気づき、ヴィオレットの外套を整えている。
「寒くありませんか。」
「大丈夫です。」
「ならよかったです。」
それ以上は何も言わず、二人も窓の外へ視線を戻した。
馬車の中には、車輪の音だけがしばらく続いた。
◇
正午前。
一行は街道沿いの休憩所へ入った。
馬を休ませる間、オリビアはジェイクを長椅子へ座らせ、脈と顔色を確認する。
「痛みは?」
「ありません。」
「眩暈や息苦しさは?」
「それもありません。」
オリビアはしばらく様子を見たあと、ルリスティへ向き直る。
「今のところ問題ありません。次の区間も、予定どおり休憩を確保してください。」
「承知しました。」
ジェイクが苦笑した。
「俺には確認しないんですか。」
「大佐へ判断を任せないために、司令へ伝えています。」
「徹底していますね。」
「これまでの実績です。」
少し離れた場所では、クルトワとルシアンが簡易観測器を調べていた。
水晶の中には、黒淵北東部へ伸びる細い光が浮かんでいる。
「ここでも、同じ方向へ魔力が流れています。」
クルトワが数値を書き留める。
「帝国で聖霊の通り道と呼ばれるものと、
共和国の地脈は、同じ現象を別の言葉で表しているのかもしれません。」
ルシアンの言葉を受け、二人は専門的な議論を始めた。
近くの卓では、ヴィオレットが携帯用の茶器を用意している。
漂ってきた香りに、ルリスティが気づいた。
「この茶葉は……。」
「共和国のものです。」
ヴィオレットが、少し不安そうに答える。
「帝国の茶より飲み慣れていると話していたので、用意していただきました。」
一度だけ口にしたことだった。
ヴィオレットは、それを覚えていた。
「お嫌でしたか。」
「いいえ。」
ルリスティはカップを受け取り、一口飲む。
慣れ親しんだ香りが、旅の緊張を僅かに和らげた。
「美味しいです。」
ヴィオレットの表情が、ほっとほどける。
「よかった。」
そこへルシアンが、焼き菓子の包みを持って戻ってきた。
「お茶には、こちらも必要ですよね。」
「昼食前です。」
「では、一つだけ。」
「小さいものにしてください。」
「承知しました。」
ルリスティは一つ取ったあと、少し迷ってヴィオレットへ皿を差し出した。
「ヴィオレット様も、いかがですか。」
ヴィオレットが驚いたように妹を見る。
「ええ。いただきます。」
二人は同じ皿から菓子を取り、並んで茶を飲んだ。
交わした言葉は多くない。
それでも以前より、互いの沈黙を気にせずにいられるようになっていた。
◇
午後からは、ヴィオレットとルリスティが同じ側の座席へ並んだ。
街道は次第に狭くなり、窓の外には小さな青い花が目立つようになる。
「この花は?」
「セレス草です。傷薬にも使われます。」
ルリスティは群生する花を眺めた。
「父も、よく煎じていました。
私が幼い頃に熱を出した時も、夜通し傍にいてくれたことがあります。」
共和国でルリスティを育てた父。
その存在へどう触れるべきか、ヴィオレットは今も慎重だった。
「クラウス殿は、薬草に詳しかったのですね。」
「辺境では、医師がすぐに来られない場所も多いので。」
ルリスティの声は穏やかだった。
「怪我をした兵士の手当ても、自分でしていました。
私が眠るまで、何度も額の布を替えてくれたことを覚えています。」
その口元へ、淡い懐かしさが浮かぶ。
「優しい方だったのですね。」
「はい。」
迷いのない返事だった。
ヴィオレットは膝の上で手を重ねる。
「ルリスティを守り、育ててくださったことに……感謝しています。」
ルリスティが、ゆっくりと姉を見る。
ヴィオレットは真っ直ぐ、その瞳を見返していた。
共和国で過ごした年月も。
クラウスから受け取った愛情も。
何一つ否定しない。
その思いは、言葉以上にはっきり伝わった。
「ありがとうございます。」
ルリスティは静かに答える。
「父も、その言葉を聞けば喜ぶと思います。」
二人の間へ、穏やかな沈黙が落ちた。
馬車が大きく揺れ、ヴィオレットの身体が傾く。
ルリスティは反射的に腕を伸ばし、姉の肩を支えた。
「大丈夫ですか。」
「はい。ありがとうございます。」
身体が戻ると、ルリスティもすぐに手を離した。
ヴィオレットは何も言わず、嬉しそうに微笑んだ。
向かいでは、ルシアンがその様子を見ている。
「何ですか、ルシアン。」
「いえ。何でもありません。」
そう答えたものの、表情はまったく隠せていなかった。
◇
一行は街道沿いに設けた二つの宿営地で夜を明かした。
日を追うごとに農地は減り、代わりに深い森と険しい山並みが増えていく。
石畳も次第に途切れ、三日目には馬車の車輪が草に覆われた土の道を進んでいた。
旧監視所へ到着したのは、三日目の夕刻だった。
街道の先へ現れた低い石造りの塔は、
屋根の一部が崩れ、壁の大半を蔦に覆われている。
その向こうには、幾重にも重なる山と深い谷が広がっていた。
馬車が石塔の前で止まる。
ルシアンが先に降り、ヴィオレットへ手を差し出した。
「足元に気をつけてください。」
「ありがとうございます。」
ヴィオレットが地面へ降りると、ルシアンは荷物を受け取り、塔の入口へ向かった。
後方の馬車では、ジェイクが段差へ足を掛けようとしていた。
ルリスティは先に地面へ降りる。
「大佐。ゆっくり降りてください。」
「分かっています。」
ジェイクは手すりへ手を掛け、自分の足で慎重に段差を降りた。
「痛みは?」
「ありません。」
「本当に?」
「本当です、司令。」
その返答を確認してから、ルリスティも先へ進んだ。
旧監視所の前では、クルトワが地面へ片膝をつき、小型の観測器を設置している。
「司令。」
クルトワが顔を上げた。
「この周辺です。」
水晶器の中では、これまでよりも強い魔力反応が明滅していた。
ルリスティが胸元の星へ触れる。
銀のレリーフも応えるように、淡い光を放った。
だが、その光が示す先には蔦に覆われた旧監視所と、
幾重にも連なる山々があるだけだった。
道も。
入口も。
まだ見えない。
「本日は、この監視所で休みます。」
ルリスティは星を掌で包み、皆を振り返った。
「明朝から、周辺の調査を開始します。」
一行が、それぞれ頷く。
夕暮れの旧監視所の上に、早い星が一つ輝き始めていた。
長い間、この地へ隠されてきた何かが。
すぐ近くで、彼女たちを待っていた。




