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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第五章 星と黎明の記憶
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第76話 星が示す場所

同じ頃。


役目を終えた星導の魔導銃は、巨大な漆黒の銃身を失い、

元の小さな星のレリーフへと姿を戻していた。


クルトワとルシアンによる解析と安全確認を終えた今、

その星には細い銀鎖が通され、辺境防衛軍本部の一室で静かに揺れている。


卓上には、二人が記録した魔力波形や術式図が広げられていた。

ルシアンは椅子へ浅く腰掛け、最後の確認を終えた資料へ視線を走らせている。


一方、ジェイクはルリスティの少し後ろ、窓際の壁へ背を預けて立っていた。


普段であれば、当然のように彼女の隣へ立つ。

だが今は、ヴィオレットが妹へ歩み寄ろうとしていることを察し、

あえて一歩退いていた。


それだけではない。

ジェイクが重傷を負ってから、まだ十日しか経っていない。

あの夜、ルリスティの星の祝福が初めて目覚め、

さらにクリスティの太陽の祝福によって命を繋がれたことで致命的な状態は脱している。


それでも、失った血も落ちた体力も戻りきってはいない。

長く立ち続けるには、まだ壁の支えが必要だった。


ルリスティも気づいていたが、今は何も言わず、

時折その様子を確かめるように視線を向けるだけに留めている。


「通常時の魔力反応は、ほぼ完全に停止しています。」

ルシアンが書類から顔を上げた。


「外部から魔力を流し込んでも形状変化は起こりませんでした。

おそらく、ルリスティ様本人の意思と、

何らかの条件が揃わなければ再び武器には戻らないでしょう。」

いつもの快活さは控えめで、口調も慎重だった。


「危険性はないと考えてよいのですか。」

ヴィオレットの問いに、ルシアンが頷く。

「現段階では。ただ、僕たちの知識だけでは分からない部分も残っています。」


「身につけても問題は?」

今度はジェイクが尋ねた。


ルシアンは星のレリーフへ目を向ける。

「むしろ、その方が安定すると思います。

ルリスティ様から離した時より、傍に置いた方が魔力の波形が穏やかでした。」


ルリスティは卓上の星へ手を伸ばした。

指先で触れると、金属とは思えないほど淡い温かさが伝わってくる。

巨大な漆黒の銃だった時の重みも、周囲を圧する魔力も、今は感じられない。


「では、私が預かります。」

銀鎖を持ち上げ、細い留め具へ指をかける。

だが、何度動かしても鎖が指先から滑り落ちた。


武器や軍装の扱いには慣れていても、

こうした装飾品を身につけることには慣れていない。


その様子を見たヴィオレットが、ためらいがちに一歩近づいた。

「あの……私がおつけしても、よろしいでしょうか。」


ルリスティは一瞬だけ返事を忘れた。

ヴィオレットも緊張しているのだろう。

身体の前で重ねた両手へ、わずかに力がこもっている。


ジェイクは何も言わず二人を見守っていた。

ルシアンも書類をまとめる手を止めていたが、

あえてヴィオレットへ視線を向けない。

姉妹にしか埋められない距離があることを、二人とも分かっていた。


「お願いします、ヴィオレット様。」

「はい。」

ヴィオレットの表情が、わずかに和らいだ。


ルリスティは背を向け、長い白銀の髪を片手で肩の前へ流す。

細い鎖が首の後ろを回り、星のレリーフが胸元へ降りた。

小さな金具の音。


「できました。」

ヴィオレットは正面へ回り、胸元に輝く星を見つめる。


「よくお似合いです。」

「ありがとうございます、ヴィオレット様。」

ヴィオレットは柔らかく微笑んだ。


だが、その先に何を言えばよいのか分からなくなったように、

わずかに視線を伏せる。


「では、ルリスティ司令官。私はこれで――」

「ヴィオレット様。」

立ち去ろうとした姉を、ルリスティが呼び止めた。

ヴィオレットが振り返る。


ルリスティは胸元の星へ触れながら、少しだけ言葉を探した。

「私のことは、司令官ではなく……ルリスティと呼んでください。」

ヴィオレットの紫水晶の瞳が、わずかに見開かれる。

「よろしいのですか。」


「はい。」

ルリスティは小さく頷いた。

「敬称も必要ありません。

姉であるヴィオレット様から役職で呼ばれるのは、少し遠く感じますので。」


言葉にしたあとで照れたのか、僅かに視線を逸らす。

ヴィオレットはしばらく妹を見つめていた。

やがて、その表情がゆっくりとほどけていく。


「分かりました。」

一度、小さく息を吸った。


「ルリスティ。」

静かな部屋へ、自分の名が落ちる。


そこに役職も、皇女としての敬称もない。

ただ姉が、妹を呼ぶ声だった。

ルリスティは僅かに目を見開き、それから小さく頷いた。


「はい。」

その口元には、ごく薄い笑み。


ジェイクもまた、誰にも気づかれないほど小さく表情を緩めた。

ヴィオレットの隣では、ルシアンが安心したように息を吐いている。


その時、扉が控えめに叩かれた。

「司令官。クルトワです。」


ルリスティの表情が、瞬時に司令官のものへ戻る。

「入ってください。」


扉が開き、クルトワが書類筒と折り畳まれた地図を抱えて入ってきた。

室内を見渡したあと、ルリスティの胸元で揺れる星へ視線を止める。

「……やはり、その形に戻ったのですね。」


「何か分かったんですか?」

ジェイクが壁からゆっくり身体を起こした。

目立った不自然さはない。

それでもルリスティは、彼の呼吸が僅かに深くなったことを見逃さなかった。


クルトワは頷き、卓上の資料を避けながら地図を広げる。

黒淵の共和国側北東域から旧防衛線にかけてを記した、古い軍用地図だった。

指が、現在の辺境防衛軍本部から離れた旧街道の先で止まる。


「この地域には、

旧防衛線が使われていた頃に設置された魔力観測器が残されています。」

クルトワは記録紙を広げた。

「現在は定期的な点検と記録の回収を行うだけですが、

星導の魔導銃が現れた時刻、この一帯の観測器が一斉に異常な数値を示しました。」


ルシアンが記録紙を覗き込む。

穏やかに推移していた魔力波形が、ある一点だけ大きく跳ね上がっている。


「同じ頃、旧街道の監視兵からも、光を目撃したという報告が上がっています。」

クルトワは別の紙を取り出した。

遠くに連なる山の稜線と、その谷間から立ち昇る光が簡素な線で描かれている。


「地面の下から夜空へ向かって、光の柱が伸びたそうです。時間にすれば数秒ほど。しかし、無数の星が一か所へ集まり、空へ駆け上がっていくように見えたと。」

「星……。」

ヴィオレットの視線が、ルリスティの胸元へ向かう。


「私は当時、砦の防衛指揮に当たっていました。

そのため詳しく確認できたのは戦闘後ですが、

観測器が反応した時刻と、星導の魔導銃が現れた時刻はほぼ一致しています。」

「偶然と考えるには、出来すぎていますね。」

ルシアンの表情から、いつもの明るさが消える。


クルトワも頷いた。

「私も同意見です。」


その時。

ルリスティの胸元の星が、淡く明滅した。


誰も触れていない。

ルリスティ自身も、魔力を込めてはいない。


「ルリスティ?」

ヴィオレットが妹の名を呼ぶ。

先ほどより、ほんの少し自然に。


ルリスティが星を掌で包むと、

一度、二度と、心臓の鼓動へ重なるように銀の光が瞬いた。


ジェイクが壁から身体を起こし、今度は迷わずルリスティの隣へ立つ。

「呼ばれているのですか、司令。」

「分かりません。」

ルリスティは地図から目を離さなかった。

「ですが、この星と、あの場所に何らかの繋がりがあることは確かです。」


ルシアンも記録紙を見下ろす。

「魔導銃が現れた時刻とほぼ一致していて、

地図上の位置を示しただけでもレリーフが反応した。偶然ではないでしょう。」


ヴィオレットも地図へ視線を落とした。

「星の力に関係するものが、共和国側にも遺されているのでしょうか。」


「現段階では断定できません。だからこそ、調べる必要があります。」

クルトワが答える。


室内に緊張が走った。


ルリスティは胸元の星を握ったまま、ゆっくり息を吐く。

「まずは周辺の安全を確認します。

旧街道と、その先の地形を調べたうえで、本格的な調査隊を編成します。」

「俺も同行します。」

ジェイクは間を置かずに答えた。


ルリスティはすぐには返事をしない。

静かな紫水晶の瞳が、ジェイクの顔から、卓へついた片手へ移った。


「マルセリア大佐。まだ傷は癒えていないでしょう。」

「傷はもう塞がっています。」

「完治したとは聞いていません。」

「本格調査に入るまでには、経路確認や観測が必要でしょう。

すぐ出発するわけではありません。」


ジェイクはまっすぐルリスティを見る。

「出発前に、改めて診察を受けます。」


理屈を並べてはいるが、その目に退く意思はなかった。

命を落としかけたばかりの身体で、無理をしてほしくはない。

それでも、自分を一人で危険な場所へ向かわせるつもりがないことも分かっている。


「同行の可否は、出発前の診断で決めます。」

「分かりました。」

「許可が出なければ、本部へ残っていただきます。」

「善処します。」

「残っていただきます。」


重ねて告げると、ジェイクは僅かに目を逸らした。

「……分かりました。」


その返答がどこまで信用できるのか。

ルリスティは疑わしそうに彼を見たが、それ以上は追及しなかった。


「ヴィオレット様。」

呼びかけると、ヴィオレットが姿勢を正した。

「可能であれば、一緒に来ていただけますか?」

その瞳が大きく見開かれる。


「帝国側の遺構を知る方が必要です。それに私は、

帝国のことも初代皇帝の遺産についても、まだ知らないことが多いので。」

公的な理由を並べながらも、その声には僅かなためらいがあった。


一人ではなく、姉にも傍にいてほしい。

まだ、そう素直に言うことはできない。

それでも、ヴィオレットには十分に伝わったらしい。


「はい。必ず、お傍におります。」

ゆっくりと頷く。


「僕も同行しますよ。」

ルシアンがすぐに続けた。

「遺構と古代魔導具の調査なら、僕の出番でしょう。

それに、ヴィオレット様だけを危険な場所へ行かせるわけにはいきませんから。」


「正式な許可は得てください。」

「もちろんです。勝手には行きません。」

先ほどのジェイクとよく似た返答に、ヴィオレットが小さく笑う。

その笑みを見て、ルリスティの表情も僅かに和らいだ。


クルトワは地図へ視線を戻した。

「先行調査だけでも、相応の時間が必要です。

旧街道は各所で崩れ、周辺には長年まともな調査が入っていません。」

「中佐を中心に、調査計画を進めてください。」

「承知しました。」


胸元の星は、すでに光を失っていた。


それでも銀のレリーフは、

地図に記された黒淵北東部へ引かれるように、かすかに揺れている。


遥かな過去に失われた何かが、ルリスティを呼んでいた。


◇


会議が終わると、クルトワは記録を抱え、

今後の観測方法を確認するために一足先に部屋を出ていった。


ルシアンも資料をまとめ、ヴィオレットとともに扉へ向かう。


「ルリスティ。」

部屋を出る直前、ヴィオレットが振り返った。

先ほどより自然に呼ばれた自分の名に、ルリスティも顔を上げる。


「また後ほど。」

「はい、ヴィオレット様。」

短い言葉を交わし、ヴィオレットはルシアンとともに廊下へ出た。


扉が閉じたあと、

しばらく何も言わずに歩いていたヴィオレットへ、ルシアンが声をかける。


「嬉しそうですね、ヴィオレット様。」

「……そう見えますか?」

「はい。」

迷いのない返答に、ヴィオレットは胸元で両手を重ねた。


「名前を呼ばせてもらえました。

ルリスティの方から、司令官ではなく名前で呼んでほしいと。」

「ええ。聞こえていました。」

ルシアンが柔らかく笑う。


ヴィオレットは一度だけ振り返り、閉じられた扉を見つめた。

「少しずつでも、姉として近づいていけるでしょうか。」

「もう近づいていると思いますよ。」

「名前を呼べただけです。」

「昨日までは、その名前すら呼べなかったのでしょう?」

ヴィオレットは言葉を止めた。


「失った時間を一度に埋めることはできません。

でも、これからの時間は増やしていけます。」

「これからの時間……。」


ルシアンは彼女を急かさず、歩調を合わせる。

「今日は名前を呼べた。それで十分ですよ。」


ヴィオレットの表情が、少し和らいだ。

「……いつか、姉と呼んでもらえるでしょうか。」

ごく小さな声だった。


ルシアンは安易に答えを断言せず、ただ穏やかに笑った。

「その日が来るまで、僕も傍にいます。」

「ルシアン。」

「だから今は、名前を呼べたことを喜びましょう。」


ヴィオレットはしばらく彼を見つめ、それから静かに頷いた。

「ええ。」


二人は再び歩き出した。

その足取りは、先ほどより僅かに軽かった。


◇


一方、会議室にはルリスティとジェイクが残っていた。


先ほどまで複数の声が交わされていた室内へ、静けさが戻る。

ルリスティは書類を重ねながら、視線だけをジェイクへ向けた。

彼は卓の端へ片手をつき、何事もないような顔をしている。

だが、僅かに肩が上下していた。


「座ってください。」

「平気です。」

「座ってください、大佐。」


今度の呼び方は、公の場で使っていたものより少し柔らかい。

ジェイクはその違いに気づいたらしい。

抵抗せず、窓辺の長椅子へ腰を下ろした。


「傷が痛むのですか?」

「少し疲れただけです。」

「それを平気とは言いません。」

「司令の前では、少し格好をつけていたいんですよ。」


あまりにも迷いのない返答に、ルリスティは言葉を失う。


「……大佐。真面目に答えてください。」

「真面目です。」


口元へ、かすかな笑みが浮かぶ。

ルリスティは小さく息を吐き、僅かにずれた上着の留め具へ手を伸ばした。

直そうとした瞬間、その手首をそっと指が捉える。


強くはない。

振り払おうと思えば、簡単に離れられる程度の力だった。


「離した方がいいですか?」

表情を確かめるように尋ねられ、

ルリスティは掴まれた手首へ一度視線を落とした。


「留め具を直そうとしただけです。」

「ええ。」

「これでは直せません。」

「それは困りましたね。」


まったく困っていない声だった。

呆れたように見返す。

けれど、手を引くことはしなかった。


その反応を確かめるように、

手首へ触れていた指がゆっくりと滑り下り、そのまま手を包む。


「離しましょうか?」


ルリスティの唇が一度開き、すぐに閉じた。

返事を急かす様子はない。


「……そこまでは言っていません。」


小さな声だった。

その答えに、目元が僅かに和らぐ。


「では、もう少しだけ。」


しばらくして、包んでいた手が静かに離れた。

困り切ってしまう前に、きちんと距離が戻される。

ルリスティは何も言わず、今度こそ上着の留め具を直した。


「出発までに、必ず体調を戻してください。」

「命令ですか?」

「お願いです。」


その言葉に、からかうようだった気配がふっと消えた。

「それなら、必ず。約束します。」

低い声だった。


ルリスティは小さく頷いた。


胸元では、ヴィオレットにつけてもらった星のレリーフが静かに揺れている。

遥かな過去へ続く場所が彼女を呼んでいる。

その先に何が待っているのかは、まだ分からない。

それでも今のルリスティには、共に向かおうとする者たちがいた。


姉も。

仲間も。


そして、すぐ傍には交わしたばかりの約束がある。


彼女はもう、一人で星の示す先へ向かうのではなかった。


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