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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第五章 星と黎明の記憶
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第75話 沈黙の遺構

共和国から帰還して、三週間が過ぎた。


皇城には少しずつ日常が戻り始め、

四か月もの間、主を失っていた第二皇女の執務室にも再び灯りがともっている。


「次はこちらです、姫様。」

「うぅ……まだあるの?」

「ございます。」


「アークファイント、助けて。」

「私に申し上げられましても。」


机の上に積み上がった書類の山を前に、

クリスティは恨めしそうに専属騎士を見上げた。


共和国滞在中に保留となっていた公務は、

皇女の帰還を待ち構えていたかのように次々と押し寄せている。


「どうして帰ってきたばっかりなのに、こんなにお仕事があるのかなぁ……。」

「姫様がご不在の間、多くの案件が差し止めとなっておりましたので。」

「分かってるけどぉ……。」


頬を膨らませながら、クリスティは羽根ペンを走らせる。

その姿を見守るリカルドの立ち位置は、以前と変わらない。


半歩後ろ。

何かあれば、すぐに手を伸ばせる距離。

長い間、変わることのなかった専属騎士の場所だった。


執務室の隅に控えていた侍女たちは、そっと顔を見合わせる。

二人の距離も、呼び方も、公務中の振る舞いも以前のまま。


それでも、クリスティがリカルドを見上げる時、

その紫水晶の瞳には柔らかな光が宿るようになった。

リカルドもまた、彼女の姿を目で追うことを以前ほど隠さない。


互いの想いを確かめ合ったことで、

長く二人の間にあった不安だけが静かに消えていた。


侍女たちは何も言わない。

ただ、長い旅を終えた二人がようやく同じ場所へ帰ってきたことを、

密かに喜んでいた。


その時、扉が控えめに叩かれた。

「どうぞ。」

リカルドの声に続き、皇帝付きの近衛騎士が入室する。


「クリスティ様。陛下がお呼びです。」

「お父様が?」

「はい。レオンハルト殿下も、すでにお待ちとのことです。」


クリスティは小さく首を傾げた。

「何かあったのかな。」


近衛騎士は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。

「騎士団本部地下の遺構に、変化が確認されました。」


執務室の空気が変わった。

リカルドの黒い瞳が、僅かに細められる。

「地下遺構に……。」


帝国騎士団本部の地下。

初代皇帝レオン一世の石像、そのさらに下へ封じられていた古代遺構。


かつて二羽の銀の鷹に導かれたリカルドが、白銀の剣――黎明の剣を継承した場所。

そして、ルリスティへ受け継がれた漆黒の魔導銃が発見された場所でもある。


クリスティは羽根ペンを置き、すぐに立ち上がった。

「行こう、アークファイント。」

「御意。」

リカルドは迷いなく、その後へ続いた。


◇


帝国騎士団本部地下。


重厚な石造りの通路を進みながら、クリスティは小さく息を吐いた。

「ここって、何回来ても緊張するね。」

「同感です。」


「アークファイントでも?」

「はい。」

珍しい返答に、クリスティが振り返る。

「そうなんだ。」


「初代皇帝の時代に造られた遺構です。

少なくとも五百年以上、誰にも知られず眠っていた場所ですから。」

「五百年以上……。」


「今なお、どのような仕組みで動いているのかも解明されておりません。

何が起きても不思議ではありません。」

「そっか。」


リカルドは一拍置き、続けた。

「ですので、姫様は決して私から離れないでください。」

「うん。」

あまりにも素直な返事に、リカルドは僅かに目を細める。


以前なら、

クリスティは「大丈夫だよ」と笑って先へ進もうとしていたかもしれない。

今は、心配されることも、守られることも素直に受け入れている。

その小さな変化が、リカルドには嬉しかった。


やがて最奥の広間へ辿り着くと、

そこにはすでにルーファスとレオンハルトが待っていた。


「来たか。」

「お待たせしました!」


クリスティが小さく頭を下げる。

リカルドも一礼し、その斜め後ろへ立った。

レオンハルトは腕を組んだまま、遺構の奥を見ている。


「見れば分かる。」

「え?」

促されるまま、クリスティも台座の奥へ目を向けた。


「……あれ?」

以前まで、そこには何の継ぎ目もない石壁が広がっていた。

だが今は、壁の中央が左右へ退き、その向こうから巨大な石扉が姿を現している。


高さは五メートルを超えるだろう。

重厚な扉の表面には無数の古代文字と、太陽にも星にも見える紋様が刻まれていた。


「こんな扉、前はなかったよね?」

「ああ。」

ルーファスが頷く。


「昨夜、遺構内で強い魔力反応が確認された。

見張りの騎士が地鳴りを聞き、調査に入ったところ、

これまで継ぎ目すらなかった石壁が開いていたそうだ。」


レオンハルトが扉を見上げる。

「この遺構そのものが現れた時とは、状況が違う。」


クリスティが首を傾げた。

「最初の時?」


「ああ。」

ルーファスの視線がリカルドへ向いた。


「最初にこの遺構への道が開いたのは、お前の太陽の祝福に呼応し、

リカルドが持っていた二枚のハンカチから銀の鷹が現れたことがきっかけだった。」


二羽の銀の鷹。

共和国へ消えたクリスティを捜し続けていたリカルドを、

騎士団本部のレオン一世像へ導いた光。

その導きによって地下遺構が開き、黎明の剣と漆黒の魔導銃が発見された。


「その後、ルリスティの星の祝福が覚醒した際には、

ここに安置されていた魔導銃が彼女のもとへ渡った。」

「うん。星の形になって、ルリスティのところへ来たんだよね。」

「だが、その時も遺構そのものに新たな変化はなかった。」


レオンハルトが扉中央の紋様を示した。

幾重にも重なる円。

中心から外へ伸びる光。

太陽を思わせる紋様の周囲を、無数の小さな星が取り囲んでいる。


「今回、奥の区画が姿を現した理由は分からない。」

ルーファスが続ける。

「調査員や魔術師が近づいても扉は反応しなかった。

だが、お前が騎士団本部へ入った直後、僅かな魔力反応が検出された。」


「私が来たから?」

「その可能性が高い。」

ルーファスは娘を静かに見つめた。


「この遺構を最初に開いた時と同じく、お前の太陽の祝福が鍵なのかもしれぬ。」

「でも、私は何もしてないよ?」

「祝福は、本人の意思だけで動くものではない。」


レオンハルトが答える。

「お前自身にも分からない何かへ、遺構が反応している可能性がある。」


クリスティは改めて、巨大な石扉を見上げた。

この場所を眠りから呼び覚ましたのも、共和国から放った自分の祈りだった。

ならば、今目の前に現れた扉もまた、

太陽の祝福へ何かを伝えようとしているのかもしれない。


「近づいてみてくれるか。」

「うん。」


クリスティが一歩前へ出る。

その半歩前へ、当然のようにリカルドが進み出た。


「姫様。私が先に。」

「でも、私が近づかないと反応するか分からないんでしょう?」

「何かが起きてからでは遅いのです。」


「大丈夫だよ。アークファイントが一緒にいてくれるから。」

「……。」

真っ直ぐに告げられ、リカルドは一瞬だけ言葉を失った。


ルーファスとレオンハルトの前で表情を崩すことはない。

それでも、黒い瞳が僅かに柔らかくなる。


「決して、私から離れないでください。」

「うん。」


今度は二人で並び、石扉へ近づいた。

クリスティが数歩の距離まで進んだ瞬間。

ゴゥッ――

低い振動が、地下遺構全体を揺らした。


「きゃっ!」

「姫様!」

リカルドが即座にクリスティの肩を抱き、自分の方へ引き寄せる。


同時に、巨大な扉の中央から淡い白銀の光が広がった。

刻まれた古代文字が一つ、また一つと、長い眠りから目覚めるように輝き始める。

太陽を囲む星々へ光が巡り、

やがて重々しい音とともに、石扉がゆっくり左右へ開いていった。


◇


扉の先へ足を踏み入れた瞬間、誰もが言葉を失った。


「……綺麗。」

最初に声を漏らしたのは、クリスティだった。


地下とは思えないほど高い天井。

柱一つない、広大な円形の広間。

その頭上には、無数の光が浮かんでいる。


一見すれば夜空を埋め尽くす星々。


だが、目を凝らせば違った。

山脈。

河川。

森林。

海岸線。


光の点と線によって描かれた、古代の世界地図だった。


「これは……。」

レオンハルトが息を呑む。


現在の帝国東部。

そして、奈落の向こう側にある広大な土地。

今では帝国と共和国に分かれた二つの地域が、一続きの大地として描かれている。

両国を隔てる奈落は、どこにも存在しない。


「断絶以前の地図か。」

ルーファスが静かに呟く。


「いいえ。」

リカルドは地図を見上げた。

「それよりも、遥かに古いものかと。」


黒淵が生まれたのは、およそ百五十年前。

だが、この遺構がレオン一世の時代に築かれたものなら、

地図に描かれているのは五百年以上前の世界だ。


「ここ。」

クリスティが地図の中央を指した。

「大きな湖がある。」


現在、帝国と共和国を隔てる奈落が存在する位置。

そこには広大な湖が描かれていた。


山脈から流れ込む幾本もの川。

周囲に点在する集落。

湖の中央には、星のような紋様が浮かんでいる。


「奈落ができる前には、湖があったのか?」

レオンハルトの声に驚きが滲む。


「少なくとも、この地図が正確ならな。」

ルーファスは湖を見上げたまま答えた。

「帝国に残る地理記録に、これほど巨大な湖の存在を示すものはない。」


「共和国の記録にもあるかな?」

「調べる必要があるだろう。」


広間の中央には、一枚の巨大な石碑が立っていた。

四人が近づくと、そこへ刻まれた古代文字が淡い光を帯びる。


文字そのものが変化したわけではない。

その上へ新たな光の文字が浮かび上がり、

古い碑文へ重なるように、現代の言葉を形作っていった。


「……読める。」

クリスティが驚いたように呟く。


石碑そのものへ刻まれているのは、五百年以上前の古い文字のままだ。

だが、その表面へ浮かび上がった光だけが、

今を生きる彼らにも理解できる言葉となっている。


レオンハルトが、僅かに眉を寄せた。

「未来では、この文字が読めなくなることまで想定していたのか。」

「その可能性はあるな。」

ルーファスが静かに答える。


五百年以上先。

言葉も文字も変わり、当時の記録を読み解ける者がいなくなったとしても。

少なくとも、この石碑へ刻まれた内容だけは、確実に未来へ伝えなければならない。

この光は、そのために残された仕組みなのかもしれなかった。


『混沌が大地を覆い、人が人を憎んだ時代。

世界は、終わりへ向かおうとしていた。


その中で、二つの光は巡り会った。


一つは、夜を切り拓く黎明の光。

一つは、失われた命を導く星の光。


二つの光は手を取り合い、

湖の底に眠る災厄を封じた。


だが、封印は永遠ではない。


いつの日か。

再び夜が大地を覆う時。


未来を生きる者たちへ、我らの願いを託す』


静かな広間に、言葉だけが浮かび上がる。


「二つの光……。」

クリスティが小さく呟いた。

「黎明の光は、初代皇帝レオン一世を指しているのでしょうか。」

リカルドの問いに、ルーファスはすぐには答えなかった。


「可能性は高い。

初代皇帝が“黎明の剣”を持っていたことは、建国神話にも残されている。」

「では、もう一つの星の光は?」

「分からぬ。」

ルーファスは静かに首を振った。


「帝国の記録に、そのような者の名は残されていない。」

「初代皇帝様の、大切な人じゃないのかな。」

クリスティが石碑へ顔を近づける。


その最下部。

先ほどの文章から少し離れた場所に、小さな文字が刻まれていた。


『我が愛する人へ。

たとえ、この身が朽ちようとも。

願わくば、いつの日か。

再び、あの星空の下で』


広間へ深い沈黙が落ちた。


「愛する人……。」

クリスティは文字をじっと見つめる。

「初代皇帝様には、本当に大切な人がいたんだね。」


「ああ。」

ルーファスが静かに頷いた。

「帝国の建国神話には、

レオン一世が愛する伴侶と共に大地を拓いたと伝えられている。」


「その人が、星の光なの?」

「それも分からぬ。」


「え?」

クリスティが目を瞬かせる。


「初代皇帝に伴侶がいたことは、

神話にも口伝にも残されている。だが、その人物の名は現在まで伝わっていない。」


レオンハルトが僅かに眉をひそめた。

「皇帝のみが継承する口伝にも、ですか?」


「ああ。」

ルーファスの声は低かった。

「名も、出自も、どのように初代皇帝と出会い、何を成したのかも。

何一つ残されていない。」

存在だけが語り継がれ、その人自身が歴史から抜け落ちている。


クリスティは再び石碑を見る。

「なんだか、不思議だね。」

文字へ触れないよう、指先でその形を追う。

「五百年以上も昔の人なのに。」

紫水晶の瞳が、柔らかく細められた。

「愛していたことだけは、ちゃんと残ってるんだ。」


誰も答えなかった。

石碑に刻まれた言葉はあまりにも短く、そして真っ直ぐだった。


「……初代皇帝様は、きっと、すごく一途な人だったんだね。」

クリスティが、ほんの少しだけ笑う。


その言葉に、リカルドの視線が自然と彼女へ向いた。

紫水晶と黒。

二人の視線が重なる。


今は、その眼差しの意味をクリスティも知っている。

リカルドは何も言わない。

皇帝と皇子の前で口にするべき言葉でもない。


ただ、その黒い瞳に宿る揺るぎない想いを受け取り、

クリスティは僅かに頬を赤くして石碑へ視線を戻した。


ルーファスは何も言わず、レオンハルトも一度二人を見ただけで指摘はしなかった。


その時だった。

「……あれ?」

クリスティが天井を見上げる。


「どうした。」

レオンハルトが問う。


クリスティは古代地図の東側――現在、共和国が存在する地域を指した。

「今、一瞬だけ光らなかった?」

「光?」

「うん。共和国のある辺り。」


三人も天井を見上げる。

だが、そこには地図を形作る淡い光が浮かんでいるだけだった。


「どの位置だ。」

ルーファスの問いに、クリスティが目を凝らす。


「黒淵に近い場所だったと思う。」

「辺境防衛軍本部の周辺か?」

「たぶん……。」

もう一度、光が現れることはなかった。


「気のせいではないか。」

レオンハルトが言う。

「……そうかな。」

クリスティは小さく首を傾げた。


けれど、確かに見えた。

遥か東。

今は共和国と呼ばれている地で、夜空の星にも似た光が一瞬だけ瞬いた。


まるで、帝国で目覚めた遺構へ、遠く離れた何かが応えるように。


それが、

五百年以上前から途絶えていた物語の続きを告げる小さな合図であったことを、

この時の彼らはまだ知らなかった。


◇


誰もいなくなった地下広間。

古代の世界地図だけが、淡い光を放ち続けていた。


かつて一つであった大地。

今は失われた湖。

歴史から名を消した、もう一つの光。


そして、遠く離れた東の地で一度だけ応えた、小さな星。


沈黙を守り続けてきた遺構は、

五百年を超える時を経て、ようやく再び動き始めていた。


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