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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第73話 私が選ぶ未来

帝国へ帰還してから、十日が過ぎた。

皇城では今も、共和国に関する対応が昼夜を問わず続いている。


滅びたと思われていた隣国の存続。

奈落門を貫いて現れた黎明の道。

共和国との連絡方法。

両国の往来を、どこまで認めるのか。


そして百五十年もの間、互いの存在を失っていた二つの国が、

これからどのような関係を築いていくのか。

決めなければならないことは、あまりにも多かった。


その日の午後。

クリスティは、一人で皇帝の執務室を訪れていた。

「失礼いたします。」

扉を開くと、机の向こうではルーファスが書類へ目を通している。

その傍らには、レオンハルトの姿もあった。


「クリスティ?」

ルーファスが羽根ペンを置いた。

「今日は公務を入れず、休むように言ったはずだが。」

「公務をしに来たんじゃないの。」

クリスティは執務机の前まで進む。

「お父様に、お話があります。」


その表情から何かを感じ取ったのだろう。

ルーファスは居住まいを正した。

レオンハルトも、手にしていた書類から顔を上げる。


「聞こう。」

「うん。」

クリスティは胸元で両手を重ねた。


何度も考えた。

自分にできること。

自分だからこそ、しなければならないこと。


けれど、いざ言葉にしようとすると、胸の奥が強く鳴った。

一度だけ深く息を吸い、父の紫水晶の瞳を真っ直ぐに見る。


「私ね。」

僅かな間を置き、はっきりと告げた。

「皇帝になりたい。」

執務室へ静寂が落ちた。


レオンハルトの表情は変わらない。

ルーファスも、すぐには何も答えなかった。

驚きはあった。

だが、喜ぶことも否定することもなく、ただ娘を見つめている。


「理由を聞かせてもらえるか。」

やがて発せられたのは、皇帝としての問いだった。


クリスティは頷く。

「共和国へ行って、分かったの」


黒淵の向こうで出会った人々。

ルリスティ。

ジェイク。

ガレス。

クルトワ。

砦の兵士たち。

街で暮らしていた人々。


「共和国は、失われた国なんかじゃなかった。」

「……ああ。」

「百五十年の間に、帝国とは違う技術や仕組みを築いていた。

でも、昔の記録に残っているように、今も人々が暮らして、

大切な人を守りながら国を繋いでいた。」


帝国と共和国は、かつて互いに行き来し、同じ文化を分かち合っていた。

戦によって袂を分かったわけではない。

奈落によって突然隔てられ、互いを滅びた国だと思い込んだまま、

百五十年が過ぎただけだった。


けれど、それほど長い時が経てば、同じ姿のままではいられない。

政治も。

技術も。

人々の常識も。

両国は、それぞれ異なる道を歩んできた。


「今の帝国には、

共和国とすぐに国交を戻すことへ慎重な人もいるんでしょう?」

ルーファスは隠すことなく頷いた。

「いる。かつて友好国であったとしても、

現在の共和国について、我々はほとんど何も知らない。」

「共和国の人たちも、同じだと思う。」


帝国には聖霊と加護がある。

共和国には、魔術と機械を組み合わせた技術がある。

同じ歴史から始まった国でありながら、

百五十年の間に多くの違いが生まれていた。


「いきなり昔と同じように戻ることは、できないよね。」

「ああ。」

「でも、知らないまま距離を置いたら、また相手のことを見失ってしまう。」

クリスティは、自分の手を強く握った。

「だから、少しずつでも知っていかないといけないと思うの。」


共和国で守られた自分だからこそ伝えられることがある。

帝国で生まれ育った自分だからこそ、届けられる言葉がある。


「昔の関係へそのまま戻るんじゃなくて、

今の帝国と今の共和国で、新しい関係を作りたい。」

クリスティは、真っ直ぐ父を見た。

「私、もう二度と、

国が隔てられただけで家族が会えなくなる世界にしたくない。」


ルリスティと再び離れた時、寂しくなかったわけではない。

それでも絶望はしなかった。


道がある。

手紙が届く。

また会える。

そう信じられたからだ。


「黎明の道を、ただ通れるだけの道で終わらせたくないの。」

二つの国が互いを知り。

言葉を交わし。

再び同じ未来を見られるようにする。


「帝国と共和国が、今度こそ途切れずに歩いていけるようにしたい。」

クリスティは父を見つめた。

「そのために、私ができることをしたいの。」


「皇女としてでは足りないのか?」

「皇女としてできることも、たくさんあると思う。」

クリスティは素直に頷いた。

「でも、最後に国が進む道を決めて、その責任を負うのは皇帝でしょう?」

「そうだ。」

「だったら私は、その責任を誰かへ任せるだけでいたくない。」

その言葉に、ルーファスの瞳が僅かに揺れた。


「誰かに言われたからではないのだな。」

「うん。」

「ルリスティのためだけでもない?」

クリスティは少し考え、それから首を横へ振る。

「ルリスティと会えたから、こういう未来を考えられたのは本当だよ。

でも、それだけじゃない。

帝国のみんなのためでもある。共和国のみんなのためでもある。」


一度言葉を区切ったあと、クリスティは微笑みながら言葉を続ける。

「私自身が、二つの国が繋がった世界で生きたいと思ったから。」


義務ではない。

失われた妹への償いでもない。

父や兄から求められた役目でもない。

クリスティが、自分の意思で選んだ未来だった。


「だから、お父様。」

背筋を伸ばし、皇帝の前へ立つ。

「これからは、皇帝になるために学ばせてください。」


ルーファスは静かに娘を見つめた。

「お前は、すでに学んでいる。」

「え?」

クリスティが目を瞬かせる。


「私は、お前たちの中から早くに一人を選び、

他の者から可能性を奪うつもりはなかった。」

ルーファスは、傍らに立つレオンハルトへ一度目を向けた。

「お前たち全員に、

皇族として必要なことを分け隔てなく教えてきたつもりだ。」


政治。

外交。

軍事。

財政。

帝国の歴史と法。

民の暮らし。

国を治める者が負わなければならない責任。


それぞれの適性や役割に応じて違いはあっても、

誰か一人だけへ道を限定したことはなかった。


「お前も私やレオンハルトの政務を手伝うようになってから、

実務を通して統治について学んできた。」

「うん。」

クリスティは頷いた。

布告の草案を読み、民から届いた陳情を確認し、

会議へ同席したこともある。


「今までは、お父様やレオン兄様を手伝うためだった。」

クリスティは、もう一度父を見る。

「これからは、自分が責任を背負うために学びたいの。」


ルーファスは、しばらく何も言わなかった。

目の前にいる娘は、奈落へ落ちる前と同じ少女ではない。

分断された家族の痛みを知り。

共和国の人々を知り。

それでも未来を信じ、自ら重い責任を負う道を選ぼうとしている。


「皇帝への道は、決して容易ではない。」

「うん。」

「自分の望む未来だけを選べるわけでもない。

時には、誰かの願いを退けなければならないこともある。」

「分かってる、とはまだ言えないと思う。」

クリスティは正直に答えた。

「でも、分かるようになりたい。」


その答えに、ルーファスの表情が僅かに緩んだ。

「そうか」

ルーファスは立ち上がり、机を回って娘の前へ立つ。

「ならば、これまで以上に学びなさい。」

クリスティの瞳が大きくなる。


「国を動かすための知識も、決断によって生じる痛みも、すべてだ。」

「はい。」

「そのうえでなお、皇帝になりたいと望むなら――」

ルーファスは娘の肩へ手を置いた。

「ならば私は、お前を次代の皇帝を目指す者として育てよう。」


クリスティの顔へ、太陽のような笑みが広がった。

「はい! ありがとうございます、お父様!」


勢いよく抱きついてきた娘を、ルーファスはしっかりと受け止める。

その背へ腕を回しながら、静かに目を閉じた。


長い間、手の届かない場所にいた二人の娘。

一人は、共和国の最前線を守る司令官となっていた。

もう一人は今、二つの国を繋ぐ皇帝になる道を、自ら選んだ。


「お父様、また泣いてる?」

「泣いていない。」

「ちょっと泣いてるよ。」

「これは……。」

ルーファスは返答に詰まった。


「何かが目に入っただけだ。」

「執務室なのに?」

楽しそうに笑う娘を見て、レオンハルトが小さく息を吐く。

その口元には、ほんの僅かな笑みが浮かんでいた。


◇


クリスティが執務室を出たあとも、

ルーファスはしばらく閉じた扉を見つめていた。


娘が自ら選んだ未来。

その重みを、静かに受け止めるように。

やがて、傍らに残る息子へ目を向ける。


「レオンハルト、どう思う。」

レオンハルトは、すぐには答えなかった。

妹が出ていった扉へ一度だけ目を向ける。


「まだ、皇帝になると決まったわけではありません。」

「ああ。」

「これから学び、その責任を本当に負えるのかを見定める必要があります。」


理想だけで国は動かせない。

共和国との融和を望んだとしても、

すべての者が同じ未来を信じるわけではない。

反対する者もいる。

利用しようとする者もいる。

時には、身近な者を退けなければならない日も来るだろう。


「ですが。」

レオンハルトは静かに続けた。

「本当に、あの子が次代を担う者へ成長するのであれば、

私は、クリスティを支持します。」

その声には迷いがなかった。


ルーファスは、息子を真っ直ぐに見た。

正式な皇太子は、まだ定められていない。

それでも皇帝不在時には国政を預かり、皇族をまとめ、

実質的に後継者の役目を果たしてきたのはレオンハルトだった。


長男である彼が前へ立つことで、

他の兄妹へ皇位を巡る過度な期待が向けられることも防いできた。


アレクシスは、自ら望んだ軍務と辺境の道へ進めた。

ヴィオレットは、魔術研究へ打ち込むことができた。

クリスティもまた、誰かに皇位を求められるより先に、

自分の未来を考えることができた。

レオンハルトは、兄妹の前に立つ盾だった。


「お前は、それでよいのか。」

「はい。」

あまりにも迷いのない返答だった。


「私は、決められた方針を形にし、国を安定させることはできます。」

レオンハルトは、手にしていた書類へ目を落とす。

「混乱の中で優先順位を決め、人と物を動かすことにも慣れています。」

帝国の後方を預かり続けた男の言葉だった。


「しかし、新しい時代の行き先を示し、

人々へその未来を信じさせることは、私が最も得意とするところではありません。」

「皇帝の器ではないと?」

「少なくとも、これからの帝国が必要とする皇帝としては、

クリスティの方が相応しい可能性があります。」


百五十年閉ざされていた国境が開いた。

失われた隣国と、再び関係を築かなければならない。

古い常識だけでは進めない時代が始まろうとしている。


「私は、次の時代へ渡るための橋にはなれます。」

レオンハルトは淡々と語る。

「ですが、その先にある未来を誰より強く信じ、

人々を導く者には、あの子の方が向いている。」


共和国で暮らした人々を知り。

国の違いを越えて家族と巡り会い。

分断を終わらせたいと、自ら皇帝を目指した妹。

まだ未熟だ。

だが、彼女にしか語れない未来がある。


「お前は昔から、自分自身のことを後回しにするな。」

ルーファスが言うと、レオンハルトは僅かに眉を上げた。

「父上ほどではありません。」

「言うようになったな。」

「事実ですので。」


短い沈黙のあと、ルーファスが問い掛ける。

「もしクリスティが正式に次代を担うことになれば、お前はどうする。」

ルーファスの問いに、レオンハルトは一度だけ目を伏せた。

「皇位継承が揺らがぬよう、必要なところまでは支えます。」


妹が学び、実績を積み、誰もが次代の皇帝として認めるまで。

政務も、人脈も、背負ってきた責任も、すべて滞りなく引き継ぐ。

「そして、私が皇族として残ることで余計な憶測を生む段階になれば。」

レオンハルトは顔を上げた。

「臣籍へ降ります。」


ルーファスの瞳が僅かに動く。

「そこまで考えていたのか。」

「継承を譲った第一皇子が皇族として残れば、

本人にその意思がなくとも、利用しようとする者は現れます。」


「そうだな。」

「クリスティの治世へ、不要な火種を残すつもりはありません。」

それは、役目から逃れるための選択ではなかった。

最後まで妹を支え、その道を揺るぎないものにしたうえで、

自ら身を引くという覚悟だった。


「その後は?」

ルーファスが尋ねる。

レオンハルトは、珍しく僅かな間を置いた。


「……迎えに行きたい者がいます。」

ぶっきらぼうな声だった。

だが、それ以上を尋ねる必要はなかった。


ルーファスは息子の横顔を見つめ、ほんの僅かに口元を緩める。

「そうか。」

「まだ、何一つ決まってはいません。」

レオンハルトは、いつもの硬い表情へ戻った。

「クリスティが皇帝となる道を途中で断念する可能性もあります。

その時は、改めて帝国にとって最善の形を考えます。」


自分の望みを叶えるために、妹を皇帝へ押し上げるつもりはない。

クリスティ自身が望み、

次代を担う資質を備えた時にだけ、その道を支える。


「ただ。」

レオンハルトは、妹が出ていった扉へ目を向けた。

「本当にあの子が、二つの国を繋ぐ皇帝になるのであれば。」

その声へ、兄としての穏やかさが僅かに滲む。

「私は喜んで、その背中を支えます。」


ルーファスは静かに頷いた。

一人は、新しい時代を導こうとしている。

一人は、その道が開かれるまで、兄妹の前へ立ち続けることを選んだ。

そして役目を終えた先には、レオンハルト自身が望む未来もある。

次代へ向けて歩き始めたのは、クリスティだけではなかった。


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