第72話 帰る場所
昼を少し過ぎた頃。
共和国辺境防衛軍の砦の前には、帝国へ帰還する者たちが集まっていた。
ルーファスの意向により、大掛かりな式典は行われない。
帝国へ戻るのは、ルーファス、レオンハルト、アレクシス、
クリスティ、リカルドと、最低限の護衛だけだった。
一方、共和国側へ残るヴィオレットとルシアンの向かいには、
ルリスティ、車椅子のジェイク、ガレス、クルトワ、
そして黒淵の警備を担う兵士たちが並んでいる。
砦の先には、黒淵を貫く黎明の道が白銀の光を放っていた。
帝国では奈落門。
共和国では黒淵。
百五十年もの間、二つの国を隔て続けた災厄の中へ、
今は確かに行き来できる道が伸びている。
黒淵そのものは、まだ何も解決していない。
だが今度の別れは、もう永遠の別れではなかった。
◇
「クリスティ。帝国へ戻ったら、まずはゆっくり休むのよ」
ヴィオレットの言葉に、クリスティは少し頬を膨らませた。
「ヴィオ姉様もだよ。調査が大事なのは分かるけど、
ちゃんと食べて、ちゃんと寝てね」
「分かっています」
クリスティは隣のルシアンへ向き直る。
「ルシアン、お姉様をお願いします」
「もちろんです。ヴィオレット様には、危険なものを指一本触れさせません」
「調査対象へ近づけないという意味ではありませんよね?」
ヴィオレットが静かに確認する。
「それは……善処します」
アレクシスが呆れたようにルシアンの肩を叩いた。
「調査中に、お前まで護衛される側になるなよ」
「……僕、一応帝国でも屈指の魔術師なのですが」
「知っている。ヴィオレットが関わると無茶をするから言っているんだ」
「それについても善処します」
「そこは断言してくれ」
いつもどおりのやり取りに、クリスティの表情が僅かに和らいだ。
少し離れた場所では、レオンハルトとルリスティが今後の連絡体制を確認している。
「異常があれば、ヴィオレット様を通して直ちに知らせます」
「帝国側でも、通路周辺へ常時人員を配置します」
「到着されましたら、皆様の無事もお知らせください」
「もちろんです。必ず」
その後ろでは、アレクシスがジェイクへ声を掛けていた。
「怪我人へ頼むことではないが、何かあればヴィオレットたちを頼む」
「承知しております。俺が動けない場合でも、この砦には優秀な者が揃っています」
「そうだろうね」
アレクシスが僅かに口元を緩める。
「それでも、一応頼んでおく」
二人は短く頷き合った。
やがて騎士が、帰還の準備が整ったことを告げる。
出立の時が来た。
◇
クリスティとルリスティは、互いの白銀の髪に揺れる青い鳥を見つめた。
まだ二人が双子だと知らなかった頃、共和国の街で揃えた髪飾り。
離れ離れになった大切な人を、もう一度巡り会わせてくれる幸運の鳥。
「ちゃんとつけてくれてるんだね」
「クリスティも」
「だって、お揃いだもん」
クリスティは泣きそうな顔で笑い、ルリスティの手を握った。
「この鳥がいれば、今度もきっと大丈夫だよね」
ルリスティは黒淵へ伸びる道へ目を向ける。
「今度は、この鳥に頼らなくても会えますよ」
「え?」
「道は、もうここにありますから」
クリスティの瞳へ涙が浮かんだ。
「帝国へ帰ったら、今度は私が案内するからね。
皇城のお庭も、お祭りも、薔薇の砂糖菓子も、果物のタルトも」
「楽しみにしています」
「絶対だよ」
「約束です」
二人はもう一度強く手を握り合い、名残を惜しみながら指を離した。
それからクリスティは、車椅子のジェイクへ向き直る。
「マルセリア大佐。ルリスティのこと、お願いね!」
「クリスティ」
ルリスティが僅かに目を見開く。
「ルリスティは、すぐ自分を後回しにするから。
無理をしていても大丈夫だって言うし、一人で全部抱え込もうとするから」
クリスティの声が少し震えた。
「あと、寂しい時は、一人にしないであげて」
ジェイクは真っ直ぐ彼女を見返し、静かに頭を下げた。
「承知しました。司令が無理をなさる時は何度でもお止めします。
一人で抱え込もうとなさる時も、必ず隣にいます」
「……うん。よろしくね」
「ただ、俺一人では止めきれない可能性があります。
その時は、クリスティさんにもご協力をお願いします」
「もちろん! 帝国からでもちゃんと怒るから!」
「何ですか、その約束は」
ルリスティが困ったように眉を寄せる。
「必要な協力関係ですので」
「大佐まで……」
僅かに浮かんだルリスティの笑みに、クリスティも安心したように微笑んだ。
◇
ジェイクは、クリスティの半歩後ろに控えるリカルドへ視線を向けた。
「アークファイント卿。クリスティさんをお願いします」
リカルドは迷いなく頷く。
「承知しました。姫様のおそばを、二度と離れるつもりはありません」
「ならば、生きて隣にいてあげてください」
リカルドの表情が僅かに変わった。
「残される者は、命を差し出されることなど望んではいません」
短い沈黙のあと、リカルドは深く頷いた。
「生きて、姫様のおそばにおります」
そして、ジェイクの脇腹へ視線を落とす。
「マルセリア大佐も、今の言葉をお忘れなきよう。
ルリスティ様も、あなたが命を差し出すことなど望まれてはいないでしょう」
ジェイクは少し離れた場所にいるルリスティを見た。
彼女は何も言わず、答えを待っている。
「……ええ。肝に銘じます」
二人は、それ以上言葉を交わさなかった。
帝国と共和国。
異なる国で、異なる女性の隣に立ってきた二人。
けれど、大切な人のために生きるという誓いだけは同じだった。
◇
最後に、ルリスティはルーファスへ向き直った。
十七年間探し続けた娘と、もう一度別れなければならない。
そう思うだけで、ルーファスの胸には言葉にし難い寂しさが込み上げた。
何度も言葉を探した末、ようやく口を開く。
「身体には、十分気をつけるのだぞ。無理はするな」
「……努力します」
「努力では困るのだが」
「あの魔導銃による魔力枯渇も、もう治っています」
「そう言って、すぐに軍務へ戻ろうとなさるのです」
後ろからジェイクの声が落ちた。
「大佐」
「陛下へ正確な情報をお伝えしただけです」
ルーファスは僅かに目を見開き、やがて小さく笑った。
「頼もしい部下がいるのだな」
「はい。とても」
迷いのない返答に、ジェイクの表情が僅かに揺れた。
クラウスがいた。
辺境防衛軍の者たちがいた。
そして今も、娘を支える者がいる。
ルーファスは寂しさを抱きながらも、そのことを有り難く思った。
「では……また」
そこで、声が止まる。
道は繋がっている。
また会える。
それでも、十七年間娘を失っていた父親の心は、
簡単に別れを受け入れられるものではなかった。
ルリスティも、すぐには言葉を見つけられずにいる。
ジェイクが背後にいるクルトワへ目配せすると、
その意図を察した彼が車椅子を静かに押した。
父と娘のために距離が空けられ、周囲の者たちもそれに倣う。
やがてルリスティは、髪に揺れる青い鳥へ触れた。
「……今はまだ、共和国辺境防衛軍司令官である私が、
ここを離れるわけにはいきません」
「ああ」
「ですが、もし黒淵の問題が片づき、共和国も落ち着いたら……」
紫水晶の瞳が、僅かに迷うように伏せられた。
けれどやがて、もう一度真っ直ぐルーファスを見る。
「その時は、私も帝国を見に行ってもよろしいですか?」
ルーファスの瞳が大きく見開かれた。
風が吹き、二人の白銀の髪が同時に揺れる。
ルリスティは、少し照れたように続けた。
「クリスティに、帝国を案内してもらう約束をしました。
皆様が暮らしてきた場所も……私が生まれた場所も見てみたいです」
ルーファスは、すぐには答えられなかった。
十七年間、帰ってきてほしいと願い続けた。
だが、再会した娘へその願いを押しつけることだけはしてはならないと思っていた。
帝国へ帰ることも、自分を父と呼ぶことも、
皇女として生きることも求めず、娘自身が望むまで待つと決めていた。
その娘が今、自ら帝国へ行きたいと言っている。
「……もちろんだ。帝国は、いつでもお前を待っている」
掠れた声で答える。
「お前が育った共和国は、何ものにも代えられない故郷だ。
そして帝国もまた、お前の故郷なのだから」
共和国。
クラウス。
辺境防衛軍。
自分を育ててくれたすべて。
そして、母や兄姉、双子の姉と、十七年間自分を待っていた父がいる国。
ルリスティは深く息を吸い、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとうございます……お父様」
ルーファスは動かなかった。
瞬きすら忘れたようにルリスティを見つめ、
何かを言おうと唇を動かすが、声にならない。
紫水晶の瞳が見る間に潤んでいった。
「お父様?」
ルリスティが僅かに首を傾げる。
その一言で堪えていたものが完全に崩れ、
ルーファスの頬を大粒の涙が次々と伝っていった。
「お、お父様。泣きすぎですー!」
クリスティが慌てて声を上げるが、その目にも涙が溢れている。
リカルドから受け取ったハンカチを、自分の目元へ押し当てた。
「お前も泣いているではないか……」
「これは嬉し涙ですー!」
「私もだ……」
「じゃあ、お揃いですねぇ……」
父と娘が、互いに泣きながら言葉を交わしていた。
アレクシスは顔を背け、額へ手を当てる。
「駄目だ。これは無理だ」
その声も僅かに震えていた。
レオンハルトも目を閉じたまま、強く唇を結んでいる。
ヴィオレットの頬にも涙が流れ、ルシアンは何も言わず、その手をそっと握った。
ガレスは深く帽子を被り直す。
クルトワはその横顔を見て、何も見なかったことにするように前を向いた。
少し離れた場所では、ジェイクが目を細めている。
クラウスが父であることは、何も変わらない。
そのうえでルリスティは、新しい家族へ自ら手を伸ばしたのだ。
◇
やがてルーファスは何度か呼吸を整え、どうにか涙を抑えようとした。
それでも、まだ伝えなければならないことがあった。
「ルリスティ」
「はい」
ルーファスは胸元へ手を添えた。
そこには、クラウスから託された手紙が収められている。
『どうか皇女としてではなく、一人の娘として抱き締めてあげてください。』
その願いが、胸の奥で蘇る。
目の前にいるのは、共和国辺境防衛軍司令官ではない。
失われた帝国皇女でもない。
ただ十七年間、会いたくてたまらなかった一人の娘。
それでもルーファスは、当然のように手を伸ばそうとはしなかった。
涙に濡れた紫水晶の瞳で、真っ直ぐ娘を見る。
「……抱き締めても、いいだろうか」
声が震えていた。
ルリスティの瞳が大きく揺れる。
目の前にいる男は、実の父親だ。
それでも、娘だからと自分に触れる権利があるようには振る舞わない。
ただルリスティの答えを待っている。
ルリスティは一度だけ目を伏せた。
脳裏へ浮かぶのは、大きな背中と無骨な手。
そして、何度転んでも必ず自分へ差し出された手だった。
『俺の娘として過ごした年月も、お前の一部だ。』
『その方を父と呼ぶ日が来てもいい。』
『それで、俺がお前の父でなくなるわけではない。』
クラウスは自分の父だ。
これから先も、何があっても、その事実は変わらない。
だからこそ、もう一人の父へ手を伸ばすことを恐れる必要もなかった。
父自身が、それを許してくれている。
ルリスティは再び顔を上げ、涙に濡れたルーファスへゆっくりと頷いた。
「……はい」
小さな返事。
それでも確かに届いた。
「お願いします。お父様」
僅かな間を置き、もう一度呼ぶ。
ルーファスの表情が大きく歪んだ。
次の瞬間、彼はルリスティを抱き締めていた。
強く、それでいて壊れ物へ触れるように恐る恐る。
最初は背へ添えられただけだった腕が、
娘の温もりを確かめるように、少しずつ力を増していく。
ルリスティの頬が、ルーファスの胸元へ触れた。
その鼓動は、驚くほど速い。
十七年ぶりに腕の中へ戻った娘は、あの頃とは何もかもが違っていた。
小さかった身体は、もう十九歳の女性へ成長している。
それでも、こうして抱き締めた瞬間、
今の娘の姿が、あの日必死に手を伸ばした幼い姿と重なった。
「大きく……なったな……」
ルーファスの声が、ルリスティの髪へ落ちる。
「はい」
「本当に……」
抱く腕へ、さらに力が込められた。
「生きていてくれて、ありがとう……」
ルリスティの瞳からも涙が零れた。
僅かな迷いを残しながらゆっくりと両腕を上げ、ルーファスの背中へ手を回す。
その瞬間、ルーファスの肩が大きく震えた。
「ご心配を、お掛けしました」
ルリスティの声も涙に揺れている。
「謝らなくていい」
ルーファスは何度も首を横へ振った。
「お前は何一つ悪くない。お前が生きている。それだけで、十分だ」
風が吹き、ルリスティの白銀の髪で青い鳥が揺れた。
離れ離れになった大切な人を、もう一度巡り会わせる幸運の鳥。
その青い翼は今、父の肩越しに静かに光を受けている。
ルーファスは娘を抱き締めたまま、胸元の手紙へ心の中で語り掛けた。
クラウス。
お前が守り、育て、愛してくれた娘は、今、私の腕の中にいる。
「……ありがとう」
誰にも聞こえないほどの声が、ルーファスの唇から零れる。
「娘を、守ってくれて……」
ルリスティには、その言葉が僅かに聞こえた。
けれど、何も答えなかった。
ただルーファスの背中へ回した手へ、ほんの少しだけ力を込める。
クラウスが、もう一人の父を受け入れていいのだと教えてくれた。
ルーファスが、もう一つの故郷へ帰る場所を与えてくれた。
二人の父のどちらかを選ぶ必要など、最初からなかった。
ルリスティはクラウスの娘であり、同時にルーファスの娘でもある。
ようやく、心からそう思うことができた。
◇
やがて二人が離れると、ルーファスは名残惜しそうに娘の肩へ手を置いた。
「いつでも帝国へ来るといい。お前が来たいと思った時は、いつでも」
「その時は、司令官としての責務を誰かへ託せるようにしておきます」
「待っている。帝国で、お前が帰ってくるのを」
帰ってくる。
それは訪問ではなく、もう一つの故郷へ帰るということだった。
「はい。必ず帰ります」
その答えにルーファスが再び涙ぐみ、クリスティが父の腕へしがみつく。
「お父様、また泣いてますー!」
「仕方ないだろう……」
「私だって、ルリスティと離れるの寂しいんですー!」
「ならば残るか?」
「それは駄目です。帝国のみんなに無事だって知らせないと」
クリスティはルリスティへ向き直る。
「だから、すぐに戻ってくるね」
「待っています」
レオンハルトが父へ声を掛けた。
「父上。そろそろ」
「……ああ」
ルーファスは、ようやく娘の肩から手を離した。
◇
帝国へ戻る者たちが、黎明の道へ進み始める。
ルーファスは数歩進んでは振り返り、
道へ足を踏み入れる直前にも、もう一度娘を見た。
「ルリスティ。行ってくる」
皇帝ではなく、父親の言葉だった。
ルリスティも、娘として答える。
「行ってらっしゃいませ、お父様」
再び涙ぐむルーファスを、レオンハルトが僅かに困った顔で促した。
クリスティは何度も振り返り、大きく手を振っている。
「ルリスティー! またねー!」
「はい。また、お会いしましょう」
白銀の光の中へ姿が消えるまで、ルリスティはその場を動かなかった。
やがてクルトワが車椅子を押し、ジェイクを彼女のそばへ戻す。
「行ってしまいましたね」
「はい」
「寂しいですか?」
「少し」
ルリスティは、髪に揺れる青い鳥へ触れた。
「ですが、もう二度と会えないわけではありません」
そしてジェイクへ振り返り、涙の残る顔で穏やかに笑う。
「帰る場所が、一つ増えました」
「良かったですね」
「はい」
少し後ろでは、ガレスが帽子のつばを押さえながら空を見上げていた。
「クラウス。見ていたか」
風が帽子を揺らす。
「お前の娘は、ちゃんと幸せになろうとしてるぞ」
黒淵から伸びる黎明の道が、昼の光を受けて輝いていた。
黒淵そのものは、まだ残っている。
その正体も、完全に消滅させる方法も分かってはいない。
だが、二つの国はもう互いを見失ってはいなかった。
ルリスティは髪に揺れる青い鳥へ一度触れ、黎明の道へ背を向ける。
「戻りましょう。黒淵の調査が待っています」
「はい」
クルトワが車椅子の取っ手へ手を掛けようとする。
けれどルリスティは、そっと片手を上げて制した。
「私が押します」
クルトワは一瞬だけルリスティとジェイクを見比べたが、
やがて何も言わずに一歩退いた。
ルリスティが取っ手を握り、車椅子をゆっくりと押し始める。
ジェイクは僅かに顔を後ろへ向けたが、何も言わなかった。
その口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
ルリスティも小さく微笑み、ジェイクとともに共和国の砦へ向かって歩き出した。
二人の前には、彼女が育った共和国の砦。
その背後には、もう一つの故郷となった帝国へ続く道がある。
風に揺れる青い鳥は、もう離れた誰かとの再会を願うためだけのものではない。
再び繋がった人々が、ともに歩いていく未来を見守るように、
その小さな翼は昼の光を受けていた。




