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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第71話 別れの前に

ルーファスがクラウスの手紙を読み終えたあとも、

会議室には長い静寂が残っていた。


ルリスティは父から受け取った手紙を胸元へ抱き、

その隣では車椅子に座るジェイクが何も言わず寄り添っている。

クリスティは赤くなった目元へハンカチを当て、

ヴィオレットがその背をそっと撫でていた。


いつもなら軽口で空気を和らげるアレクシスも、今は何も言わない。

ルーファスも、クラウスから託された手紙を両手で大切に持ったまま、

長い間動かなかった。


やがてレオンハルトが窓辺を離れ、父へ向き直った。

「父上。一度、黎明の道周辺を確認してまいります」


その言葉に、室内の空気が僅かに現実へ引き戻された。


家族との再会と、クラウスの手紙を受け止める時間は必要だった。


だが、黒淵を貫いて現れた黎明の道は、今も砦の先に存在している。

安全に往来できるのか、道はこの先も維持されるのか。

確かめなければならないことは多い。


「頼む」

ルーファスが頷くと、アレクシスも姿勢を起こした。


「俺も行くよ。奈落騎士団団長として、帝国側の状態も確認しておきたい」

「私も同行します」

ヴィオレットが立ち上がる。


「奈落門の魔力反応を、共和国側から確認したいです」

「では、僕も」

当然のように続いたルシアンへ、アレクシスが横目を向けた。


「護衛される側にならないようにな」

「善処します」

僅かな笑いが生まれ、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


レオンハルトはルリスティへ向き直る。


「共和国側から、案内をお願いできますか」


ルリスティは父の手紙から顔を上げ、司令官としての表情を取り戻した。


「分かりました。黒淵の観測を担当している兵を同行させます。

それから、クルトワ中佐も現在黒淵にいるはずです。

共和国側の観測結果については、中佐から説明させます」


「お願いします」


短いやり取りを終え、レオンハルトたちは会議室を出ていった。


再び静けさが戻ると、クリスティがそっとルリスティの手を握った。

反対側にはジェイクがいる。


ルーファスは、その姿を何も言わず見守っていた。


◇


それから数時間後。


調査を終えたレオンハルトたちが、クルトワとともに会議室へ戻ってきた。

一行の外套には黒い塵が薄く付着し、靴には荒れた地面を歩いた痕が残っている。


「現時点では、通路に大きな異常はありません」


レオンハルトが地図を広げる。

その隣では、クルトワが共和国側の観測記録を机へ並べていた。


「黒淵内部の魔力と空間の歪みは、依然として残っています。

しかし、黎明の道を中心とした範囲では瘴気の濃度が大幅に低下していました。

通路へ直接干渉する動きも、現時点では確認されていません。

少人数であれば問題なく往来できます」


「魔物は?」

ルリスティが尋ねる。


「内部に気配はありますが、道へ近づこうとはしていません。

近づけないのかもしれません」


ヴィオレットが地図の中央へ指を置いた。


「この道には、クリスティとルリスティ、

黎明の剣と星導の魔導銃の力が重なっています」


「ただし、いつまで安定するかは分かりません」

ルシアンが補足する。

「突然消える可能性も否定できません」


ガレスが腕を組んだ。

「自由に人を通す段階ではないということだな」


「はい。帝国側には奈落騎士団を配置しました。

許可のない者を近づけないよう、副団長へ指示してあります」

アレクシスが答える。


「共和国側も同様に対応します」

ルリスティはガレスを見る。

「黒淵周辺の警戒を強化してください。調査担当者以外の立ち入りは禁止とします」


「承知しました」


「観測班には、必ず護衛を付けるべきでしょう」

ジェイクが車椅子から口を開いた。

「通路が開いたことで、魔物の動きが変わる可能性もあります」


ルリスティは再びガレスへ視線を向ける。

「大佐の意見も含め、警備体制を組み直してください」

「分かりました」


必要な指示が一通り決まると、レオンハルトはルーファスへ向き直った。

「父上。我々は、一度帝国へ戻るべきです」


その一言で、室内の空気が変わった。


「現在、帝国は皇帝不在の状態です。

皇族の多くと奈落騎士団団長まで国を空けています」


レオンハルトの視線が、クリスティへ向く。


「クリスティの無事も、共和国が今なお存続していることも、

帝国国内にはまだ正式に公表されていません。

奈落門を越える黎明の道が現れたことも含め、早急に国へ戻り、

今後の対応を整える必要があります」


ルーファスは黙ったまま地図を見つめた。


ようやく再会した娘が、この場所にいる。

できることなら、まだここにいたかった。


彼女がどのように生き、何を好み、どのような者たちに囲まれて育ったのか。

聞きたいことはいくらでもある。


けれど、ルーファスには帰りを待つ国があった。


「……そうだな。一度、戻ろう」


やがて静かに頷く。


その言葉が落ちた瞬間、クリスティの手がルリスティの袖を掴んだ。


「クリスティ」

「ようやく会えたのに……」


ルリスティは、その手へ自分の手を重ねた。


「今度は、もう二度と会えないわけではありません」


穏やかに微笑み、黒淵の方角へ目を向ける。


「道は、ここにあるのですから」


クリスティも黎明の道がある方角を見つめ、やがて小さく頷いた。


「私、一度帝国へ戻るね」

「皆様へ、無事な姿を見せてあげてください」


「うん」

「それから、また来てくださいね」


クリスティの表情が明るくなる。

「もちろん! 絶対に会いに来る!」


握り合った手へ、二人同時に力を込めた。

今度の別れは、永遠ではない。


「ヴィオレットには、共和国側へ残ってもらいたい」


レオンハルトが告げた。


「帝国側には魔術と聖霊に関する記録があり、

共和国側には長年黒淵を観測してきた技術と資料がある。

双方を合わせて調査する必要がある」


「承知しました」

ヴィオレットが頷く。

「帝国側から見た奈落門と、共和国側から見た黒淵。

異なる名で呼ばれてきた同じ災厄を、両国でともに調べます」


ルリスティはクルトワへ視線を向けた。


「共和国側の調査は、引き続きクルトワ中佐を中心に進めてください」

「承知しました」


クルトワは即座に答え、ヴィオレットへ向き直る。


「これまでの観測記録も、すべて確認していただきます。

帝国側の記録と照合すれば、何か見つかるかもしれません」


「ありがとうございます」

ヴィオレットも丁寧に頭を下げた。

「こちらからも、奈落門に関する記録と魔術的な観測方法を共有します」


百五十年間、互いの姿を失っていた二つの国が、

今度は同じ問題へ向き合おうとしていた。


「もちろん、僕も残ります」

ルシアンが当然のようにヴィオレットの隣へ並ぶ。


アレクシスが、呆れたように彼を見た。

「誰も聞いていないけど」

「ヴィオレット様が残られるのに、僕が帰るという選択肢はありません」


「護衛としてか?」

「それもあります」


「それ以外の方が大きそうな顔をしているな」

「否定はしません」


ルシアンが涼しい顔で答えると、アレクシスは小さく息を吐いた。

ヴィオレットは僅かに頬を赤くしながら、二人のやり取りを黙って聞いている。


ルーファスは、そんな二人へ視線を向けた。


「ルシアン。ヴィオレットを頼む」

「必ずお守りします」

「お前自身も無茶をするな」


一瞬目を瞬いたあと、ルシアンは真剣な表情で頭を下げた。


「承知いたしました」


ルーファスはレオンハルトへ尋ねる。


「出立はいつにする」

「黎明の道が安定している今のうちがよろしいかと。本日の昼過ぎには出立します」


別れまで、あと数時間。

ルーファスはしばらく考えたあと、ルリスティへ視線を向けた。


「その前に、一つだけ頼みたいことがある」

「何でしょうか」

「クラウス殿の墓へ、案内してもらえないだろうか」


ルリスティが目を見開く。


「父の墓へ……?」

「ああ」

ルーファスは、胸元に収めた手紙へ手を添えた。


「彼の言葉は受け取った。だが、私はまだクラウス殿へ直接言葉を返していない」


もう返事を聞くことも、顔を見ることもできない。

それでも、帝国へ戻る前に、彼が眠る場所で自分の言葉を伝えたかった。


「どうしても、墓へ案内してもらいたい」


皇帝としてではなく、同じ娘を愛した一人の父親として。

ルリスティはしばらくルーファスを見つめ、やがて静かに頷いた。


「……分かりました。ご案内いたします」


◇


砦にほど近い軍人墓地には、穏やかな風が吹いていた。


ルーファスは白い花束を手に、ルリスティと並んで墓標の間を歩いていく。

少し離れた場所では、リカルドとガレスが足を止めていた。


やがてルリスティが、一つの簡素な石碑の前へ立つ。

そこには、共和国の文字で名が刻まれていた。


クラウス・トリウリッド

共和国の英雄

共和国辺境防衛軍司令官


黒淵から多くの者を守り、ルリスティを娘として育てた父。


「ここです」


ルリスティの声が僅かに震えた。


「ここに、父が眠っています」


ルーファスは墓標を見つめたまま、しばらく動かなかった。

やがて花束を墓前へ供え、その場へゆっくりと膝をつく。

帝国皇帝としてではなく、一人の男として深く頭を下げた。


「初めてお目にかかる、クラウス殿」


低い声が風の中へ落ちる。


「私は、ルーファス・フォン・マーヴェリア。ルリスティと血を分けた父だ」


ルーファスは胸元から手紙を取り出し、両手で大切に持った。


「あなたの言葉は、確かに受け取った。

そして、あなたが守り育てた娘にも会うことができた」


そこで一度言葉を切り、隣にいるルリスティへ目を向ける。


「あなたの言うとおりだった。強く、優しい娘だ」


ルリスティの瞳が揺れた。


クラウスが生涯をかけて育てた娘を、

ようやくその目で見ることができた父からの返事だった。


ルーファスは再び墓標へ向き直る。


「あなたが娘へ与えてくれた年月を、私は決して奪わない。

ルリスティは、これからもあなたの娘だ」


その声に迷いはなかった。


「そして許されるなら、

私もこれから先、あの子の人生を父として見守らせてもらいたい」


ルリスティの瞳に、涙が滲んだ。


「いつか、あの子が私を父と呼んでくれる日が来るかは分からない」


ルーファスは穏やかに続ける。


「それでも待つ。あなたが守り育てた娘が、自ら私へ手を伸ばしてくれるまで」


言葉を終え、もう一度深く頭を下げる。


ルリスティも隣へ膝をつき、墓標に刻まれた父の名を見つめた。


「お父さん」


その声は、幼い娘のように柔らかかった。


「陛下が、会いに来てくださいました。

お父さんが、ずっと言葉を届けようとしていた方です」


一筋の涙が頬を伝う。


「ちゃんと届きましたよ」


風が、二人の白銀の髪を同時に揺らした。


「きっと父も、陛下にお会いしたかったと思います」

「そうだろうか」

「はい。そうでなければ、あの手紙を遺したりはしません」


ルーファスの表情が僅かに緩む。


「そうか」


二人はしばらく並び、同じ人を想いながら墓標へ祈りを捧げた。

まだルリスティは、隣にいる男を父とは呼べない。

それでも今、二人はクラウスによって確かに繋がっていた。


やがてルーファスは立ち上がり、墓標へ最後に一礼する。


「また来る、クラウス殿」


一人の父親が、もう一人の父親へ告げる。


「次に来る時には、あの子がどのように過ごしているか、また報告させてもらおう」


返事はない。

それでも墓前を渡った風は、どこか穏やかだった。


◇


砦へ戻ると、出立の準備が始まった。


レオンハルトとアレクシスは持ち帰る資料をまとめ、

ヴィオレットとルシアンは共和国の技術者たちとの打ち合わせへ向かう。

クリスティとリカルドも、帰還の支度へ入った。


そんな中、ジェイクは車椅子に座ったまま、

机の上に残された報告書へ手を伸ばそうとしていた。


ルリスティは、すぐにその手を押さえる。


「大佐」

「読むだけですよ」


「医務官から休むよう言われています」

「ですが――」

「命令です。医務室へ戻ってください」


ジェイクは僅かに黙り、諦めたように答えた。


「……承知しました」


ガレスがジェイクの背後へ回り、車椅子の取っ手を掴む。


「今度こそ、大人しく運ばれてもらうぞ」

「できれば丁重にお願いします」

「善処する」


ジェイクは連れていかれる前に、ルリスティを振り返った。


「見送りには参りますよ」

「医務官の許可が下りれば」


「必ず交渉します」

「無理に迫らないでください」


いつものやり取りに、ルリスティの口元が僅かに緩んだ。


やがて会議室には、ルーファスとルリスティだけが残った。

ルリスティにも、司令官としてやるべきことがある。


扉へ向かい、取っ手へ手を掛けたところで、一度だけ振り返る。

ルーファスも、机の前から娘を見つめていた。


何かを言おうとして、どちらも言葉を見つけられない。

墓前で交わした言葉が、二人の間へ静かに残っていた。


「では、出立の準備を整えてまいります」

「ああ」

「失礼いたします」


扉が閉じ、娘の足音が遠ざかっていく。

ルーファスは胸元へ収めた手紙へ触れた。


『どうか、皇女としてではなく。』

『一人の娘として、抱き締めてあげてください。』


目を閉じ、その言葉が記された手紙を胸へ押し当てる。


別れまで、あと数時間。

彼はまだ知らない。


待つと決めたその日のうちに、

娘の方から自分へ最初の一歩を踏み出してくれることを。


十七年前、幼い娘の口から最後に聞いた呼び名を、

十九歳になったその声でもう一度聞くことになることを。


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