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第6話 封じられた名前

「強い心的衝撃による、記憶の欠落と思われます。」


皇帝執務室で宮廷治癒術師長が、深く頭を下げていた。

「クリスティ殿下は、故皇妃フェリシア様と、

第三皇女ルリスティ殿下にまつわる記憶を失っておられます。」


「事件当日のこともか。」

「はい。現在確認できる限りでは、その日の記憶も残っておられません。」

「それ以外に異常は?」

「大きな異常は見られません。」


父や兄姉の顔は分かっている。

いつもの部屋や侍女たちにも、混乱した様子は見せなかった。

皇城での生活も、それまでと変わらず受け入れている。


失われていたのは、あの日奪われた二人に関する記憶。

そして、その二人を奪った事件そのものだった。


「記憶が戻る可能性はあるのか?」

「分かりません。」

治癒術師長は、苦しげに言葉を続けた。


「成長とともに、何かのきっかけで思い出される可能性はございます。

しかし、無理に記憶を刺激すれば、

再び御心へ大きな負担がかかる恐れがあります」


母がいたこと、自分と同じ顔を持つ双子の妹がいたこと。

その母が目の前で命を奪われたこと。

妹が泣き叫びながら、奈落へ消えていったこと。


それらを、まだ二歳の娘へもう一度背負わせるのか。

長い沈黙の末、ルーファスは静かに告げた。


「……今は、何も伝えるな。」

「陛下……。」

「クリスティの心は、生きるために記憶を閉ざしたのだろう。」

机の下で、強く握り締めた手が震えていた。

「父親である私が、無理にその扉を開くべきではない。」


「ですが……。」

傍らに控えていた侍女長が、迷いながら問いかける。

「ルリスティ殿下の存在まで、お隠しになるのですか?」

「ルリスティを、いなかったことにはしない。」

ルーファスは、強く言い切った。


「ルリスティは私の娘だ。その事実は、何があっても変わらない。

…あの子が、どこかで生きていると私は信じている。」

その声に、迷いはなかった。

「だが、帰ってくる日も分からぬ妹を待ち続ける苦しみを、

今のクリスティにまで背負わせることはできない。」


母と妹を忘れることでしか、

クリスティの小さな心は耐えられなかった。

その心へ、新たな悲しみを押しつけることなどできなかった。


「当分の間、クリスティの前で、

フェリシアとルリスティのことを話してはならない。

心が安定し、真実を受け止められる時が来るまでは。」


それは、本来ならば一時的な措置のはずだった。



その日の夕刻。

ルーファスは、クリスティを除く三人の子どもたちを集めた。


「当分の間、クリスティの前で、

母とルリスティのことを口にしてはならない。」


最初に立ち上がったのは、アレクシスだった。

「そんなの、おかしいです!」

小さな拳が震えている。

「クリスが忘れたからって、ルリまで消すのですか!」


「消しはしない。」

ルーファスは、息子の目を真っ直ぐに見つめた。

「ルリスティは、お前たちの妹だ。私の娘だ。それは誰にも変えられない。」

「だったら、クリスにも教えればいい!」


「忘れなければ、生きられなかったのだ。」

アレクシスの言葉が止まった。

「クリスティは、ルリスティを捨てたのではない。

母を忘れたかったわけでもない。」


ルーファスの声が、僅かに掠れる。

「あの子の心が、自分を守るために閉じたのだ。」

ヴィオレットが、膝の上で小さな手を握り締めた。

「お母様のことも……話してはいけないのですか?」


「今は、まだ。」

「お母様は、クリスティのことを、とても愛していたのに……。」

「分かっている。」


それが、何よりも苦しかった。

母を失っただけではない。

愛されていた記憶まで、クリスティは失ってしまった。


レオンハルトは、俯いたまま静かに口を開いた。

「私たちが覚えています。」

アレクシスが顔を上げる。

「兄上……。」

「クリスティが忘れていても、

母上とルリスティがいたことを、私たちが覚えていればいい。」


レオンハルトは、弟と妹を順番に見つめた。

「いつかルリスティが帰ってきた時に、

おかえりと言える者がいなければならない。」

アレクシスの目から、涙がこぼれ落ちた。

「俺は、忘れない。」


「私もです。」

ヴィオレットも、震える声で答える。

「お母様のことも、ルリスティのことも、絶対に忘れません。」


ルーファスは、三人の子どもたちを見つめた。

「ああ…。」

涙を堪えるように、一度目を閉じる。

「私も決して、忘れない。」



その日の夜。

ルーファスは、皇城の一室を訪れていた。

クリスティとルリスティ、

双子の皇女のために用意された部屋だった。


小さな寝台が二つ。

同じ形の椅子が二脚。

色違いのぬいぐるみ。

二人分の小さな靴。

何もかもが、二人分ずつ並んでいた。


壁には、事件が起こる少し前に描かれた、

皇帝一家の肖像画が飾られている。


ルーファスとフェリシア。

その傍らに立つ、レオンハルト、アレクシス、ヴィオレット。

そして中央にはフェリシアの腕に抱かれ、

同じ顔で笑うクリスティとルリスティがいた。


七人の家族。

まだ誰も、あの日が訪れることなど知らなかった頃の姿。


ルーファスは、部屋の中央で立ち尽くした。

小さな机の上には、

幼い手で描かれた二つの歪な丸が残されていた。

フェリシアが笑いながら、双子へ描き方を教えていた絵だった。

クリスティとルリスティが二人で描いた、初めての絵。


「陛下。」

侍女長が、扉のそばで待っている。

「室内の物は、すべて運び出しますか。」


「……いや。」

ルーファスは、家族の肖像画を見上げた。

「クリスティの衣服と、今後必要になる日用品だけを、

新しい居室へ移せ。残りはすべて、この部屋に残す。」

「では……。」

「この部屋ごと封印せよ。」


侍女長が息を呑んだ。

ここは、ルリスティだけの部屋ではない。

クリスティとルリスティが、

共に笑い、共に眠り、共に過ごした部屋だった。


けれど、このままクリスティが足を踏み入れれば、

閉ざされた記憶を無理に呼び起こしてしまうかもしれない。


「今後、この部屋への立ち入りは、私の許可を得た者にのみ認める。」

「ルリスティの衣服、玩具、肖像画。

そのほか、あの子に関わる品はすべてここへ集めろ。」

「かしこまりました。」


「だが、記録を消してはならない。」

ルーファスは、侍女長へ視線を向けた。

「ルリスティの名を、皇室の歴史から消すことは許さぬ。」

「系譜、出生記録、養育記録、侍女日誌は、皇室記録庫の封印区画へ移せ。

閲覧には、皇帝の許可を必要とするものとする。」

「承知いたしました。」


「そして――。」

ルーファスは、二つ並んだ小さな寝台を見つめた。

「決して、クリスティの目に触れさせるな。」


「皇城に仕える者たちにも伝えよ。

クリスティの前で、ルリスティの名を口にすることを禁ずる。」

「かしこまりました。」

侍女長は、深く頭を下げた。

それでも、すぐには部屋を出ていかなかった。


「陛下……。」

「何だ。」

「いつか、ルリスティ様がお戻りになった時は……。」

震える声で尋ねる。

「この部屋を、再び開かれるのでしょうか?」


ルーファスは、長い間答えなかった。

やがて、二つ並んだ寝台の間へ歩み寄ると小さな枕へ静かに手を置いた。

「ああ。」

小さく、けれど、確かな声で答える。

「その日のために、この部屋を残す。」


双子はまだ、国民の前での正式なお披露目を迎える前だった。

そのため、二人の皇女が誕生したことを詳しく知る者は、

皇族や一部の高位貴族、皇城に仕える者たちに限られていた。


ルリスティの存在を消すための封印ではない。

クリスティの心を守り、いつかルリスティが帰る場所を、

あの日のまま残すための封印だった。


扉が閉じられる。

宮廷魔術師たちの手によって、幾重もの封印が施されていく。

最後の光が消え、扉が完全に閉ざされる直前、

ルーファスは、誰もいない部屋の向こうへ告げた。


「必ず、迎えに行く。」

震える手を、閉ざされた扉へ触れさせる。

「だから……。どうか生きていてくれ、ルリスティ。」



その夜。

クリスティは、父の腕の中で眠っていた。

「おとうしゃま。」

「何だ?」

「クリスね…。」


幼い手が、ルーファスの服を握る。

「なんだか、さみしいの……。」

「……そうか。」

「どうしてか、わからないけど…。」


クリスティの中から、母と妹の記憶は失われていた。

けれど、二人がいた場所に残された空白まで消えたわけではなかった。

ルーファスは、娘の小さな身体を強く抱き締める。


「大丈夫だ。お父様がここにいる。

お兄様たちも、お姉様もいる。」

髪を撫でながら、穏やかな声で言い聞かせる。

「だから、安心して眠りなさい。」

「うん……。」


やがて、クリスティの呼吸が穏やかになった。

ルーファスは、その寝顔を見つめながら、声を殺して涙を流した。



それは、本来ならば一時的な沈黙であるはずだった。

クリスティの心が安定するまで。

もう少し成長するまで。

ルリスティの行方を示す、何らかの手掛かりが見つかるまで。


真実を伝える時は、いずれ訪れるはずだった。

しかし、ルリスティは見つからなかった。


何の希望も与えられないまま、

妹の存在だけを知らせることを、ルーファスは何度もためらった。


やがてクリスティの心が安定し、

ある程度成長すると、母の存在まで隠し続けることはしなかった。

フェリシア・フォン・マーヴェリアが自分の母であったこと。

そして、自分が幼い頃に亡くなったこと。


皇城にはフェリシアの肖像が残され、

兄姉たちも、母がクリスティを深く愛していたことを語った。

けれどクリスティは、

母がどのように亡くなったのかを詳しく尋ねることはなかった。


フェリシアのことが話題に上るたび、

父や兄姉たちの表情に浮かぶ悲しみに、

幼いながらも気付いていたからだ。


誰かに止められたわけではない。

ただクリスティ自身が、それ以上を聞こうとはしなかった。


そして家族もまた、

フェリシアが命を落とした本当の理由と、

クリスティに双子の妹がいたことだけは、語ることができなかった。


捜索は、その後も続けられた。

当初は、

皇帝直属の騎士と魔術師を多数投入した大規模な極秘捜索が行われた。


しかし、年月が流れるにつれて、

捜索へ割かれる人員は少しずつ減っていった。

それでも、選ばれた騎士と魔術師たちは、

誰にも知られることなく探索を続けた。


一年。

五年。

十年。


どれほど年月を重ねても、ルリスティは見つからなかった。

そして気づけば、あの日から十五年が過ぎていた。


事件を知る者たちは、固く口を閉ざし。

その後に皇城へ仕え始めた者の多くは、失われた皇女の名を知らなかった。


知っていたとしても、それは古い皇室記録の中にだけ残る、

触れてはならない存在としてだった。

いつしか、ルリスティの名は、皇城内でほとんど語られなくなった。


一時的であるはずだった沈黙は、

長い年月の中で触れてはならない禁忌へと変わっていった。


それでも、家族は忘れなかった。

閉ざされた双子の部屋も、

ルリスティの帰還を待ち続けるように、あの日のまま残されていた。


もとは、二人の皇女が共に過ごした部屋。

けれどクリスティの品が移されてからは、

そこは事実上失われた皇女ルリスティの部屋となっていた。


マーヴェリア帝国の皇室にとって、

ルリスティ・フォン・マーヴェリアは、失われた皇女となった。


だが、帝国の誰も知らない奈落の向こう側で彼女は確かに生きていた。

自分を待ち続ける家族のことも。

自分がマーヴェリア帝国の皇女であることも。


何一つ、知らないまま。

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