第5話 残された者たち
皇城では、もう一人の幼い皇女にも異変が起きていた。
「おかあ、しゃま……。」
熱に浮かされた声が、静かな寝室へ落ちる。
双子の皇女が共に過ごしていた部屋。
並んだ二つの小さな寝台のうち片方で、
クリスティの小さな身体が苦しそうに震えていた。
白銀の髪は、汗で額へ張りつき。
固く閉じられた瞼の端からは、涙が流れている。
もう一つの寝台は、主人を失ったまま空いていた。
「ルリ……。」
何かを探すように、小さな手が宙を彷徨う。
ルーファスは、その手を両手で包み込んだ。
「ここにいる。」
何が、とは言えなかった。
探している双子の妹が、
ここにはいないことを知っていたから。
「お父様は、ここにいる。だから、安心しなさい。」
「ルリ……。」
弱々しい指が、ルーファスの手を握り返す。
その力は、あまりにも弱かった。
「治癒術師、娘を助けろ。」
「全力を尽くしております。」
宮廷治癒術師は、苦しげに目を伏せた。
「しかし、感染症や魔力障害など、クリスティ殿下のお身体には、
熱の原因となる異常が見つかりません。」
「ならば、なぜ熱が下がらない?」
「強い心的衝撃によるものと考えられます。」
治癒術師は、言葉を選ぶように続ける。
「殿下の御心が、受け止めきれずにいるのでしょう。」
母を、目の前で失った。
生まれた時から常に隣にいた双子の妹を、奈落へ奪われた。
まだ二歳の子どもには、あまりにも大きすぎる出来事だった。
「このまま高熱が続けば……、
お命に関わる可能性もございます。」
ルーファスの顔から、僅かに血の気が引いた。
妻を失い、一人の娘を奪われた。
そして今、残された娘の命まで、消えようとしている。
「助けてくれ……。」
それは、皇帝の命令ではなかった。
これ以上誰も失いたくない。
ただそれだけを願う、一人の父親の縋るような声だった。
「この子まで……連れていかせないでくれ……。」
◇
クリスティの高熱は、一週間続いた。
医師と治癒術師が交代で寝室へ入り、
侍女たちは何度も冷たい布を取り替えた。
ルーファスも公務の合間を縫い、繰り返し娘の傍へ戻った。
そして、幼い兄姉たちもまた、
閉ざされた扉の向こうを見つめ続けていた。
十一歳のレオンハルトは、
毎夜クリスティの部屋の前に座っていた。
「レオンハルト殿下。少しお休みください。」
侍女が声をかけても、少年は扉から目を離さなかった。
「クリスティが目を覚ますまで、ここにいる。」
「ですが……。」
「父上は、帝国を守らなければならない。」
アレクシスも、ヴィオレットも、クリスティも。
今度こそ、自分が守らなければならない。
父から、すべてを背負う必要はないと言われたばかりだった。
それでも、何もできなかった自分を許すことができなかった。
「私は、兄だから。」
静かな言葉だった。
けれど、その声には十一歳の少年が背負うには、
重すぎる覚悟が滲んでいた。
この日を境に、レオンハルトは、
自分の悲しみを人前で見せまいとするようになった。
◇
九歳のアレクシスは、
訓練場で何度も木剣を振っていた。
一度。
二度。
三度。
小さな手の皮が剥けても。
腕が上がらなくなっても、止めようとはしなかった。
「もっと強かったら……。」
木剣が、訓練用の人形へ叩きつけられる。
「俺がもっと強かったら、お母様を守れた!」
もう一度。
「ルリだって、連れていかれなかった!」
「アレクシス殿下……。」
見守っていた騎士が声をかけても、
アレクシスは木剣を下ろさなかった。
「許さない。」
少年は、遠く離れた奈落門の方角を睨んだ。
「あの魔獣も、奈落門も。」
強く、木剣を握り締める。
「全部、俺が倒す。」
まだ九歳。
敵の正体も、奈落門の仕組みも知らない。
それでもアレクシスは誓った。
「もう二度と……、俺の目の前で、誰も死なせない!」
その日から、アレクシスは、
誰かを守るための強さを求め続けることになる。
◇
七歳のヴィオレットは、皇城の書庫にいた。
机の上には、
彼女の身体ほどもある魔術書が積み上げられている。
小さな手で頁をめくり、
難解な術式を一つずつ目で追っていた。
「ヴィオレット殿下。」
老魔術師が、困ったように声をかける。
「こちらは、殿下にはまだ難しい書物でございます。」
「読めます。」
幼い顔には、涙の跡が残っていた。
「奈落門について書かれた本を、すべて持ってきてください。」
「しかし……。」
「お母様は、とても強い魔術師でした。」
ヴィオレットは、本へ視線を落としたまま続ける。
「それなのに、奈落の亀裂から現れた魔獣に殺された。」
老魔術師は、何も答えられなかった。
「奈落門とは、何なのですか?」
「それは……我々にも、まだ分かっておりません。」
「なら……、私が調べます。」
ヴィオレットは、ゆっくりと顔を上げた。
紫水晶の瞳には、幼い少女には似つかわしくない強い意志が宿っていた。
「誰にも分からないのなら、私が分かるようになります。」
母を奪ったものが、何だったのか。
妹が、どこへ消えたのか。
「いつか必ず、私が突き止めます。」
その日から、ヴィオレットは奈落を知るため、
誰よりも熱心に魔術を学ぶようになった。
◇
七日目の朝。
皇帝執務室の扉が、勢いよく開かれた。
「陛下!」
駆け込んできた侍女の目から、涙が溢れている。
「クリスティ殿下が……。」
声を震わせながら、それでも確かな笑みを浮かべた。
「お目覚めになりました!」
ルーファスは返事をすることもなく、執務室を飛び出した。
◇
「おとう、しゃま……?」
寝台の上でクリスティが、ゆっくりと目を開いていた。
弱々しい声だった。
それでも、確かに生きている。
「クリスティ。」
ルーファスは寝台の傍らへ膝をつき、
娘の小さな身体を抱き締めた。
「苦しくはないか。」
「……おなか、すいた。」
幼い答えだった。
ルーファスは堪えきれず、強く目を閉じた。
「ああ……。」
声が震えないよう。
娘を抱く腕へ、力を込める。
「すぐに用意させよう。」
知らせを聞いた兄姉たちも、次々に寝室へ入ってきた。
「クリスティ。」
「クリス!」
「クリスティ!」
クリスティは、兄姉の顔を順番に見つめた。
「レオンおにいしゃま。」
「……ああ」
レオンハルトの目へ、涙が浮かぶ。
「どうして、ないてるの?」
「何でもない。少し、目が痛いだけだ。」
少年は、乱暴に目元を拭った。
「へんなの。」
クリスティが、微かに笑う。
その笑顔を見て部屋にいた全員が、安堵の息を吐いた。
いつものクリスティだ。
何も変わっていない。
誰もが、そう思った。
その時、クリスティの視線が、壁に飾られた家族の肖像画へ向いた。
ルーファスと金色の髪を持つフェリシア。
その周囲に並ぶ、五人の子どもたち。
クリスティは長い間、肖像画を見つめていた。
「おとうしゃま。」
「何だ?」
小さな指が、フェリシアへ向けられる。
「このひと、だあれ?」
誰も、すぐには答えられなかった。
「クリスティ……?」
ヴィオレットが、掠れた声で妹の名を呼ぶ。
クリスティは次に肖像画の中に描かれた、
小さな少女を指差した。
自分と同じ白銀の髪。
同じ紫水晶の瞳。
自分と瓜二つの顔を持つ、もう一人の少女。
「どうして……。」
不思議そうに、首を傾げる。
「クリスが、ふたりいるの?」
その言葉に、ルーファスは悟った。
生きるためにクリスティの小さな心が、何を閉ざしたのかを。
母のことを、双子の妹のことを。
そして、あの日皇城の空で起きた、すべてのことを。




