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第4話 失ったもの

雨は、静かに降り続いていた。


地面を激しく叩くこともなく、

強い風を伴うこともなく、

まるで誰かが、

声を押し殺して泣いているかのような細い雨だった。


つい数時間前まで、

子どもたちの笑い声に満ちていた庭園には。

もう、誰の姿もない。

雨に濡れた花々と、

赤く染まった石畳だけが残されていた。


「おかあしゃま……。」

クリスティの掠れた声が、

静かな室内へ落ちた。

白い花に囲まれた寝台の上で、

フェリシアは目を閉じていた。

金色の髪は、綺麗に整えられている。

その顔には、眠っている時と変わらない穏やかさが残っていた。


「おきて……。」

クリスティは、小さな手で母の指へ触れた。

けれど、その手が握り返されることはなかった。

「ルリが、いなくなっちゃったの……。」

母が目を覚ませば、きっとルリスティを連れ戻してくれる。

いつものように双子を抱き締め、大丈夫だと笑ってくれる。

二歳のクリスティは、まだそう信じていた。

「おかあしゃま……。」


傍らにいたヴィオレットが、

泣きながら妹を抱き締める。

まだ七歳の少女も、

母が二度と目を覚まさないという現実を受け止めきれずにいた。

それでも、

クリスティを一人にしてはいけないことだけは分かっていた。



別の部屋では、

アレクシスが騎士たちへ食ってかかっていた。

「俺が探しに行く!」

「アレクシス殿下!」

「ルリは一人なんだぞ!」

押し止める騎士の腕を、小さな拳で何度も叩く。

「ルリは怖がりなんだ!一人にしたら、泣くんだぞ!」

「殿下。亀裂は、すでに閉じています」

「だったら、また開ければいいだろ!」

誰も、その言葉へ答えることができなかった。

奈落の亀裂は、痕跡すら残さず閉じていた。

どこへつながっていたのか、

幼い皇女が今も生きているのか、

確かめる方法すら存在しなかった。



レオンハルトは、

母の眠る部屋の前でただ立ち尽くしていた。

乱れた白銀の髪。

強く握り締められた拳。

掌には、爪が食い込んだ跡が残っている。

母を守れなかった。

妹を守れなかった。

長男でありながら、何一つできなかった。

その思いだけが、

十一歳の少年の胸へ、重く沈んでいた。



その夜。

ルーファスは、フェリシアの傍を離れなかった。

椅子へ座り、

冷たくなった妻の手を両手で包み続けていた。

「フェリシア……。」

何度呼んでも、返事はない。

分かっていた。

彼女は、もう戻らない。

それでも、名を呼ばずにはいられなかった。


つい数時間前。

フェリシアは、明日も良い日になりそうだと言った。

ルーファスは迷うことなく、

十年後も、二十年後も、皆で笑っていると答えた。

それが当然の未来であるかのように。

何一つ、疑わずに。


「私は、必ず守ると言った。」

妻の手を、額へ押し当てる。

「それなのに……。」

声が震えた。

「何一つ、守れなかった。」

妻も。

娘も。

伸ばした手は、どちらにも届かなかった。

「すまない……。」


その夜。

誰もいない部屋の中で、

ルーファスは声を殺して泣いた。

窓の外では、細い雨が夜を越えて降り続いていた。



早朝。

皇帝執務室の扉が開く。

窓の外では、変わらず雨が降っていた。

「陛下……。」

待機していた秘書官が息を呑む。

現れたルーファスは皇帝の正装に身を包んでいたが、

顔は血の気を失い、

僅か一晩で何年も年を重ねたように見えた。

けれど、その歩みは揺らがなかった。


「騎士団長と、宮廷魔術師団長を呼べ。」

低く、よく通る声に秘書官は反射的に背筋を伸ばす。

「歴史資料院と、地理院の責任者もだ。

奈落門に関する記録を、

亀裂が出現した百五十年前まで遡って調べさせろ。」

「陛下。少しお休みになられては……。」

「休んでいる時間はない。」

ルーファスは執務机へ歩み寄り、

広げられた帝国全土の地図を見下ろした。

「ルリスティは、生きているかもしれない。」

秘書官は、それ以上何も言えなかった。


「昨夜の亀裂に似た現象が、過去に発生していないか調べろ。」

「奈落へ飲み込まれた人間や物が、別の場所で発見された事例もだ。」

「魔力構造、発生地点、継続時間、

どれほど些細な記述でも、見落とすな。」

「承知いたしました。」

「各領主、地方騎士団、神殿、治癒院、孤児院へ、

皇帝勅命による極秘照会を出せ。」

ルーファスの指が、地図の上を滑る。


皇都。

森林地帯。

山岳地帯。

沿岸部。

そして、帝国の最も遠い辺境まで。


「白銀の髪と紫水晶の瞳を持つ、二歳の少女を捜索する。」

「昨日の事件以降、

身元の分からない幼児が突然現れたという報告がないか、

すべての領地へ確認させろ。」

「照会の内容は、指定された責任者以外へ漏らすな。

ルリスティの身分についても、必要以上に明かしてはならない。」

「陛下、亀裂の転移先が帝国内とは限りません。」

「分かっている。」


ルーファスは地図を見下ろした。

「だからといって帝国内にいる可能性を捨てる理由にはならない。

まずは、我々の手が届く場所をすべて探せ。」

「同時に、亀裂が帝国外や通常の移動では

たどり着けない場所へ通じた可能性も調べる。」

「可能性を一つずつ潰していく。

それしか今の我々にできることはない。」

静かな声だった。

けれど、そこにいる誰もが皇帝の揺るぎない決意を感じ取っていた。


「庭園に残された魔獣の血液、外殻の破片、

魔力残滓も保全せよ。

あの魔獣が、なぜルリスティを狙ったのかも調べる。」

偶然だったのか。

皇族の加護に反応したのか。

それとも、何か別の目的があったのか。

「すべてだ。」

「はい。」

秘書官が、深く頭を下げる。



亀裂の発生直後から歴史資料院では、

過去の類似事例を探す緊急調査が始められていた。

それから数時間後。

一人の文官が、薄い資料を手に執務室へ入ってきた。

「陛下、奈落の亀裂に関する、

暫定的な調査報告が届いております。」

ルーファスが顔を上げる。

「報告せよ。」

「はい。」


文官は、資料を開いた。

「百五十年前に奈落門が出現して以降、

奈落門本体とは異なる小規模な亀裂が確認された事例は、

記録上二十件。巻き込まれた者は、合わせて八十七名です。」

文官はそこで一度言葉を区切り、言葉を続けた。

「そのうち、生存が確認された者はおりません。」


執務室に、重い沈黙が落ちる。

「……続けろ。」

ルーファスの声は変わらなかった。

「はい。」

文官は、次の頁をめくる。

「昨日の皇城における事例を除けば、

最も新しい記録は三十年前です。

帝国北西部の山岳地帯で、突発的な亀裂が発生しております。」

ルーファスの目が、僅かに細められた。

「被害者は一名。当時七歳の少年です」

「名は…。」

文官は、記録へ視線を落とした。

「クラウス・シュナイダー。」

ルーファスは、差し出された資料を受け取った。

そこに残されていたのは、あまりにも簡素な記録だった。


三十年前。

帝国北西部の小さな山村で、突如として奈落の亀裂が発生。

七歳の少年が巻き込まれ、そのまま消息を絶った。

捜索は一年以上にわたって続けられたが、

衣服も、

血痕も、

遺体も、

何一つ、発見されなかった。


「三十年間、痕跡がないのか。」

「はい。」

「亀裂が発生した場所を中心に、山岳一帯が捜索されました。

しかし、少年の行方を示すものは何も見つかっておりません。」


ルーファスは、資料に記された名前を見つめた。

クラウス・シュナイダー。

七歳。

まだ、幼い子どもだった。


「ほかの事例は。」

「いずれも同様です。亀裂へ飲み込まれた後、

発見された者は一人もおりません。

生きて戻った記録も……ございません。」

文官の声が、次第に小さくなる。

「恐れながら……。」

「何だ。」

「奈落へ飲み込まれた者が生存している可能性は、

……極めて低いかと。」


ルーファスは、何も答えなかった。

再び、資料へ目を落とす。

どれほど捜しても、見つからなかった少年。

遺体さえ、残されなかった少年。

それを死んだと判断するべきなのか。

それとも、

奈落がこの世界のどこかへつながっていたと考えるべきなのか。


「陛下。」

秘書官が、慎重に口を開いた。

「ルリスティ殿下も、すでに――。」

「口にするな。」

静かな一言だった。

それだけで、執務室の空気が凍りついた。

ルーファスは、ゆっくりと顔を上げる。

紫水晶の瞳には深い悲しみと、

決して消えることのない意志が宿っていた。


「私は皇帝だ。」

一度、言葉を切る。

「そして、ルリスティの父親だ。」

奈落へ消えた者が、

一人として戻っていないことは分かっている。

生存を示す証拠など、どこにもない。

それでも、娘の死を示す証拠もまたどこにもなかった。

「生きている可能性が僅かでも残されているのなら、

私はそれを信じる。」

誰も、それ以上の言葉を返すことはできなかった。


「クラウス・シュナイダーに関する記録を集めろ。」

「すべて、でしょうか。」

「ああ。出生地、家族、亀裂が発生するまでの行動、

当時の捜索記録。残らず確認せよ。」

「承知いたしました。」

「ほかの八十六名についても同様だ。」

ルーファスは、資料を机へ置いた。

「失踪者に共通点がないか、

発生した亀裂に何らかの規則性がなかったか、

もう一度、すべて調べ直せ。」

「はい。」

側近たちが、一斉に頭を下げた。

ルーファスは、再びクラウスの記録へ視線を落とした。


七歳の少年。

三十年前。

帝国北西部から、跡形もなく消えた一人の子ども。

もし、奈落が死だけをもたらすものではなく、

どこか遠い場所へつながる道でもあるのなら。


「ルリスティも……。」

その呟きは誰の耳にも届かなかった。

ルーファスは、しばらくクラウスの記録を見つめた後、

静かに資料を閉じた。

その傍らには、もう一つの書類が置かれている。

表紙に記されていたのは、

皇妃フェリシアの国葬に関する文字だった。


娘を捜すための命令を出す一方で、

最愛の妻との別れも皇帝として執り行わなければならない。

その現実を突きつけられたように、

ルーファスの指先が微かに震えた。

それでも、目を逸らすことはなかった。

「フェリシアの国葬を執り行う。」

皇妃として。

そして、五人の子どもたちの母として。

帝国中の人々が、彼女へ別れを告げられるように。

「承知いたしました。」

秘書官が、再び頭を下げた。


「子どもたちは?」

「クリスティ殿下は、ヴィオレット殿下とご一緒です。

アレクシス殿下は、今もルリスティ殿下の捜索を求めておられます。」

秘書官が、僅かに言葉を詰まらせた。

「レオンハルト殿下は……陛下にお会いしたいと。」

「ここへ通せ。」

ほどなくして、執務室へレオンハルトが入ってきた。

目は赤く腫れ、顔色も悪い。

それでも父の前では、必死に背筋を伸ばしていた。


「父上。」

「レオン。」

「私が、もっと早く動けていたら……。」

震える声が漏れる。

「母上も、ルリスティも…守れたかもしれません。」

「お前の責任ではない。」

ルーファスは、はっきりと告げた。

「ですが、私は長男です。」

「お前は、まだ十一歳だ。」

ルーファスは机を回り、息子の前へ立った。

「母と妹を守る責任を、お前一人が負う必要などなかった。

守るべきだったのは、私だ。」

「父上……。」

「兄だからと、すべてを背負う必要はない。」


フェリシアの最後の言葉が、脳裏に蘇る。

――レオンハルトは、責任感の強い子です。

――きっと、皆を守ろうとして無理をします。


ルーファスは、息子の小さな肩へ手を置いた。

「泣いていい。」

レオンハルトの紫水晶の瞳が揺れた。

「母を失ったのだ。妹も、いなくなった。

悲しみを我慢する必要などない。」

堪えていた涙が、レオンハルトの頬を伝った。

ルーファスは息子を引き寄せ、強く抱き締める。

皇帝と皇子としてではなく、同じ家族を失った父と息子として。


「ルリスティは……見つかりますか……?」

レオンハルトが、震える声で尋ねる。

何の保証もない。

どこへ消えたのかさえ、分からない。

それでも、父親が諦めることなどできなかった。

「見つける。」

ルーファスは答えた。

「何年かかっても、世界のどこにいようとも。」

息子の身体を抱く腕へ、力を込める。

「必ず、連れて帰る。」



その日から。

皇帝直属の騎士と魔術師による、

失われた第三皇女の極秘捜索が始まった。

選ばれた騎士たちは帝国全土を駆け巡り、

魔術師たちは亀裂と空間転移の研究を始め、

学者たちは、長く眠っていた古い記録を紐解いた。

けれど、

その手掛かりは、どこにも見つからなかった。


そして同じ頃。

皇城では、もう一人の幼い皇女にも異変が起き始めていた。

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