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第3話 奈落の訪れ

「明日も、良い日になりそうですね」

フェリシアの言葉に、

ルーファスは迷うことなく頷いた。

「ああ…、十年後も、二十年後も。」

「きっと、皆で笑っている。」


――その時だった。


空が、低く鳴った。

ゴォォォォォォォォ――。


遠雷にも似た音が、皇城の上空から響いてくる。


「……何でしょう?」

フェリシアが顔を上げた。

子どもたちも遊ぶ手を止め、空を見上げる。

「かみなり?」

クリスティが、不思議そうに首を傾げた。


けれど、空に雲はない。

青く穏やかだったはずの空が。

突然、大きく歪んだ。


バキィィィィィィッ――!


世界そのものが悲鳴を上げたような轟音。

青空に、一本の黒い亀裂が走った。


「何だ……?」

ルーファスが目を見開く。

亀裂は瞬く間に広がり、

皇城の上空を引き裂いていく。

その向こうにあったのは、

光一つ届かない底のない漆黒の闇だった。


「奈落の……亀裂……?」

誰かが、掠れた声で呟いた。


百五十年前。

大陸の中央に現れ、二つの国を隔てた巨大な裂け目。

帝国で「奈落門ならくもん」と呼ばれる災厄と、

同じ気配を持つ亀裂だった。

本来ならば、

帝都から遠く離れた場所にしか存在しないはずのものが、

今、

皇城の真上に口を開けていた。


「馬鹿な……なぜ、皇城の上空に!」

騎士の一人が叫ぶ。

「亀裂は防衛結界の内側です!」

「総員、皇族方をお守りしろ!」

「緊急結界を展開せよ!」

庭園を警護していた騎士と魔術師たちが、一斉に動き出す。

魔術師たちが杖を掲げ。

白銀の光が、皇族一家を守るように幾重にも展開された。


「おとうしゃま……?」

クリスティの小さな声が震える。

ルリスティも、フェリシアのドレスの裾を強く握り締めた。

「おかあしゃま、あれなぁに……?」

「大丈夫よ、お父様とお母様がいるからね。」

フェリシアは、すぐに双子を抱き寄せた。

自らの不安を悟らせぬよう、

いつもと変わらない優しい声で告げる。


レオンハルトは、弟妹たちを守るように前へ出た。

「アレクシス、ヴィオレットを連れて騎士たちと城内へ。」

まだ十一歳。

それでも長男として、

自分が皆を守らなければならない、

とでもいうように震える身体で空を睨んでいた。


「兄上はどうするんだ!」

「私は、クリスティたちと一緒に行く。

いいから、ヴィオレットを頼む!」

アレクシスもまた、妹たちの前から離れようとはしなかった。

七歳のヴィオレットは青ざめた顔で、

クリスティとルリスティを見つめている。

「皆様、こちらへ!」

侍女と騎士が、子どもたちを城内へ導こうとした。


その時。

亀裂の奥から、耳をつんざくような咆哮が響いた。


ギィィィィィィィィィッ――!


黒い闇の中から、巨大な翼が現れる。

一度羽ばたいただけで、

庭園を影で覆い尽くすほどの漆黒の翼。

血のように赤く輝く双眸。

鋼の鎧すら引き裂くであろう巨大な鉤爪。

そして。

槍の穂先のように鋭く尖った、異様に長い尾。

奈落の闇そのものが、

一体の生き物として姿を得たかのような魔獣だった。


「結界を破らせるな!」

魔術師たちが叫ぶ。

皇族一家を守る光の壁へ、魔獣が激突した。

凄まじい轟音が響き、

緊急結界全体が、大きく揺れる。


一度。


二度。


巨大な爪が振り下ろされるたび、光の壁へ亀裂が走った。


「持ちません!」

「魔力を集中させろ!」

魔獣が大きく翼を広げた。

黒い霧が、巨体の周囲で渦を巻く。


次の瞬間。


緊急結界が、砕け散った。

無数の光の欠片が、庭園へ降り注ぐ。


「フェリシア! 子どもたちを連れて下がれ!」

ルーファスが叫んだ。

「陛下!」

ルーファスの全身から、白銀の魔力が溢れ出す。

皇帝として。

父として。

愛する家族を守るため、魔獣の前へ立ち塞がった。


白銀の光が収束し、巨大な刃となって空へ放たれる。

光の刃は、魔獣の翼へ直撃した。

黒い外殻が裂け、耳をつんざく絶叫が響く。


ギィィィィィィッ――!


しかし、魔獣は止まらなかった。

傷ついた翼を強く羽ばたかせ、一直線に庭園へ降下してくる。


「伏せろ!」


ルーファスの声が響いた。

暴風が吹き荒れる。

土と花びらが巻き上げられ、

庭園の視界が黒い影に覆われた。

フェリシアは双子を庇い、

その小さな身体へ覆いかぶさった。

だが、巨大な鉤爪が二人のうち一人へ伸びる。


「ルリー!」

クリスティが叫んだ。

鉤爪がルリスティの衣服へ食い込み、小さな身体を掴み上げる。

「やぁぁぁぁぁっ!」

次の瞬間、ルリスティの身体が、宙へ持ち上げられていた。

「ルリスティ!」

フェリシアが手を伸ばす。

ルリスティは魔獣の鉤爪に捕らえられたまま、

泣きながら両腕を伸ばしていた。


「おかあしゃまぁ!」

「ルリー!」

クリスティも、妹へ向かって走り出そうとする。

それをレオンハルトが、後ろから必死に抱き止めた。

「離してぇ! ルリが!」

「駄目だ!」

十一歳の少年の腕も、声も震えていた。

それでも、もう一人の妹まで連れ去られないよう、

必死に抱き締めている。


魔獣が空へ舞い上がった。

再び奈落へ戻ろうと、黒い翼を大きく広げる。

「ルリを返して!」

フェリシアの身体から、眩い魔力が弾けた。

放たれた光は、ルリスティを巻き込まぬよう、

魔獣の傷ついた翼の外側だけを正確に撃ち抜いた。

魔獣の体勢が崩れ、僅かに高度を落とす。


フェリシアは迷わなかった。

風の魔術で身体を押し上げ、

宙にいるルリスティへ向かって必死に手を伸ばす。

指先が、ルリスティの衣服へ触れた。

幼い娘のドレスから垂れた、細い布飾り。

フェリシアは、それを両手で強く掴んだ。


「おかあしゃま!」

「大丈夫よ!」

魔獣が再び上昇する。

フェリシアの身体も、

布へ縋りついたまま宙へ引き上げられた。


「大丈夫よ、ルリ。お母様が、ここにいるから。」

必死に娘へ笑いかける。

「フェリシア!」

ルーファスも魔力で空を蹴り、二人を追った。

「手を離せ! 私が受け止める!」

けれど、フェリシアは首を横に振った。

この手を離せば、

ルリスティだけが奈落へ連れ去られてしまう。

娘へつながる布を、決して離そうとはしなかった。

「この子は、私の娘です!」

息を切らしながら、それでも強く言い切る。


魔獣が振り返った。

血のように赤い瞳が、

自らの獲物へ縋りつくフェリシアを捉える。

長い尾が、大きく持ち上がった。

「フェリシア!」

ルーファスの絶叫が響く。


次の瞬間。

槍状の尾が、フェリシアの身体を深く貫いた。

「――っ」

すべての音が、消えたように感じられた。

青空へ、真紅の血が舞う。


「母上!」

「お母様ぁ!」

子どもたちの悲鳴が響いた。

フェリシアの手から、少しずつ力が失われていく。

それでも、最後まで布を離すまいと、指先へ力を込めた。


「おかあしゃま……?」

ルリスティの紫水晶の瞳が、恐怖に大きく揺れる。

「おかあしゃまぁぁぁっ!」

「ルリ……。」

フェリシアの唇が、僅かに動いた。

「愛しているわ……ずっと……。」

血に濡れながら、娘へ微笑みかける。


やがて指先が布から外れ、

フェリシアの身体が空から落下した。

「フェリシアァァァ!」

ルーファスが、落ちてくる妻の身体を両腕で受け止める。

そして、魔獣は翼を大きく羽ばたかせた。

ルリスティを掴んだまま、奈落の亀裂へ向かう。


「待て!」

ルーファスはフェリシアを腕に抱きながら、

必死に魔獣を追おうとした。

だが、亀裂はすでに閉じ始めている。

魔獣とルリスティの身体は重なり、

攻撃を放てば娘まで巻き込んでしまう。


「ルリスティ!」

「おとうしゃまぁぁぁ!」

幼い娘も、必死に父へ手を伸ばす。

「ルリ! いかないで!」

クリスティが泣き叫ぶ。

「妹を返せ!」


九歳のアレクシスが、魔獣へ向かって走り出した。

けれど、その手が届くはずもなかった。

ヴィオレットは声も出せず、立ち尽くしていた。

目の前で起きていることを理解することもできないまま。

ただ、遠ざかっていく妹を見上げていた。


魔獣の巨体が、黒い亀裂の奥へ消えていく。

最後に、泣き叫ぶルリスティの声だけが皇城の空へ響いた。

「おかあしゃまぁぁぁぁぁっ!」


そして。

空に開いていた亀裂は、ゆっくりと閉じた。

何もなかったかのように、再び青空が戻る。

庭園には、異様な静寂だけが残された。


「フェリシア……」

ルーファスは庭園へ降り立つと、

腕の中の妻を地面へ横たえた。

胸を貫いた傷から、止めどなく血が流れている。


「誰か! 宮廷治癒術師を呼べ!」

「陛下、すでにこちらへ向かっています!」

「早くしろ!」

ルーファスは傷口へ手を当て、自らの魔力を注ぎ込もうとする。

けれど、失われていく血を止めることができない。

ほどなくして、宮廷治癒術師たちが駆けつけた。

治癒の光がフェリシアの身体を包む。

それでも、治癒術師長の表情は、見る間に青ざめていった。


「傷が、深すぎます……。」

「治せ。」

「陛下……。」

「何をしている。治せ!」

ルーファスの声が震える。

治癒術師たちは必死に術を続けていた。

しかし、フェリシア自身も、

自分の身体のことを誰より理解していた。

弱々しく手を伸ばし、ルーファスの手へ自分の手を重ねる。


「へいか……。」

「喋るな。」

ルーファスは、その手を強く握った。

「すぐに治る。だから、もう何も言うな。」

フェリシアは、小さく首を横に振った。

「子どもたちを……、お願い……します。」

「やめてくれ……、そんなことを言うな!」

ルーファスの声が。

初めて皇帝ではなく、一人の男の悲鳴になった。

「私一人を残していくな。」

「一人では……ありません。」


フェリシアは震える瞳を、子どもたちへ向けた。

レオンハルトは、

泣きじゃくるクリスティを抱き締めたまま、必死に涙を堪えている。

「レオンハルトは……責任感の強い子です。」

「母上……。」

「きっと、皆を守ろうとして……無理をします。」

僅かに微笑む。

「どうか……あの子を、支えてあげてください。」


ルーファスの頬を、涙が伝った。


フェリシアの視線が、ヴィオレットへ移る。

「ヴィオレットは……優しい子です。」

「お母様……。」

「強く見えても……一人で抱え込んでしまうから……。」

ヴィオレットは小さな身体を震わせながら、

何度も首を横に振った。


「アレクシスは……。」

「母上! 俺はここにいる!」

アレクシスがフェリシアの傍らへ膝をついた。

血に濡れることも構わず、母の手を握る。

「きっと……皆を笑わせてくれる……素敵な人になります。」

「そんなこと言わないでくれよ……。」

アレクシスの目から、大粒の涙が落ちた。


フェリシアは最後に、泣き崩れるクリスティを見た。

「クリス……。」

「おかあしゃま……。」

レオンハルトの腕を離れ、

クリスティが母のもとへ駆け寄る。

「ルリが、いなくなっちゃったの。」

泣きながら、母のドレスを掴んだ。

「ルリを、さがしにいかないと……。」

「ええ……。」


フェリシアは震える手で、娘の白銀の髪へ触れた。

「いつか……ルリに会えたら……。」

息をするたび、声が弱くなっていく。

「たくさん……抱き締めてあげて。」

「うん……。」

「クリスのことも……愛しているわ。」

「おかあしゃま……。」


フェリシアは、もう一度閉じた空を見上げた。

その向こうへ消えた娘を思う。

「ルリ……。」

小さく名前を呼ぶ。

「生まれてきてくれて……ありがとう。」


ルーファスは、妻の身体を抱き締めた。

「ルリスティは、必ず見つける。」

涙に濡れた声で告げる。

「必ずだ。だから、お前も一緒に待っていてくれ。」

フェリシアは悲しそうに、

けれど、どこか安堵したように笑った。

「あなたなら……きっと……。」


最後に。

最愛の夫へ視線を向ける。

「ルーファス。」

「ここにいる。」

「私は……本当に、幸せでした。」

「フェリシア……。」

「あなたを……愛しています。」


その言葉を最後に。

フェリシアの身体から、静かに力が抜けた。

「フェリシア……?」

返事はない。

「フェリシア。」

ルーファスは、妻の頬へ手を添えた。

まだ、微かな温もりが残っている。

「目を開けてくれ……お願いだ……。」

何度名前を呼んでも、

フェリシアが再び目を開けることはなかった。


やがて、青く澄んでいた空から一滴の雨が落ちた。

ルーファスの頬へ。

フェリシアの金色の髪へ。

白銀の髪を持つ子どもたちへ。


一滴。

また一滴。


雲一つなかったはずの空が、

いつの間にか深い灰色へ染まっていた。

雨は次第に強くなり。

皇城を越え。

皇都全体を覆っていった。


それはまるで、

最愛の妻と娘を失った皇帝に代わり、

空そのものが泣いているようだった。


その日。

マーヴェリア帝国皇帝ルーファスは、

最愛の妻を失い。

幼い娘を、奈落の向こうへ奪われた。

皇都に降り始めた雨は、

三日三晩一度も止むことなく降り続けた。


人々は後に。

その雨を――『悲しみの雨』と呼ぶようになった。

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