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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第68話 二通の手紙

家族との対面を終えたあと、

ルリスティたちは砦の応接室へ場所を移していた。


窓の外では、傾き始めた陽が中庭を淡い橙色へ染めている。


部屋の中央には、ルーファスと皇族たち。

その向かいにはルリスティと、車椅子に座るジェイクがいた。


誰も、すぐには口を開かなかった。


十七年間、その存在すら知らなかった家族。

突然現れた、血を分けた父と兄姉。


ルリスティの中には、まだ言葉にできないほど多くの感情が渦巻いている。


嬉しいのか。

悲しいのか。

戸惑っているのか。


自分でも分からなかった。


ただ一つ確かなのは、目の前にいる家族の中に、

十七年間ずっと自分を探し、忘れずにいてくれた者たちがいるということだった。

そして、自分の存在すら知らずに育ったクリスティもまた、

何も知らないまま出会ったあの日から、ずっと自分を大切にしてくれていた。


その時、扉の近くに立っていたガレスが一歩前へ出た。

その手には、古びた木箱が抱えられている。

「司令官。」

ルリスティが顔を上げる。


ガレスは箱の蓋へ刻まれた小さな傷を、親指でゆっくりとなぞった。

「こいつは、クラウスが死ぬ少し前に俺へ預けたものだ。」

「お父さんが?」

「ああ。」


ガレスの脳裏に、三年前の光景が蘇る。

クラウスは箱を差し出しながら、中身については何も説明しなかった。

ただ一つだけ。


『もし俺が死んだあと、マーヴェリア帝国へ確かに繋がる者が、

この国へ現れることがあったら――その時に、この箱を開けてくれ。

中を見れば、どうすればいいか分かる』

そう言った。


「何が入ってるのか聞いたんだがな。」

ガレスは苦く笑う。

「知らない方がいい、としか言わなかった。」


『随分勝手な頼みだな。』

そう返した自分へ、クラウスは珍しく申し訳なさそうに笑った。

『分かってる。だが、お前にしか頼めない。』

それ以上、ガレスは聞かなかった。


理由など分からなくても。

クラウスが自分へ託したのなら、それで十分だった。

そして三年間。

箱を開くことなく、ただ約束だけを守り続けた。


ガレスは静かに蓋を開いた。

中には、二通の封筒が収められていた。


その下には、薄い布で丁寧に包まれた何かが収められている。

長い年月を経ているのだろう。包みの端は僅かに色褪せていた。

ガレスが眉を寄せる。


「……まだ何か入ってるな。」

だが、すぐに手を伸ばすことはしなかった。


クラウスは言っていた。

中を見れば、どうすればいいか分かる、と。

ならば、まず読むべきものはこちらなのだろう。


一通には、ルリスティの名。

そして、もう一通には――

共和国では歴史の中にしか存在しないはずの宛名が記されていた。


『マーヴェリア帝国皇帝陛下へ』

その文字を見た瞬間、室内の空気が僅かに張り詰めた。

ルーファスも、言葉を失ったまま封筒を見つめている。


「父が……。」

ルリスティの声が掠れた。

「皇帝陛下へ、手紙を?」

「ああ。」


ガレスは静かに頷く。

「下の包みが何なのかも、俺には分からん。

あいつは箱を開けるなとしか言わなかったからな。」

そして、二通の手紙へ視線を戻した。

「だが、手紙を読めば分かるんだろう。あいつが残したものなら。」


「クラウスは、マーヴェリア帝国へ確かに繋がる者が現れた時にだけ、

この箱を開けろと言った。中を見れば、どうすればいいか分かるとな。」


ガレスは、開いた木箱へ一度視線を落とす。

「だから俺も、今日まで中身を知らなかった。

司令官宛ての手紙まで入っているとは、今初めて知ったところだ。

あいつとの約束を破るわけにもいかなかったとはいえ、黙っててすまなかった。」


ルリスティは小さく首を横へ振った。

「いいえ。」

震える指を伸ばし、自分の名が書かれた封筒へそっと触れる。

「父の言葉を、守ってくださったのですね。ありがとうございます。」


見慣れた筆跡だった。


軍務の指示書。

誕生日に一言だけ添えられた紙片。

遠征へ出る時に渡された短い注意書き。


何度も見てきた父の文字。

それが今、死後三年を経て、自分へ向けられている。

ルリスティは封筒を手に取った。

だが、すぐに封を開くことはできなかった。


ガレスも、もう一通の封筒を木箱から取り出す。

そして、ルーファスの前へ進んだ。

「陛下。」

呼び慣れない敬称だった。


ガレスは一瞬だけ封筒へ目を落とし、それからルーファスへ差し出した。

「クラウスから、お預かりしていたものです。」

ルーファスは両手でそれを受け取った。


『マーヴェリア帝国皇帝陛下へ』

十七年前に娘を拾い、育てた男から。

その娘を十七年間探し続けてきた自分へ。


何が書かれているのか。

今すぐ知りたいという気持ちは、もちろんあった。

それでも、ルーファスは封へ指を掛けなかった。


「ルリスティ。」

静かに名を呼ぶ。

ルリスティが顔を上げた。


「今、読む必要はない。」

穏やかな声だった。

「クラウス殿が、父としてお前へ遺した言葉だ。受け止められる時に読めばいい。」


「ですが、陛下宛ての手紙も……。」

「私のものは待てる。」


ルーファスは迷うことなく答えた。

「十七年待ったのだ。一日や二日、何ほどのこともない。」


そして、ルリスティの手にある封筒を見る。

「まずは、お前が受け取りなさい。」


ルリスティは自分の手の中にある手紙を見つめた。

「……はい。」


小さく頷く。

クリスティが、心配そうにルリスティを見ていた。

「私も一緒にいていい?」

その問いに、ルリスティはすぐには答えられなかった。


クリスティが嫌なのではない。

むしろ、そばにいてほしいという気持ちもある。

けれど、父から娘へ遺された言葉を初めて受け取る時、

自分がどのようになるのか分からなかった。


泣くかもしれない。

怒るかもしれない。

何も感じられなくなるかもしれない。


「少しだけ……考える時間をいただいてもよろしいでしょうか。」

そう告げると、クリスティは僅かに寂しそうに目を伏せた。

それでも、すぐに頷く。


「うん。分かった。」

「申し訳ありません。」

「謝らなくていいよ。」


クリスティは無理に笑おうとはしなかった。

ただ、真っ直ぐにルリスティを見つめる。


「読み終わったあと、会いたくなったら呼んでね。」

「……はい。」


ルーファスも、兄姉たちも、それ以上は何も求めなかった。

今すぐ家族と呼んでほしいとも、そばへ来てほしいとも。

誰一人として口にしない。


ただ、ルリスティが自分から一歩を踏み出す時を待っている。

そのことが、かえって胸へ深く沁みた。



皇族一行が客室へ戻ったあと、

ルーファスは窓辺に立ち、暮れゆく空を見つめていた。

机の上には、先ほどガレスから受け取ったクラウスの手紙が置かれている。


封は、まだ切っていない。


まずルリスティが、自分へ遺された父の言葉を受け取る。

それまでは待つと決めていた。


「父上。」

レオンハルトが背後から呼ぶ。

「本当に、よろしいのですか。」

「何がだ。」


「あの手紙には、ルリスティの十七年間について記されているかもしれません。」

「ああ。」

ルーファスは窓の外を見たまま答える。

「だからこそだ。」


父として娘を育てた男が、娘へ遺した言葉。

血を分けた父だからといって、その間へ割って入ることはできない。


「私は、あの子の十七年間を知らない。」

掠れた声だった。

「だが、その十七年をなかったことにはしたくない。」


ヴィオレットが、膝の上で両手を握り締める。

「ルリスティは……私たちを、受け入れてくれるでしょうか。」

「分からない。」


ルーファスは正直に答えた。

「受け入れてほしい。父と呼んでほしい。もう二度と離れたくない。」

そこで一度、言葉を切る。

「だが、それをあの子へ押しつけるつもりはない。」


アレクシスが静かに目を伏せた。

「待つしかない、か。」

「ああ。」

ルーファスは頷いた。


「今度は、あの子が自分で答えを出すまで待とう。」

クリスティは、膝の上で両手を強く握っていた。


今すぐルリスティのところへ行きたい。

手を握りたい。

大丈夫だと言いたい。

けれど、それは自分の気持ちを押しつけることになるのかもしれない。


半歩後ろに立つリカルドが、その様子を静かに見守っていた。

何かを言うことはしない。

ただ、クリスティが無意識に握り締めた手へ視線を落とし、

そこに自分がいることだけを伝えるように、僅かに距離を縮めた。


クリスティは、その気配に気づいたのだろう。

一度だけリカルドを振り返る。

彼はいつもと変わらず、そこにいた。


クリスティは胸元へ両手を重ね、ゆっくりと息を吐く。

「……待つね。私も。」


誰へともなく告げられた言葉へ、ルーファスが静かに頷いた。



夜。


ルリスティは自室へ戻る途中、

車椅子に座るジェイクと並んで廊下を進んでいた。

車椅子を押しているのはガレスだった。

部屋へ着くと、ガレスはジェイクの車椅子を中へ押し入れる。

「医療兵はあとで寄越す。お前も今日はもう無茶すんなよ、司令官。」


「はい。」

ルリスティが答えると、ガレスは一度だけ机の上へ置かれた手紙を見た。

だが、何も言わない。

そのまま静かに扉を閉じた。


机の上には、ルリスティ宛ての封筒が置かれている。

ルリスティはその前の椅子へ腰を下ろした。

しばらく、手紙を見つめる。


「大佐。」

「はい。」

「明日の朝、これを読もうと思います。」

ジェイクは頷いた。


「分かりました。」

「それで……。」

ルリスティの指先が、封筒の端を僅かに強く掴む。


「その時、一緒にいていただけますか。」

ジェイクの表情が、ゆっくりと柔らかくなった。


「俺でいいのですか?」

「大佐がいいのです。」


答えたあと、ルリスティは自分の言葉へ驚いたように目を瞬かせた。

けれど、訂正はしなかった。

ジェイクも冗談にはせず、真っ直ぐに彼女を見つめる。


「分かりました。明日の朝、あなたの傍にいます。」

深い青の瞳に、静かな温もりが宿る。

「……はい。」

ルリスティは、机の上の手紙へそっと手を重ねた。


三年前に失った父から、ようやく届いた言葉。

読むことは怖い。


何が書かれているのか。

自分がそれを読んで、何を思うのか。

まだ分からない。


それでも、もう一人ではない。


窓の外では、帝国と共和国を繋ぐ黎明の道が、夜の中で淡く輝いていた。


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