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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第67話 もう一度、娘の名を(後編)

「……ルリスティ」


十七年間、胸の中で何度呼んでも本人へ届くことのなかった名前が、

中庭へ静かに落ちた。


その名を呼ばれた少女は、紫水晶の瞳を大きく見開く。


「……え?」


ルリスティは戸惑いながら、自分を見つめる帝国皇帝へ視線を返した。

隣にいたクリスティも、驚いたように父を見上げる。


「お父様……?」


まだ紹介していない。

クリスティは一度も、父の前でルリスティの名を口にしていなかった。

それなのにルーファスは、目の前の少女を見ただけで、

迷うことなくその名前を呼んだ。


少し離れた場所では、車椅子に座るジェイクが静かに目を細めていた。

――やはり、そうだったのか。

三日前から胸の奥にあった推測が、今この瞬間、確信へ変わった。


「何故……」


ルリスティの声が、わずかに揺れる。


「何故、陛下が私の名をご存じなのですか」


けれど、ルーファスはすぐには答えられなかった。

一歩、娘へ向かって踏み出しかけて――止まる。


目の前にいるのは、記憶の中に残る二歳の娘ではない。

十九歳まで成長し、帝国の知らない土地で、

共和国の軍人として生きてきた一人の女性だ。


そして彼女にとって、自分は今日初めて顔を合わせる異国の皇帝でしかない。


抱き締めたい。

その身体が本当にここにあるのだと、自分の腕で確かめたい。


それでも、何も知らない娘へ勝手に触れることなどできなかった。

持ち上がりかけたルーファスの手は、行き場を失ったように途中で止まる。


「……顔を」


ようやく零れた声は、ひどく掠れていた。


「顔を、よく見せてくれないか」


何が起きているのかわからないまま、ルリスティは反射的にジェイクを振り返った。

その視線を受け止めたジェイクは、ただ静かに頷く。


「大丈夫です。俺がいます」


深い青の瞳が、まっすぐにルリスティを見つめていた。


「……はい」


ルリスティは小さく息を吸うと、ルーファスへ向かって歩き出した。

一歩、また一歩。

十七年間離れていた父と娘の距離が、ゆっくりと縮まっていく。


ルーファスは、そのあいだ一度も少女から目を離さなかった。

長い白銀の髪、紫水晶の瞳。フェリシアによく似た優しい目元と、

その一方で自分の面影を残す口元。


間違いない。

何度見ても、見間違えるはずがなかった。


やがてルリスティは数歩手前で足を止め、戸惑いを残しながらも、

他国の皇帝へ礼を失わないよう静かに頭を下げた。


「初めてお目にかかります。

辺境防衛軍司令官、ルリスティ・トリウリッドと申します」


トリウリッド。

自分とは違う家名。


それは、娘が帝国の知らない十七年間を、

別の誰かの娘として生きてきた証でもあった。


胸を締めつける痛みを堪えながら、ルーファスはもう一度手を伸ばす。

白い頬へ触れようとした指先は――あとわずかなところで、また止まった。


「……触れても、よいだろうか」


帝国皇帝が、異国の軍服を纏う娘へ許しを求める。

中庭にいる誰もが声を発することなく、息を詰めて二人を見守っていた。


ルリスティは、目の前の男をじっと見つめる。


自分と同じ白銀の髪と、紫水晶の瞳。

そして、今にも泣き出してしまいそうなほど切実な眼差し。


なぜ、この人は自分を見てこんな顔をするのだろう。

なぜ、自分の名前を知っているのだろう。


何一つ分からない。

それでも、不思議と怖くはなかった。


ルリスティは戸惑いを残したまま、小さく頷く。


「……はい」


その答えを聞いて、ルーファスの指先がようやく娘の頬へ触れた。

温かく、柔らかな感触が伝わってくる。

生きている。


記憶の中では二歳のまま止まっていた娘が、

今、自分の手の届くところで確かに生きている。


「……っ」


ルーファスの表情が大きく揺れた。

指先に伝わる温もりを確かめるように、ほんのわずかにその頬を撫でる。

十七年間、信じ続けてきたものが、ようやく現実になった。


「生きて……生きて、いてくれたのか……」


震える声とともに、紫水晶の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。

ルリスティは、何も言うことができなかった。


目の前にいるのは、百五十年間共和国と断絶していた大国の皇帝。

本来なら辺境防衛軍司令官として、

決して無礼のないよう慎重に応対しなければならない相手である。


けれど、頬に触れる指先から伝わってくるものは、

皇帝としての威圧でも、他国の軍人へ向ける警戒でもなかった。

まるで壊れ物へ触れるような、あまりにも優しい温もり。


そこにいることを確かめながら、

もう二度と失いたくないと訴えるように、その指先はかすかに震えている。


「陛下……」


戸惑いながらそう呼んだだけで、ルーファスの表情がさらに歪んだ。

知らない声だった。


二歳の頃とは、何もかもが違う。

幼い声で自分を呼んでいた娘は、十九歳の一人の女性へと成長している。

それでも、その穏やかな声の響きの奥に、

ルーファスは確かに、かつて腕の中にいた娘の面影を感じていた。


「すまない。驚かせた」

「いえ」


ルリスティは小さく首を横へ振ったものの、戸惑いは消えていなかった。


「ですが……何故、陛下は私をご存じなのですか」


ルーファスの指先が、名残を惜しむようにゆっくりと娘の頬から離れていく。


十七年間、何度も考えてきた。

もし生きている娘に会えたなら、最初に何と声を掛けよう。

どのように真実を伝えればいいのだろう、と。


けれど、実際に成長した娘を目の前にすると、

用意していたはずの言葉は何一つ思うように出てこなかった。


ルーファスは胸元へ手を置き、一つずつ言葉を選ぶように口を開く。


「ルリスティ」


今度は、先ほどよりもはっきりとその名を呼んだ。

それでも声は、今にも壊れてしまいそうなほど震えている。


「私は……お前の父だ」


ルリスティの表情が止まった。

風だけが中庭を通り抜け、長い白銀の髪を静かに揺らしていく。


「……父?」


ようやく、それだけが唇から零れた。


「ああ。お前は十九年前、マーヴェリア帝国の皇女として生まれた。

私と、皇妃フェリシアの娘として」


ルリスティの呼吸が浅くなる。


自分はクラウス・トリウリッドの娘だ。

辺境の家で育ち、父に手を引かれ、父から銃を教わった。

父の背中を追いかけて、自分も軍人になった。


その記憶に、嘘など一つもない。


「ですが、私は……私は、クラウス・トリウリッドの娘です」

「ああ。そうだ」


迷いのない返事だった。

否定されると思っていたルリスティが、紫水晶の瞳を大きく見開く。


「お前はクラウス・トリウリッド殿の娘だ。

お前が今日こうして生きているのは、彼が育て、守ってくださったからだ。

その事実を、私は決して否定しない」


ルリスティの瞳に、ゆっくりと涙が滲んだ。


「では、なぜ……」

「お前には、二人の父がいる」


血を分けた父と、命を守り、心を育てた父。


「私は、お前を失ってから十七年間、探し続けてきた父だ。

そしてクラウス殿は、その十七年間、お前を育て、守ってくださった父だ」


ルリスティは何も言えなかった。


混乱も、疑問も、恐れも、悲しみも、いくつもの感情が一度に胸へ押し寄せてくる。

それでも、目の前の男を完全に拒むことはできなかった。


自分と同じ色を持つ髪と瞳。

どこか似た面差し。

頬へ触れられたときに感じた、不思議な温かさ。


そして何より――クラウスを、自分の父ではないと否定しなかった。

そのことが、何よりも大きかった。


「……クラウス殿は、今どちらにおられる」


その問いに、ルリスティの表情へ深い寂しさが差した。


「父は……三年前に亡くなりました」

「……そうか」


ルーファスは短く答え、静かに目を閉じた。

娘を育て、守ってくれた男は、もうこの世にはいない。


クラウス・トリウリッド。

いつか会うことができたなら、娘を守ってくれた礼を直接伝えたい。

そう願ったばかりだった。


けれど、その願いはすでに叶わないものになっていた。


「礼を……伝えたかった」

「え?」

「クラウス・トリウリッド殿へ、直接頭を下げたかった。

私の娘を十七年もの間、守り、育ててくださったことに」


ルリスティの瞳が、わずかに揺れる。

帝国皇帝である彼が、クラウスへ頭を下げたいと言った。


血の繋がらない養父としてではなく、

自分を育ててくれたもう一人の父として、その存在を認めてくれている。


「父のことを、そのように言ってくださるのですね」

「ああ」


ルーファスは再び目の前の娘をまっすぐに見つめた。


「お前は私の娘だ。そして同じように、クラウス殿の娘でもある」


そう告げてから、ルーファスは一度息を整える。


「十七年前。二歳だったお前は、帝国に生じた奈落の歪みに飲み込まれた。

お前が消えたあと、どれほど探しても手掛かりは何一つ見つからなかった」


そこで声がわずかに詰まり、紫水晶の瞳が苦しげに揺れる。


「皆は、もう助からないと言った。

それでも私は、お前がどこかで生きていると信じていた。

何年も探し続けたが……見つけることができなかった」


最後の言葉は掠れていた。


「すまない。生きていると信じていながら、

迎えに来るまで十七年も掛かってしまった」


ルリスティの身体が、わずかに揺れた。


一度にあまりにも多くのことを告げられて、

何をどう受け止めればいいのか分からない。

気づけば彼女は、助けを求めるように後ろを振り返っていた。


少し離れた場所では、車椅子に座るジェイクが静かに手を差し出している。


「司令」


その低い声に導かれるように、ルリスティは数歩戻って彼の手を取った。

すぐにジェイクの指が、冷えた指先を包み込む。


「ゆっくりでいい。すぐに全部を受け入れなくてもいいんです」

「……はい」


返事は、ほとんど息のように小さかった。

ジェイクはそれ以上何も言わず、ただ彼女の手を握り続ける。


ここにいる。

そう伝えるように。


「待って」


不意に、クリスティの声が静まり返った中庭へ響いた。

ルーファスが振り返ると、クリスティは父とルリスティを交互に見ながら、

混乱したように眉を寄せている。


「ルリスティが、お父様の娘なら……私たちは……」


ルーファスは一度息を整え、二人の娘を見つめた。


「お前たちは双子だ」

「……双子?」

「お前が姉で、ルリスティが妹だ」


その言葉に、中庭へ小さなどよめきが広がった。

けれど、クリスティには周囲の声などほとんど聞こえていなかった。


同じ白銀の髪と、同じ紫水晶の瞳。

同じ年齢で、初めて会ったはずなのに、なぜか放っておけなかった人。

そばにいると、不思議なほど懐かしい気持ちになった人。


互いが何者なのかも知らないまま手を取り合い、

同じ青い鳥の髪飾りを身につけ、姉妹のように笑い合った人。


「私の……妹?」


ルリスティもまた、隣にいるクリスティを見つめていた。


「クリスティが、姉……」


声に出してみても、まだ現実味はない。


それでも思い返せば、最初から不思議なことばかりだった。

初めて会ったとき、自分と同じ色を持つ少女を見て驚いた。

それなのに警戒するより先に、なぜか守らなければと思った。


クリスティが笑えば自分まで安心し、泣いていれば胸が痛んだ。

離れているときでさえ、理由もなく気に掛かった。


それが本当に血の繋がりによるものなのかは、まだ分からない。


けれど――今になって思えば、あの不思議な感覚のすべてに、

少しだけ意味があったような気がした。


「だから……似ていたんだ」


クリスティの頬を、また一筋の涙が伝った。


「髪も、瞳も。名前まで」


思わず一歩ルリスティへ近づきかけて、けれどすぐに足を止める。


ルリスティは今、突然父だと名乗る人物と向き合い、

自分には知らなかった家族がいるのだと告げられたばかりだ。

十七年間知らずにいた人生を、一度に受け止めきれるはずもない。


だからクリスティは、無理に距離を縮めようとはしなかった。


「ルリスティ」

「……はい」

「私、前からルリスティのこと、お姉さんみたいだと思ってた」


その言葉に、ルリスティがわずかに目を見開く。


「ですが……私が妹なのですね」

「うん」


クリスティは涙の残る顔で、少し困ったように笑った。


「私がお姉ちゃん……みたい」


ひどく自信のない言い方だった。


ルリスティは、自分とよく似た顔を静かに見つめる。

髪も瞳も同じ色をしているのに、表情も纏う空気もまるで違う少女。

突然姉だと告げられたところで、すぐに実感など持てるはずがない。


それでも、クリスティが自分を気遣い、

近づくことさえ躊躇している姿を見ていると、

張り詰めていた胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。


「クリスティ」

「うん」


「少しだけ……考える時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「もちろん」


クリスティは迷うことなく頷く。


「すぐに妹になってくれなくてもいいよ」


ルリスティの瞳が、わずかに揺れた。


「私は、もう妹なのではありませんか」

「……そうだけど」


クリスティは胸元へ両手を重ね、少し言葉を探してから続けた。


「でも、ルリスティが困ることはしたくないから。

今までみたいにいてくれたら、それでいいよ」


その言葉に、ルリスティの表情がほんの少しだけ和らぐ。


「……ありがとうございます」


それはまだ、妹として返した言葉ではなかった。

これまでと同じ、大切な親友であるクリスティへ向けたもの。

それでもクリスティは十分だったらしく、涙の残る顔で嬉しそうに笑った。


◇ 


ルーファスは、そんな二人を黙って見つめていた。


十九年前、同じ寝台へ並べられ、小さな手を重ねて眠っていた双子。

十七年前に引き離され、

一人は幼すぎて事件の記憶も妹の存在も知らないまま帝国で育ち、

もう一人は自分が皇女であることすら知らず、共和国の軍人の娘として生きてきた。


それなのに二人は、すでに自分たちの力で巡り会っていた。


互いが何者なのかも知らないまま手を取り、支え合い、大切に想い合っていたのだ。


「……ありがとう」


ルーファスが小さく呟くと、ルリスティが顔を上げた。


「何がでしょう」

「クリスティを守ってくれて。一人にしないでくれて、ありがとう」


「私は、クリスティに助けていただいたのです」

「ああ」


ルーファスは静かに頷いた。


「二人で支え合ってくれたのだな」

「うん。ずっと一緒だったよ」


クリスティが小さく笑う。

その言葉を聞いたルーファスの瞳から、また一筋の涙が零れた。


「……そうか」


けれど今度の涙には、悲しみだけではなく、確かな安堵が混じっていた。



少し離れた場所では、レオンハルトが耐えきれないように顔を伏せていた。


「ルリ……」


十一歳だった自分の後ろを、小さな足で追いかけてきた妹。

転びそうになるたびに抱き上げ、クリスティと二人で膝へ乗せて絵本を読んだ。


その妹が、今、目の前にいる。


レオンハルトは一歩踏み出したものの、すぐに足を止めた。

今のルリスティにとって、自分もまた見知らぬ男でしかない。

兄だと名乗ったからといって、すぐに受け入れてもらえるはずもなかった。


「私は、レオンハルト」


低い声が、わずかに掠れる。


「お前の兄だ」


ルリスティは静かに彼を見つめた。大きな身体に厳しい顔立ち。

それでも紫水晶の瞳には、隠しきれない涙が浮かんでいる。


「レオンハルト……様」


慎重にその名を呼ぶと、それだけでレオンハルトの表情が大きく揺れた。


「……ああ。それでいい。今は、それでいい」


震える息を吐きながらも、妹を不安にさせまいと微笑む。


続いて、その後ろからアレクシスが目元を赤くしながら一歩前へ出た。


「俺はアレクシス。もう一人の兄だ」


いつものように気さくに笑おうとしたのだろう。

だが、どうしてもうまくいかなかった。


「随分、大きくなったな……って、当たり前か。十七年だもんな」


自分でそう言って、最後には声を震わせる。


ヴィオレットは、もう言葉を発することさえ難しい様子だった。

ルシアンに肩を支えられながら涙を流し、

それでもゆっくりとルリスティの前まで進んでくる。


「ヴィオレットです」


胸元で両手を強く握りながら、懸命に声を絞り出した。


「あなたの姉です」

「……はい」

「昔、あなたとクリスティの髪に、同じ色のリボンを結びました」


ルリスティには、当然その記憶はない。何と答えればいいのかも分からなかった。

それでも、目の前で泣いている女性が嘘をついているとは思えない。


「申し訳ありません。私は、何も覚えていなくて」

「謝らないで」


ヴィオレットは強く首を横へ振った。


「あなたが悪いことなど、何一つありません。

生きて、ここにいてくれる。それだけで十分です」


涙に声を崩しながらも、ただそれだけは伝えようとする姉を見て、

ルリスティはゆっくりと周囲へ視線を巡らせた。


父。

二人の兄。

二人の姉。


突然、家族だと告げられた人々が、誰も彼も自分を見つめて涙を流している。

十七年間、一度も忘れたことなどなかったのだと、その表情を見るだけで分かった。


ルリスティは、それまで握っていたジェイクの手にそっと力を込める。

すぐにジェイクも、その冷えた指先を包み直した。


「急がなくていい」


彼女だけに届くほどの、小さな声だった。


「あなたの家族は、待ってくれるはずです」


ルリスティはもう一度、目の前の人々を見る。

ルーファスも、レオンハルトも、アレクシスも、ヴィオレットも。

誰一人として、無理に近づこうとはしていなかった。

ただ、ルリスティが自分から一歩を踏み出せる日を待っている。


「……はい」


ルリスティは涙の滲む瞳で、小さく頷いた。


◇ 


少し離れた場所で、ガレスはじっとルーファスを見つめていた。


マーヴェリア帝国皇帝。

そして、ルリスティの血を分けた父。


その姿を見た瞬間、ガレスの脳裏に三年前の記憶が蘇る。


クラウスが亡くなる少し前のことだった。

彼はガレスを自室へ呼び、一つの古びた木箱を差し出した。


何が入っているのか。何のためのものなのか。

クラウスは、何一つ説明しなかった。


ただ、一つだけ。


『もし俺が死んだあと、

マーヴェリア帝国へ確かに繋がる者がこの国へ現れることがあったら――

その時に、この箱を開けてくれ。中を見れば、どうすればいいか分かる』


『マーヴェリア帝国?』


思わず聞き返したガレスにも、

クラウスはそれ以上詳しいことを話そうとはしなかった。


『中身は知らない方がいい。お前にも、余計なものを背負わせたくない』

『随分勝手な頼みだな』


呆れたように返すと、クラウスは珍しく申し訳なさそうに笑った。


『分かってる。だが、お前にしか頼めない』


その言葉を最後に、ガレスもそれ以上は聞かなかった。

理由など分からなくても、クラウスが自分に託したのならそれで十分だった。

箱は開けるな。その時が来るまで預かっていてほしい。


そう頼まれたから、ガレスは三年間、

一度も中身を確かめることなく約束を守り続けてきた。


マーヴェリア帝国。


黒淵によって大陸が分断される以前、

共和国と同じ文化圏に存在していたと伝わる古い国。

けれど、その国が今も存続しているなど、ガレス自身も考えたことはなかった。


なぜクラウスが、その国へ繋がるような言葉を遺したのか。

木箱の中に何が収められているのか。

何も分からないまま、ただ約束だけを守ってきた。


本当に、その時が訪れるのだろうか。

そう考えたことも、一度や二度ではない。


けれど今。

クラウスが待っていた、あり得ないはずの「帝国へ繋がる者」が目の前にいる。

それも、他でもないマーヴェリア帝国皇帝本人が、ルリスティを娘と呼んでいる。


ガレスの胸の奥へ、重いものが落ちた。

――来たのか。


三年間ただ預かり続けてきた木箱を、

クラウスが最後に自分へ託した約束を、ようやく果たす時が来たのだ。


「ガレス中佐、どうしました?」


隣にいたクルトワに小さく呼びかけられ、ガレスは我に返った。


「……いや」


ゆっくりと首を横へ振る。

今ではない。


十七年間の真実を知ったばかりのルリスティへ、

さらに新たな事実を重ねるべきではない。

ルーファスもまた、ようやく娘へ触れることができたばかりだ。


まずは、この再会を受け止める時間が必要だった。

けれど、いつまでも眠らせておくこともできない。


「あとで」


ガレスは父と娘を見つめたまま、静かに呟いた。


「司令官と皇帝陛下へ、渡さなければならないものがある」

「渡すもの?」

「ああ」


ガレスの瞳に、懐かしさと深い悲しみが滲む。

三年前、何も説明しないまま木箱を差し出した親友の顔が浮かんだ。


「クラウス司令が、最後に俺へ託したものだ」


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