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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第66話 もう一度、娘の名を(前編)

黎明の道が開いてから、三日。


帝国と共和国はその間、新たに生まれた道の調査と安全確認を続けていた。

黒淵から新たな魔獣が現れることはなく、

大地を覆っていた瘴気も日に日に薄れている。


帝国側と共和国側の観測隊は、黎明の道を挟んで情報を交換し、

百五十年もの間、互いを滅びた国だと思っていた二つの国は、

慎重にその存在を確かめ合い始めていた。


共和国中央へも、辺境防衛軍から緊急報告が送られていた。

四か月前、黒淵の異常に伴って、

一人の少女を保護したこと自体は、すでに中央へ報告されていた。


ただし、本人が申告した身分については、確証がなかったため、

ルリスティの判断により、中央へ伝える情報は制限されていた。


――マーヴェリア帝国第二皇女

クリスティ・フォン・マーヴェリア


その身分が初めて裏付けられたのは、

リカルド・アークファイントが黎明の道を越え、

共和国へ到達してからのことだった。


同時に、伝承の中で滅亡したと思われていたマーヴェリア帝国が、

黒淵の向こう側に今なお存在していることも証明された。


辺境防衛軍からの報告を受け、

共和国中央は直ちに、軍上層部と外交部門を交えた協議を開始した。


クリスティの保護を引き続き辺境防衛軍で行うこと。

黎明の道について両国共同で調査を進めること。

そして、マーヴェリア帝国皇帝をはじめとする皇族一行を、

共和国側で正式に迎え入れること。


その調整と道の安全確認に、三日を要した。


なお、この三日間の実務的な連絡窓口は、共和国側ではクルトワが務めていた。

ルリスティは祝福の反動によって軍務から外されており、

帝国側との直接の協議には参加していない。


リカルドから帝国側へ伝えられたのも、クリスティの無事と、

共和国側の受け入れ準備についてのみだった。


彼自身は、ルリスティが十七年前に失われた皇女本人であると、

ほとんど確信している。

しかし、個人としての確信と、

公的な事実として扱えるだけの証拠は別のものだった。


ルリスティは今や共和国辺境防衛軍を率いる司令官であり、

自らを帝国皇女として名乗っているわけでもない。

その立場と人生を無視し、本人へ何も伝えないまま、

帝国へ生存を報告することはできなかった。


そのためリカルドは、ルリスティに関する情報を報告から外し、

身元の正式な確認はルーファスたちとの対面を待つべきだと判断していた。


そして今日、

辺境防衛軍の砦へ、マーヴェリア皇族がやって来る。


◇ 


砦の中庭では、早朝から兵士たちが慌ただしく動いていた。

数日前までの戦闘処理とは、また違う緊張が漂っている。


中庭の整備。

正門から続く通路の確保。

警備配置の確認。

各部隊への指示。


何しろ今日やって来るのは、

百五十年間断絶していた国の皇帝と、その家族なのだ。

しかも、その皇帝の娘は、この四か月間、砦の中を普通に歩き回っていた。


「……なあ。」


整列を待つ兵士の一人が、小声で隣へ話し掛ける。


「何だ。」

「本当に、クリスティさんって皇女殿下だったんだな。」


「三日前に正式通達が出ただろ。」

「分かってるけどよ……。」


男は少し離れた場所にいるクリスティを見る。


「この前まで食堂で、菓子が一個多いって喜んでたぞ。」

「皇女殿下だって菓子くらい食うだろ。」

「そういう話じゃねぇ。」


「俺なんか先月、荷物運ぶの手伝ってもらったぞ。」

「俺は酒場で共和国の変な遊び教えた。」

「お前、それ絶対皇帝陛下には言うなよ。」

「言うわけねぇだろ!」


「聞こえてるよー!」


少し離れたところから声が飛び、兵士たちの背筋が一斉に伸びた。

クリスティは呆れたように笑っている。


正式に身分が周知されてからというもの、

砦の兵士たちは彼女をどう扱えばいいのか未だに迷っていた。


急に「皇女殿下」と呼び始める者もいれば、

これまで通り「クリスティさん」と呼んでは途中で青ざめる者もいる。


当の本人は、

「今まで通りでいいよ。」

と言っているのだが、それで簡単に割り切れるほど、

皇女という身分は軽くないらしい。


「姫様。」


すぐ後ろから、静かな声が掛かった。


「何?」


振り返れば、リカルドが立っている。


「そろそろお戻りください。間もなく一行が到着するとのことです。」

「分かった。」


クリスティは頷き、それから兵士たちへ笑い掛けた。


「じゃあ、みんな。また後でね。」


「は、はい! 皇女殿下!」

「クリスティさん――じゃない、殿下!」

「どっちでもいいってば。」


困ったように笑いながら歩き出すクリスティを、

リカルドは半歩後ろから追う。

その距離は、以前と同じようで、ほんの少しだけ近かった。


三日前の再会以来、

二人ともあの日の抱擁については一度も口にしていない。

それでも、互いに忘れているわけではなかった。


クリスティがふと横を見る。


「アークファイント。」

「はい。」


「お父様、本当に来るんだよね。」

「はい。」


「みんなも?」

「レオンハルト殿下、アレクシス殿下、

ヴィオレット殿下もご一緒です。ルシアン殿も同行されると伺っております。」


「そっか……。」


クリスティの歩みが少しだけ遅くなった。

四か月。

長いようで、振り返れば短い。

それでも、自分にとっては何もかもが変わった四か月だった。


知らない国へ落ち、知らない人々と出会い、ルリスティと親友になった。

そして、もう一度アークファイントに会えた。


「姫様。緊張しておられますか。」

「……ちょっとだけ。」


クリスティは素直に頷いた。


「変かな。ずっと会いたかったのに。」

「いいえ、四か月ぶりなのです。当然でしょう。」


リカルドは穏やかに答える。


「そっか。」

「ですが、陛下はきっと、それ以上に緊張しておられます。」


黒い瞳が、柔らかく細められた。

クリスティが目を丸くする。


「お父様が?」

「はい。」


「想像できない。」

「私にはできます。」


即答され、クリスティは思わず笑った。

その表情を見て、リカルドも僅かに口元を緩める。


「参りましょう。皆様がお待ちです。」

「うん。」


クリスティが歩き出すと、リカルドも半歩後ろから中庭へ向かった。


◇ 


「立たないでください。」


ルリスティの鋭い声に、車椅子から腰を浮かせかけていたジェイクが動きを止めた。


「姿勢を直そうとしただけですよ。」

「そのために足へ力を入れる必要はありません。」


「……よく見ていますね。」

「見ています。」


中庭の端で、ジェイクは諦めたように小さく笑った。

三日前の重傷から命の危険は脱し、傷口も安定している。

だが、深部の損傷と大量出血の影響は大きく、歩行許可はまだ下りていなかった。


本人はすでに「歩ける」と主張しているものの、

今日の出迎えへの同席も、

車椅子から絶対に立たないことを条件に認められたものだ。


ルリスティは念を押すように、ジェイクを見下ろした。


「次に立とうとしたら、医務室へ戻します。」

「自分で連れていくんですか?」


「必要なら、クルトワ中佐とガレス中佐に運んでいただきます。」


ジェイクの笑みが僅かに引きつった。

「……それは勘弁してください。」


少し離れた場所にいたガレスが鼻で笑う。


「安心しろ。喜んで担いでやる。」

「遠慮しておきます。」


「なら大人しく座ってろ。」

「そうします。」


ジェイクが肩を竦める。

いつものやり取りに、ルリスティの表情も僅かに緩んだ。


三日間。

彼女自身も、ほとんど軍務から外されていた。

星の祝福を覚醒させ、戦場を覆っていた瘴気を浄化し、

さらに星導の魔導銃を顕現させた反動は大きい。


今朝になってようやく、

医務官から「短時間に限り、軍務へ復帰してよい」と許可が出たばかりだった。

顔色はかなり戻っている。


けれど、ジェイクには分かっていた。

ルリスティが先ほどから、何度も正門へ視線を向けていることも。

いつもより少しだけ、背筋を張っていることも。


「司令。緊張しています?」

「……していません。」


そう答えながらも、ルリスティの視線は再び正門へ向かっていた。

ジェイクはそれを指摘せず、小さく笑う。


「では、俺の勘違いということにしておきます。」

「何ですか、その言い方は。」


僅かに眉を寄せる彼女へ、ジェイクは静かに手を差し出した。


「大丈夫です、俺がいます。」


ルリスティの紫水晶の瞳が、その手へ落ちる。

ほんの一瞬。

ルリスティの表情から、辺境防衛軍司令官としての張り詰めたものが消えた。


「……はい。」


指先が触れる。

握り締めるほどではない。

ただ、互いがそこにいることを確かめるような触れ方だった。


それだけで、不思議と呼吸が楽になる。


「ありがとうございます。」

「どういたしまして。」


ルリスティは手を離し、再び正門へ向き直った。

今度は、先ほどより自然に背筋を伸ばして。


辺境防衛軍司令官として、

百五十年の断絶を越え、初めて共和国を訪れる帝国皇帝を迎えるために。


◇ 


「来たぞ!」


見張り台から大きな声が上がった。


「帝国側の一行、正門へ到着!」


中庭の空気が一変する。


兵士たちが一斉に背筋を伸ばし、クルトワとガレスも表情を引き締めた。

ルリスティは深く息を吸う。

隣では、ジェイクが車椅子に座ったまま静かに正門を見ている。


少し離れた場所にはクリスティとリカルド。

クリスティの紫水晶の瞳は、期待と緊張で揺れていた。


「開門!」


重い扉が、ゆっくりと左右へ開いていく。

朝の光が中庭へ差し込み、その向こうに、

濃紺の騎士服を纏った帝国騎士たちの姿が現れた。


共和国の兵士たちが固唾を呑んで見守る中、

騎士たちは門をくぐると左右へ分かれる。


その奥から、一人の男が歩いてきた。

白銀の髪。

紫水晶の瞳。

皇帝としての威厳を纏った、堂々とした姿。


マーヴェリア帝国皇帝

ルーファス・フォン・マーヴェリア


その後ろにはレオンハルト、アレクシス、ヴィオレット、

さらにルシアンと護衛の騎士たちが続いていた。


けれど、クリスティの目には父の姿しか映っていなかった。


「……お父様」


掠れた声が零れる。


ルーファスの足も、そこで止まった。

彼もまた、中庭に立つただ一人の少女だけを見つめている。


白銀の髪に、紫水晶の瞳。

四か月前よりほんの少し痩せた顔。

それでも間違いなく、娘は生きて、こちらを見つめていた。


「クリスティ……」


その名を呼んだ瞬間、皇帝の顔から威厳も冷静さも消え去った。

そこにいたのは、一国を治める皇帝ではなく、

失ったと思っていた娘と再び巡り会った一人の父親だった。


クリスティが駆け出す。


「お父様!」


今度はリカルドも止めなかった。

ルーファスも娘へ向かって歩き出し、

やがて堪えきれなくなったように最後の数歩を駆ける。


「クリスティ!」


次の瞬間、父の腕が娘の身体を強く抱き締めた。

クリスティもその胸元へしがみつき、縋るように父の服を握る。


「お父様……!」

「ああ」


ルーファスは何度も娘の白銀の髪を撫で、その存在を確かめるように抱き締めた。


「生きていた。本当に……生きていてくれた」


その声は、はっきりと震えていた。


「ごめんなさい。心配かけて、ごめんなさい」


父の胸に顔を埋めたまま謝るクリスティを、ルーファスはさらに強く抱き寄せる。


「謝るな。お前がこうして生きている。それだけでいい」


そこまで言ったところで声が詰まり、

ルーファスはしばらく言葉を続けられなかった。


「本当に……よく無事で……」


クリスティは父の胸元で、何度も小さく頷いた。


少し離れた場所では、レオンハルトが強く唇を結び、

アレクシスは込み上げるものを隠すように片手で目元を覆っていた。

ヴィオレットの頬にはすでに涙が伝い、

その隣ではルシアンが何も言わず、そっと彼女の肩へ手を添えている。


リカルドもまた、一歩離れたところから父娘の再会を静かに見守っていた。

ようやく、陛下のもとへ姫様をお返しすることができた。


そう思った途端、張り詰めていたものがほどけていくような安堵が、

胸の奥へじわりと広がった。


けれど、リカルドはそこで静かに視線を動かす。


中庭の中央、共和国軍の先頭に立つ一人の少女へ。


この家族のもとへ帰るべき娘は、クリスティだけではない。

もう一人。

十七年ものあいだ、帰ることができなかった娘が、そこにいる。


◇ 


ルリスティは少し離れた場所から、

父の腕に抱かれたクリスティを静かに見つめていた。


四か月ぶりに再会した父と娘。

ルーファスは、そこにいる娘が本当に生きているのだと確かめるように、

何度も白銀の髪を撫でながら強く抱き締めている。


その姿を見ているだけで、ルリスティの胸にも温かなものが広がった。


「よかったですね」


隣から聞こえたジェイクの声に、ルリスティは小さく頷く。


「はい。クリスティは、ずっとご家族に会いたがっていましたから」


共和国へ来たばかりの頃から、クリスティは何度も家族の話をしていた。

父のこと、兄や姉のこと、そしていつも自分を守ってくれていた騎士のこと。

どれほど大切な人たちなのかは、

その話を聞いているだけでも十分すぎるほど伝わってきた。


ようやく、会えたのだ。

本当によかったと、心からそう思う。


それなのに、父親の腕の中で安心したように泣くクリスティを見ていると、

胸の奥にほんの少しだけ痛みが走った。


クラウスが亡くなって、三年。


自分ももう一度、あの大きな腕に抱き締めてもらいたい。

そんなふうに願った夜が、なかったわけではない。

けれど、その願いが叶うことはもうない。


「司令」


静かに呼ばれて我に返ると、ジェイクがこちらを見ていた。


「……すみません」

「何故謝るんです」

「……そうですね」


ルリスティは少しだけ困ったように笑い、再びクリスティへ視線を戻した。


その隣で、ジェイクは別のものを見ていた。


娘を抱き締める帝国皇帝ルーファス。

白銀の髪に、紫水晶の瞳。

そして、その面差しには確かにどこかルリスティへ通じるものがある。


ジェイクの視線が、ゆっくりと隣の少女へ移った。


三日前、リカルド・アークファイントは彼女の名を聞いた瞬間、

明らかな動揺を見せていた。

そのときから胸の片隅に引っかかっていた推測が、

目の前の皇帝を見たことで、急速に現実味を帯びていく。


それでも、ジェイクは何も言わなかった。

まだ確証はない。

そして何より――それは、自分の口から告げるべきことではなかった。


◇ 


どれほどのあいだ、父娘は抱き合っていたのだろう。


やがてクリスティが、ようやくルーファスの胸元から顔を上げた。

それでも父の手は娘の肩から離れず、白い頬も、紫水晶の瞳も、白銀の髪も、

そこにいる娘が本当に生きているのだと確かめるように何度も見つめている。


「本当に、ごめんなさい」

「だから、謝らなくていい」


ルーファスは指先でクリスティの頬に残る涙を拭った。


「お前が生きている。それだけで十分だ」

「……うん」


クリスティは涙を流しながらも、ようやく少し笑った。


「私ね、一人じゃなかったよ。みんなが助けてくれたの」


そう言って、中庭に並ぶ辺境防衛軍の兵士たちを振り返る。


「たくさん大切にしてもらった。だから、お父様にも紹介したい人がいるの」

「紹介したい人?」

「うん!」


その声には、少しずついつもの明るさが戻っていた。

クリスティは父の手を取ったまま、中庭の中央へ顔を向ける。


「私を助けてくれた、とても大切な人」


少し離れたところに立っていたルリスティが、その言葉にわずかに目を瞬かせた。

クリスティは嬉しそうに彼女へ手を向ける。


「お父様。この人が――」


けれど、その先をルーファスは聞いていなかった。


娘の視線を追った先にいたのは、見慣れない漆黒の軍服を纏った一人の少女だった。

帝国には存在しない意匠の軍服に肩章を付け、腰には見慣れない武器を提げている。

まだ若いというのに、

周囲の共和国兵たちが自然と彼女を中心に立っていることがわかった。


そして、その漆黒の軍服の上を流れているのは――長い白銀の髪。

朝の光を映す、紫水晶の瞳。


ルーファスの呼吸が止まった。


中庭のざわめきも、兵士たちの気配も、風の音さえも、急速に遠ざかっていく。

視界に残ったのは、ただ目の前に立つ少女だけだった。


十九年前、フェリシアの腕の中で眠っていた小さな赤子。

やがてクリスティの後を追い、小さな手を伸ばして笑うようになった娘。


そして十七年前。


奈落の歪みに飲み込まれ、

どれほど手を伸ばしても助けることのできなかった、幼い我が子。


一日たりとも忘れたことはない。


二歳のまま記憶の中に取り残されていた娘の面影が、

目の前に立つ十九歳の少女へ、少しずつ重なっていく。


成長した姿など知るはずがない。

どんな声で話すのかも、どんな表情で笑うのかも、何一つ知らない。


それでも。

父親が、自分の娘を見間違えるはずがなかった。


クリスティと繋いでいた手から力が抜け、指先がゆっくりと離れていく。

気づけば、ルーファスは一歩前へ出ていた。


「お父様?」


クリスティが父の顔を見上げる。


けれど、その声さえ今のルーファスには届いていなかった。

彼はただ、目の前の少女を見つめている。


ルリスティもようやく、その異変に気づいた。

帝国皇帝が、なぜか自分だけを見つめている。

あまりにも強く――今にも泣き出してしまいそうな目で。


「……?」


ルリスティがわずかに首を傾げる。

その仕草を見た瞬間、ルーファスの唇が震えた。


十七年間、一日たりとも忘れることなく胸の奥で呼び続けてきた名前。

いつか必ず、この声が本人へ届く日が来ると信じ続けてきた名。


「……ルリスティ」



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