第65話 眠れない夜
その夜。
砦の医務室では、ルリスティのいつにも増して厳しい声が響いていた。
「大佐。きちんと横になってください。」
「もう十分、寝台の上にいますよ。」
「座っているだけです。傷は塞がっただけで、
治ったわけではないのでしょう。」
寝台の端へ腰掛けたジェイクは困ったように笑ったが、
ようやく諦めたように両脚を上げようとした。
けれど、脇腹へ力が入った瞬間、僅かに眉が寄る。
ルリスティはすぐに立ち上がり、背へ腕を回して身体を支えた。
「無理をしないでください。」
「では、お言葉に甘えます。」
慎重に寝台へ横たえ、掛布を胸元まで引き上げる。
ルリスティは包帯がずれていないか確かめながら、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「苦しくありませんか?」
「先ほどよりは随分と楽ですよ。」
「本当に?」
問い返すルリスティへ、ジェイクは小さく息を吐いた。
「司令。少し、こちらへ。」
不思議そうに身を屈めた彼女の額へ、ジェイクの掌が触れる。
「……大佐?」
「やはり。あなたも熱っぽいですし、顔色も良くありません。」
「祝福を使った後です。多少の疲労は――」
「比較の問題ではありません。」
普段、自分が部下へ告げている言葉をそのまま返され、
ルリスティは口を閉ざした。
「オリビアさんから、お互いに休むよう言われたでしょう?」
「ですが、私はあなたの看病を――」
「ルリスティ。あなたも、ふらふらじゃないですか。」
「私は歩けます。」
「俺も立てないことはありませんよ。」
「立ってはいけません。」
「なら、あなたも働いてはいけません。同じことです。」
反論しかけたルリスティだったが、今度こそ何も言い返せなかった。
そんな彼女を見つめるジェイクの瞳へ、僅かな悪戯心が浮かぶ。
「では、お互いに休めと言われましたし、一緒に寝ますか?」
「……え?」
意味を理解するまでに数秒掛かり、ルリスティの頬が一気に赤くなった。
「い、一緒にとは……この寝台で、ですか?」
「少々狭いですが、二人でもどうにかなるでしょう。
俺の隣にいてくださるのでは?」
「それは、そういう意味ではありません!」
「そうでしたか。少し期待したのですが。」
「大佐!」
思わず声を上げると、医務室の外で誰かの足音が止まったような気がした。
ルリスティは慌てて口元を押さえ、耳まで真っ赤になる。
その姿に、ジェイクは傷へ響かないよう小さく肩を揺らした。
「冗談です。今夜は大人しく一人で眠りますよ。」
「……今夜は?」
「言葉の綾です。」
「信用できません。」
「それも、先ほど聞きましたね。」
笑みを深めるジェイクを、ルリスティはしばらく疑わしげに見つめていた。
以前の彼なら、自分へこのような冗談を言うことはなかった。
他の女性には、いくらでも言っていたのかもしれない。
けれど自分に対しては、いつも節度ある距離を保っていた。
近づきすぎないように。
自分が困らないように。
その距離が、今は変わり始めている。
そして、その理由を、ルリスティももう知らないふりはできなかった。
「……大佐。明日も、お会いできますよね。」
ジェイクの表情から悪戯めいた色が消え、深い青の瞳が静かに彼女を見つめた。
「ええ。もちろんです。」
迷いのない返事に、ルリスティの表情が僅かに緩む。
「では、きちんと休んでください。朝、また来ます。」
「お待ちしています。」
「おやすみなさい。」
扉へ向かいかけた背へ、ジェイクの声が届いた。
「ルリスティ。今日は、隣にいてくれてありがとうございました。」
足を止めたルリスティは振り返り、小さく首を横へ振る。
「お礼を言うのは、私の方です。
帰ってきてくださって、ありがとうございました。」
二人は穏やかに微笑み合い、今度こそルリスティは医務室を後にした。
静かに閉まった扉を見つめ、ジェイクは長く息を吐いた。
「……参ったな。もう少し、自重できると思っていたんだが。」
抑えきれない笑みを浮かべたまま、先ほどまでより穏やかな顔で瞼を閉じた。
◇
医務室を出たルリスティは、扉のすぐ外で立ち止まり、
熱くなった頬を両手で押さえた。
『一緒に寝ますか?』
ジェイクの声が、何度も頭の中で繰り返される。
相手は死にかけたばかりの重傷者だというのに、
なぜあれほど余裕のある顔で、あんなことが言えるのだろう。
冗談だということは分かっている。
それでも、これまで自分には向けられなかった言葉を思い出すたび、
胸の奥が落ち着かなくなった。
二人の間にあった距離は、確かに変わり始めている。
そして、それを嫌だと思っていないことが、なおさら困った。
「ルリスティ?」
突然声を掛けられ、肩が大きく跳ねた。
振り返ると、廊下の先でクリスティが不思議そうに首を傾げている。
「どうしたの? 顔、真っ赤だよ。」
「何でもありません。」
きっぱり答えるルリスティを訝しげに見ながら、
クリスティは医務室の扉へ目を向けた。
「マルセリア大佐は大丈夫?」
「はい。今は休んでいます。本当に……よかったです。」
柔らかくなった声に、クリスティも安心したように笑った。
「そっか。じゃあ、今度はルリスティが休まなきゃ。」
そう言って手を取られ、ルリスティは反射的に口を開く。
「ですが――」
「駄目。今日は、ルリスティがちゃんと寝るまで私が見張ります。」
珍しく強い口調で言われ、ルリスティは困ったように笑った。
「それでは、私もクリスティが休むまで見ています。
お互いに休むよう言われたでしょう。」
二人は顔を見合わせ、ほとんど同時に小さく笑った。
「では、一緒に休みますか。」
「うん!」
迷いなく頷かれた瞬間、ルリスティの身体が僅かに固まった。
『一緒に寝ますか?』
また別の声が蘇る。
「ルリスティ?」
「……何でもありません。」
今度こそ、ルリスティは強く首を横へ振った。
◇
同じ頃。
リカルドは与えられた客室へ入ると、
扉を閉めたまま、しばらくその場から動けなかった。
簡素な寝台と小さな机。
壁際には椅子が一脚置かれ、
窓の外からは時折、夜警の兵士が歩く音が聞こえてくる。
静かな部屋だった。
だからこそ、昼間の出来事が否応なく鮮明に蘇った。
姫様は生きていた。
その事実だけで胸がいっぱいになり、気づけば抱き締めていた。
「何ということを……。」
椅子へ腰を下ろし、リカルドは額を押さえた。
一度は彼女の想いを退けたというのに、
あのように抱き締めるなど、騎士としてあるまじき行為だった。
そう自分を戒めても、腕の中へ飛び込んできた細い身体や、
背へ回された華奢な腕の感触が消えてくれない。
記憶よりも少し痩せた姿を思えば、
この四か月に彼女が味わった苦労まで想像してしまう。
忘れろと命じるほど、肩へ伝わった温もりも、
髪から微かに香った懐かしい匂いも鮮明になった。
そして何より、あの言葉が胸から離れない。
『約束、守ってくれたでしょう?』
幼い頃、泣き虫だった姫様へ告げた約束。
どこにいても、必ず見つける。
十九歳になった今も覚えていてくれたことが、たまらなく嬉しかった。
「……姫様。」
その名を呼ぶだけで、胸が苦しくなる。
長年、騎士として閉ざし続けてきた感情。
拒絶したつもりでも決して消えなかった想いが、
再会したことで再び溢れ始めていた。
リカルドは騎士服の内側から二枚の白いハンカチを取り出し、
机の上へ丁寧に並べた。
幼いクリスティが刺繍した、不格好な銀の鷹。
十九歳の彼女が、自分のために一針ずつ縫った美しい銀の鷹。
古い方は、確かに姫様の手から受け取ったものだった。
けれど新しい方は、主のいない部屋から自分が持ち出したにすぎない。
返すつもりはない。
それでも、このまま自分のものにしてしまうのは嫌だった。
「この一枚も、改めて姫様の手から頂戴したい。」
あの日、彼女の想いを拒んだ自分に、それを望む資格があるのかは分からない。
今夜は、まだ話せない。
けれど、いつか必ず。
今度は逃げずに、姫様の目を見て、自分の言葉で願おう。
リカルドは二枚のハンカチを、再び大切に胸元へ収めた。
◇
別の客室では、クリスティが毛布を頭の先まで引き上げていた。
「……眠れない。」
隣の寝台では、ルリスティが静かに目を閉じていた。
眠っているように見えたため、
クリスティは音を立てないよう、そっと寝返りを打った。
けれど目を閉じれば、黎明の道を駆けてきたアークファイントの姿が浮かぶ。
馬が止まりきる前に飛び降り、地面へ転がりながらも、
真っ直ぐ自分のもとへ走ってきた。
そして、抱き締められた。
クリスティは毛布の中で、自分の身体へそっと腕を回した。
五歳の頃から、ずっと隣にいた人。
剣を振る姿も、傷ついた姿も何度も見てきたが、抱き締められたのは初めてだった。
広い胸も、力強い腕も、自分とはまるで違う。
それなのに、触れ方は驚くほど優しかった。
苦しくないように、壊してしまわないように。
まるで、とても大切なものを扱うように。
思い出すだけで鼓動が速くなり、クリスティは枕へ顔を埋めた。
「もう……。」
一度は振られたのだ。
あれはきっと、姫君を無事に見つけられたという、騎士としての安堵。
それだけなのだと、何度も自分へ言い聞かせる。
それでも、胸の奥に生まれた小さな期待は消えてくれなかった。
『……会いたかった。』
あの言葉は、騎士としてではなく、彼自身の本音に聞こえた。
「駄目。期待しちゃ駄目。」
そう呟きながらも、頬が緩むのを止められない。
「……おやすみなさい。」
誰へ言うでもなく小さく告げたが、眠れるはずもなかった。
「クリスティ。」
突然、隣から声がした。
「……起きてたの?」
「はい。クリスティも眠れませんか?」
ルリスティが目を開く。
暗い室内で、紫水晶の瞳が月明かりを僅かに映していた。
「うん。ルリスティも眠れないの?」
「はい。」
短い返事のあと、暗い室内にしばし沈黙が落ちた。
やがてクリスティが、暗闇の中で小さく笑う。
「大佐と、ちゃんとお話しできたんだね。」
ルリスティの呼吸が僅かに止まった。
「……見ていたのですか?」
「うん。少し離れたところからだけど、ちゃんと見てたよ。」
返事の代わりに、ルリスティは毛布を鼻先まで引き上げた。
「お休みなさい。」
「大佐が『ルリスティ』って呼んでたのも聞こえたよ。」
「……お休みなさい、クリスティ。」
毛布から僅かに覗く耳は、真っ赤に染まっている。
クリスティは声を立てずに笑った。
「うん。おやすみ、ルリスティ。」
二人はそれぞれ目を閉じたが、結局どちらもすぐには眠れなかった。
◇
翌朝。
宿舎の廊下で顔を合わせたクリスティとリカルドは、
何事もなかったように微笑んだ。
「おはようございます、姫様。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「うん、とても。アークファイントは?」
「私も問題ございません。」
どちらも嘘だった。
互いの目元には薄い疲労が残り、
顔を見ただけで、昨夜何度も思い返した温もりが胸の奥へ蘇る。
「姫様。」
「何?」
リカルドは何かを告げようとしたが、
胸元のハンカチへ伸びかけた手を静かに下ろした。
今は、まだ早い。
「……いえ。朝食へ参りましょう。」
「うん!」
クリスティが歩き出すと、リカルドもいつものように半歩後ろへ続いた。
昨夜の温もりも、眠れなかった理由も、まだ互いには告げないまま。
彼らはまだ知らない。
黎明の道の向こう側で、
十七年間ルリスティの帰りを待ち、
四か月もの間クリスティを探し続けた家族が、
すでに二人のもとへ向かう準備を始めていた。




