第64話 二人とも、生きている
「本当に……。」
リカルドは、いまだ信じられないものを見るように、
クリスティの頬へそっと触れた。
指先に伝わる温もり、柔らかな頬。
つい先ほど抱き締めた腕の中にあった、確かな重み。
夢でも、幻でもない。
四か月もの間、毎日無事を願い続けた人が、今こうして目の前にいる。
「ご無事で……本当によかった。」
その言葉を聞いたクリスティは、涙で濡れた顔のまま、
いつものように明るく笑った。
「うん! ルリスティが助けてくれたおかげだよ!」
「……ルリスティ?」
聞き返したリカルドの声は、自分でも驚くほど小さかった。
「うん、私の親友。ルリスティ、こっちに来て!」
その視線を追うと、少し離れた場所に一人の少女がいた。
少女は、医療兵に囲まれて横たわる黒髪の軍人の傍へ膝をつき、
その容体を見守っている。
クリスティに呼ばれ、小さく目を瞬かせると、
負傷した男の様子をもう一度確かめてから立ち上がり、
ゆっくりと二人のもとへ歩いてきた。
リカルドの視線は、自然とその姿へ吸い寄せられた。
風に揺れる長い白銀の髪。
青白い星明かりを映した紫水晶の瞳。
そして、クリスティによく似た顔立ち。
だが、少女が身に纏うものは、
リカルドの知る皇女の姿とはあまりにもかけ離れていた。
漆黒の制服に、帝国には存在しない意匠の肩章。
腰には見慣れない武器があり、華美さよりも機能性を重視した装いは、
彼女が共和国の軍人であることを示していた。
その姿を見つめるうち、
リカルドの脳裏に、ルーファスから聞いた言葉が蘇る。
『ルリスティ。私の娘だ。クリスティの双子の妹だ』
会ったことはない。
顔も知らなかった。
ただ、その名だけは聞いていた。
十七年前、幼くして奈落の向こうへ消えた、もう一人の皇女。
「……まさか。」
無意識に零れた声にも気づかず、少女は穏やかに一礼した。
「初めまして。アドバンス共和国辺境防衛軍司令官、
ルリスティ・トリウリッドと申します。」
ルリスティ。
告げられた名と、白銀の髪、紫水晶の瞳。
さらに、クリスティとよく似た顔立ち。
目の前にいる少女が誰なのか、もはや疑いようはなかった。
そして同時に、続けて告げられた肩書きが、リカルドへ別の衝撃を与える。
辺境防衛軍司令官。
十七年前に失われた皇女は、
ただ奈落の向こうで生き延びていたのではない。
共和国の軍服を身に纏い、その最前線を率いる者として、
十九歳まで生き抜いてきたのだ。
四か月もの間探し続けてきたクリスティだけではない。
ルーファスが十七年間、胸の奥で呼び続けてきた娘も。
レオンハルトやアレクシス、
ヴィオレットが忘れることのできなかった妹も。
今、確かに自分の目の前に立っている。
「アークファイント?」
クリスティが不思議そうに顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 顔、真っ青だよ?」
リカルドはすぐには答えられなかった。
クリスティによく似ている。けれど、どこか違う。
十七年間、
帝国の誰も知ることのできなかった人生を歩んできた者の静かな強さが、
その紫水晶の瞳には宿っていた。
――ルリスティ様。
胸の内で初めて、その名を呼ぶ。
今すぐにでも伝えたかった。
あなたの父は、十七年間、一度たりともあなたを忘れたことなどない。
兄も姉も、今もあなたの帰りを待ち続けているのだと。
けれど、その言葉を告げるのは自分ではない。
十七年間、娘の名を呼び続けてきた父自身が伝えるべきものだ。
込み上げる感情を静かに飲み込み、リカルドは深く頭を下げた。
「……初めまして。リカルド・アークファイントと申します。」
一度クリスティへ目を向け、改めてルリスティを見る。
「姫様をお守りくださり、心より感謝申し上げます。」
ルリスティは少し困ったように笑った。
「お礼を言われるようなことはしていません。
私も、クリスティにはたくさん助けていただきましたから。」
そう言って隣へ目を向けると、クリスティも嬉しそうに笑い返した。
その姿を見て、リカルドはほんの一瞬だけ目を閉じる。
ああ、本当に。
二人とも、生きている。
四か月探し続けた姫君も。
十七年間、失われたと思われていたもう一人の皇女も。
ようやく見つかったのだ。
◇
砦へ戻る頃には、空はすでに深い群青へ染まり始めていた。
昼間、黒淵を覆っていた濃密な瘴気は消え、
異常なほど空を埋め尽くしていた星々も、
本来の夜空へ溶け込むような穏やかな輝きへ変わっている。
それでも、砦の内外には激戦の痕跡が色濃く残っていた。
負傷兵を乗せた馬車が次々と正門をくぐり、
担架を運ぶ兵士や指示を飛ばす医療兵が中庭を行き交う。
泥と血に汚れた軍服のまま互いの無事を確かめ合う者も多く、
その間を治癒術師たちが忙しなく走り回っていた。
帝国の騎士がクリスティを「姫様」と呼んだことは、
すでに前線から戻った兵士たちの間へ伝わり始めていた。
事情を知らない者たちは戸惑いを隠せずにいたが、
今は負傷者の救護が最優先とされ、誰も直接問い掛けることはなかった。
また、リカルドの同行については、
前線を発つ前にルリスティから砦へ伝令が送られていた。
帝国から来た騎士であり、クリスティの護衛であること。
敵意はなく、客人として受け入れること。
そのため正門の兵士たちは驚きこそしたものの、武器を向けることはなかった。
「司令官がお戻りになったぞ!」
声が響き、兵士たちが一斉に正門へ顔を向ける。
正門をくぐる一行の中で、ルリスティは搬送用の担架のすぐ横を歩いていた。
担架にはジェイクが横たわり、脇腹には厚く包帯が巻かれている。
顔色にはまだ血の気が戻りきっていない。
それでも、深い青の瞳には確かな光が宿っていた。
「司令官!」
「マルセリア大佐!」
「ご無事ですか!」
次々と掛けられる声に、
ルリスティは疲労を隠しきれない様子だったが、
それでも一人ひとりへ小さく頷いた。
「ご心配をお掛けしました。私は大丈夫です。」
「司令。その言葉、今日だけで何度聞いたと思います?」
担架の上からすかさず指摘され、ルリスティはジェイクを振り返った。
「事実です。それより、あなたの診察が先です。」
「俺は見ての通り、大変な重傷者ですからね。」
「自覚があるなら、大人しく運ばれていてください。」
「善処します。」
「それは大人しくしない方の返事です。」
周囲から、小さな笑いが零れた。
いつもと変わらない司令官と大佐のやり取りに、張り詰めていた空気が僅かに緩む。
けれど、二人の間に生まれた変化へ気づく者もいた。
担架が揺れ、ジェイクがわずかに眉を寄せると、
ルリスティはすぐにその顔を覗き込んだ。
「痛みますか?」
「大丈夫ですよ。」
「その言葉は信用できません。」
「……先ほどのお返しですか?」
そう話しながら、ルリスティは当然のように担架のすぐ横を歩いていた。
以前なら、互いに遠慮して保っていたはずの距離が、
今は不思議なほど自然に縮まっている。
少し離れた場所では、
クルトワが眼鏡の位置を直しながら、その様子を静かに眺めていた。
「随分と距離が近くなりましたね。」
隣のガレスが横目を向ける。
「気づいていたか。」
「気づかない方が難しいでしょう。
先ほどから司令官は、大佐の担架から一歩も離れていません。」
「まあ、あれだけのことがあった後だからな。」
「それだけではないと思いますが。」
クルトワは淡々と答えたものの、眼鏡の奥の眼差しはどこか穏やかだった。
ガレスが肩を竦める。
「十分楽しんでいる顔だぞ。」
「観察しているだけです。」
◇
その後ろでは、クリスティが兵士たちへ笑顔を返しながら歩き、
リカルドがいつものように半歩後ろへ付き従っていた。
ただし、普段とは違い、
何かあればすぐに手を伸ばせる距離から一歩も離れようとしない。
クリスティが僅かな段差へ足を掛けただけで、
反射的にその肘へ手が添えられた。
「アークファイント。大丈夫だよ。この段差、何度も通ったことがあるから。」
「承知しております。」
「じゃあ……これは?」
クリスティが、自分の肘へ添えられた手を見る。
リカルドは数秒黙ったあと、ゆっくりと手を離した。
「失礼いたしました。」
謝りながらも、視線はいまだクリスティの足元を確認している。
その様子に、クリスティは困ったような、
それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
やがてリカルドは、見慣れない砦の中へ視線を巡らせる。
帝国とは異なる軍服。
未知の武器。
聞き慣れない呼称。
そのすべてが、ここが確かに異国であることを示していた。
けれど、すれ違う兵士たちはクリスティの姿を見るたび、
親しみのこもった声を掛けていく。
「クリスティさん、ご無事で何よりです。」
「お怪我はありませんか?」
「大丈夫だよ。みんなも無事でよかった。本当にありがとう。」
クリスティは一人ひとりへ、明るい笑顔を返していた。
リカルドは、その姿を黙って見つめる。
この四か月、姫様は一人ではなかった。
見知らぬ国へ飛ばされ、大切な人々から引き離されながらも、
姫様らしく誰かの隣へ立ち、笑顔を向け、ここで新たな居場所を築いていた。
安堵とともに、ほんの僅かな寂しさが胸へ浮かぶ。
自分の知らないクリスティの四か月。
自分が守れなかった時間を、この人々が守ってくれていたのだ。
「アークファイント?」
呼ばれて顔を上げると、クリスティが心配そうにこちらを見ていた。
「どうしたの? 少し寂しそうだったよ。」
リカルドは一瞬答えに詰まり、やがて静かに口を開いた。
「姫様がこちらで、
多くの方々に大切にしていただいたことを……ありがたく思っております。」
「うん。みんな、とても優しいんだよ。」
クリスティは嬉しそうに頷いた。
「ルリスティも、マルセリア大佐も、ガレス中佐も、
クルトワ中佐も。他のみんなも、ずっと私を助けてくれたの。」
「そうでしたか。」
リカルドは静かに頷く。
胸の奥へ浮かんだ寂しさは消えなかった。
けれどそれ以上に、クリスティがこの場所で大切にされ、
変わらない笑顔を守ってもらえたことが嬉しかった。
「アークファイント。」
「はい。」
「今日は砦で休んでいってね。ルリスティが、客室を用意してくれるって。」
クリスティは少し遠慮がちに笑った。
「もう夜になるし、黎明の道も開いたばかりでしょう?
今から戻るのは危ないと思うの。」
リカルドは一度、黒淵の方角へ目を向けた。
帝国側にはアレクシスたちが残り、
黎明の道の安定化と安全確認を進めているはずだ。
そして、クリスティが共和国側に留まる以上、
専属騎士である自分が彼女の傍を離れる理由はなかった。
「……承知いたしました。」
クリスティの顔が、ぱっと明るくなる。
「よかった。」
その笑顔に、リカルドの黒い瞳も柔らかく細められた。
「姫様がこちらでお休みになるのであれば、私もお側におります。」
「……うん。」
クリスティは頬を少しだけ赤く染め、小さく頷く。
四か月もの間、どれほど願っても届かなかった声が、すぐそばにある。
手を伸ばせば、今度は確かに届く場所にいる。
それだけで、今夜は十分だった。




