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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第63話 ようやく届いた手

少し前。


帝国側、奈落門前。


頬を打つ風は強く、耳元では激しい風切り音が鳴り続けていた。

リカルドの背後では、白銀のマントが風を孕んで大きくはためいている。


目の前に広がるのは、百五十年もの間、帝国と共和国を隔て続けてきた奈落門。

その底知れぬ闇の上に今、金色と青白い星の光が重なって生まれた、

一本の細い黎明の道が伸びていた。


幅は、軍馬一頭が辛うじて駆け抜けられる程度しかない。

左右には底の見えない闇が広がり、

一歩でも踏み外せば、二度と戻ることはできないだろう。


「リカルド!」


背後から、アレクシスの声が響いた。


「待て! まだ安全確認が終わっていない!」


聞こえていた。


騎士としても、帝国軍人としても、

安全の保証すらない道へ飛び込むことがどれほど無謀かは分かっている。


それでも、リカルドは手綱を緩めなかった。

あの先に、彼女がいる。


腰へ手を伸ばすと、指先が白銀の柄へ触れた。

初代皇帝レオン一世が遺し、

あの地下遺構で自らの手によって抜いた剣――黎明の剣。


『ならば。次は、掴め』


あの日、皇帝から告げられた言葉が蘇る。


『そして今度こそ、あの子の手を掴め』


リカルドは静かに息を吸い、黎明の剣を鞘から抜いた。


澄んだ金属音とともに現れた白銀の刀身へ、淡い光が走る。

それに呼応するように、目の前へ伸びる黎明の道も明るさを増した。


「……姫様」


胸元では、二枚のハンカチが風に揺れている。

十歳のクリスティが懸命に刺繍した、不格好な銀の鷹。

そして奈落へ落ちる直前、直接受け取ることのできなかった、美しい銀の鷹。


四か月。

朝が来るたび、生きていてほしいと願った。

夜が来るたび、どうか泣いていませんようにと祈った。


食事をしているだろうか。

眠れているだろうか。

怖い思いをしていないだろうか。


仕事をしていても、剣を振っていても、

ふとした瞬間に脳裏へ蘇るのは、いつもあの日の光景だった。


『アークファイント!!』


必死に伸ばされた、小さな手。


『姫様!!』


あと少しだった。

あと、指先一つ分。

それなのに、掴めなかった。


あの日から一度として、自分を許したことはない。

だが今、もう一度だけ、彼女へ続く道が開かれた。


「必ず」


リカルドは黎明の剣を握り締めたまま、軍馬の首筋へ身体を伏せる。


「今度こそ、あなたの手を掴みます」


馬腹を蹴った。

軍馬が高く嘶き、迷うことなく光の道へ踏み出す。

白銀の刀身が淡く輝き、その光に導かれるように、

リカルドは奈落の上を駆け出した。



共和国側。


辺境防衛軍最前線では、ルリスティが担架に横たわるジェイクの傍らに立ち、

光の道の向こうを見つめていた。


「来ます」


ジェイクが静かに呟く。

漆黒の髪が風に揺れ、深い青の瞳は、

こちらへ近づいてくる一騎の影を真っ直ぐに捉えていた。


「速いですね」

「軍馬が悲鳴を上げています」


ルリスティも目を凝らす。

まだ騎士の姿までははっきりと見えない。


けれど、たった今開かれたばかりの細い道を、

一切速度を緩めることなく駆けてくるその姿だけで十分だった。


「……あれが、クリスティの騎士、アークファイントさんですね」

「はい」


ジェイクは凄まじい勢いで近づいてくる影を眺めながら、小さく笑った。


「騎士の務めだけで、あそこまで必死にはなれないでしょうね」


ルリスティはその言葉の意味を考えるように、ゆっくりと頷いた。

あれは、単に急いでいる者の走り方ではない。

何かに追われているわけでもない。


ただ一人。

辿り着きたい相手だけを見据えて、一切の迷いなく駆けている。


「お姫様を迎えに来たんですね」


ジェイクの視線が、少し離れた場所へ向いた。

そこには、クリスティが立っていた。


白銀の髪を風に揺らし、

紫水晶の瞳で光の道の先を見つめたまま、身じろぎ一つしない。


胸の奥が、ひどく騒いでいた。

懐かしくて、苦しくて、嬉しくて。

今にも泣いてしまいそうで。

名前すらつけられないほど多くの感情が、一度に押し寄せてくる。


光の道を、一騎の騎士がこちらへ向かって駆けている。

まだ顔までは見えない。

それでも――間違えるはずがなかった。


「……アークファイント?」


唇から、無意識に名前が零れた。



聞こえた。


激しい風の音を越えて、奈落の向こうから。

まるで黎明の道そのものが彼女の声を運んできたかのように、

ずっと、ずっと聞きたかった声が届いた。


『アークファイント?』


馬上で、リカルドの黒い瞳が大きく見開かれる。

聞き間違えるはずがない。


五歳の頃から、毎日のように聞いてきた声だった。

泣いた時も、笑った時も、怒った時も。

いつもすぐ隣で、自分をそう呼んでくれた。


「……姫様」


視界が滲む。

手にした黎明の剣が、その感情へ応えるように淡く輝いた。


そして光の向こうに、ようやく彼女の姿が見えた。

風に揺れる白銀の髪。

遠目にも分かる、紫水晶の瞳。


記憶の中より、少しだけ痩せてしまったように見える。

それでも、間違いない。

四か月もの間、探し続けてきた自分の姫君だった。


「姫様!」


叫ぶと同時に、軍馬が最後の力を振り絞るように加速する。


共和国側の大地が目前へ迫った。


リカルドは黎明の剣を鞘へ収めると、

軍馬が完全に止まりきるのも待たずに鞍から飛び降りた。


勢いを殺しきれず地面へ転がり、濃紺の騎士服も白銀のマントも土に汚れる。

赤い髪も大きく乱れたが、そんなことはもうどうでもよかった。


すぐさま身体を起こし、顔を上げる。

そこに、彼女がいる。


「アークファイント!」


クリスティも駆け出していた。

白いローブを翻し、涙を零しながら、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。

足がもつれそうになっても構わなかった。


四か月前。

あの日、伸ばした手は届かなかった。

もう二度と、あんな思いはしたくない。


「姫様!」

「アークファイント!」


二人が同時に手を伸ばす。

そして今度は――


届いた。

指先が触れる。

温かい。


夢ではない。

ここにいる。

生きている。


その事実を互いに確かめた瞬間、二人の瞳から同時に涙が溢れた。


「姫様……!」


次の瞬間、リカルドはクリスティの身体を強く抱き締めていた。

壊してしまわないように力を加減しながら、

それでも、もう二度とこの腕から離してしまわないように。


クリスティの瞳が、大きく見開かれる。

五歳の頃からずっと隣にいた、自分の騎士。

どれほど近くにいても、決して礼節を崩さなかった人。

そのリカルドが今、自分を抱き締めながら、子どものように震えていた。


「申し訳……ございません」


クリスティの肩へ、熱い雫が落ちる。


「お守りできませんでした。姫様を……私は……」


震える声には、四か月もの間、胸の奥へ閉じ込め続けてきた後悔が滲んでいた。


謝罪も、懺悔も。

失うことへの恐怖も。

言葉にできなかったすべてが、涙とともに溢れている。


クリスティはそっと目を閉じると、震えるリカルドの背へゆっくりと腕を回した。


「ううん」


小さく首を振る。


「迎えに来てくれた」


その一言に、リカルドの身体が止まった。

クリスティは涙で濡れた顔のまま、それでも笑った。


「約束、守ってくれたでしょう?」


遠い日の会話が、二人の間に蘇る。


『どこにいても見つけてくれる?』

『はい』


『絶対?』

『必ず』


『約束だよ?』

『何処にいても、必ず』


「ほら」


クリスティはリカルドの背へ回した腕に、少しだけ力を込める。


「ちゃんと見つけてくれた」


涙を流しながら、それでも心から幸せそうに笑った。


「だから、もう謝らないで」


その言葉で、リカルドの中に辛うじて残っていた最後の自制が崩れた。

クリスティを抱く腕に、僅かに力が入る。


「……会いたかった」


ようやく零れたその一言は、専属騎士としてのものではなかった。

四か月もの間、ただクリスティを想い続けた、リカルド自身の本音だった。


クリスティの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。


「私も」


抱き締める腕に、さらに力を込めた。


「私も、会いたかった」


四か月。

ずっと。

二人とも、この瞬間を待っていた。



「……ようやくですね」


ジェイクが静かに呟いた。

ルリスティは頬に残っていた涙を拭いながら、小さく頷く。


「はい。ようやくです」


その近くでは、ガレスが隠す気もなく鼻をすすっていた。


「ったく。見てるこっちが恥ずかしくなるな」

「四か月分です。許してあげてください」


ジェイクが小さく笑う。


「お前が言うか?」

「……何のことでしょう」

「とぼけるな」


そんなやり取りをしている間にも、

リカルドはクリスティを抱き締めたまま、なかなか離そうとはしなかった。


その姿を眺めていたルリスティは、ふと担架の上のジェイクへ視線を向ける。


「大佐」

「はい」

「アークファイントさんは、クリスティのことが大好きなのですね」


ジェイクは、

ようやく取り戻した姫君を腕の中から離そうとしない騎士を見つめ、小さく笑った。


「ええ。見ていれば分かりますね」

「私、あれほど必死に誰かのもとへ向かう人を初めて見ました」

「本当に?」


僅かに笑いを含んだ声に、ルリスティは不思議そうにジェイクを見下ろした。


「少し前にも、よく似た男が一人いたと思いますが」

「……大佐のことですか?」

「他にいますか?」


ルリスティは一度瞬きをする。


「ですが、大佐は正式な増援要請を受けて前線へ来たのでしょう?」

「ええ。軍人としては、その通りです」


ジェイクは穏やかに答えながらも、深い青の瞳をルリスティから逸らさなかった。


「ですが、誰よりも早くあなたの隣へ行きたいと思ったのは、俺自身ですよ」


紫水晶の瞳が僅かに見開かれ、ルリスティの頬へ淡い赤みが広がった。


「……そういうことを、今言うのですか?」

「今なら、言ってもいいのでしょう?」


それは、先ほど交わしたばかりの約束を確かめるような問いだった。

ルリスティは一度視線を落としたものの、やがて小さく頷く。


「はい。そういうことは、今後きちんと言ってください」


ジェイクの瞳が僅かに揺れ、すぐに柔らかな笑みへ変わった。


「承知しました」


ルリスティはもう一度、抱き合うクリスティとリカルドへ目を向ける。


「では、アークファイントさんも、

この四か月ずっと同じ気持ちだったのでしょうか」


「おそらく。一日たりとも、姫様を忘れたことはなかったでしょうね」

「……そうですか」


今なら、その想いが少しだけ分かる。

隣にいてほしい人を失うかもしれない恐怖も。

どれほど遠く隔てられていても、その人のもとへ辿り着きたいと願う気持ちも。


ルリスティは担架の上から自分を見つめるジェイクの手を、もう一度そっと握った。

ジェイクも何も言わず、その手を握り返す。


青白い星の光は、今も戦場の上で静かに瞬いていた。


四か月。

誰も諦めなかった。


帝国も。

共和国も。

離れた場所で、互いを探し続けた人々も。


その願いの先に、黎明の道は開いた。


そして四か月前――

あと指先一つ分のところで届かなかった二人の手は、今度こそ確かに重なっている。

もう二度と、離してしまわないように。

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