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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第62話 星は道をひらく

青白い星の光が、二人の周囲へ静かに降り続けていた。


その中で、クリスティから溢れる太陽の祝福だけが温かな金色を帯び、

傷ついたジェイクの身体へ、途切れかけた命を繋ぎ止めるように流れ込んでいる。


百五十年もの間、黒淵によって隔てられてきた大地で今、

太陽と星――二つの祝福が、一つの命を守る場所で重なっていた。



「傷口は、どうにか塞がっています」


ジェイクの脇腹を確認していた医療兵が、慎重に状態を確かめながら告げた。

金色の光によって表面こそ閉じ始めているものの、

皮膚の下には深い損傷が残っている。

大量に失われた血も、すぐに戻るものではない。


「呼吸と脈も安定し始めています。

少なくとも、今すぐ命を落とす危険は避けられたでしょう」

「……よかった」


その言葉を聞いた瞬間、ルリスティの身体から一気に力が抜けた。

それでも、ジェイクの手だけは離さなかった。


「ただし、絶対安静です。砦へ戻り次第、医務室で治療を続けてください」

「分かりました。必ず守らせます」

「司令……俺も聞いています」


すぐ傍らから掠れた声が聞こえ、ルリスティはジェイクを見下ろした。


「でしたら、必ず守ってください」

「はい。仰せのままに」


まだ力の戻らない声だったが、返事ができるほどには回復している。


医療兵も僅かに安堵した様子を見せると、

担架を用意するため治癒術師たちのもとへ戻っていった。


少し離れた場所では、クリスティが膝をついたまま呼吸を整えていた。

額には薄く汗が滲み、ジェイクへ注がれていた金色の光も、

先ほどまでの強さを失って穏やかなものへ変わっている。


「クリスティ。大丈夫ですか?」

「うん。少し疲れただけ」


心配させまいと笑ってから、クリスティは横たわるジェイクを覗き込んだ。


「マルセリア大佐。もう、ルリスティを泣かせちゃ駄目だからね!」

「それは……随分と難しい命令ですね」


「死ななければいいの。約束して」

「クリスティ。大佐は負傷しています。今はあまり問い詰めないでください」


ルリスティに窘められ、クリスティは一度二人を見比べた。

それから、何かをすっかり理解したように柔らかく笑う。


「じゃあ、私は医療兵さんたちを手伝ってくるね」

「待ってください」


立ち上がろうとしたクリスティを呼び止め、

ルリスティはジェイクの手を握ったまま深く頭を下げた。


「あなたが来てくれなければ、大佐は助からなかったかもしれません。

この人を、私のところへ帰してくれて……本当に、ありがとうございました」


クリスティは一瞬目を見開いたが、

すぐに穏やかな笑みを浮かべてルリスティの肩へ手を置いた。


「私だけじゃないよ。

ルリスティが諦めずに呼び続けたから、大佐は戻ってこられたの」


そして少しだけ笑みを深くする。


「それに、親友の大切な人を助けるのは当然でしょう?」

「親友……」

「うん。親友!」


迷いのない返事に、ルリスティも小さく頷いた。


「大佐が元気になったら、また三人で丘へ行こう」

「……はい。その時は、私がお茶を用意します。大佐にも手伝っていただきます」

「病み上がりに働かされるんですか?」


傍らから弱々しい声が上がる。


「当然です。今回心配を掛けた分まで働いていただきます」

「では、一日も早く回復しないといけませんね」


クリスティは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、大佐のそばにいてあげて」


そう言い残して立ち上がると、

負傷者たちの治療を手伝うため医療兵のもとへ歩いていった。


周囲では、兵士や治癒術師が忙しなく行き交い、

観測班もすでに黒淵の魔力反応を調べ始めている。


それでも、ルリスティとジェイクの周囲だけには、

不思議なほど静かな時間が流れていた。


「大佐。苦しくはありませんか?」


ルリスティは顔色を確かめながら、握った手へ僅かに力を込める。


「ええ。随分と楽になりました」

「ですが、傷は深いままです。動いてはいけません」

「分かっていますよ」


穏やかな返事を聞いても、ルリスティの表情は緩まない。


「……本当に?」

「今日は随分と信用がありませんね」


「当然です。本隊を待たずに先行し、私を庇い、

そのうえ死にかけた方を、どう信用しろというのですか」


最後の言葉だけが、僅かに揺れた。

ジェイクは一瞬黙り、それから困ったように笑う。


「……返す言葉もありません」


力はまだ戻らず、顔色も決して良くない。

それでも、いつもの顔で、いつもの声で答えてくれる。


ただそれだけのことに胸を撫で下ろしながら、

ルリスティは先ほどまで冷えきっていた手の甲を、親指でそっと撫でた。


「司令。一つだけ、確認してもいいですか?」


その言葉に、動いていた指が止まる。


「先ほど……俺がほとんど意識を失いかけていた時のことなんですが」


ジェイクは浅く息を整えながら続けた。


「聞き間違いでなければ、

司令は俺に……隣にいてほしいと、そう言ってくださった気がするんです」


ルリスティの身体が僅かに強張った。

思わず視線を落とすと、白銀の髪が頬へ流れ、

その奥へじわりと赤みが広がっていく。


あの時は、ジェイクを失いたくない一心だった。


自分が何を口にしているのか考える余裕などなく、

胸の奥から溢れた願いを、そのまま彼へぶつけただけだった。


けれど、こうして改めて尋ねられると、

自分がどれほど大きなことを告げたのか否応なく理解してしまう。


それでも。

ここで誤魔化せば、この人はきっと何事もなかったように、

再びただの上官と部下としての距離へ戻ろうとする。


それは、嫌だった。


長い沈黙の末、ルリスティは自分の意思で顔を上げた。


「……はい」


小さな声だった。

けれど、ジェイクにはそれだけで十分だったらしい。


深い青の瞳が静かに揺れ、ほとんど力の残っていない指が、

それでも確かにルリスティの手を握り返す。


「約束します」


ジェイクは彼女を見つめたまま、ゆっくりと言った。


「もう、自分からあなたの隣を離れたりはしません」


ルリスティの紫水晶の瞳へ、再び涙が滲んだ。

ジェイクはそれに気づき、頬へ触れようと手を持ち上げる。

けれど傷が痛んだのか、途中で僅かに顔を歪め、その手が止まった。


ルリスティはすぐに手を取り、自らその掌を頬へ触れさせる。


「無理に動かしてはいけません」

「……そうですね」


掌へ触れる頬は、まだ涙で濡れていた。

けれど温かい。

その感触を確かめるように、ジェイクはほんの僅かに指を動かした。


「これからも、あなたの隣にいてもいいですか?」


先ほどルリスティが願った言葉へ返す、ジェイクからの問いだった。


ただの上官と部下としてではなく。

戦場で背中を預け合うだけでもなく。


休日には同じ丘へ行き、並んで本を読み、紅茶を飲む。

何も話さない時間さえ、穏やかに分け合っていく。

まだ二人とも見たことのない、これから先の日々を、共に過ごしてもいいのかと。


ルリスティは涙の残る瞳でジェイクを見つめ、やがて小さく笑った。


「……それは、私の方からお願いしたいです」


ジェイクはしばらくその顔を見つめていたが、やがて長く安堵の息を吐いた。


「よかった。間に合った」

「何がですか?」

「もう少し返事が遅かったら、傷より先に心臓がもちませんでした」


ルリスティは数度瞬きをしたあと、堪えきれず小さく吹き出した。


「今、そのような冗談を言うのですか?」

「本気ですよ」


「信用できません」

「今日は本当に信用がありませんね」

「当然です」


けれど、その声にもう震えはなかった。

涙と血と土で汚れたまま、ルリスティは笑っている。

安堵も、喜びも、抑えきれない想いも、すべてそのまま溢れた笑顔だった。


ジェイクは何も言わず、眩しいものを見るように彼女を見つめた。


「……何でしょう」


視線に気づいたルリスティの笑顔が、少しだけ恥ずかしそうなものへ変わる。


「いえ。ただ、間に合って本当によかったと思いまして」


今度は冗談ではなかった。

ルリスティもそれを感じ取ったのか、

ほんの少しだけ頬をジェイクの掌へ預け、静かに見つめ返した。


「……ルリスティ」


不意に呼ばれ、紫水晶の瞳が大きく見開かれる。

敬称も、階級もない。

ただ彼女自身へ向けられた名前だった。


ジェイクも無意識に口にしたらしく、言った本人まで僅かに目を見開く。


「……失礼しました」

「もう一度」


ルリスティは頬へ触れている手に、自分の手を重ねた。


「いいのですか?」

「はい。呼んでください」


頬を赤く染めながらも、視線は逸らさない。

まだ力の戻らないジェイクの顔に、

これまで見せたことのないほど柔らかな笑みが浮かんだ。


「ルリスティ」

「……はい」


短い返事にも、隠しきれない喜びが滲んでいた。


少し離れた場所では、二人の様子に気づいたクリスティが、

声を上げないよう両手で口元を覆いながら満面の笑みを浮かべている。


さらにその向こうでは、ガレスも二人を静かに見つめていた。

血と土に汚れながらも、互いの手を離さず笑い合っている姿を見届けると、

ガレスはゆっくりと昼の空を覆う星々を仰ぐ。


「クラウス……見ているか」


低い声で、今はもういない友へ語りかける。


「あの子はようやく、自分から誰かの手を求められるようになったぞ」


そして、もう一度二人へ視線を戻した。


「今度は、その手を失わずに済んだ」


その言葉へ応えるように、頭上で一つの星が強く瞬いた。



「担架をお持ちしました!」


医療兵の声に、二人の間に流れていた時間が現実へ戻る。

ルリスティはほんの少し名残惜しそうに、頬へ触れていたジェイクの手を下ろした。


「大佐。今度こそ、動いてはいけません」

「はい。仰せのままに」


医療兵たちがジェイクの身体を慎重に持ち上げ、

担架へ移し終えた――その時だった。


黒淵の奥から、重く低い音が響いた。

その場にいた全員が、同時に顔を上げる。


先ほどまで黒淵を覆っていた濃密な瘴気は、

ルリスティから溢れた青白い光によって大きく薄れていた。


そしてその奥、黒淵の中央には、

これまで闇に覆い隠されていた一本のか細い金色の光が浮かび上がっている。


「あれは……」


誰かが呟いた、その直後。

遥か彼方から、一羽の銀の鷹が飛来した。


銀の鷹は黒淵の上空を一度大きく旋回すると、

迷うことなくルリスティへ向かって降りてくる。


周囲の兵士たちが反射的に武器を構えたが、ルリスティは片手を上げて制した。


「待ってください」


何故なのかは分からない。

けれど、この鳥が自分へ危害を加えるものではないことだけは、

不思議なほど確信できた。


銀の鷹はルリスティの正面まで降りてくると、

嘴に大切そうに咥えていたものを、彼女の掌へそっと落とした。


小さな星形のレリーフ。

中心には、紫色の石が嵌め込まれている。


「これは……」


指先が触れた瞬間、レリーフを青白い光が包み込んだ。

小さかった星形が光の粒へほどけ、ルリスティの両手の前で急速に形を変えていく。


やがて輝きが収まった時、そこに現れたのは、

星を思わせる銀の装飾と二つの握りを備えた、漆黒の両手持ち魔導銃だった。


「……武器?」


ルリスティは目を見開く。

共和国で使われているどの魔導銃とも、構造そのものが違っていた。


けれど、恐る恐る二つの握りへ手を添えた瞬間――扱い方が、

まるで記憶を呼び起こされたかのように身体の奥へ流れ込んできた。


構え方。

魔力の流し方。

照準の合わせ方。


そのすべてが、初めから知っていたことのように理解できる。

同時に銃身へ刻まれた銀色の魔術式が、一斉に輝いた。

まるで長い時を越え、ようやく本来の持ち主のもとへ帰ってきたことを喜ぶように。


銀の鷹は漆黒の銃の上へ一度舞い降りると、

黒淵の中央に浮かぶ細い金色の光へ嘴を向けた。

ルリスティもその先を見つめる。


「これを……使えということなのですね」


両手で銃を構えた瞬間、頭上に広がる青白い星々が一斉に輝きを増した。


星の光がルリスティへ降り注ぎ、その身体を通して漆黒の銃身へ流れ込んでいく。

銀色の魔術式が端から順に灯り、長大な魔導銃が低く唸るような音を立てた。


けれど、それだけではない。


銃身に刻まれた術式の一部が、

黒淵の中央に浮かぶ細い金色の光へ呼応するように輝き始めた。


ルリスティは息を呑む。


金色の光は、この銃へ力を与えているのではない。

進むべき先を示している。


その振動とともに、

言葉では説明できない感覚がルリスティの意識へ流れ込んできた。


この武器は、黒淵を破壊するためのものではない。

あの光へ向かって、道を開く。

今のルリスティに理解できたのは、それだけだった。


「道を……開きます」


ルリスティが小さく呟いた。

白銀の髪が魔力の風に舞い上がり、紫水晶の瞳には再び無数の星が輝く。

漆黒の銃へ集まっていくのは、ルリスティを中心に輝く星の力だった。


頭上を覆う青白い星々の光が、

一筋ずつ銃身へ集まり、銀色の魔術式を満たしていく。


一方、黒淵の向こうから届く黎明の光は、

銃へ吸い込まれることなく、暗闇の中に細い道標として残り続けていた。


遠く離れた帝国側から差し伸べられた、その一本の光。

星導の魔導銃は、まるでその場所を見つけたかのように、静かに照準を定めていく。


少し後ろでは、担架に横たわるジェイクが、

深い青の瞳でルリスティを見つめていた。


「司令」

弱いながらも、確かな声だった。

「俺はここにいます」


ルリスティは一瞬だけ振り返る。

その言葉に、柔らかな笑みが浮かんだ。


「はい」

そして再び黒淵へ向き直る。

「ですから、見ていてください」


両手で漆黒の銃を構える。

青白い星の光が銃口へ集まり、眩い銀白色の輝きへと圧縮されていった。

その照準の先には、黒淵の向こうから伸びる細い黎明の光がある。


大地が震える。

黒淵の奥では、闇そのものが光を拒むように激しく蠢いている。


それでも、もう迷いはなかった。


父が守った国。

自分が守ってきた軍。

初めてできた親友。

そして――これからも隣にいたいと、自分から願った人。

そのすべての未来が、この先へ続いている。


「行きます」


ルリスティは、引き金を引いた。


一瞬。

世界から音が消えた。

直後、凄まじい轟音とともに、巨大な閃光が漆黒の銃口から放たれる。

銀白色の星の光は、黒淵の内部へ一本の道を穿ちながら進み続けた。


その先にあるのは、帝国側から届くか細い黎明の光。

やがて星の光が、その道標へ辿り着く。


瞬間。

黒淵を覆っていた闇が、内側からゆっくりと左右へ押し分けられていった。

そしてその中央に現れたのは、

軍馬が一頭駆け抜けられるほどの幅を持つ、眩い光の道だった。


帝国から共和国へ。

百五十年間、黒淵によって隔てられていた二つの大地を、初めて真っ直ぐに結ぶ道。


ガレスも、医療兵たちも、戦場に残る兵士たちも、

しばらくは誰一人として言葉を発することができなかった。

ただ、目の前に現れたあり得ない光景を見つめている。


やがて誰かが、震える声で呟いた。


「黒淵に……道が開いた」


ルリスティがゆっくりと銃口を下ろす。

その途端、星導の魔導銃を通して大きな力を放った反動で身体から力が抜け、

足元が大きく揺らいだ。


「ルリスティ!」


担架の上から、ジェイクの声が飛ぶ。

倒れかけた身体を、すぐ傍にいたガレスが咄嗟に支えた。


「司令官!」

「……大丈夫です」


ルリスティはガレスの腕を借りながら、どうにか体勢を立て直す。


「大丈夫な者は、撃った直後に倒れかけたりしない」

厳しい声とは裏腹に、支える手は慎重だった。


「申し訳ありません。少し力が抜けただけです」


そう答えたところで、担架の上から向けられる視線に気づく。

ジェイクは明らかに納得していない顔をしていた。

ルリスティは少しだけ笑う。


「……今は、信用してください」


ジェイクはガレスがしっかり身体を支えていることを確かめてから、

ようやく微かに息を吐いた。


「努力します」


その時だった。

開かれた光の道の向こう側で、小さな影が動いた。


やがて、蹄の音が聞こえる。

一頭の軍馬が、恐ろしい速度でこちらへ向かって駆けてきていた。

その背には、一人の騎士らしき人影があった。


ただ一人。

帝国側から、たった今開かれたばかりの道を迷うことなく駆けてくる。


「まさか……」


ルリスティが息を呑んだ。

その隣で、クリスティも遠くの騎士を見つめていた。


まだ顔までは見えない。


それでも、分かった。

幼い頃から、ずっと隣にいた人。

黒淵へ飲み込まれる自分へ、最後の瞬間まで手を伸ばし続けてくれた人。

離れ離れになってからも、もう一度会いたいと何度も願った人。


「アークファイント……?」


掠れた声が零れる。


軍馬は光の道を駆け続け、

距離が縮まるにつれて騎士の姿が少しずつ鮮明になっていった。


見慣れた濃紺の騎士服。

その上で翻る白銀のマント。

燃えるような赤い髪と、真っ直ぐこちらを見つめる黒い瞳。


そして、その手には見たことのない白銀の剣が握られている。

胸元では、二枚の白いハンカチが眩い銀の光を放っていた。


クリスティの紫水晶の瞳へ、みるみる涙が溢れていく。

今度は、悲しみからではない。


「アークファイント!」


その声が――

百五十年の時を越えて開かれた光の道へ、真っ直ぐに響き渡った。

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