第61話 星の祝福
空を覆う無数の星が、一斉に強く輝いた。
次の瞬間、青白い光は静かな波となり、
ルリスティとジェイクを中心に戦場へ広がっていく。
地を這うように駆け抜けた光が触れた場所から、
黒淵より溢れていた瘴気が少しずつ薄れていった。
兵士たちの軍服へまとわりついていた黒い霧も、
負傷者の傷口から体内へ入り込もうとしていた瘴気も、
大地へ染みついていた淀んだ魔力さえも。
青白い光に包まれたそれらは静かに浮かび上がり、
やがて星屑のような粒子へ姿を変えて消えていく。
焼き払うのでも、力ずくで打ち消すのでもない。
まるで、ここはお前たちのいる場所ではないと告げるように、
周囲の誰一人として傷つけることなく、ただ瘴気だけを取り除いていた。
「……瘴気が」
後方で負傷者を支えていた兵士が、自分の腕を見下ろす。
魔獣の爪に裂かれた傷口から、黒い糸のような瘴気がゆっくりと浮かび上がり、
青白い粒子に包まれて空へ消えていった。
傷そのものが治ったわけではない。流れる血も、裂けた皮膚もそのまま残っている。
それでも、身体の奥へ沈み込んでいた冷たい痛みだけは、確かに薄れていた。
「黒淵の瘴気を……浄化しているのか?」
誰かが呆然と呟いたが、答えられる者はいなかった。
戦場にいた兵士たちは、昼の空を覆い尽くす青白い星々と、
その中心で光に包まれる白銀の少女を、息を呑んで見つめていた。
けれど、ルリスティ自身には周囲で起きている奇跡など何一つ目に入っていない。
地面へ膝をつき、片手で外套をジェイクの傷口へ押し当て、
もう片方の手で冷たくなり始めた手を握っている。
紫水晶の瞳に映っているのは、ただ一人。
ジェイクだけだった。
「大佐。聞こえていますか?」
返事はない。
呼吸は辛うじて続いているものの、胸が僅かに上下するだけで、
今にも途切れてしまいそうだった。
「お願いです。戻ってきてください」
握った手へ力を込めると、重ねられた二人の手の間から再び青白い光が溢れ出した。
光はルリスティの指先からジェイクの腕へ伝い、
そのまま身体の奥へ流れ込んでいく。
その瞬間。
本来ならば目に見えるはずのないものが、ルリスティにははっきりと見えた。
傷口から侵入し、
血の流れへ乗るようにジェイクの身体の奥へ広がっていく黒い瘴気。
それは脇腹から胸元へ、さらに心臓へ向かって伸びながら、
彼の命そのものを蝕もうとしていた。
「駄目」
ルリスティの紫水晶の瞳が、無数の星を宿したように強く輝く。
「そこへ行ってはいけません」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ジェイクを蝕む瘴気へなのか。
この人を自分のもとから連れ去ろうとする、目には見えない何かへなのか。
けれど、一つだけはっきりしていた。
失いたくない。
「この人は……私の隣にいてくれると、約束してくれたんです」
震える声で、それでも懸命に言葉を紡ぐ。
「だから……連れていかないでください」
その願いへ応えるように、空を覆う星々が一斉に瞬いた。
ジェイクの胸元へ伸びていた黒い瘴気が、ぴたりと動きを止める。
やがて来た道を逆に辿るように、少しずつ押し戻され始めた。
胸から肩へ。
肩から脇腹へ。
そしてついに、黒い瘴気が傷口から一気に溢れ出す。
「……っ!」
ルリスティはジェイクの身体を支え直し、その頭を自分の肩へ預けた。
吐き出された瘴気は、再び身体へ戻ろうとするように黒く蠢く。
けれど、青白い光がそれを許さなかった。
次々と闇を包み込み、触れた端から星屑へ変えていく。
やがて黒い瘴気は一片も残らず消え、
無数の青白い粒子となって空を覆う星々へ吸い上げられていった。
「大佐の身体から……」
ようやく駆けつけた医療兵が、その場で思わず足を止める。
「瘴気が……すべて抜けていく……」
少し離れた場所では、
ガレスも血に濡れた武器を握ったまま、その光景を見つめていた。
昼の空を埋め尽くす無数の星。
その中心で、涙を流しながらジェイクの手を握り続けるルリスティ。
目の前で起きていることが何なのか、ガレスにも分からない。
だが、今すべきことだけは明白だった。
「何をしている! 瘴気が消えたのなら、すぐに大佐の治療を始めろ!」
その一喝に、立ち尽くしていた医療兵たちが我に返る。
「は、はい!」
「治癒術師を呼べ! 止血を最優先にしろ!」
兵士たちが慌ただしく動き始める中、ガレスは一度だけルリスティへ目を向けた。
泣きながら、失いたくない相手の手へ縋る姿。
あんな顔をする彼女を見るのは、クラウスを失ったあの日以来だった。
ガレスは奥歯を噛み締めると、すぐに視線を医療兵たちへ戻した。
今度こそ、あの子の大切な人まで失わせるわけにはいかなかった。
◇
青白い浄化の光は、なおも戦場全体へ広がり続けていた。
兵士へ飛び掛かろうとしていた狼型の魔獣が、不意に足を止める。
「……何だ?」
剣を構えていた兵士の目の前で、黒い毛皮の内側から青白い光が滲み出した。
その身体を形作っていた濃密な瘴気がゆっくりと浮かび上がり、
魔獣の輪郭が足元から崩れ始める。
「魔獣が……」
やがて胸の奥で脈打っていた黒い核までが小さな星のように輝き、
音もなくほどけて消えた。
それを皮切りに、周囲の魔獣たちも次々と光へ包まれていく。
巨大な甲殻種も、牙を剥いていた獣型も、
上空を飛び回っていた魔獣も例外ではない。
星の光が触れるたび、その身体を形作っていた瘴気が静かにほどけ、
青白い粒子となって空へ還っていった。
一体、また一体と、数え切れないほどいた魔獣が消えていく。
それにつれて銃声も、兵士たちの怒号も、剣戟も、魔獣の咆哮も、
少しずつ戦場から失われていった。
そして最後の一体が星屑へ変わった時、
黒淵周辺には、それまでが嘘だったかのような静寂が訪れた。
けれど、黒淵そのものが消えたわけではない。
地上へ溢れ出していた瘴気は浄化されても、
底の見えない闇はなおそこにあり、その奥では黒い魔力がゆっくりと蠢いている。
星の光を警戒するように。
あるいは、目覚めた力を憎むように。
やがて黒淵の底から、低い振動が一度だけ大地へ伝わった。
誰も勝鬨を上げなかった。
ほんの少し前まで無数の魔獣と戦っていた兵士たちは、
武器を握ったまま、ただ呆然と星の浮かぶ昼空を見上げている。
「司令官が……」
誰かが呟いた。
けれど、その先を続けられる者はいなかった。
ルリスティは、浄化された戦場にも、
自分へ向けられる無数の視線にも気づいていなかった。
腕の中にいるジェイクしか、見えていない。
「大佐……」
傷口から、瘴気はすべて消えている。
だが、軍服を染めた血も、深く抉られた脇腹の傷も残されたままだった。
青白い星の光は、ジェイクを蝕んでいた闇を取り除いた。
けれど、裂かれた肉体そのものを元へ戻す力ではない。
大量の出血。
失われた体温。
弱り続ける呼吸。
ジェイクは、まだ危険な状態にあった。
その間にも、駆けつけた医療兵たちは懸命に治療を続けている。
青白い光は彼らの邪魔をすることなく、ジェイクの身体を静かに包み込んでいた。
「司令官、傷口から手を離してください。こちらで止血します」
「……お願いします」
返したルリスティの声は、細く震えていた。
血を吸いきった外套が慎重に取り除かれ、
代わりに治癒魔術の淡い緑色の光が傷口へ注がれる。
裂けた皮膚が、ごく僅かに閉じ始めた。
けれど――。
「傷が深い……」
医療兵の表情が険しくなる。
「瘴気は完全に消えています。ですが、出血が多すぎます」
「止血薬を! 治癒術師をもう一人!」
周囲が再び慌ただしく動き始めた。
ルリスティは、治療を続ける医療兵たちの手元から目を離すことができない。
傷は、十分には塞がらない。
ジェイクの呼吸も、再び少しずつ浅くなっていく。
先ほど確かに、星の光はこの人を闇から連れ戻した。
けれど、それだけでは足りない。
「どうすれば……」
ルリスティの唇から、掠れた声が零れた。
「どうすれば、この人を助けられるの……」
誰も答えられなかった。
医療兵たちは止血の術式を幾重にも重ね、傷口への圧迫を続けている。
完全に血を止めることはできない。
それでも流れ出る速度を少しでも抑え、
途切れかけた命をどうにかその身体へ繋ぎ止めていた。
「後方へ運べませんか?」
ルリスティが尋ねると、医療兵は苦い表情で首を横へ振った。
「今動かせば、再び出血が増える危険があります。
少なくとも、状態が安定するまではここで治療を続けなければなりません」
ルリスティは何も答えられず、ただジェイクの冷たい手を握り直した。
◇
同じ頃。
砦では、クリスティが窓辺に立っていた。
黒淵のある方角。
昼間だというのに、空には数え切れないほどの青白い星が浮かんでいる。
見たことのない光だった。
「ルリスティ……」
それでも、何故かすぐに分かった。
自分の中に宿る太陽とは異なる、もう一つの祝福。
暗い空を照らし、黒淵から溢れた瘴気を浄化していく青白い星々。
「星の祝福……」
その名は、まるで初めから知っていたかのように、自然と唇から零れた。
同時に胸の奥へ流れ込んできたのは、深い悲しみと、
誰かを失いたくないという切実な願いだった。
そして、ジェイクが前線へ向かう直前の言葉が蘇る。
『必ず』
ルリスティをお願い。
そう頼んだ自分へ、彼は確かにそう答えた。
「大佐……」
胸の奥が、不安にざわつく。
その時、正門の方角から激しい馬蹄の音が響いた。
「緊急報告!」
一騎の伝令兵が、砦へ駆け込んでくる。
クリスティはすぐさま窓辺を離れ、そのまま部屋を飛び出した。
「クリスティさん!?」
護衛の兵士が慌てて後を追う。
階段を駆け下り、正面玄関から外へ出たところで、
馬から降りたばかりの伝令兵と目が合った。
「何があったの!?」
兵士が振り返る。
「ルリスティは? マルセリア大佐は!?」
伝令兵が、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
その沈黙だけで、クリスティの顔から血の気が引く。
「答えて」
「……マルセリア大佐が、司令官を庇い重傷を負われました」
「命は?」
「司令官の力と思われる光によって、
体内へ侵入した瘴気はすべて浄化されています。
ただ……傷が深く、出血も多いため、いまだ危険な状態です」
クリスティは胸元を強く握った。
脳裏に浮かんだのは、寝台でジェイクの言葉へ素直に頷いていたルリスティ。
丘へ向かう朝、無意識に彼の姿を目で追っていたルリスティ。
そして――
『クリスティをお願いします』
そう言って、自分をジェイクへ託した姿。
ジェイクはもう、ルリスティにとって失ってはいけない人になっている。
「馬をお願いします」
「クリスティさん?」
「私も黒淵へ行きます」
護衛が慌てて止めようとしたが、その前に伝令兵が告げた。
「魔獣はすべて消失しました。現在、黒淵周辺に魔獣反応はありません」
クリスティは空を見上げる。
青白い星々の向こうから、ルリスティが自分を呼んでいるような気がした。
「急いで」
紫水晶の瞳が、まっすぐ黒淵の方角を捉える。
「大佐を死なせるわけにはいかないから」
◇
クリスティを乗せた軍馬が、青白い星明かりの下を駆けていた。
左右を護衛の騎兵が固め、その後ろから追加の医療班と治癒術師が続いている。
頭上に広がる星々は、まるで進むべき方向を示すかのように、
黒淵へ向かって連なっていた。
「ルリスティ、待ってて」
慣れない騎乗に身体が激しく揺れ、手綱を握る掌にも痛みが走る。
それでも、速度を緩めるつもりはなかった。
やがて遠くに辺境防衛軍の旗が見え、
その周囲へひときわ強い星の光が降り注いでいるのが分かった。
「あそこ……!」
戦場へ入っても、すでに魔獣の姿は一体もない。
地面には青白い粒子が残り、星屑のように淡く輝いていた。
そして、その奥。
多くの医療兵に囲まれた二つの人影が見えた。
白銀の髪。
その傍らに横たわる、大きな男の身体。
「ルリスティ!」
クリスティは馬から飛び降りた。
着地によろめいても構わず、そのまま二人のもとへ駆ける。
声に気づいたルリスティが顔を上げた。
「クリスティ……?」
涙に濡れた紫水晶の瞳。
白銀の髪には、まだ青白い星の粒子が降り注いでいる。
けれど、その表情は今にも崩れそうだった。
「大佐が……」
クリスティはルリスティの隣へ膝をつき、そこで初めて地面へ広がる血に気づいた。
「マルセリア大佐……」
閉じられた瞳。
青ざめた顔。
ほとんど分からないほど浅い呼吸。
「瘴気は、取り除けました」
ルリスティが震える声で言う。
「ですが……傷が。血が、止まらなくて……」
その先は、もう声にならなかった。
そしてルリスティは、初めてクリスティへ縋るような目を向けた。
「助けて……」
あまりにも小さな声だった。
「クリスティ……お願いです」
新たな涙が頬を伝う。
「大佐を、助けて……」
クリスティの胸が強く痛んだ。
誰より冷静で。
誰より強くあろうとして。
何もかも一人で背負ってきたルリスティが、今、自分へ助けを求めている。
「うん。絶対に助ける」
クリスティは迷うことなく頷き、ジェイクの傷口へ両手を翳した。
何をすればいいのかは分からない。
祝福を自由に扱えるわけでもない。
それでも、願うことならできる。
目を閉じると、脳裏にアークファイントの姿が浮かんだ。
離れ離れになった、大切な人。
会いたくても会えない苦しさを、自分は知っている。
「お願い……」
胸の奥に宿っていた温かな光が、ゆっくりと両腕へ流れていく。
「大切な人と離れ離れになるのは、とても苦しいから」
両手の間へ、小さな金色の光が灯った。
ルリスティが息を呑む。
青白い星明かりの中へ、温かな金色が静かに混じっていく。
「マルセリア大佐」
クリスティは強く願った。
「ルリスティの隣へ、帰ってきてください」
その瞬間、金色の光が一気に強まった。
白銀の髪が温かな風に持ち上げられ、紫水晶の瞳には太陽のような輝きが宿る。
「太陽の祝福……」
ルリスティが小さく呟いた。
青白い星の光が、身体を蝕む闇を取り除く力なら。
クリスティの金色の光は、
弱りきった命へもう一度生きる力を与える、温かな力だった。
金色の輝きが、ジェイクの傷口へ流れ込む。
「出血が……!」
医療兵が声を上げた。
流れ続けていた血が、少しずつ勢いを失っていく。
裂けた皮膚も、深く傷ついた肉体も、完全に元へ戻るわけではない。
けれど傷口は少しずつ閉じ始め、
今にも途切れそうだった命が、ようやくその身体へ繋ぎ止められていった。
冷えきっていた指先へ熱が戻り、青ざめていた唇にも少しずつ血色が差していく。
「呼吸が深くなっています!」
ジェイクの胸が、ゆっくりと大きく上下した。
一度。
そして、もう一度。
先ほどまでの消え入りそうな呼吸ではない。
確かに、生きようとする呼吸だった。
「もう少し……」
クリスティの額へ汗が浮かぶ。
それでも両手を下ろさない。
「お願い。戻ってきて。ルリスティが、こんなにあなたを待ってるから」
ルリスティは、ジェイクの手を強く握った。
もう、先ほどほど冷たくはない。
「大佐。聞こえていますか?」
返事はなかった。
それでも今度は、司令官としてではなく、ただ自分自身として呼び掛ける。
「私です。ルリスティです」
一度、震える息を吸う。
「戻ってきてください。私のところへ」
その瞬間。
ジェイクの指先が動いた。
「……!」
握っていた手が、今度こそ確かにルリスティの手を握り返す。
弱い。
ほとんど力など残っていない。
それでも、そこには確かな意思があった。
「大佐?」
閉じられていた瞼が、僅かに震える。
やがてゆっくりと開いた深い青の瞳が、眩しそうに何度か瞬いたあと、
自分の手を握っているルリスティの姿を捉えた。
「……司令」
掠れた声が届く。
「大佐……」
ルリスティの唇が震えた。
ジェイクは星と太陽、二つの光に包まれながら、僅かに口元を緩める。
「約束……守れそうですね」
その一言を聞いた瞬間、ルリスティの表情が崩れた。
安堵も。
怒りも。
喜びも。
恐怖も。
これまで押し込めていたすべてが、一度に溢れ出す。
「……馬鹿」
ジェイクの瞳が僅かに見開かれた。
「大馬鹿です」
ルリスティは彼の手を握ったまま、何度も首を横へ振る。
「本当に……あなたという人は……」
その先は、涙に遮られて言葉にならなかった。
ジェイクはそんな彼女を見つめながら、弱々しくも、いつものように穏やかに笑う。
「はい」
浅く息を吐き、涙に濡れた紫水晶の瞳を見つめる。
「後で、二回分……叱られる約束でしたね」
その言葉に、ルリスティの瞳からまた涙が溢れた。
けれど今度の涙は、失うことへの恐怖から流れるものではなかった。
自分のもとへ、確かに帰ってきた。
その人の手を握りながら、
ルリスティは戻ってきた温もりを確かめるように、もう一度だけ強く指を絡めた。




