第60話 私の隣にいてください
黒淵北側防衛線。
空は昼間とは思えないほど暗く染まり、
黒淵から噴き上がる瘴気が、厚い雲のように陽光を遮っていた。
大地を揺らす魔獣の足音と、絶え間なく響く銃声。
刃と爪がぶつかる音、兵士たちの怒号、負傷者を呼ぶ声。
そのすべてが入り混じり、戦場は耳を塞ぎたくなるほどの轟音に包まれている。
「右翼、さらに展開してください!」
混乱を貫くように、ルリスティの声が響いた。
「正面の大型種は第三狙撃班が引き受けます!
救護班は負傷者を後方へ! 隊列を崩してはいけません!」
漆黒の外套を風にはためかせながら、ルリスティは両手の魔導銃を構えた。
正面から突進してくるのは、全身を厚い甲殻で覆われた大型魔獣だ。
銃身に刻まれた魔術式へ魔力を流し込み、紫水晶の瞳で甲殻の継ぎ目を見定める。
静かに息を吐き、二つの引き金を僅かにずらして引いた。
乾いた銃声が重なる。
一発目が左前脚の甲殻を穿ち、続く二発目が寸分違わず同じ箇所へ突き刺さった。
深い亀裂が走り、巨体が大きく傾く。
「今です!」
合図と同時に、左右へ展開していた兵士たちが一斉に銃撃を浴びせた。
開いた甲殻の隙間へ魔弾が集中し、魔獣は苦鳴を上げながら地面へ倒れ込む。
だが、一体を倒したところで状況は変わらない。
濃い瘴気の向こうからは、新たな影が次々と這い出してきていた。
「司令官!」
伝令兵が息を切らして駆け寄る。
「第一防衛線の西側が押されています!
小型種およそ四十、その後方に大型種も確認!」
ルリスティは即座に戦場全体へ目を走らせた。
中央へ兵力を寄せれば、東側が薄くなる。
かといって西側を放置すれば、負傷者の搬送経路へ魔獣が雪崩れ込む。
「第三部隊から二個小隊を西側へ。」
「しかし、中央が――」
「中央は私が支えます。急いでください。」
迷いのない声に、兵士は一瞬だけ唇を結んだものの、すぐに強く頷いた。
「了解!」
その背中を見送る間もなく、左側から狼型の魔獣が飛び掛かってくる。
ルリスティは身体を捻って爪をかわし、
そのまま片膝をついて、二丁の銃口を魔獣の胸へ向けた。
ほぼ同時に放たれた魔弾が身体を貫き、黒い巨体がすぐ脇へ崩れ落ちる。
「司令官、お怪我は!」
「問題ありません。それより、北側の状況を。」
差し出された手を借りることなく立ち上がる。
長時間の戦闘により、体内の魔力は確実に減っていた。
魔導銃の弾丸は、自身の魔力から生成される。
物理的な弾切れはないが、撃ち続ければ、いずれ身体の方が限界を迎える。
僅かに乱れた呼吸を整えながら、ルリスティは黒淵へ視線を向けた。
胸の奥に、拭いきれない違和感が残っている。
ただ魔獣の数が多いだけではない。
出現する間隔が、妙に規則的だった。
最初に中央へ大型種を集中させ、兵力が寄ったところで西側へ小型種を放つ。
西側へ増援を回せば、今度は薄くなった中央を再び押し込んでくる。
無秩序に溢れ出しているのではない。
こちらの動きへ合わせるように、魔獣の出現位置が変わっている。
「……誘導されている?」
「司令官?」
「いえ。報告を続けてください。」
部下の声へ意識を戻しても、その感覚は消えなかった。
防衛線を突破することだけが目的なら、
もっとも兵力の薄い場所へ戦力を集中させればいい。
だが魔獣は、こちらが辛うじて対応できる範囲で、次々と異なる場所へ現れている。
防衛線を崩そうとしているというより。
兵士たちを。
そして、指揮を執る自分を。
何かが、定められた場所へ動かそうとしているように思えた。
出陣前、いつになく険しい表情をしていたジェイクの姿が脳裏をよぎる。
『本当に、嫌な予感しかしないんです。』
それでも、ルリスティはここへ来た。
辺境防衛軍司令官である以上、来ないという選択肢などなかった。
ジェイクには、砦とクリスティを託している。
彼がそこにいてくれるからこそ、自分は安心して前だけを見ることができる。
「司令官!」
観測班から切迫した声が飛んだ。
「黒淵の魔力が急上昇しています!」
ルリスティは弾かれたように顔を上げる。
黒淵の中央では、瘴気が巨大な渦を作り始めていた。
「全隊、黒淵から距離を取ってください! 観測班は魔力防壁を最大出力へ!」
だが、命令が全軍へ行き渡るよりも早く、黒淵そのものが大きく脈打った。
ドクン、と。
それは音ではなく、大地を通じて身体の奥へ直接叩き込まれるような振動だった。
それまで兵士たちへ襲い掛かっていた魔獣が、一斉に動きを止める。
轟音に満ちていた戦場へ、異様な静寂が落ちた。
直後、黒淵の奥から耳をつんざくような咆哮が響き渡る。
それに呼応して止まっていた魔獣たちが一斉に顔を上げ、
今まで以上の勢いで防衛線へ殺到した。
◇
同じ頃。
ジェイクは、軍馬を限界まで走らせていた。
漆黒の外套を大きく翻し、背には魔導大剣、腰には補助用の魔導銃。
第一部隊の機動力に優れた数名を率いて先行し、本隊には後続するよう命じていた。
携行品も必要最低限に絞り、ひと足先に砦を飛び出してきた。
正面の空は、黒く染まっている。
何度も目にしてきた黒淵の瘴気だが、今日のそれは明らかに違った。
空の奥から、大地の底から、何かが這い出そうとしているような圧迫感がある。
そして何より、出陣前から感じていた胸騒ぎが、ますます強くなっていた。
ふと、つい先日の丘で交わした言葉が蘇る。
『これからも、休日にはここへ来てもいいですか?』
『もちろんです』
ルリスティは柔らかく笑い、こう続けた。
『私も、来ていただけると嬉しいです』
ジェイクは軍馬の背へ低く身体を伏せ、手綱を強く握った。
「……なら、次の休日も行かないとな。」
遠くで黒淵が咆哮する。
その直後、前方から一騎の伝令兵が駆けてきた。
「マルセリア大佐!」
「戦況は!」
互いに馬を止めることなく、すれ違いざまに声を交わす。
「防衛線は維持! ですが、魔獣は増加を続けています!」
「司令は!」
「中央で指揮を!」
「負傷は!」
「現時点では確認されておりません!」
その答えを聞き、ジェイクは僅かに肩の力を抜いた。
だが、安心するには早い。
さらに軍馬を急がせ、丘を越えた瞬間、戦場の全景が目へ飛び込んできた。
無数の魔獣。崩れかけた防衛線。
負傷者を運ぶ兵士たちと、瘴気で黒く染まった空。
その中心に、白銀の髪を翻しながら兵士たちの先頭に立つ少女がいた。
ジェイクの深い青の瞳が、その姿を捉える。
「……いた。」
無事だ。
まだ、立っている。
胸の奥が緩んだのも束の間、黒淵の奥で巨大な影が動いた。
これまでの魔獣とは比較にならないほどの巨体。
その腕が濃密な瘴気を纏い、防衛線へ向かって振り下ろされる。
ジェイクは後方から続く先行隊へ向け、片手を上げた。
「先行隊は西側へ! 本隊が到着するまで防衛線を支えろ!」
指示を飛ばすと同時に、軍馬の背から飛び降りる。
「司令!」
着地の勢いを殺さないまま駆け出し、腰の魔導銃を抜いて二発、三発と撃ち込んだ。
深い青の魔弾が魔獣の顔面へ突き刺さり、巨体が僅かに仰け反る。
その隙に銃を戻し、背負っていた魔導大剣を引き抜いた。
刀身に刻まれた魔術式が、深い青に輝く。
「大佐!?」
振り返ったルリスティの紫水晶の瞳が、驚きに見開かれた。
ジェイクは返事をするよりも先に大剣を振り抜き、
迫っていた魔獣を甲殻ごと切り裂く。
「何故来たのですか! あなたには砦を守るよう命じたはずです!」
「北側から第一部隊への増援要請が出たのは、ご存じでしょう」
「ですが、あなた自身が来る必要はありません。砦にはクリスティが――」
「状況変更を受けて、クルトワ中佐が配置を組み替えました。
砦の警戒とクリスティさんの護衛は第二部隊が引き継いでいます」
「クリスティは?」
「護衛を増員し、地下避難区画への経路も確保されています。それに――」
ジェイクは大剣を構え直した。
「クリスティさんから、あなたのところへ行けと言われました」
さらに一体を切り伏せ、ジェイクはルリスティの隣へ駆け込んだ。
「……クリスティが?」
「あなたを一人にしてはいけないと」
ルリスティの指が、引き金へ触れたまま僅かに止まった。
「それでも、あなた自身が本隊を離れて先行する必要はありません。」
「ありました。」
「大佐。」
「帰ったら、一回分叱ってください。」
あまりにも迷いなく言われ、ルリスティは眉を寄せる。
「叱られると分かっていて、先行したのですか?」
「ええ。」
深い青の瞳が、一瞬だけルリスティへ向けられた。
「今は、一刻でも早くあなたの隣へ来ることの方が大事でしたから」
胸が、強く鳴った。
先日の丘で交わした言葉が、ルリスティの中に蘇る。
これからも休日には、ここへ来てもいいですか。
私も、来ていただけると嬉しいです。
そして今、戦場でも、この人は自分の隣へ来た。
「……勝手な方ですね。」
「よく言われます。」
「私は褒めていません。」
「残念です。」
いつもの軽口を交わしながらも、二人の表情に笑みはない。
次の瞬間には同時に前へ向き直り、迫る魔獣を迎え撃っていた。
ジェイクが大剣で近距離の敵を引き受け、
ルリスティがその隙間を縫うように魔弾を撃ち込む。
大剣が爪を受け止めれば、崩れた姿勢へ紫の一弾が突き刺さる。
ルリスティへ迫る敵をジェイクが薙ぎ払い、
ジェイクの死角へ回り込んだ魔獣をルリスティが撃ち抜く。
声を掛ける必要すらない。
二年間、戦場で積み上げてきた呼吸が、自然と二人を動かしていた。
「前方、大型種!」
巨大な甲殻種が、地面を踏み砕きながら迫ってくる。
「俺が甲殻を割ります!」
「では、私が核を!」
ジェイクは両手で大剣を握り直し、全身の魔力を刀身へ流し込んだ。
振り下ろされた巨大な腕を正面から受け止めた瞬間、
凄まじい衝撃が走り、足元の土が吹き飛ぶ。
それでも、ジェイクは膝をつかなかった。
大剣を押し返し、魔獣の胸元を大きく開かせる。
「今です!」
ルリスティが地面を蹴った。
崩れた岩を足場に高く跳び、空中で二丁の魔導銃を重ねるように構える。
二つの銃口へ、紫色の魔力が凝縮した。
狙うのは、甲殻の奥で脈打つ黒い核。
「そこです!」
重なった魔弾が一本の閃光となり、核を正確に撃ち抜いた。
魔獣の巨体が内側から崩れ始め、ルリスティはそのまま地面へ着地する。
だが、衝撃で身体が僅かによろめいた。
すぐにジェイクの手が、肩を支えた。
「大丈夫ですか?」
「問題ありません。着地の衝撃です。」
「それを問題と言うんですよ。」
ルリスティは、肩へ置かれた手に視線を落とした。
先日、倒れかけた自分を支えてくれたのと同じ手だった。
「今は戦闘中です。手を離してください。」
「自分で立てると確認するまでは離せません。」
「……もう大丈夫です。」
ジェイクはルリスティの足元へ目を向け、
姿勢が安定したことを確かめてから、ようやく手を離した。
「本当に?」
「今は信用してください。」
「努力します。」
ルリスティは困ったように眉を寄せたが、
その表情は先ほどまでより、ほんの少しだけ柔らかかった。
「司令官!」
ガレスの声に、二人は同時に顔を上げる。
黒淵の中心で、黒い魔力が巨大な渦を形成していた。
しかも、その周囲にいた魔獣たちが次々と渦へ吸い込まれている。
巨体が瘴気へほどけ、黒い魔力となって渦の中心へ集まっていく。
「魔獣を退かせているのではありません!」
観測班の兵士が、術式を見つめながら叫んだ。
「魔獣を構成していた魔力を、黒淵へ戻しています!」
ルリスティの表情が変わる。
魔獣は、黒淵から力を与えられて形を得た存在。
ならば、その身体を再び魔力へ戻せば。
「次の攻撃へ使うつもりです。」
魔獣から還った黒い魔力が次々と渦へ流れ込み、
その密度だけが異常な速度で高まっていく。
やがて巨大だった渦は、膨大な力を一点へ押し込めるように急速に収束し始めた。
「全員、黒淵から離れろ!」
ガレスが叫ぶ。
「何か来るぞ!」
収束した黒い魔力は、黒淵の中心で脈打つように明滅していた。
「防御陣形!」
ルリスティは即座に声を張り上げた。
「全隊後退! 観測班を中心に防護障壁を展開してください! 負傷者を先に!」
兵士たちが一斉に動き始める。
だが西側では、倒れた魔獣の残骸に進路を塞がれ、一個小隊が取り残されていた。
「司令官! 西側が間に合いません!」
「私が防壁を張ります!」
ルリスティは迷うことなく駆け出した。
「司令!」
ジェイクの制止を背に、魔獣の残骸を越え、取り残された兵士たちの前へ出る。
「全員、私の後ろへ!」
二丁の銃を腰へ戻し、両手を前へ広げる。
紫色の魔力が集まり、巨大な防御障壁を形成した。
「防壁が保つ間に退避してください!」
兵士たちが負傷した仲間を支えながら、次々と後方へ下がっていく。
その直後、限界まで圧縮された黒い渦が弾けた。
轟音とともに黒い衝撃波が大地を削り、
ルリスティの防壁へ凄まじい圧力が叩きつけられる。
両足が地面を滑り、軍靴の踵が深く土を抉った。
腕が震え、障壁の表面に細かな亀裂が走る。
「まだです! 全員、下がってください!」
背後の仲間を守るため、ルリスティは手を下ろさない。
だが、障壁は明らかに限界へ近づいていた。
その時、隣へ深い青の光が滑り込んだ。
「大佐、来ないでください!」
「一人で支えられる規模ではありません!」
ジェイクは大剣を地面へ突き立て、刀身に蓄積していた魔力を障壁へ流し込む。
紫の光へ深い青が重なり、崩れかけていた防壁が厚みを取り戻した。
「来るなと申し上げたはずです。」
「聞こえていました。」
「では、何故来たのですか。」
「聞いた上で、無理だと判断しました。」
ルリスティは押し寄せる衝撃波へ両手を向けたまま、僅かに眉を寄せた。
「また無茶をしましたね。」
「一人でこれを支えようとした方に言われたくありません。」
「私は司令官です。」
「俺は、その司令を守る第一部隊長です。」
「そのような命令を出した覚えはありません。」
「では、俺の独断ということで。」
ジェイクは苦しげに息を吐きながらも、深い青の魔力をさらに障壁へ注いだ。
「これで、二回目ですか?」
「……何がです?」
「帰った後、叱られる回数です」
ルリスティは一瞬だけ言葉を失った。
「本隊を離れて先行したこと。そして今、私の制止を無視したことです」
「では、二回ですね」
「何故、少し嬉しそうなのですか」
「あなたが帰った後の話をしてくださっているので」
ルリスティの紫水晶の瞳が揺れた。
「……帰ったら、二回分きちんと叱ります」
「ええ。お願いします」
「反省してください」
「それは帰ってから考えます」
「大佐」
「今は防壁に集中しましょう、司令」
二人で支え続けるうち、黒い衝撃波は少しずつ勢いを失っていった。
やがて、後方から声が飛ぶ。
「全員、退避完了!」
ルリスティは息を整えながら手を下ろした。
紫と青の障壁が、光の粒子となって消えていく。
「これで、全員――」
その時。
ジェイクの背筋を、冷たい感覚が走った。
音はない。
魔力の気配さえ、ほとんど感じられない。
それでも、長年戦場を生き抜いてきた感覚が、はっきりと危険を告げていた。
反射的に振り返る。
ルリスティの背後。
防衛線でも、退避していく兵士たちの方角でもない。
まるで最初から彼女だけを狙っていたかのように、
何もない空間へ一本の黒い線が走っていた。
漆黒の亀裂。
その奥から槍のように尖った歪みが現れ、ルリスティの背へ向かって伸びた。
「司令!」
考えるよりも先に、身体が動いた。
ジェイクはルリスティの腕を掴んで強く引き寄せ、
そのまま自分と位置を入れ替える。
「え――」
視界が大きく揺れ、ルリスティの肩がジェイクの胸へぶつかった。
次の瞬間、鈍い音が響く。
ジェイクの身体が大きく震え、ルリスティの頬へ何か温かなものが飛んだ。
白い頬を伝ったそれが、赤い筋を残す。
何なのか理解するまで、一瞬かかった。
血だった。
ルリスティが息を呑む。
黒い歪みが、ジェイクの脇腹を深く貫いていた。
「大佐……?」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
ジェイクは苦痛に息を詰めながらも、ルリスティを胸元へ抱き込んだ腕を離さない。
「伏せて」
低く、切迫した声だった。
いつもならどれほど危険な場面でも崩さないはずの口調から、丁寧さが消えていた。
ルリスティが意味を理解するよりも早く、
ジェイクは彼女の頭を抱えるようにして身を低くする。
二本目の歪みが、二人の頭上を薙いだ。
「大佐、駄目です!」
「まだ……終わってません。」
ジェイクは片膝をついたまま、大剣を握り直した。
脇腹から血が流れ落ち、腕も震えている。
それでも、深い青の瞳だけは空間の亀裂を捉えて離さなかった。
再び伸びてきた黒い歪みを、青い斬撃が正面から断ち切る。
さらに一歩、痛みに耐えながら踏み込み、大剣を大きく振りかぶった。
「閉じろ……!」
渾身の一撃を、亀裂の中心へ叩き込む。
刀身に込められた魔力が爆ぜ、空間そのものが水面のように激しく揺らいだ。
やがて漆黒の裂け目は、内側へ折り畳まれるように崩れ、
細い黒煙だけを残して消えていく。
同時に、ジェイクの手から大剣が滑り落ちた。重い刀身が地面へ叩きつけられ、鈍い音が響く。
「大佐!」
ルリスティが咄嗟に手を伸ばす。
ジェイクはなおも立とうとしたが、右脚へ力を入れた瞬間、大きく身体を傾けた。
ルリスティは倒れ込んでくる身体を両腕で受け止め、
その重みに押されるように片膝を地面へつく。
自分より遥かに大きな身体だった。
それでも、腕を緩めることはなかった。
「大佐。聞こえていますか?」
呼びかけてから、自分の声が震えていることに気づく。
「……ええ」
どうにか返ってきた声とともに、深い青の瞳がルリスティへ向けられた。
けれど、その焦点はすでに僅かに揺らいでいる。
「司令……ご無事で」
笑おうとしたのだろう。
けれど口元に浮かびかけた笑みは、すぐに苦痛へ歪んだ。
「喋らないでください。」
傷口へ目を向けた瞬間、ルリスティは息を呑んだ。
漆黒の軍服は血を吸ってさらに黒く濡れ、脇腹には深い傷が走っている。
それだけではない。
傷の縁からは糸のような黒い瘴気が滲み出し、少しずつ体内へ入り込み始めていた。
「医療班! こちらへ! 早く!」
遠くから返事は聞こえた。
けれど、倒れた魔獣や負傷者に進路を塞がれ、すぐには辿り着けそうにない。
ルリスティは咄嗟に自分の外套を外そうと留め具へ手を掛けた。
だが、震える指先では金具をうまく掴めない。
「……何故」
もう一度やり直しても、指が滑る。
いつもなら迷うことなく動くはずの手が、
まるで自分のものではないように言うことを聞かなかった。
「司令……大丈夫です」
掠れた声が届く。
「大丈夫ではありません!」
反射的に叫んでから、ルリスティ自身が息を呑んだ。
これまでどれほど凄惨な戦場に立ち、
重傷者を目にしても、こんなふうに声を荒らげたことはない。
司令官なのだから、常に冷静でいなければならない。
ずっと、そうしてきた。
けれど今は、その当たり前だったはずのことさえ頭から抜け落ちていた。
目の前で、ジェイクの顔から少しずつ血の気が失われていく。
ただ、それだけしか見えない。
ようやく外した外套を傷口へ押し当て、両手で強く圧迫する。
「目を閉じないでください。大佐、私を見てください」
「……見ています」
返ってきた声は、あまりにも弱かった。
布は瞬く間に血を吸い、押さえているルリスティの両手まで赤く染めていく。
黒い瘴気も止まらず、傷口から胸元へ向かってゆっくりと這い上がっていた。
「嫌……」
気づけば、そんな声が唇から零れていた。
命令でも、指示でもない。
自分でも聞いたことがないほど、頼りなく震えた声だった。
「嫌です」
ジェイクの瞼が、ゆっくりと下がり始める。
「大佐。眠らないでください」
返事がない。
「命令です。大佐!」
それでも、瞼は上がらない。
ルリスティは血に濡れた手を伸ばし、ジェイクの頬へ触れた。
「目を開けてください! これは命令です!」
薄く、ジェイクの瞼が開いた。
「……司令」
その姿を確かめるようにルリスティを見つめ、微かに笑う。
「命令……多いですね」
「何度でも命令します」
震える声で返し、ルリスティはジェイクの頬へ触れたまま言葉を重ねた。
「目を閉じないでください。生きてください。私の命令を、聞いてください」
「……努力します」
いつもの言葉だった。
けれど、その声はあまりにも弱く、今にも途切れてしまいそうだった。
ジェイクは浅く息を吸い、苦しげに唇を動かす。
「次の……休日、丘へ……」
その一言に、ルリスティの紫水晶の瞳が大きく揺れた。
脳裏に浮かんだのは、先日の木漏れ日だった。
チーズケーキと紅茶。大きな木の下に並んで座り、静かな風の中で交わした約束。
『これからも、休日にはここへ来てもいいですか?』
『もちろんです』
『私も、来ていただけると嬉しいです』
「約束したではありませんか」
ルリスティは傷口を押さえていた片手を離し、ジェイクの手を強く握った。
倒れそうになれば受け止め、冷えた指先に触れ、
無理をすれば止めてくれた、大きな手。
いつも自分を支えてくれていたその手が、今は恐ろしいほど冷たくなり始めている。
「これからも来てくださると……私は、来ていただけると嬉しいと、
そう言ったではありませんか」
ジェイクの指先が僅かに動いた。
握り返そうとしたのかもしれない。
けれど、そこにはほとんど力が残っていなかった。
「……覚えています」
掠れた声が届く。
「だから……泣かないで、ください」
「……私が?」
言われて初めて、ルリスティは頬を伝う冷たさに気づいた。
涙だった。
紫水晶の瞳から零れた雫が白い頬を滑り、次の一滴がその後を追う。
止めようとしても止まらない。
気づけば、次から次へと溢れていた。
「司令……」
「無理です」
ジェイクが何かを言うより先に、ルリスティは首を横へ振った。
「あなたが、このような状態なのに……泣かないなど、無理です」
その間にも、ジェイクの瞼が再び重そうに落ち始める。
ルリスティは慌てて冷たい手を握り直した。
「大佐、目を閉じないでください」
「……はい」
返事はある。
けれど、先ほどよりさらに弱い。
傷口へ押し当てた外套はすでに血を吸い切り、指の間から赤い色が滲んでいる。
黒い瘴気も消えるどころか、傷の奥からさらに深く身体へ入り込もうとしていた。
その光景を見つめながら、ルリスティは初めて、はっきりと認めた。
怖い。
この人を失うことが、どうしようもなく怖かった。
「私を……一人にしないでください」
ジェイクの瞳が、僅かに開いた。
ルリスティ自身も、自分の口から零れた言葉に一瞬息を呑む。
けれど、一度溢れ出した感情は、もう止めることができなかった。
「私は、一人でも大丈夫だと思っていました。
今までも、ずっとそうしてきたのです」
幼い頃から、父を亡くしてからも、司令官になってからも。
自分が立っていればいい。
自分が耐えればいい。
それで皆を守れるのなら、それで構わない。
ずっと、そう信じてきた。
「ですが……もう、分からないのです」
冷たくなり始めたジェイクの手を握ったまま、
その人がいなくなった先の日々を想像する。
それだけで、息もできないほど胸が痛んだ。
「あなたがいない休日も、あなたの姿がない司令部も……
あなたが隣にいない日々を、私はどう過ごせばよいのか、分かりません」
脳裏に、先日の丘が浮かぶ。
一人では読めなかった本。
何度も目を向けた小道。
そして、聞き慣れた声がした瞬間、胸の奥にあった落ち着かなさが消えたこと。
今になって、ようやくその理由が分かった。
「私は、あなたが来るのを待っていたのです」
ジェイクの深い青の瞳が揺れる。
「丘で一人、本を読みながら。
来ると言われていたわけでもないのに、何度も道を見ていました」
涙に滲んだ声のまま、ルリスティは続けた。
「あなたが来てくださった時、安心しました。
隣にいてくださるだけで、落ち着いたんです」
あの時は、それが何なのか分からなかった。
けれど、失うかもしれない今になって、ようやく辿り着いた。
ルリスティはジェイクの手を強く包んだまま、涙に濡れた顔を上げる。
「大佐、お願いです」
もう、司令官として下す命令ではなかった。
ただ、この人にここにいてほしい。
自分の隣にいてほしい。
それだけが、今のルリスティの願いだった。
紫水晶の瞳から、新たな涙が零れる。
「私の隣に――いてください」
頬を伝った雫が顎先から落ち、ジェイクの手の甲へ触れた。
その瞬間。
重なった二人の手の間に、淡い青白い光が灯った。
「……え?」
重なった手の間に灯ったのは、ほんの小さな光だった。
けれど、それは消えることなくジェイクの手の甲を包み、
ルリスティの指先へ絡むようにゆっくりと広がっていく。
やがて青白い光が傷口へ届いた、その瞬間。
ジェイクの身体へ入り込もうとしていた黒い瘴気が、ぴたりと動きを止めた。
まるで何かに押し返されるように、それ以上先へ進むことができなくなる。
同時に、風が止んだ。
つい先ほどまで銃声や怒号、魔獣の咆哮が入り乱れていた戦場が、
一瞬だけ遠ざかったかのような、不思議な静けさに包まれる。
「……何だ?」
異変に気づいた兵士の一人が、ふと空を見上げた。
黒い瘴気に覆われ、昼だというのに陽光すら届かなくなっていた空。
その暗闇の中に、一つの青白い光が灯っている。
「……星?」
誰かが、呆然と呟いた。
すると、その声に応えるかのように、少し離れた場所へもう一つ。
さらに、その隣にも。
青白い光は一つ、また一つと暗い空へ浮かび上がり、
瞬く間にその数を増やしていった。
十を越え、百を越え。
やがて数えることさえできないほどの星々が、黒く染まった昼の空を埋め尽くす。
異変に気づいた周囲の兵士たちも、思わず息を呑み、頭上に広がる光景を仰いだ。
その無数の星の下で、ルリスティの白銀の髪へ青白い粒子が静かに降り注いでいく。
紫水晶の瞳にも、夜空を閉じ込めたような無数の光が映り込んでいた。
けれど、ルリスティ自身には何が起きているのか分からない。
空も。
周囲の兵士たちも。
今の彼女には、何一つ見えていなかった。
ただジェイクの冷たい手を握り、一つの願いだけを胸に抱いている。
「お願い……」
もう一度、小さく願う。
「帰ってきてください」
重なった手を包む青白い光が、一際強く輝いた。
ルリスティはその手をさらに強く握る。
「私のところへ」
その声に応えたかのように――
黒い昼空を覆い尽くしていた無数の星が、一斉に眩い光を放った。




