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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第59話 次の休日を守るために

翌朝。


辺境防衛軍司令部には、夜明け前から慌ただしい足音が響いていた。

黒淵周辺の観測値が、深夜を境に急激な上昇を始めている。


瘴気濃度の増加に、魔獣反応の急増。

さらに、黒淵そのものからも原因不明の不規則な魔力変動が観測されていた。


まだ防衛線が破られたわけではない。

けれど、いつ大規模な異変へ発展してもおかしくない状況だった。


司令部の正面玄関前には、すでに出動準備を終えた兵士たちが集まっている。

ルリスティも軍帽を被り、漆黒の外套の留め具を確かめていた。

腰には二丁の魔導銃。いつもの司令官としての姿である。


その背中へ、低い声が掛かった。


「司令」


振り返ると、少し離れた場所にジェイクが立っていた。

彼もすでに出撃できる装備を整えている。

けれど、その表情にはいつもの軽さがなかった。


「マルセリア大佐」


「やはり、前線へ出られるんですか?」

「もちろんです」


「現時点では、防衛線は維持されています」

「だからこそです。崩れてから向かうのでは遅すぎます」


ルリスティは穏やかに答えた。


「観測班からの報告では、魔獣反応がこれまでにない速度で増えています。

黒淵の魔力変動についても、まだ原因が分かっていません」


「分かっています。でしたら、なおさら――」

「私が行かないわけにはいきません」


言葉を重ねられ、ジェイクは口を閉ざした。


ルリスティは正面玄関の向こうへ視線を向ける。


出動を待つ兵士たちは、誰もが不安を抱えているはずだった。

それでも命令が下れば、迷わず前線へ向かう。

ならば、その先頭に立つのが自分の役目だ。


「私は辺境防衛軍司令官です」


ルリスティは再びジェイクへ向き直った。


「黒淵で何が起きているのか分からない今だからこそ、

前線へ行かなければなりません」


その理屈が正しいことは、ジェイクにも分かっている。

分かっているからこそ、強く止めることもできなかった。


「……どうにも」


ジェイクは小さく息を吐き、眉間へ指を当てる。


「胸騒ぎが止まらないんですよ」


ルリスティの表情が僅かに変わった。


「胸騒ぎ?」

「ええ」


「根拠は?」

「ありません。だから困ってるんです」


いつものように笑おうとしたのだろう。

けれど、口元に浮かんだのは苦笑に近かった。


「黒淵の数値がおかしい。魔獣の動きも妙です。

それだけなら、戦況が悪化しているだけだと言える」


ジェイクは出動を待つ兵士たちへ視線を向けた。


「ですが……今回は、それだけではない気がする」

「大佐……」

「本当に、嫌な予感しかしないんです」


深い青の瞳が、まっすぐルリスティを捉える。

ルリスティもしばらく黙って彼を見つめ返した。

冗談でも、単なる心配性から出た言葉でもない。


二年間、幾度となく戦場へ立ってきた男が、

これほど露骨に不安を口にすることは珍しかった。


「では、大佐も前線へ来たいのですか?」

「できれば」

「駄目です」


今度はルリスティが即答した。

ジェイクの眉が僅かに上がる。


「随分と早いですね」

「あなたには、砦へ残っていただきます」

「理由を伺っても?」


ルリスティの視線が、背後にある司令部の建物へ向いた。


「クリスティがいます」


ジェイクが黙る。


「ここが絶対に安全だとは言い切れません。

黒淵で何が起きているのか分からない以上、

前線だけを警戒すればよい状況でもありません」


クリスティの身分を知る者は少ない。

だからこそ、彼女の身に何かあった時、適切に対応できる者も限られている。


「私が前線へ出る以上、クリスティをお願いします」


ルリスティは真っ直ぐジェイクを見た。


「あなたになら、安心して任せられます」


ジェイクはすぐには答えなかった。

そう言われてしまえば、断れるはずがない。

ルリスティが信頼し、大切な相手を自分へ託しているのだから。


それでも、胸の奥に引っ掛かるものは消えなかった。


「司令。無茶はしないでください」

「善処します」


「善処では困ります」

「……では、無茶はしません」


「今、少し間がありましたね」

「気のせいです」


ジェイクが深く息を吐く。

その様子に、ルリスティの口元がほんの僅かに緩んだ。


「大丈夫です」

「最近は、その言葉をあまり信用していません」

「では……」


ルリスティは少し考え、ふと昨日の丘を思い出した。


木漏れ日の下で食べたチーズケーキ。二人で飲んだ紅茶。

本を開いていたのに、ほとんど文字を読めなかった穏やかな午後。


そして、ジェイクが尋ねた言葉。

『これからも、休日にはここへ来てもいいですか?』


その時、自分は確かに答えた。

『私も、来ていただけると嬉しいです』


「次の休日も、丘へ来てくださるのでしょう?」


不意に尋ねられ、ジェイクの深い青の瞳が僅かに動いた。


「……ええ」

「でしたら、私も戻らなければなりません。

次の休日も、あの丘で本を読みたいですから」


その言葉に、ジェイクの胸を締めつけていたものがほんの少しだけ緩んだ。

やがて、困ったような笑みが浮かぶ。


「……それは、反則ですよ」

「何がでしょう?」


「いえ。説明はしません」

「そうですか」


ジェイクは一歩だけ近づいた。


けれど、それ以上距離を詰めることはせず、

軍帽の庇の下にあるルリスティの表情を確かめるように見つめる。


「分かりました。クリスティさんは、俺がお守りします」

「お願いします」

「ですから、必ず戻ってきてください」


深い青の瞳が、まっすぐ彼女を捉える。

ルリスティは今度こそ、迷うことなく頷いた。


「はい。必ず」


その時、遠くから出発を告げる声が上がった。

ルリスティは兵士たちへ向き直り、数歩進む。


けれど、ふと思い出したように足を止めた。

振り返ると、ジェイクはまだ同じ場所に立っている。


「大佐」

「はい?」

「次の休日も、紅茶は私が淹れますね」


ジェイクの目が僅かに見開かれ、すぐに柔らかな笑みへ変わった。


「では、俺は焼き菓子を用意します」

「お願いします」


ルリスティもほんの少し笑い、今度こそ兵士たちの先頭へ向かって歩き出した。

ジェイクは、その背中が見えなくなるまで見送っていた。

理由の分からない胸騒ぎだけが、最後まで消えることはなかった。



ルリスティ率いる前線増援部隊が出発してから、一刻ほどが過ぎた。

ジェイクは司令部の一室で、窓の外を見つめていた。


手元には黒淵周辺の報告書が広げられている。

けれど、先ほどから一枚も進んでいない。


「大佐?」


向かい側に座っていたクリスティが顔を上げた。


「さっきから、全然読んでないよ」

「読んでいますよ」


「ずっと同じところを見てる」

「……」


ジェイクはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように資料を机へ置いた。

窓の向こうでは、黒淵のある方角だけ、空が不自然に暗く淀んでいる。


「ルリスティが心配?」


クリスティの問いを、ジェイクは否定しなかった。


「ええ。出発する前から、嫌な予感がしていまして」

「嫌な予感?」

「理由は分かりません」


腕を組みながら窓枠へ背を預け、ジェイクは低く続ける。


「戦場へ出れば危険なのはいつものことです。

司令は、俺がいなくても十分に戦える。

ガレス中佐もいるし、前線の兵士たちにも経験がある」


「うん」

「分かってるんですけどね」


自嘲するように笑っても、その視線はすぐ窓の外へ戻った。


机へ戻って資料を開いても、しばらくするとまた立ち上がる。

廊下を走る足音が聞こえるたび、反射的に扉へ目を向ける。


ルリスティが前線へ出ることなど、これまでにも何度もあった。

そのたびにジェイクも彼女の身を案じていたのだろう。


けれど、少なくともクリスティが知る限り、

これほど露骨に落ち着きを失った姿を見せたことはない。

今日は、明らかにいつもと違っていた。


「だったら、行ってきたら?」


クリスティが言うと、ジェイクが振り返った。


「ルリスティのところへ」

「できません」


すぐに首を横へ振る。


「司令から、あなたを託されています」


クリスティが目を瞬いた。


「私を?」

「ええ。自分が前線へ出る以上、クリスティさんを俺に任せたいと」


それを聞いたクリスティは、少しだけ困ったように笑った。


「ルリスティらしいね」

「そうですね」


その時だった。


扉が強く叩かれる。


「失礼します!」


入室してきた伝令の兵士が、一枚の報告書を差し出した。


「黒淵北側で、魔獣の大規模な移動を確認! 前線から第一部隊へ増援要請です!」


ジェイクの表情が一変した。

報告書を受け取り、素早く内容へ目を通す。


「北側の防衛線は?」

「現在は維持されています。

ただ、このまま魔獣が増え続ければ長くは持たないとのことです」


伝令はそこで一度言葉を切り、さらに続けた。


「また、クルトワ中佐より緊急配置変更命令です。

砦内の警戒およびクリスティさんの護衛は第二部隊が引き継ぎ、

第一部隊は北側防衛線へ出撃せよとのことです」


「クルトワ中佐が?」

「はい。護衛を増員し、地下避難区画への経路も確保しています」


ジェイクが内容を確認すると、伝令は敬礼して退出した。


扉が閉まり、室内へ短い沈黙が落ちる。

クリスティは椅子から立ち上がり、真っ直ぐジェイクを見た。


「もう、私のことは大丈夫。護衛から離れないし、何かあればすぐ地下へ行くから」

「ですが、司令から直接託されています」

「でも、状況が変わったのでしょう?」


クリスティは窓の向こう、黒淵のある方角へ目を向けた。


「今は前線に、第一部隊と大佐が必要なんだよね」


ジェイクは答えなかった。

正式な配置変更命令は出ている。


それでも、ルリスティから直接託された役目を手放すことへの迷いが、

完全に消えたわけではなかった。


そんな彼を見て、クリスティが静かに口を開く。


「私、大佐に前も言ったよね」


ジェイクが視線を戻す。


「勝手に離れちゃ駄目って」

「……覚えています」

「だったら、行ってあげて」


今度は笑わなかった。

紫水晶の瞳で真っ直ぐジェイクを見つめる。


「ルリスティの傍に」


ジェイクの拳が、僅かに握られた。


「正式に配置は変わっています。ですが……」

「だったら、ルリスティとの約束を破ることにはならないよ」


迷いのない返答に、ジェイクは僅かに目を細めた。


「それでも、戻った後には説明が必要でしょうね」

「私も一緒に説明するよ」

「……それは助かります」


「それに、大佐はルリスティに怒られるの、慣れてるでしょ?」

「そこまでではありません」

「じゃあ、今日から慣れて」


思わずジェイクは額へ手を当てた。


「……本当に、あなたは」

「なに?」


「迷っている人の背中を押すのに、容赦がありませんね」

「だって……」


そこでクリスティは窓の向こうへ視線を移した。


黒淵のある方角。

その紫水晶の瞳が、僅かに揺れる。

大切な人と離れ離れになった、あの日を思い出しているのだろう。


「行かなかったことを後悔するより、行った方がいいよ」


その一言で、ジェイクの中に残っていた迷いが消えた。


第二部隊が砦の警戒を引き継ぎ、前線からは第一部隊への増援要請が届いている。

ならば、今の自分がいるべき場所はここではない。


「……分かりました」


ジェイクは椅子へ掛けていた外套を掴む。


「護衛から離れず、異変があればすぐ地下へ。砦からも出ないでください」

「分かってるよ」


「知らない人にはついていかない」

「子ども扱いしてない?」

「心配なので」


クリスティが小さく笑う。

ジェイクは外套を羽織ると、そのまま扉へ向かった。


けれど、その背中へクリスティが声を掛ける。


「大佐」


足を止めて振り返ると、クリスティは穏やかに笑っていた。


「ルリスティをお願いね」


ほんの少し前、ルリスティからはクリスティを託された。

そして今度は、クリスティからルリスティを託される。

ジェイクは一瞬だけ目を閉じた。


「……はい」


それから、低く答える。


「必ず」


次の瞬間には、扉を開けていた。


「馬を用意しろ!」


廊下へ声が響き、近くにいた兵士たちが驚いて振り返る。

ジェイクは武器庫へ向かいながら、次々と指示を飛ばした。


「第一部隊は出撃準備! 黒淵北側の防衛線へ向かう!」


「大佐、司令からは砦に残るようにと――」

「状況が変わった。クルトワ中佐から配置変更命令が出ている。

砦の警戒は第二部隊が引き継ぐ」


足は止めない。


「司令には、俺から説明する」


背へ魔導大剣を負い、腰へ魔導銃を装着する。

必要な装備だけを手早く身につけ、正門へ向かって駆けた。


胸騒ぎは、先ほどよりも強くなっている。

けれど、もう迷いはなかった。


ルリスティは言った。

次の休日も、紅茶を淹れると。


自分は答えた。

焼き菓子を用意すると。


ならば、その約束を守るためにも――彼女の隣へ行かなければならない。


正門が開く。

ジェイクは軍馬へ飛び乗り、手綱を強く握った。


「大佐!」


見張りの兵士が声を上げる。

ジェイクは前方を見据えたまま答えた。


「司令のところへ行ってくる」


軍馬の腹を蹴る。

蹄が大地を強く蹴り、ジェイクは薄明るくなり始めた空の下を、

黒淵の前線へ向かって全速力で駆け出した。

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