第58話 次の休日も、隣で
休日の朝。
辺境防衛軍司令部の食堂には、
普段よりも少しだけゆったりとした空気が流れていた。
任務のない兵士たちは遅めの朝食を取り、
湯気の立つスープを前に、気の抜けた顔で言葉を交わしている。
食堂の隅にある小さな卓では、ルリスティが紅茶を飲み、
その向かいでクリスティが焼きたてのパンにジャムを塗っていた。
「ルリスティ。今日はね、私、砦の子どもたちのところへ行ってくるね。」
「子どもたちのところへ?」
ルリスティがカップを置くと、クリスティは嬉しそうに頷いた。
「うん。この前、一緒に絵を描こうって約束したの。
それに厨房の人が、焼き菓子を持っていってほしいって。」
「では、私もご一緒します。」
そう言われることを予想していたのだろう。
クリスティはパンを皿へ戻し、すぐに首を横へ振った。
「今日は大丈夫。護衛の人も一緒だし、ガレス中佐も一緒に来てくれるんだって。」
「それならば、なおさら――」
「ルリスティ。」
柔らかく名前を呼ばれ、ルリスティは続きかけた言葉を止めた。
クリスティは卓の上で両手を重ね、少しだけ身を乗り出す。
「私がここへ来てから、休日はずっと一緒だったでしょう?」
そう言われ、ルリスティの頭にも、街を歩いた日や丘で本を読んだ日、
三人で焼き菓子を食べながら過ごした時間が次々と浮かんだ。
「楽しくありませんでしたか?」
思わず尋ねると、クリスティは目を見開き、慌てて大きく首を横へ振った。
「楽しかったよ! すっごく楽しかった!だから、そういうことじゃないの。」
「では、どういうことでしょう?」
クリスティは一度、言葉を濁すように視線を泳がせてから、
少しだけ意味ありげに笑った。
「今日は久しぶりに、二人でゆっくりしてきたら?」
「……二人?」
クリスティは答える代わりに、食堂の入口へ目を向けた。
そこでは朝食を終えたジェイクが、クルトワと何かを話している。
いつもの余裕ある笑みを浮かべた横顔。
クルトワの言葉に軽く肩を竦めたあと、
ふとこちらを向いた深い青の瞳と、ルリスティの視線が重なった。
ジェイクが軽く顎を引き、ルリスティも僅かに会釈を返す。
ただ、それだけのやり取りだった。
しかし正面へ顔を戻すと、クリスティが何故か嬉しそうに頬を緩めている。
「何でしょう?」
「何でもないよ。」
「何でもない顔には見えませんが。」
「本当に何でもないの。」
追及から逃れるように、クリスティはパンを口へ運んだ。
けれど、その目元にはまだ笑みが残っている。
「とにかく、今日は私のことは気にしなくていいから。
大佐も、久しぶりにゆっくりしたいと思うよ。」
ルリスティはもう一度入口へ目を向けたが、ジェイクの姿はすでになかった。
それだけのことなのに、胸の奥へ僅かな落ち着かなさが残る。
「……分かりました。今日はクリスティの言葉に甘えることにします。」
「うん! それがいいと思う!」
あまりにも嬉しそうな返事に、
ルリスティはカップへ伸ばしかけた手を止め、訝しげに眉を寄せた。
「何故、あなたがそこまで喜ぶのですか?」
「え?」
数秒、二人の視線が重なる。
クリスティは耐えきれなくなったように、ゆっくりと顔を逸らした。
「……お天気がいいから?」
「疑問形ですね。」
◇
朝食を終えたルリスティは、自室へ戻った。
机の上には、昨日のうちに用意しておいた読みかけの本がある。
それを手に取り、部屋を出ようとして、ふと鏡の前で足を止めた。
休日用の簡素な服に、普段より緩くまとめた白銀の髪。
耳元には、クリスティと揃いの青い鳥の髪飾りが留められている。
特におかしなところはない。
それでも、一房だけ乱れていた髪を指先で整え、ついでに髪飾りの位置まで直す。
そこまでしてから鏡の中の自分と目が合い、ルリスティはぴたりと手を止めた。
「……」
何をしているのだろう。
丘へ本を読みに行くだけで、誰かと待ち合わせをしているわけでもない。
そう自分へ言い聞かせ、今度こそ本を胸へ抱いて部屋を出た。
外はよく晴れていた。
朝露の残る草を踏みながら、丘へ続く道を一人で歩いていく。
クリスティが来てからは、三人で向かうことが増えていた。
明るく話し続けるクリスティと、それを楽しそうに聞くジェイク。
時折、その会話へ自分も口を挟む。
賑やかな時間は楽しかった。
それでも今日、久しぶりにジェイクと二人になるかもしれないと思うと、
何故か胸の奥が落ち着かない。
約束はしていないし、彼が来るとも限らない。
それなのにルリスティは、丘へ続く小道の先へ何度も目を向けていた。
◇
丘へ着くと、ルリスティはいつもの大きな木の下へ腰を下ろした。
かつてはクラウスと自分だけが知っていた場所。
やがてジェイクが訪れるようになり、今ではクリスティも加わった。
大切な場所は少しずつ形を変えながらも、失われることなく残っている。
ルリスティは栞を抜き、本を開いた。
数行読んだところで、文字を追っていた目が止まる。
内容が、まるで頭へ入ってこない。
もう一度最初から読み直してみても、すぐに顔を上げ、小道を見てしまう。
誰もいない。
聞こえるのは、いつもの風と鳥の声だけだった。
木漏れ日も草の匂いも、何一つ変わっていないはずなのに、
今日は何かが足りないように感じる。
「……おかしいですね。」
本へ視線を戻しても、やはり集中できなかった。
指先で頁の端をなぞりながら、気づけばまた、小道の先を見ている。
「今日は……お仕事でしょうか。」
口から零れた言葉に、自分で驚いた。
来るとは言われていないのに、何故来ない理由を考えているのだろう。
その時、小道の向こうから草を踏む音が聞こえた。
次第に近づいてくる足音に、ルリスティは無意識に本を持ち直し、背筋を伸ばす。
「おはようございます、司令。」
聞き慣れた低い声に、勢いよく顔を上げた。
紙袋を片手に、もう一方の腕へ一冊の本を抱えたジェイクが、こちらへ歩いてくる。
軍服ではなく、白いシャツの袖を肘まで捲り、
濃色のズボンを合わせただけの、普段よりもラフな休日の姿だった。
風に漆黒の髪を揺らしながら、少しだけ息を弾ませている。
「街の店が予想以上に混んでいまして。遅くなりました。」
「……。」
その姿を見た瞬間、ずっと胸の奥にあった落ち着かなさが、すっと消えた。
ジェイクは不思議そうに歩みを緩める。
「どうしました?」
「いえ。何でもありません。」
ルリスティは慌てて首を横へ振る。
先ほどまで何度読んでも頭へ入らなかった文字は、もうどうでもよくなっていた。
ジェイクは木の下まで歩いてくると、
紙袋を持ち直し、ルリスティの傍らへ視線を落とした。
「今日も、隣いいですか?」
何度も繰り返してきた、いつもの問いだった。
それなのに今日は、胸の奥が小さく跳ねる。
ルリスティは膝の上の本を閉じ、傍らの草を軽く払った。
「もちろんです。」
答えると、ジェイクは僅かに目元を和らげ、
いつものように肩が触れない程度の間を空けて腰を下ろした。
「ありがとうございます。」
そう告げてから、膝の上へ紙袋を置き、その中から小さな箱を取り出す。
「今日はチーズケーキです。」
「美味しそうですね。」
自然と表情が緩んだ。
「それから、以前美味しいと仰っていた紅茶も。」
差し出された包みは、以前三人で街を歩いた時に立ち寄った店のものだった。
ルリスティは包みを両手で受け取り、描かれた店の紋章を見つめる。
「覚えていてくださったのですか?」
「もちろん。司令が珍しく、もう一杯飲まれていましたので。」
「そこまで見ていたのですか?」
顔を上げると、ジェイクは何でもないことのように頷いた。
「見ていました。」
あまりにも迷いのない返事に、ルリスティの胸が小さく跳ねる。
「……ありがとうございます。」
二人の間では、いつの間にか役割が決まっていた。
ルリスティが紅茶を淹れ、ジェイクがケーキを切り分ける。
ルリスティがポットへ茶葉を入れて湯を注ぐ隣で、
ジェイクは箱からケーキを取り出し、崩さないよう慎重にナイフを入れていた。
淡い香りが、風へ乗る。
けれど今日は、何故か隣にいるジェイクの手元へ視線が向いた。
肘まで捲られた白い袖から覗く引き締まった腕と、剣や銃を握る長い指。
見慣れているはずなのに、そこから先日の記憶が次々と蘇る。
自分を抱き上げた腕。
軍帽や外套を外してくれた手。
冷え切った指先に触れた、大きな掌。
そこまで思い出したところで、ジェイクがふと手元の動きを止めた。
「司令、もう十分だと思います。」
「え?」
ジェイクが視線だけでポットを示す。
それを追い、ルリスティはようやく、
茶葉をいつもより長く蒸らしてしまっていることに気づいた。
「あ……申し訳ありません。」
慌ててポットへ手を伸ばすと、ジェイクが僅かに首を傾げる。
「珍しいですね。仕事のことでも考えていました?」
ルリスティは紅茶をカップへ注ぎながら、
先ほどまで見つめていた彼の手を思い出した。
「いいえ。仕事ではありません。」
「それは、ますます珍しい。」
ジェイクが小さく笑う。
ルリスティは誤魔化すようにカップへ視線を落とした。
「私もそう思います。」
差し出したカップをジェイクが受け取った時、ほんの僅かに指先が触れた。
ルリスティの手が小さく揺れる。
ジェイクも一瞬だけ動きを止め、触れた指先へ目を落とした。
けれど、すぐに何事もなかったようにカップを受け皿へ置く。
「ありがとうございます。」
「……はい。」
ルリスティは自分のカップへ手を添えたまま、そっと息を吐いた。
頬が、少し熱かった。
風は涼しく、体調も悪くない。
それでも、その理由は分からなかった。
◇
ケーキを食べ終えると、二人は紅茶を傍らに、それぞれ本を開いた。
会話はほとんどない。
聞こえるのは頁をめくる音と、風が葉を揺らす音。
時折、カップが受け皿へ触れる小さな音だけだった。
沈黙していても、少しも気まずくない。
紅茶が減れば、ジェイクは無言でポットを引き寄せる。
ただし注ぐ前には必ずルリスティを見て、
彼女が頷けば注ぎ、首を振ればそのまま戻す。
風に本の頁が煽られれば、ジェイクは自分の本を片手に持ち替え、
空いた手で捲れかけた頁をそっと押さえてくれる。
言葉にするほどでもない、小さなやり取り。
それなのに今日は、その一つひとつが妙に意識された。
ルリスティは本から目を上げた。
隣では、ジェイクが木漏れ日の中で本を読んでいる。
戦場では誰より先に危険へ飛び込み、
司令部では軽口を叩きながら、誰より早く異変へ気づく人。
今は、驚くほど穏やかな顔をしていた。
その横顔を見ていると、胸の奥がゆっくりと温かくなる。
ジェイクの指が頁をめくる。
その動きに気づき、ルリスティは慌てて本へ視線を戻した。
けれど、やはり一文字も頭へ入らない。
本へ集中できないことが、何故か嫌ではなかった。
むしろ、この時間がいつまでも続けばいい。
そんなことまで考えてしまう。
ルリスティは本を閉じた。
その小さな音に、ジェイクも頁をめくる手を止めて顔を上げる。
「どうしました?」
「……いえ。」
答えかけて、ルリスティは膝の上の本へ視線を落とした。
自分でも、何を確かめたいのかはっきりとは分かっていない。
それでも、胸の内に浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「大佐は最近、休日になるといつもここへ来てくださいますね。」
「ええ。」
ジェイクは本へ栞を挟んで閉じると、
少しだけ身体をルリスティの方へ向けた。
「クリスティが来てからは、三人で過ごすことが増えましたが。」
「賑やかになりましたね。」
「はい。楽しい時間でした。」
「過去形にしないでください。」
ジェイクはわざとらしく肩を落とし、少し恨めしそうにルリスティを見た。
その芝居がかった表情に、ルリスティも僅かに頬を緩めた。
「もちろん、これからも楽しいと思います。」
「それならよかった。」
ジェイクは落としていた肩を戻し、満足そうに頷いた。
ルリスティはその様子を見て少し笑ったが、
すぐに視線を膝の上の本へ落とした。
「ですが今日は……少しだけ、懐かしい気がしました。」
「懐かしい?」
「はい。」
本の表紙を指先でそっと撫でながら、言葉を続ける。
「大佐と、二人で過ごすことが。」
口にした途端、胸がまた小さく跳ねた。
ジェイクはすぐには答えなかった。
深い青の瞳が、真意を確かめるようにじっとこちらを見つめている。
「俺と二人で過ごすことが、懐かしかったんですか?」
改めて問われると、急に恥ずかしくなった。
ルリスティは僅かに視線を伏せる。
「……はい。」
「そうですか。」
返ってきた声は、いつも通り穏やかだった。
けれど、ほんの少しだけ嬉しそうに聞こえた。
ジェイクは一度、手元の本へ目を落としたあと、再びルリスティを見る。
「司令。」
「はい。」
「以前は、休日をお一人で過ごすのがお好きだったのでしょう?」
「今も好きです。一人で本を読む時間は、私にとって大切です。」
「先ほどから、同じ頁を開いていませんでしたか?」
問われ、ルリスティは膝の上の本へ視線を落とした。
「……読めなかったのです。」
ジェイクが僅かに眉を上げる。
「内容が頭に入らなかった?」
「はい。頁を開いてはいたのですが、ほとんど読めていませんでした。」
「体調が悪かったわけでは?」
「問題ありません。」
ジェイクは、それ以上すぐには尋ねなかった。
深い青の瞳が、ルリスティの横顔を静かに見つめる。
「なら、別のことを考えていたのでしょうね。」
その口元へ、柔らかな笑みが浮かんだ。
何かを見透かされたような気がして、ルリスティは再び本へ視線を落とす。
けれど、自分が何を考えていたのか。
その答えは、まだ見つからなかった。
朝から何度も小道を見たこと。
声を聞いた瞬間、胸の落ち着かなさが消えたこと。
今こうして隣にいるだけで、呼吸が自然と深くなっていること。
その一つひとつを思い返しながら、ゆっくりと言葉を探した。
「以前は、一人でも静かだと感じるだけでした。
ですが最近は、一人でいると……少し静かすぎるように感じます」
その言葉に、ジェイクの深い青の瞳が僅かに見開かれた。
けれどルリスティはその変化に気づかないまま、膝の上の本へ指先を重ねる。
「クリスティが来たからだと思っていました。三人でいる時間が賑やかだったので」
ジェイクは口を挟まず、静かに続きを待っていた。
「けれど今日、大佐が来てくださって、落ち着きました」
柔らかな風が二人の間を通り抜け、白銀の髪がさらりとルリスティの頬へ掛かる。
それを見たジェイクの手が、考えるより先に僅かに動いた。
指先が頬へ掛かった髪へ伸びかけ――けれど、触れる寸前で止まる。
先日、同じように髪を避けた時の感触を思い出したのか、
ジェイクは伸ばしかけた手を静かに引き戻し、膝の上で握った。
「それは、俺が騒がしいからでしょうか?」
いつもの軽口だったが、その声には僅かな掠れが混じっていた。
「違います」
ルリスティは迷うことなく即答した。
予想以上に早い返事だったのか、ジェイクが一度瞬きをする。
「……即答ですね」
「大佐は、私と二人の時はそれほど騒がしくありません」
「それは褒められているのでしょうか」
「事実を申し上げています」
あまりにも真面目な返答に、ジェイクは堪えきれないように小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、ルリスティの胸がまた小さく跳ねる。
何故なのか確かめるように、そっと胸元へ手を添えた。
「おそらく」
「はい?」
「大佐と一緒にいると、落ち着くようになったのだと思います」
今度こそ、ジェイクは言葉を失った。
普段ならどんな時でも崩れない飄々とした余裕が、ほんの一瞬だけ消える。
深い青の瞳を見開いたまま、何も言わずルリスティを見つめていた。
「大佐?」
呼びかけられてようやく我に返ったのか、ジェイクは一度目を伏せる。
それからゆっくりと息を吐き、困ったように笑った。
「……今日は随分と、嬉しいことを仰いますね」
「嬉しい?」
ルリスティが不思議そうに首を傾げる。
「ええ」
「何故でしょう?」
ジェイクは一瞬答えかけたものの、結局それを飲み込み、少しだけ苦笑した。
「そこを説明すると、少し長くなりますので」
「そうなのですか?」
「そうなんです」
ジェイクはそれ以上問われないようにするかのように、丘の先へ顔を向けた。
ルリスティは不思議そうにその横顔を見つめていたが、
やがて同じように木々の向こうへ視線を移す。
しばらく、柔らかな沈黙が続いた。
互いの存在を先ほどまでより強く意識しているはずなのに、
不思議と居心地は悪くない。
やがてジェイクが膝の上で組んでいた指を解き、静かに口を開いた。
「司令」
「はい」
「これからも、休日にはここへ来てもいいですか?」
その問いに、ルリスティは少しだけ目を見開いた。
隣へ座る前には、いつも決まって尋ねられる。
けれど、ここへ来ること自体を改めて確認されたのは初めてだった。
すでに確認する必要もないほど当たり前になっていたはずなのに。
それでも、胸の奥に浮かんだ答えは驚くほどはっきりしていた。
「もちろんです」
ルリスティは柔らかく笑う。
そして少しだけ間を置いてから、付け加えた。
「私も、来ていただけると嬉しいです」
その瞬間、ジェイクの深い青の瞳が静かに揺れた。
何かを言おうとしたように唇が僅かに動いたものの、結局言葉にはならない。
代わりに少し俯き、片手で口元を覆った。
「大佐?」
「……少し待ってください」
「体調が?」
心配そうに顔を覗き込もうとしたルリスティを、
ジェイクは空いている手を軽く上げて制した。
「違います。大丈夫です」
そう答える声には、僅かに笑いが混じっていた。
よく見れば、口元を覆ったままの肩も小さく揺れている。
「何故笑うのですか?」
訝しげに眉を寄せられ、ジェイクはまだ顔を上げないまま首を横へ振った。
「すみません。司令を笑っているわけではありません」
「では、何を?」
しばらくして、ジェイクはようやく大きく息を吐いた。
少しは落ち着いたらしい。
顔を上げた時、その深い青の瞳には、いつもよりずっと柔らかな色が浮かんでいた。
「今日もここへ来てよかったと、思っただけです」
ルリスティは一瞬、何も言えなくなった。
また頬へ熱が集まってくるのを感じ、逃げるように膝の上の本を開く。
「では、続きを読むことにします。」
「はい。」
ジェイクも何事もなかったように本を開いた。
けれど、ルリスティはやはり一文字も読めなかった。
隣にいるジェイクの気配が、先ほどよりずっと近く感じられる。
風が吹き、ルリスティの手元で頁が大きく揺れた。
するとジェイクが自分の本を片手に持ち替え、
空いた手を伸ばして、捲れかけた頁の端を指先でそっと押さえた。
そのさりげない仕草に、ルリスティは僅かに口元を緩める。
「ありがとうございます。」
「いえ。」
ジェイクは短く答え、頁が落ち着いたことを確かめてから手を離した。
二人は再び本へ視線を落とした。
肩が触れないほどの距離で、同じ風を受け、同じ木漏れ日の下で頁をめくる。
それだけで、十分だった。
そしてルリスティは、ようやく気づいた。
今日、本が読めなかったのではない。
一人で読む気になれなかったのだ。
隣で聞こえる頁をめくる音。静かな呼吸。
時折、カップが受け皿へ触れる小さな音。
その一つひとつが、今日は物語の続きよりもずっと心地よかった。
ルリスティは本の影へ隠れるように、そっと口元を緩める。
隣ではジェイクも、本から目を上げないまま、同じように小さく笑っていた。




