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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第57話 隣にいるということ

午後。


黒淵周辺の調査報告を終えた司令部には、

ようやく少しだけ静かな時間が戻っていた。


司令部裏手の小さな中庭では、

古い木製の卓に湯気の立つ紅茶と焼き菓子が並んでいる。


ジェイクは手にしていた資料を閉じると、向かいに座るクリスティへ目を向けた。


「何か、俺に聞きたいことがあるんですよね?」

「えっ。どうして分かったの?」

「ここへ来てから五分ほど、ずっと同じ焼き菓子を割ろうとしていますので」


言われて、クリスティは慌てて手元へ視線を落とした。

指先で持った焼き菓子には小さな亀裂が入っているだけで、

まだ二つには割れていない。


「それに、先ほどから何度も俺の顔を見ています」

「見てないよ」


「七回ほど」

「数えてたの!?」


思わず身を乗り出したクリスティに、ジェイクはほんの僅かに口元を緩めた。


「それで、何を聞きたいんですか?」


クリスティはしばらく迷った末、諦めたように焼き菓子を皿へ戻した。


「マルセリア大佐って、ルリスティのこと……どう思ってるの?」

「司令として尊敬していますし、信頼もしています」

「そういうことじゃなくて」


迷いなく返したところを即座に遮られ、ジェイクの眉が僅かに上がる。


「随分と踏み込みますね」

「だって、大佐ってルリスティのこと、すごく見てるもん」


クリスティは紅茶のカップへ手を添えながら、

思い当たることを一つずつ挙げていく。


「無理をしたらすぐ気づくし、疲れてたら仕事を止めるし、

歩く時だっていつもルリスティの歩幅に合わせてる」


「部隊長として、司令の状態を把握するのは当然です」

「昨日、何時間寝たかまで分かるのも?」


ジェイクの眉が、今度ははっきりと動いた。


「……誰から聞きました?」

「ルリスティ。三時間半だったって当てたんでしょ?」


「本人の申告が信用できませんので」

「ほら、そういうところだよ」


クリスティは呆れたように笑う。


「大佐は、自分で思ってるよりずっとルリスティのことを見てる」

「必要だから気づいているだけです」

「じゃあ、ほかの人が三時間半しか寝てなくても、同じように気づくの?」


そこで初めて、ジェイクの返事が一瞬だけ遅れた。

ほんの僅かな間だった。

けれど、それを見逃すクリスティではない。


「ほら!」


すかさず身を乗り出され、ジェイクは僅かに目を細めた。


「今、考えたよね?」

「気のせいです」

「絶対、気のせいじゃないよ」


追及され、ジェイクは小さく息を吐くと、椅子の背へゆっくりと身体を預けた。

その視線が、何気ないように中庭へ面した回廊へ向かう。


そこでは、ルリスティが兵士から報告を受けていた。

白銀の髪を揺らしながら書類へ目を通し、一人ひとりの言葉へ丁寧に頷いている。

そんな彼女を見つめるジェイクの深い青の瞳が、ほんの僅かに柔らかくなった。


「司令は、まだ十九歳です」

「うん」


「俺は二十八。九歳も違います」

「私とアークファイントも九歳違うよ?」

「……そうでしたね」


即座に返され、ジェイクは僅かに苦笑する。


「ですが、年齢だけの話ではありません。あの人は若くして辺境防衛軍を背負い、

英雄クラウスの娘として、誰より早く大人であることを求められてきた」


そこで一度言葉を切り、

ジェイクは遠くにいるルリスティへ視線を向けたまま続けた。


「そんな人に、俺まで自分の感情を背負わせるべきではありません」

「感情?」


「仮の話です」

「仮じゃない顔してるよ」


ジェイクは困ったように笑った。


「どのような顔でしょう」

「ルリスティのことを、大切にしてる顔」


風が木々を揺らし、葉の擦れる音が二人の間を通り抜ける。

しばらく黙っていたジェイクは、やがて静かに口を開いた。


「大切ですよ。司令としても、一人の人間としても。

幸せでいてほしいと思っています」

「だったら、隣にいればいいのに」


「それほど簡単な話ではありません」

「どうして?」


ジェイクは答える前に、膝の上へ置いていた自分の手へ視線を落とした。


「俺はこれまで、誰か一人を選んで、

その人と生きる覚悟を持ったことがありません」


女性と付き合ったこともある。

別れたことも、泣かせたこともある。


仕事へ感情を持ち込まず、相手にもそれ以上を求めない。

深入りもしなければ、自分から未来を約束することもない。

ずっと、そんな付き合い方しかしてこなかった。


「だからこそ、司令に軽い気持ちで近づくつもりはありません」

「軽い気持ちじゃなかったら?」


その問いに、ジェイクの目が止まった。

ほんの短い沈黙のあと、低い声が返る。


「それなら、なおさらです」

「どうして?」


ジェイクはすぐには答えなかった。

やがてもう一度、回廊にいるルリスティへ視線を向ける。


「あの人だけは……今の関係から一歩踏み込めば、もう戻れなくなるからですよ」


声は穏やかだった。

けれど、だからこそクリスティにも、

その言葉が決して軽いものではないことが伝わった。


「これまでは、惹かれれば口説き、会いたければ誘えばよかった。

関係が終われば、それを受け入れて次へ進むこともできました。ですが――」


ジェイクは言葉を切り、再び回廊にいるルリスティへ視線を向けた。


「あの人だけは、そんなふうに考えられない。

ただ笑っていてほしいし、幸せでいてほしい。それだけで十分だと思っています」


クリスティはしばらく何も言わなかった。

その言葉を聞いて思い出したのは、アークファイントの姿だった。


『私は、あなたの騎士です』

『あなたは、もっと幸せになれます』


自分のためだと言いながら、

自分の気持ちを確かめることもなく、勝手に身を引こうとした人。


「……アークファイントも、同じことを言ってた」


ジェイクがクリスティへ目を向ける。


「私にはもっと相応しい人がいるって。

同じ高さで歩ける人と幸せになるべきだって」


膝の上で、クリスティの指先がきゅっと重なった。


「でも私は、アークファイントの隣にいたい。

ほかの人じゃなくて、あの人がいいの」


ジェイクは何も言わず、その言葉を聞いている。


「だからね、大佐。ルリスティが大佐をどう思ってるかは、私にも分からない。

たぶん、ルリスティ自身もまだ分かってないと思う」


「……」


「でも、大佐が自分から離れたら、ルリスティはきっと困るし、悲しむと思う」


クリスティはまっすぐジェイクを見つめた。


「前よりきちんと食べるようになったし、笑うことも増えた。

無理をすれば怒ってくれる人がいるって知って、

少しずつ誰かを頼れるようにもなってきた」


そこで一度言葉を切り、柔らかく続ける。


「それって、大佐が隣にいるからだと思う」


ジェイクは答えず、遠くにいるルリスティへ視線を戻した。


「ですが、俺がいることで、司令の選択肢を狭めているのだとしたら――」

「それを決めるのは、ルリスティだよ」


迷いのない声が、ジェイクの言葉を遮った。


「誰と一緒にいたいのか、誰に隣にいてほしいのか。

それは、大佐が先回りして決めていいことじゃないと思う」


まっすぐな紫水晶の瞳に見つめられ、ジェイクは僅かに目を細める。


「自分が離れたほうが相手は幸せになれるって、

勝手に決めるのは……優しいようで、ちょっとずるいよ」


「随分と厳しいですね」

「私、同じことをされて泣いたから。よく分かるの」


少し頬を膨らませたクリスティに、ジェイクの口元へごく薄い笑みが浮かんだ。


「ですが、司令が別の誰かを望むのであれば、その選択は尊重すべきでしょう」

「うん。それはそうだと思う」


クリスティは素直に頷いた。

けれど、そのままじっとジェイクの顔を見つめる。


「でも、大佐はそれで平気なの?」

「……何がですか」

「ルリスティがほかの人を選んで、その人と結婚して、その人の隣で笑っていても」


ジェイクは答えようとした。

その時は祝福すればいい。

それが相手を想う大人として正しい振る舞いなのだと、

いつもなら迷いなく口にできたはずだった。


けれど、自分ではない誰かの隣で笑うルリスティを想像した瞬間、

胸の奥が鈍く痛んだ。


あの柔らかな笑顔を向けられるのも、

休日に丘へ並んで座るのも、

誰にも見せない癖や弱さへ少しずつ気づいていくのも、

そのすべてが、自分ではない誰かになる。


気づけば、ジェイクの指は無意識に卓の縁を強く掴んでいた。

クリスティはその手へ視線を落とし、小さく頷く。


「ほら。やっぱり、平気じゃないでしょ」


長い沈黙のあと、ジェイクは深く息を吐いた。


「困りましたね」

「何が?」


「クリスティさんは、思っていたより人の痛いところを突くのがお上手です」

「褒めてる?」

「褒めてはいません」


クリスティは少しだけ笑い、ようやく手元の焼き菓子を二つに割った。


「でも、今すぐ気持ちを伝えたほうがいいとは思ってないよ。ルリスティもまだ、

大佐のことをどう思ってるのか、自分ではっきり分かってないと思うから」


割った片方を、ジェイクの前へそっと置く。


「待つのはいいの。

でも、ルリスティの代わりに答えを決めて、勝手に諦めて離れるのは違うよ」


ジェイクは差し出された焼き菓子を黙って見つめた。


「隣にいれば、いつかルリスティも自分で答えを出せるでしょ?

大佐に隣にいてほしいのか、それとも違うのか」


しばらく、ジェイクから返事はなかった。


やがて回廊の向こうから足音が近づいてくる。


「クリスティ、ここにいたのですね」


数枚の書類を抱えたルリスティが、中庭へ入ってきた。


「ルリスティ。お仕事終わった?」

「あと少しです」


答えながら卓へ目を向けたルリスティは、

二人の間に流れる微妙な空気を感じ取ったのか、不思議そうに首を傾げる。


「お話し中でしたか?」

「うん。少しだけ」


クリスティが意味ありげにジェイクを見る。

その視線を受けても、ジェイクは何事もなかったように紅茶へ手を伸ばした。


「クリスティさんから、貴重な助言をいただいていました」

「助言? 何についてでしょう」

「秘密!」


満面の笑みで返され、ルリスティはぱちりと瞬きをした。

ジェイクはそんな彼女の前へ、まだ温かい紅茶を差し出す。


「少し休んでください」

「ですが――」

「五分だけでも」


ルリスティはカップとジェイクの顔を交互に見たあと、困ったように微笑んだ。


「では、少しだけ」


その返事を聞いたジェイクの深い青の瞳が、ほんの僅かに柔らかくなる。

クリスティはその変化を見逃さなかった。


けれど今度は何も言わず、ただ声に出さずに笑う。

今は、それだけでいい。

二人がいつか、自分たちなりの答えへ辿り着くまでは。



その夜。


司令部の灯りが一つ、また一つと消えていく頃、

ジェイクは一人で砦の裏手へ続く丘を登っていた。


昼間の熱を失った風が、漆黒の髪を静かに揺らす。


辿り着いたのは、休日になるとルリスティが本を読んでいる場所だった。


大きな木の下へ腰を下ろすと、少し離れたところに、

本を膝へ置いて静かに頁をめくる彼女の姿があるような気がする。


けれど、今日は誰もいない。

それだけのことが、妙に落ち着かなかった。


「……参ったな」


木の幹へ背を預け、夜空を仰ぐ。

すると、昼間のクリスティの言葉が嫌でも蘇ってきた。


『勝手に諦めちゃ駄目』

『離れちゃ駄目』


厳しい人だ。

しかも、ルリスティとよく似た顔で真っ直ぐ言われるのだから、余計に質が悪い。

けれど、否定することはできなかった。


十九歳と二十八歳。

司令と部隊長。

英雄クラウスの娘と、かつて女性関係の噂が絶えなかった男。


彼女には、自分より相応しい相手がいる。

ずっと、そう考えていた。


いや。

――そう考えることで、自分が傷つかずに済む道を選ぼうとしていたのだ。


『誰と一緒にいたいかは、ルリスティが決めることだよ』


その通りだった。

まだ何も伝えていない。


ルリスティが自分をどう思っているのか、確かめてもいない。


それなのに彼女のためだと言いながら、

自分だけで勝手に未来を決め、最初から身を引こうとしていた。


「優しいようで、ずるい……か」


ジェイクは自嘲するように小さく笑い、自分の手へ視線を落とした。


もし、ルリスティが別の誰かを選んだら。

昼間、クリスティにそう問われた時には答えられなかった。


だが、今なら分かる。

平気なはずがない。


自分ではない誰かが、彼女の歩幅に合わせる。

仕事を抱え込めば止め、無理をすれば叱る。

休日にはこの丘へ並んで座り、ルリスティが本を読む隣で同じ時間を過ごす。

そして自分は少し離れたところから、それを見て祝福する。


想像しただけで、胸の奥が鈍く痛んだ。


「……無理だな」


答えは、思っていたよりずっと簡単だった。


「今までの俺を知る連中が聞いたら、腹を抱えて笑うだろうな」


女泣かせで、誰か一人に執着することなどない男。


付き合った女性もいれば、別れた女性もいる。

寂しさを感じたことも、相手へ申し訳なく思ったこともあった。

それでも、次へ進めなかったことなど一度もない。


そんな自分が、本当に大切な相手を前にした途端、

手を伸ばすことさえ怖がっている。


彼女を思っていたからだけではない。

嫌われることが怖かった。


今ある関係を失うことも、

自分が彼女の隣にいられなくなることも、

そのどれにも、自分は耐えられそうになかった。

それなのに、誰かに彼女の隣を譲ることなど、もっとできそうにない。


思えば、いつからだったのだろう。

初めて会った時、ルリスティはまだ十七歳だった。

年若い少女でありながら、辺境防衛軍を率いる司令。


自分にとっては紛れもない上官であり、

恋愛の対象として意識したことなど一度もなかった。

むしろ最初に感じたのは、危惧だった。


――こんなに若い娘が背負うには、あまりにも重すぎる。


無理をしていないか。

誰にも弱音を吐けず、一人ですべてを抱え込んでいるのではないか。

第一部隊長として、少しでも支えなければならない。

ただ、それだけだったはずなのに。


いつからか、彼女がきちんと食事を取っていれば安心するようになった。

僅かに顔色が悪いだけで気に掛かり、

休日にこの丘で隣へ座る時間を楽しみにするようになった。


そして今では、

会議の席で緊張すると左手の小指を右手でそっと握ることまで知っている。

誰も気づいていない、ほんの小さな癖まで。


本当に、少しずつだった。

十七歳の少女として出会った彼女が十八歳になり、やがて十九歳になって。

いつの間にか、自分の目にも一人の女性として映るようになっていた。


そして、先日の調査から戻った日。

二度目に倒れかけたルリスティを受け止めた瞬間、考えるより先に敬語が消えた。


『もう歩かないで』


『司令が倒れれば、悲しむ人がいます』

『俺も』


あの時、もう答えは出ていたのかもしれない。

私室で白銀の髪を指先で避け、偶然頬へ触れてしまった時もそうだった。


彼女は、ただの上官ではない。

守るべき司令というだけでもない。

自分にとって、一人の女性だった。


それでも何も変わらないふりをして、

ただ隣で守ることができれば、それだけでいいと思おうとした。


――いや。

そう思い込もうとしていた。


けれど今日、クリスティに言われた。

勝手に諦めるな。

勝手に離れるな。


「本当に、痛いところばかり突いてくる」


ジェイクは夜空を見上げ、小さく笑った。


ルリスティが、自分へ同じ想いを向けているとは限らない。

期待するつもりもない。

けれど、彼女の答えまで自分が決めていいわけではない。


二人の関係をどうするのかは、自分一人で決めることではないのだ。

ルリスティがいつか自分自身の気持ちに気づき、自分の答えへ辿り着いた時。


誰に隣にいてほしいのか。

誰と生きたいのか。

それは彼女自身が選ぶことだ。


ならば、それまでは勝手に離れない。

彼女の幸せを、自分の都合で決めることもしない。

そこまで考えて、ジェイクはようやく、ずっと胸の奥にあった感情を認めた。


――自分は、ルリスティが好きなのだ。


司令だからでもない。

クラウスの娘だからでもない。

守るべき相手だからでもない。


一人の女性として、笑っていてほしい。

幸せでいてほしい。


そして、できることなら。

その幸せの隣に、自分もいたい。


「……参ったな」


片手で顔を覆い、困ったように笑う。


これまで、恋はもっと簡単なものだと思っていた。

惹かれれば口説き、会いたければ誘う。

合わなければ別れ、それで終わる。


けれど、あの人だけは違った。

嫌われたくない。

困らせたくない。

傷つけたくない。


――それでも、離れたくない。


「本当に、重症だ」


ジェイクはとうとう草の上へ仰向けになり、片腕を頭の下へ入れた。

夜空には、無数の星が瞬いている。

その光を眺めていると、ふと昼間のルリスティの姿が浮かんだ。


差し出した紅茶を受け取り、

『では、少しだけ』

そう言って、困ったように微笑んだ顔。

たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。


明日になれば、また司令と部隊長として向き合う。

いつも通り軽口を交わし、無理をすれば叱り、仕事を抱え込めば半分を奪う。


今は、それでいい。

急ぐつもりはない。


ただ、もう自分から離れようとはしない。

彼女がいつか、自分自身の答えへ辿り着くその時まで。

隣にいる。


星の瞬く夜空の下、ジェイクは静かにそう決めた。


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