第69話 父から娘へ
翌朝。
昨夜交わした約束どおり、ルリスティはジェイクとともに、
医務室に隣接する小さな面談室へ来ていた。
窓から差し込む淡い朝の光が、簡素な机の上へ伸びている。
その先には、一通の古びた封筒が置かれていた。
見慣れた父の筆跡で記された、短い宛名。
『ルリへ』
マーヴェリア帝国皇帝へ宛てられたもう一通は、
昨日、すでにルーファスの手へ渡っている。
けれど彼は、ルリスティが父からの言葉を受け取るまで、
自分宛ての手紙も開かずに待つと告げた。
だから今は、まず自分へ遺された言葉と向き合う。
そう決めてここへ来たはずなのに、ルリスティは椅子へ腰掛けたまま、
長い間『ルリへ』の文字を見つめていた。
その隣では、ジェイクが車椅子に身を預け、何も言わずに待っている。
三年前、クラウスが亡くなった時、遺品は一つずつ自分の手で確かめた。
使い込まれた銃。
擦り切れた手袋。
古い階級章。
何度も読み返した戦術書。
どれにも父が生きていた痕跡が残っていたが、この手紙の存在だけは知らなかった。
手を伸ばせば届く。
けれど封を開けば、父が死ぬまで隠し続けた言葉を知ることになる。
手紙の中に、自分の知らない父がいるかもしれない。
これまで信じてきた思い出さえ、違う意味へ変わってしまうかもしれない。
膝の上で重ねたルリスティの指先が、僅かに震えた。
「大佐」
「はい」
「ここに、いてくださいますか」
ジェイクは迷うことなく頷いた。
「もちろんです。昨日、そう約束したでしょう」
穏やかな声に背中を押され、ルリスティは小さく息を吸った。
「……はい」
ようやく封筒へ手を伸ばす。
長い年月を経た紙を傷つけないよう、慎重に封を開いた。
中から取り出した数枚の便箋には、何度も目にした父の文字が並んでいる。
普段の軍務の指示書や報告書よりも僅かにゆっくりとした筆致から、
一文字ずつ迷いながら記したことが伝わってくる。
ルリスティは隣にいるジェイクの気配を確かめ、一行目へ目を落とした。
『ルリへ。
お前がこの手紙を読んでいるということは、
俺が最後まで伝えることのできなかった真実を、知る時が来たのだろう。
まず、謝らなければならない。
俺は、お前と血を分けた父ではない。』
分かっていたはずだった。
昨日、ルーファスから告げられた。
自分はマーヴェリア帝国皇帝と皇妃の間に生まれた娘なのだと。
それでも、父自身の文字で書かれた言葉は、鋭く胸へ突き刺さった。
便箋を持つ手が止まる。
「ルリスティ」
ジェイクの手が、机の上に置かれた彼女の左手を包んだ。
深い青の瞳は、続きを促すことも、やめるよう止めることもしない。
ただ、ここにいると伝えている。
ルリスティはその温もりへ指を重ね、再び手紙へ視線を戻した。
『お前を見つけたのは、共和国辺境の森だった。
まだ二歳ほどの、小さな子どもだった。
一人きりで、何が起きたのかも分からないまま泣いていた。
お前が身に着けていた服は、この国では見たことのない仕立てだった。
その胸元には、小さな文字で「ルリスティ」と刺繍されていた。
それがお前自身の名なのか。
お前を想う誰かが縫い付けたものなのか。
当時の俺には確かめる術がなかった。
だが、見知らぬ土地へ一人で現れた幼い子どもから、
名前まで奪ってはならないと思った。
だから俺は、お前をルリスティと呼んだ。』
「名前……」
ルリスティの唇から、小さな声が零れる。
自分の名は、クラウスが付けたのだと思っていた。
けれど父は、名前を与えたのではない。
失われかけていたものを、守ってくれていたのだ。
『ルリ。
俺は、お前がこの国で生まれた子ではないのだろうと考えていた。
まだ幼いお前が、何の手掛かりもないまま辺境の森へ一人で現れたことは、
あまりにも不自然だった。
お前には、どこかに家族がいるのだろう。
きっと、お前を探し、帰りを待っている者がいる。
そう考え、知らせる方法を探した。
お前を待つ者のもとへ、いつか帰してやりたいと思っていた。
だが、黒淵を越える道はなく、海も空も閉ざされていた。
信頼できる相手も、確実に言葉を届けられる手段も、
最後まで見つけることができなかった。』
ルリスティの瞳から、最初の涙が便箋へ落ちた。
慌てて紙を少し遠ざける。
「すみません……」
「手紙に謝らなくても、クラウス司令官は怒りませんよ」
ジェイクが穏やかに告げる。
「むしろ、あなたらしいと笑うでしょうね」
父なら、きっとそうする。
泣くなとは言わない。
けれど、手紙を濡らしたことを気にする自分へ、
相変わらず生真面目だと笑うだろう。
その姿を思い浮かべると、余計に涙が溢れた。
『そうしている間にも、お前は育っていった。
初めて俺の指を握った日。
熱を出し、朝まで俺の服を離さなかった夜。
転んでも泣くまいと唇を噛み、自分の足で立ち上がった日。
初めて銃に触れ、反動に驚いて尻餅をついた日。
そして、初めて俺を「お父さん」と呼んだ日。
俺は、そのすべてを覚えている。
一つ一つの時間を重ねるうちに、
お前は守るべき幼い子どもではなくなった。
俺の娘になっていた。』
ルリスティの呼吸が震えた。
断片的な記憶が、次々と蘇る。
大きな手を握って歩いた森の道。
熱を出した夜、朝まで背中を撫で続けてくれた掌。
銃を握りたいとせがむ自分へ、まだ早いと言いながらも、
最後には小さな手を支えてくれた父。
初めて父と呼んだ日のことは覚えていない。
けれど、クラウスは覚えていた。
自分が忘れてしまった幼い日のすべてを、父は最後まで胸の中へ残してくれていた。
『だから、真実を話すことができなかった。
お前を失うことが怖かった。
いつか、お前を知る者が現れれば、俺のもとから連れていかれるかもしれない。
そして、その者が本当にお前を想い、探し続けていた人間なのか。
それとも、お前を何かに利用しようとする者なのか。
俺には確かめる術がなかった。
俺はただ、お前に一人の娘として、穏やかに生きてほしかった。
それが正しかったのかは、今でも分からない。
お前の家族から、お前と過ごす時間を奪ったことになるのかもしれない。
そしてお前からも、自分が何者なのかを知る機会を奪ってしまった。
すまなかった。
許してほしいとは言わない。
ただ、俺がお前を手放すことができなかったのは、
お前を愛していたからだということだけは、信じてほしい。』
「……ずるいです」
ルリスティが、掠れた声で呟く。
「このようなことを書かれて、父を責められるはずがありません」
「責めてもいいんですよ」
ジェイクは、握った手へ僅かに力を込めた。
「寂しかったことも、何故話してくれなかったのかと思うことも、
全部あなたの気持ちです」
「ですが、父は……」
「愛していたからこそ、間違えることもあるでしょう」
ジェイクの声は穏やかだった。
「それでも、愛されていた事実が消えないのと同じように、
あなたが傷ついた気持ちまで、なかったことにする必要はありません」
ルリスティはしばらく黙ったまま、父の文字を見つめた。
責めたいわけではない。
真実を隠されていたことへの痛みが、ないわけでもない。
けれど今は、それ以上に伝わってくるものがあった。
クラウスは、自分を失うことを恐れていた。
血の繋がらない娘を、誰よりも大切に思ってくれていた。
『ルリ。
真実を知った時、
お前は自分が何者なのか分からなくなるかもしれない。
生まれた場所に繋がる自分と。
共和国で、クラウス・トリウリッドの娘として育った自分。
どちらが本当なのかと悩むかもしれない。
だが、忘れないでほしい。
どちらも、お前だ。
お前がどこで生まれ、どのような血を受け継いでいたとしても、
この国で育ち、笑い、悩み、
自分の力で選んできた日々が消えることはない。
俺の娘として過ごした年月も、お前の一部だ。
どちらかを捨てる必要はない。
誰かに、どちらかを選ばされる必要もない。』
昨日から、何度も考えていた。
帝国皇女として生まれた自分。
共和国でクラウス・トリウリッドの娘として育ち、
辺境防衛軍司令官として生きてきた自分。
皇帝の娘なのか。
クラウスの娘なのか。
どちらか一つを選ばなければならないような気がしていた。
だが父は、自分がいつかその問いに苦しむことまで考え、
先に答えを遺してくれていた。
『もし、お前を生んだ父が今もお前を待っているのなら、
その方のもとへ行ってもいい。
その方を父と呼ぶ日が来てもいい。
それで、俺がお前の父でなくなるわけではない。
お前に、もう一人の父がいたとしても。
お前が俺の娘であることは、決して変わらない。』
ルリスティは唇を強く噛んだ。
耐えようとしても、涙が次々と頬を伝っていく。
昨日、ルーファスも同じことを言った。
クラウスは父だと。
自分には、二人の父がいるのだと。
互いに会ったことも、言葉を交わしたこともない二人の父が、
同じように相手を否定せず、自分の人生を丸ごと受け止めようとしてくれている。
ルリスティは涙を拭うことも忘れ、続きを読んだ。
『お前は昔から、何でも一人で背負おうとする子だった。
苦しくても平気な顔をして、誰かを守るためなら自分のことを後回しにする。
それは、お前の強さだ。
だが、強い者が誰にも頼ってはならないという意味ではない。
苦しい時は、苦しいと言っていい。
寂しい時は、誰かにそばにいてほしいと願っていい。
もし、お前が心から信じられる人と出会ったなら、
その人を頼りなさい。
その人の隣で、お前が穏やかに笑えるのなら。
差し出された手を、離してはいけない。』
ルリスティの視線が、便箋から僅かに離れた。
自分の手を包む、大きな手。
何度も差し出され、そのたびに自分を支えてくれた手。
三日前。
死の淵にいながら、それでも自分のもとへ帰ってきた人。
これからは隣にいると約束してくれた人。
ジェイクは何も言わなかったが、深い青の瞳には、ルリスティが手を離さない限り、
自分から離れるつもりはないという静かな意思が宿っていた。
それを受け取るように、ルリスティは自ら彼の指へ強く指を絡めた。
『俺は、お前を守れただろうか。
父として、幸せにしてやれただろうか。
この手紙をお前が読む時には、もう確かめることもできないだろう。
それでも俺にとって、お前と過ごした日々は、何にも代えられない幸福だった。
お前を見つけたあの日。
小さな手で俺の指を握ってくれたことを、俺は生涯忘れない。
ルリ。
生まれてきてくれて、ありがとう。
俺の娘になってくれて、ありがとう。
お前は、これまでも。
そして、これからも。
俺の自慢の娘だ。
クラウス・トリウリッド』
読み終えたあとも、ルリスティはしばらく動かなかった。
涙だけが、静かに頬を流れ続けている。
手紙を持つ指は震えていたが、もう目を逸らすことはなかった。
何度も、最後の言葉を読み返す。
俺の娘になってくれて、ありがとう。
俺の自慢の娘だ。
父が、自分をどう思っていたのか。
本当は、ずっと知っていた。
言葉の少ない人だった。
褒めるより先に、直すべきところを指摘するような人だった。
それでも、熱を出せば一晩中そばにいてくれた。
軍へ入ると言った時には反対しながら、誰よりも丁寧に銃を教えてくれた。
初めて部隊を任された日には、
何も言わず、自分が長く使っていた手袋を渡してくれた。
すべてが、父の愛情だった。
血が繋がっていなくても、生まれた国が違っても、
クラウスは、確かに父だった。
ルリスティは、便箋を折り目へ沿って丁寧に畳んだ。
一枚、また一枚と、急がず、傷つけないように元の封筒へ戻す。
それから『ルリへ』の文字を、指先でそっとなぞった。
「大佐」
「はい」
呼び掛けた声は涙で酷く震えていたが、ジェイクは急かすことなく、
彼女が言葉を見つけるまで静かに待っていた。
ルリスティはゆっくりと顔を上げ、
涙に濡れた紫水晶の瞳で、すぐ隣にいる人を見つめた。
父の声をもう一度聞きたいと、胸が張り裂けそうなほど悲しい。
それでも不思議と、口元には自然な笑みが浮かんでいた。
「私……」
一度声を詰まらせ、息を呑む。
それからジェイクの手を強く握り、ルリスティは泣きながら笑った。
「私、ちゃんとお父さんの娘でした」
ジェイクの表情が、ゆっくりと柔らかくなる。
「ええ。あなたは、ずっとクラウス司令官の娘ですよ」
迷いのないその言葉を聞いた瞬間、ルリスティの瞳から再び大粒の涙が溢れた。
「……はい」
ジェイクは繋いだ手を引き寄せ、その甲へ額を寄せて静かに目を閉じた。
その仕草と握られた手の強さだけで、
傷さえなければ今すぐ抱き締められていただろうと分かる。
ルリスティも身を屈め、彼の肩へそっと額を預けた。
「少しだけ……このままでいてもよろしいですか」
「もちろんです」
ジェイクは空いている腕を上げ、傷へ響かないよう慎重に彼女の背へ回した。
「好きなだけ、ここにいてください」
その言葉に甘えるように、ルリスティは目を閉じた。
父の大きな背中。
差し出された無骨な手。
不器用な笑顔。
そのすべてを胸の中へ抱き締めながら、今は別の温もりへ身体を預ける。
苦しい時は、苦しいと言っていい。
寂しい時は、誰かにそばにいてほしいと願っていい。
差し出された手を、離してはいけない。
父が最後に遺してくれた言葉を、ルリスティは静かに受け取った。
しばらくして涙が落ち着くと、ルリスティはジェイクの肩から顔を上げた。
目元は赤く腫れていたが、その表情に先ほどまでの迷いはなかった。
「大佐、陛下のもとへ参ります」
ジェイクは静かに彼女を見つめた。
「もう大丈夫ですか?」
「はい」
ルリスティは『ルリへ』と記された封筒を、胸元へ大切に抱く。
「陛下も、お父さんからの手紙を開かずに待ってくださっています」
父が長い間、皇帝へ届けることのできなかった言葉。
それを受け取るべき人は、もう手の届く場所にいる。
「今度は、陛下がお父さんの言葉を受け取る番です」
ジェイクは穏やかに頷いた。
「一緒に行きましょう」
「はい」
ルリスティは立ち上がり、もう一度だけ胸元に抱いた封筒へ触れた。
「行ってきます、お父さん」
返事はない。
それでも、父がいつもの不器用な笑顔で頷いたような気がした。




