第55話 届いた光
帝都。
深夜を迎えた近衛騎士団本部の一室には、今も灯りが残っていた。
机の上には、奈落の歪みに関する調査報告書や古代魔術の文献、
共和国について記された僅かな伝承を集めた資料が、
隙間もないほど積み上がっている。
その片隅に置かれた紅茶は、とうに冷め切っていた。
リカルドは最後の一枚まで目を通し、静かに羽根ペンを置いた。
「……収穫なしか。」
低い声が、静まり返った部屋へ落ちる。
クリスティが奈落の歪みへ消えてから、三か月。
朝から捜索隊を指揮し、本部へ戻れば各地から集まった報告へ目を通す。
夜になってからは、僅かでも手掛かりになりそうな資料を読み漁り、
可能性があると聞けば、どれほど曖昧な情報であろうと自ら確かめた。
それでも、彼女へ続く道は見つからない。
奈落の向こうに共和国という国が存在することは分かった。
七十年前、共和国から帝国へ転移したイアン・フォスターが、
今も生きて帝都で暮らしていることから、
クリスティも無事に辿り着いている可能性は高い。
だが、肝心の共和国へ至る方法が、どこにも記されていなかった。
リカルドは椅子へ深く身体を預け、窓の外へ目を向けた。
帝都の夜空には、手を伸ばしても届かないほど遠く、
無数の星が浮かんでいる。
「……姫様。」
呼び掛けても、返事はない。
そのことには、もう慣れたはずだった。
それでも夜が深まり、一人になるたび、名を呼ばずにはいられない。
リカルドは騎士服の胸元へ、そっと手を添えた。
心臓のすぐ上には、二枚のハンカチが大切に仕舞われている。
一枚は、十歳のクリスティが初めて贈ってくれたものだった。
銀糸で刺繍された鳥はひどく不格好で、猫にしか見えないと告げた自分へ、
『猫じゃないもん! 鷹だもん!』
と、頬を膨らませていた。
もう一枚は、十九歳になった彼女が、
リカルドの誕生日のために刺繍してくれたものだ。
翼を広げた銀の鷹は、
九年前のものとは比べ物にならないほど美しく、丁寧に仕上げられている。
どちらも今では、何にも代え難い宝物だった。
「まだ……あなたへ、お返事もできておりません。」
布越しにその感触を確かめながら、リカルドは目を伏せた。
あの日、言えなかったことがある。
姫君を守る騎士としてではなく、一人の男として、
どうしても伝えなければならなかった言葉があった。
もう一度会えたなら、今度こそ。
そう胸の内で繰り返した、その時だった。
不意に、胸元へ鋭い熱が走る。
「――っ」
リカルドは弾かれたように顔を上げた。
一瞬、疲労のせいで何かを錯覚したのかと思った。
けれど、胸元に宿った熱は消えるどころか、
鼓動に合わせるように少しずつ強くなっていく。
「……何だ?」
眉を寄せながら騎士服の内側へ手を差し入れ、
いつも大切にしまっている二枚のハンカチを取り出す。
その瞬間、リカルドの黒い瞳が大きく見開かれた。
「これは……」
銀糸で刺繍された二羽の鷹が、淡い金色の光を帯びていた。
まるで小さく呼吸をしているかのように、布の上で静かな明滅を繰り返している。
「姫様……?」
思わず、その名を呼ぶ。
こんなことが起こるはずがない。
そう思う一方で、掌から伝わってくる温もりだけは、どうしても否定できなかった。
リカルドは、この感覚を知っている。
長い間、誰よりも近くで感じ続けてきた――温かな陽射しのような、
彼女の気配だった。
「あなたなのですか。」
二枚のハンカチを両手で包み込んだ瞬間、刺繍された鷹が一際強く輝いた。
眩い金色の光が、瞬く間に部屋いっぱいへ広がる。
「っ……!」
思わず目を細めたリカルドの前で、
ハンカチに刺繍されていた銀の鷹が、ふわりと布の上から浮かび上がった。
一羽、そしてもう一羽。
銀色の光によって形作られた二羽の小さな鷹は、
まるで命を与えられたかのように翼を広げる。
リカルドは声もなく、その光景を見つめていた。
二羽は彼の前をゆっくりと旋回すると、
やがて開け放たれていた扉へ向かって飛び始める。
けれど、そのまま去ってしまうことはなかった。
扉を抜ける直前、二羽が揃って振り返る。
その仕草はまるで、ついてこいと告げているようだった。
「待ってください!」
考えるより先に身体が動いた。
勢いよく立ち上がった拍子に椅子が倒れ、
机の上へ積まれていた書類が床へ舞い落ちる。
それでも、今のリカルドには振り返る余裕などなかった。
二羽の鷹は部屋を抜け、そのまま薄暗い回廊へ飛び出していく。
リカルドも濃紺の外套を掴むと、すぐさまその後を追った。
「アークファイント卿!?」
夜警に当たっていた騎士たちが、
回廊を全力で駆けてくるリカルドの姿に目を見開く。
「何事ですか!?」
「道を開けろ!」
鋭く響いた低い声に、騎士たちは反射的に左右へ分かれた。
普段ならどんな時でも冷静さを崩さない男が、
周囲へ目を向ける余裕すらなく全力で駆けている。
それだけで、尋常ではない何かが起きていると察するには十分だった。
「あの光は……」
「鳥、なのか?」
二羽の銀の鷹は、リカルドを置き去りにすることも、
追いつかせることもなく、一定の距離を保ちながら先導するように飛び続けている。
やがて階段の吹き抜けへ差しかかると、
二羽は翼を傾け、滑るように下階へ降りていった。
リカルドも手すりへ一瞬手を添えながら、一段飛ばしで階段を駆け下りる。
息が上がっても、足を緩めることはなかった。
騎士服の胸元へ戻した二枚のハンカチは、
今もなお、確かな温もりを放ち続けている。
「姫様……」
三か月もの間、どこを探せばいいのかも、何を頼ればいいのかも分からなかった。
手がかりなど、一つもなかった。
それなのに今だけは、不思議なほどはっきりと分かる。
彼女がいる。
そして――自分を呼んでいる。
「今、参ります」
本部の正面扉を勢いよく押し開けた瞬間、冷たい夜風がリカルドの頬を打った。
二羽の銀の鷹は広場の上空へ飛び出すと、
そのまま騎士団本部の正面に建つ白亜の像へ向かっていった。
初代皇帝、レオン一世。
右手に握った剣を天へ掲げ、
建国以来、帝国の騎士たちを見守り続けてきた像である。
二羽は迷うことなくその肩へ舞い降り、
夜空に浮かぶ星のような淡い光を放ちながら翼を休めた。
「……なぜ、ここなのですか」
後を追ってきたリカルドは像の前で足を止め、肩で息をしながら二羽を見上げる。
ほどなくして背後から騎士たちの足音が次々と近づいてきた。
「アークファイント卿!」
「ご無事ですか!?」
駆けつけた騎士たちも、
初代皇帝の肩に止まる銀の鷹を見つけると、驚きに言葉を失った。
「あの光は……」
「鳥、なのか?」
抑えきれないざわめきが夜の広場へ広がり始める。
その時だった。
「リカルド」
聞き慣れた低い声に振り返ると、
急ぎ外套を羽織ったルーファスが広場へ歩み出てきた。
その後ろには、レオンハルト、ヴィオレット、ルシアンの姿もある。
「陛下」
リカルドが片膝をつこうとしたが、ルーファスは片手を上げてそれを制した。
「そのままでよい」
皇帝の紫水晶の瞳は、初めからリカルドではなく、
レオン一世像の肩に止まる二羽の鷹へ向けられていた。
「皇城からも光が見えた」
その言葉に、レオンハルトも像を仰ぎ見る。
「この鳥が原因か」
「分かりません。ただ――」
リカルドは胸元へ手を添えた。
「姫様から頂いた二枚のハンカチが突然光り、その刺繍から現れました」
「クリスティの……?」
ヴィオレットの目が大きく見開かれる。
ルーファスは二羽の鷹を見つめたまましばらく黙っていたが、
やがてゆっくりとリカルドへ視線を移した。
「間違いないのか」
「はい」
リカルドは迷わなかった。
「証明する術はありません。ですが、この光は……姫様のものです」
長い間、誰より近くで仕えてきた。
あの温もりを、間違えるはずがない。
ルーファスは再び初代皇帝の像を見上げた。
すると、その表情に僅かな変化が浮かぶ。
「父上。何かご存じなのですか?」
いち早く気づいたレオンハルトが尋ねる。
けれど、ルーファスはすぐには答えなかった。
幼い頃、先帝から聞かされた言葉がある。
代々の皇帝にのみ、口伝として受け継がれてきた建国の遺言。
――帝国に再び夜明けが訪れる時、初代皇帝は眠りし扉を開くだろう。
これまでは、建国神話の一節に過ぎないと思っていた。
何を意味するのか。
いつ、その時が訪れるのか。
そして、初代皇帝が開くという扉がどこにあるのか。
歴代の皇帝の誰一人として、その答えを知らなかった。
「まさか……」
ルーファスの口から、低い声が漏れる。
「口伝は、本当だったというのか」
その瞬間。
二羽の銀の鷹が、一際強く輝いた。
白銀と金色の光が一気に広がり、レオン一世像の全身を包み込む。
「っ!」
ルシアンが咄嗟にヴィオレットの前へ出る。
周囲の騎士たちも反射的に剣の柄へ手を掛けた、その直後。
地の底から響くような低い音が、広場全体を震わせた。
「何だ!?」
「地震か!?」
「違います!」
ルシアンは周囲の魔力へ意識を集中させ、すぐに声を上げる。
「強い魔力反応です!」
白亜の台座に、一筋の金色の線が走った。
そこから枝分かれするように幾つもの光が生まれ、
複雑な紋様を描きながら、石の隙間を這うように広がっていく。
それはまるで、レオン一世の像そのものが、
五百年以上に及ぶ眠りから目覚めようとしているかのようだった。
「これは……」
レオンハルトが息を呑む。
リカルドも胸元のハンカチへ手を添えたまま、光に包まれた像を見上げていた。
今も布越しに残る温もりが、
遠く離れたクリスティから届いたものだと思えてならない。
まるで――見ていて、と告げられているようだった。
「姫様……」
その名を呼んだ瞬間、轟音が広場へ響き渡った。
レオン一世像の台座が、中央からゆっくりと左右へ分かれ始める。
石と石が擦れ合う重い音とともに細かな振動が足元を伝い、
巻き上がった砂埃が金色の光の中へ溶けていった。
集まった騎士たちは、誰一人として声を発することができない。
やがて地鳴りが止まり、舞い上がっていた砂埃が静かに収まっていく。
開かれた台座の下に現れたのは――地下へ続く、細い石造りの階段だった。
「……地下への道?」
ヴィオレットが掠れた声で呟く。
騎士団本部の建設図にも、皇城に残るどの記録にも存在していない空間。
階段の両脇には青白い石が等間隔に埋め込まれていたが、
誰も触れておらず、魔力を流した者もいない。
それなのに、入口に最も近い石が淡く輝いた。
続いて、その奥の石にも光が灯る。
一つ、また一つ。
青白い光は暗い地下の奥へ向かって順番に灯り、
長い時を越えてようやく辿り着いた者たちを迎え入れるように、
静かに道を示していった。
広場に、深い静寂が落ちる。
ルーファスは開かれた階段の先を見つめたまま動かず、
リカルドもまた、初代皇帝の肩で静かに翼を休める二羽の銀の鷹へ視線を向けた。
クリスティの願いは、確かに届いた。
その光は五百年以上の時を越え、
帝国の前に閉ざされていた扉を――今、開いたのだった。




