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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第54話 太陽の祝福

金色の光は、しばらくの間、部屋の中を柔らかく照らし続けていた。


やがて役目を終えたかのように小さな粒へと姿を変え、

一つ、また一つと静かに消えていく。

最後の光がクリスティの白い指先へ溶けると、

風もないのにふわりと浮き上がっていた白銀の髪も、ゆっくりと肩へ戻った。


あとには、突然訪れた静寂だけが残る。


「……消えた」


クリスティは呆然としたまま、自分の両手を見つめた。

先ほどまでそこから溢れていた金色の光は、もうどこにもない。


「本当に、何だったんだろう……」

「やはり、聖霊の祝福ではないかと」


ジェイクは持ったままだった水差しを寝台脇の机へ置くと、

改めてルリスティへ視線を向けた。


「司令。お加減はいかがですか」


ルリスティはすぐには答えず、

掛け布の中で確かめるようにゆっくりと指を動かした。


先ほどまで力の入らなかった指先には、

僅かな冷たさこそ残っているものの、今はもう問題なく力が入る。


身体の奥へ沈み込んでいた疲労も完全に消えたわけではないが、

呼吸をするたび胸を圧迫していた苦しさは、ほとんど感じなくなっていた。


「不思議ですね。身体が、とても軽くなりました」

「本当!?」

クリスティがぱっと身を乗り出す。


「もう苦しくない?」

「はい。寒さも、先ほどよりずっと楽です」


ルリスティは穏やかに微笑み、

掛け布の上に置かれていたクリスティの手へ、そっと自分の指先を重ねた。


「ありがとうございます」

「わ、私?」


「クリスティが私を案じてくれたから、生まれた光なのでしょう」

「でも、私……何をしたのか全然分かってないよ?」

「それでもです」


まっすぐ向けられた紫水晶の瞳に、クリスティの頬がじわりと赤くなる。


「……どういたしまして」


照れたように笑いながら、今度は自分からルリスティの手を両手で包み直した。


ジェイクはそんな二人をしばらく見つめていたが、

やがて戸惑ったように自分の掌を見下ろすクリスティへ静かに告げる。


「誰かを想う気持ちが力になる。そういう祝福なのかもしれませんね」

「想う気持ちが……」


クリスティは小さく繰り返した。


ルリスティを助けたいと願った瞬間、胸の奥から溢れ出したあの温かさ。

今はもう穏やかに収まっているが、自分の中に確かに何かがあることだけは分かる。

もしかすると、生まれた時からずっとそこにあった力なのかもしれない。


「太陽みたいに、温かい光だったね」


自分の掌を見つめたまま呟くクリスティに、ルリスティも穏やかに頷いた。


「ええ。まるで、陽の光に包まれているようでした」


ジェイクも、つい先ほどまで金色の光に満たされていた部屋を見回す。


「太陽の祝福、とでも呼びたくなる光ですね」

「太陽の祝福……」


まだ聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返してから、

クリスティは少し照れたように頬を膨らませた。


「まだ、そう決まったわけじゃないよー」

「ですが、クリスティに相応しい名前だと思います」

「俺も、そう思います」


二人から間髪入れずに返され、クリスティはますます頬を膨らませる。


その様子にルリスティの口元へ小さな笑みが浮かび、

ジェイクの表情にもようやくいつもの余裕が戻り始めた。


「では、少し落ち着いたところで水を飲んでください」


そう言って杯へ水を注ぐジェイクに、ルリスティは当然のように返す。


「もう大丈夫です」

「その言葉は、今日は信用しません」


「祝福で回復しましたので」

「回復していても、水分は必要です」


即答だった。

ジェイクは杯を差し出しかけたものの、ふと思い直したように一度机へ戻す。


「その前に、ゆっくり起きましょう」

「一人で起きられます」

「念のためです」


背へ腕を回されても、今度のルリスティは抵抗しなかった。


ジェイクに肩と背を支えられながらゆっくりと上体を起こすと、

枕の上に広がっていた白銀の髪が背中へさらりと流れ落ちる。


途中で目眩を起こすこともなく、ルリスティは身体を起こしきると、

確かめるように一度呼吸をした。


「本当に、もうふらつきません」


それでもジェイクはすぐには手を離さなかった。

呼吸が乱れていないことと、顔色が戻っていることを一つずつ確かめてから、

ようやく支えていた腕を引く。


ただし、立ち上がりはしない。

何かあればすぐに支えられるよう、寝台の傍らへ片膝をついたままだった。


ルリスティは、ジェイクがまだ寝台の傍らに留まっていることに気づいていたが、

今度は何も言わなかった。

差し出された杯を両手で受け取り、ゆっくりと一口、水を飲む。


「……美味しいです」

「ただのお水だよ?」

「今は、とても美味しく感じます」


もう一口飲んでから、

ルリスティは杯を胸元へ抱えたまま、傍らのジェイクへ視線を向けた。


「……大佐」

「何でしょう」


少しだけ言葉を選ぶような間を置いてから、ルリスティは静かに頭を下げる。


「先ほどは、申し訳ありませんでした。無理をして、心配をお掛けしました」


ジェイクの眉が僅かに動いた。


「謝っていただく必要はありません」

「ですが、大佐を怒らせてしまいました」


「俺は、怒っていたつもりはありませんが」

「それは嘘ですね」


迷いなく返され、今度はジェイクのほうが言葉を失った。

ルリスティは杯を膝の上へ下ろすと、紫水晶の瞳をまっすぐ彼へ向ける。


「本気で怒ると、大佐は少しだけ口調が変わります。

それに今日は、ほとんど笑っていませんでしたので」


深い青の瞳が僅かに見開かれる。


「二年も一緒にいますから。それくらいは分かります」


ほんの少し困ったように微笑まれ、

ジェイクはしばらく彼女を見返していたが、やがて観念したように視線を落とした。


「……気づかれていましたか」

「はい」


短い沈黙のあと、ジェイクは小さく息を吐く。


「……敵いませんね」


その言葉とともに、張り詰めていた肩からようやく僅かな力が抜けた。

ルリスティもそれを見て、少しだけ表情を和らげる。


「怒られることは、

本来なら嫌なはずなのですが……不思議と、少しだけ安心しました」


ジェイクの瞳が静かに揺れた。

ルリスティは自分でもその理由を探すように一度目を伏せ、

やがて思い当たったように小さく笑った。


「やはり、大佐は父によく似ています」

「……またそれですか。勘弁してくださいよ」


ようやく戻ったいつもの調子に、今度はクリスティが口を挟んだ。


「でも、ルリスティの言いたいこと、何となく分かるなぁ」

椅子に座っていたクリスティが、二人の間へ少し身を乗り出す。


「大佐が、本気でルリスティを心配してるって分かったからでしょ?」

「クリスティ」

ルリスティの頬へ、僅かに赤みが差した。


けれどクリスティは気にした様子もなく、そのまま続ける。


「大佐はクラウスさんみたいに、ルリスティのことが大切なんだよ」

「何を言ってるんですか」


「あんなに余裕のない大佐、私、初めて見たもん」

「それとこれとは別です」

「そうかなぁ」


クリスティはどうにも納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。

ジェイクも会話へ割って入ることはせず、

片膝をついたまま僅かに顔を逸らしている。

ただ、その耳がほんの少し赤くなっていた。


それに気づいたクリスティは何か言いかけて――やめた。

代わりに、口元だけをにやりと緩める。


「……ともかく」


その表情が視界に入ったのか、ルリスティは小さく咳払いをして話を戻した。


「今後は、もう少し皆を頼るようにします」

「では、まず今日は大人しく休んでください」


間髪を入れず返され、ルリスティは僅かに眉を寄せた。


「一日ですか」

「本来なら三日です。すでに十分譲歩しています」


「半日では」

「もう夕方でしょう」


「大佐」

「今日は大人しく寝る。それが最低条件です」


取りつく島もない。


ルリスティはしばらくジェイクを見つめていたが、

どう交渉しても譲るつもりがないと悟ったらしく、諦めたように息を吐いた。


「……分かりました。約束します」

「それなら結構です」


ジェイクは満足そうに頷くと、ようやくいつもの飄々とした笑みを取り戻した。

その表情を見て、ルリスティもほんの少しだけ笑った。


二人のやり取りを、クリスティは椅子に座ったまま静かに見つめていた。


心配し、時には怒りながら、それでも互いのことをよく見て、

最後には相手の言葉を受け入れる。


ほんの少し前まで、一人で頑張ることしか知らなかったルリスティが、

今は誰かに支えられることを受け入れている。

その姿が、クリスティにはとても温かく見えた。


「……いいなぁ」


思わず零れた小さな声に、ルリスティが振り返る。


「何がですか?」


二人の視線が自分へ集まったことに気づき、クリスティは慌てて首を振った。


「ううん。何でもない」

「何でもない顔ではありませんね」


ジェイクに言われ、クリスティは少し迷ったあと、

膝の上で重ねた自分の指先へ視線を落とした。


「ただ……私にも、そういう人がいるなって」


ルリスティの表情が静かに変わる。


「そういう人?」

「うん」


クリスティは懐かしい記憶を一つずつ拾い上げるように、ゆっくりと言葉を続けた。


「私が無理をすると、すぐ困った顔をする人。

ちゃんと食べてください、眠ってください、危ないことはしないでください。

何かあったら、必ず呼んでくださいって……いつも私より先に、私のことを心配してくれる人」


白銀の睫毛が、ほんの少し伏せられる。


「今日のマルセリア大佐みたいに」


ルリスティは掛け布の上から、そっと手を伸ばした。


「アークファイントさん、ですか」


クリスティの指先が止まる。

それから顔を上げると、どこか懐かしむように柔らかく笑った。


「うん。アークファイント」


その名を口にしただけで、声まで柔らかくなる。


ジェイクも以前から、

彼の話になるとクリスティの表情が変わることには気づいていた。

けれど今の彼女は、そこに宿る感情を隠そうともしていなかった。


「今頃、何してるかな」


クリスティは窓の外へ視線を向ける。


夕陽はすでに山の向こうへ半分以上沈み、

空はゆっくりと夜の色へ変わり始めていた。


帝国がどちらにあるのかなど、ここからは誰にも分からない。

それでもクリスティは、どこかにいる彼を探すように暮れ始めた空を見つめた。


「ちゃんと眠れてるかな。ご飯も食べてるかな」


そこで少しだけ間を置き、声を落とす。


「私のことを探して、また無理してないかな」


最後の言葉が僅かに震えた。

それを誤魔化すように、クリスティは小さく笑う。


「アークファイントね。私のことになると、すぐ無理するの」

「それは、お互い様なのでは?」


ジェイクが静かに返した。


「え?」

「クリスティさんも、

アークファイントさんが傍にいないと、随分無理をなさるようですので」


「……そうかな」

「そうだと思います」


ルリスティにも穏やかに頷かれ、クリスティは少し困ったように眉を下げた。


「そっか」


小さく呟きながら、そっと胸元へ手を置く。


共和国へ来たばかりの頃は、帝国へ帰ることだけを考えていた。

けれど時間が経ち、ルリスティやジェイク、

辺境防衛軍の者たちと過ごすうちに、ここにも大切な人たちが増えた。

笑える時間も、安心できる場所もできた。


それでも、心の中にはずっと空いたままの場所がある。

誰にも埋めることのできない、ただ一人のための場所。


「会いたいな」


ぽつりと零れた声に、ルリスティもジェイクも何も言わなかった。

ただ、クリスティの次の言葉を待つ。

クリスティは胸元へ手を当てたまま、ゆっくりと目を閉じた。


「アークファイントに」


瞼の裏へ、燃えるような赤い髪が浮かぶ。

真面目で、少し不器用で、それでもいつも自分を一番近くで支えてくれた人。


初めて出会った日も、剣を教えてもらった日も、一緒に歩いた皇城の庭も、

いつも心配そうに自分を見つめていた顔も、今でも鮮明に覚えている。


そして最後に見たのは、奈落の歪みの向こうから、

必死に自分へ手を伸ばす姿だった。


「もう一度、会いたい」


胸の奥が、微かに熱を持つ。

先ほどルリスティを助けたいと願った時に生まれた温かさとは、

少しだけ違っていた。


優しく、それでいて抑えきれないほど切実な熱だった。


「アークファイント」


その名を呼んだ瞬間、ふわりとクリスティの白銀の髪が揺れた。


窓は閉じている。

風など、どこにも吹いていない。


「クリスティ?」


最初に異変へ気づいたルリスティが、

思わず身を乗り出した。ジェイクもすぐにクリスティへ視線を向ける。


「……クリスティさん?」


呼ばれて、クリスティがゆっくりと目を開く。

紫水晶の瞳には、淡い金色の光が宿っていた。


「え……?」


恐る恐る胸元から手を離すと、その指先から小さな光の粒が零れ落ちる。


一つ、また一つ。

先ほどよりも静かで、澄んだ金色の光だった。


「また……?」


光の粒は床へ落ちることなく、クリスティの周囲をゆっくりと漂い始める。

やがて、その頬を一筋の涙が伝った。

けれど本人は、涙が零れたことにさえ気づいていないようだった。


「会いたい」


もう一度、声にする。

その願いに呼応するように、周囲の光が僅かに強くなった。


「アークファイントに、会いたいよ」


白銀の髪が、金色の粒子の中で柔らかく揺れる。


「もう一度……あなたに会いたい」


その言葉が零れた瞬間、金色の光が一斉に広がった。

今度は、部屋の中だけに留まる光ではなかった。


クリスティの身体から溢れ出した輝きは壁や天井へ向かって広がり、

まるでどこか遠くにある行き先を探すように、幾筋もの光となって走り出す。


「クリスティさん!」


ジェイクが咄嗟に一歩踏み出した。

けれど光は誰かを傷つけることなく、その身体をすり抜けて窓へ向かう。

閉ざされた硝子さえ何の抵抗にもならず、金色の光は夕暮れの空へ飛び出した。

そして細い帯となり、遥か遠くへ伸びていく。


「……外へ」


ルリスティが息を呑む。

誰にも行き先など分からないはずなのに、

光は迷うことなく、ただ真っ直ぐに遠い彼方へ向かっていた。


ジェイクも言葉を失い、その軌跡を見つめている。


クリスティは頬へ涙を流したまま、

遠く離れた誰かへ手を伸ばすように、両手を胸の前で重ねた。


「届いて」


小さな祈りが零れる。


「お願い。アークファイントに――私が、ここにいるって」


胸の奥にある想いをすべて託した瞬間、空へ伸びていた金色の光が一際強く輝いた。


幾筋にも分かれていた光が、

まるで遥か遠くにいる誰かの居場所を見つけたかのように、

一つへと束ねられていく。


やがてそれは一本の細い光となり――

夕暮れの空の彼方へ、真っ直ぐに消えていった。

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