第52話 もう一人の皇女
七十年前。
奈落の歪みに飲み込まれた少年は、生きていた。
共和国から帝国へ転移し、見知らぬ土地で保護され、
新たな家族を得て、八十歳となった今も帝都で穏やかに暮らしている。
その事実は、クリスティの行方を追い続けてきた者たちへ、
初めて明確な希望をもたらした。
◇
マーヴェリア帝国、皇帝執務室。
机の中央には、『七十年前に発生した空間転移事例に関する調査報告』
と記された一冊の報告書が置かれていた。
室内に集まっているのは、皇帝ルーファスをはじめ、
レオンハルト、アレクシス、ヴィオレット、ルシアン、
そしてクリスティ専属騎士のリカルドだった。
イアン・フォルストの証言について報告を受けたあと、
誰もすぐには口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのは、レオンハルトだった。
「間違いないのか。」
普段と変わらぬ落ち着いた声だったが、
肘掛けへ置かれた手には力が籠もっている。
ヴィオレットは静かに頷いた。
「はい。教会の保護記録、戸籍、本人の証言。すべて一致しています。」
「では、奈落の歪みに飲み込まれた者が、必ず命を落とすわけではないと。」
「少なくとも、その可能性を示す実例が確認されました。」
答えたルシアンが、報告書を開く。
七十年前の現象とクリスティを飲み込んだ歪みが、
まったく同じものだとは断定できない。
だが、突然現れた黒い亀裂が一人だけを飲み込み、
周囲にも転移先にも空間魔術の痕跡を残さなかったという点は、
極めてよく似ていた。
アレクシスが深く息を吐く。
「つまり、クリスティもどこかへ飛ばされた可能性が高い。」
「はい。」
ヴィオレットの返事が、僅かに震えた。
七十年前の少年は、見知らぬ森で誰かに発見され、保護された。
故郷へ帰ることはできなかったが、
新たな家族と出会い、その土地で生き続けることができた。
ならば、クリスティも。
昨日、ルシアンは、生きている可能性は格段に高くなったと言った。
今は、その言葉を裏づける一人の人生が、確かな記録として目の前にある。
「これで、クリスティがどこかで生きていると信じて、
迷わず探し続けられますね。」
ヴィオレットの声には、まだ不安が残っていた。
けれど、それ以上に、
ようやく手にした希望を決して離すまいとする強い意志があった。
「生きている。」
ルーファスが言った。
全員の視線が皇帝へ集まる。
「クリスティは生きている。七十年前の少年が帝国へ辿り着いたのなら、
あの子も必ずどこかへ辿り着いている。」
ルーファスは報告書へ手を置き、迷いなく言い切った。
その言葉を聞きながら、リカルドは膝の上で拳を握り締めていた。
姫様が、どこかで生きている。
この三か月、クリスティが消えた場所へ何度も足を運び、
僅かな痕跡も見逃さぬよう調べ続けてきた。
それでも、何一つ手掛かりを見つけられなかった。
だが今、初めて彼女がいるかもしれない場所が見えてきた。
「陛下、ご命令を。」
リカルドは立ち上がり、ルーファスをまっすぐに見つめた。
「アドバンス共和国が今も存在し、奈落の向こうにあるのであれば、
どのような方法を使ってでも、必ず姫様をお迎えに参ります。」
抑えようとしても、その声には僅かな震えが混じった。
ルーファスは静かに頷く。
「ああ。お前にも働いてもらう。」
「ありがとうございます。」
深く頭を下げたリカルドへ、ルーファスは続けた。
「だが、迎えに行くのはクリスティだけではない。」
リカルドが顔を上げる。
レオンハルトとアレクシスは僅かに表情を強張らせ、
ヴィオレットも父を見つめた。
「もう一人、十七年間、私たちが探し続けてきた者がいる。」
「もう一人……?」
ルーファスは、長い年月、胸に抱き続けてきた名を口にした。
「ルリスティ。」
リカルドにとっては、初めて聞く名前だった。
「私の娘だ。そして、クリスティの双子の妹でもある。」
リカルドの目が大きく見開かれた。
「双子の……妹君……?」
「ああ。十九年前、フェリシアは二人の娘を産んだ。
姉がクリスティ、妹がルリスティだ。」
思わず周囲を見れば、レオンハルトたちは誰も驚いていない。
その表情に浮かんでいるのは、初めて真実を知らされた者の驚きではなかった。
十七年間、胸の内に抱き続けてきた妹の名を、改めて聞いた者たちの痛みだった。
「では、皆様はずっと……ルリスティ殿下のことを覚えておられたのですね。」
「ああ。」
レオンハルトは静かに頷いた。
「俺たちは、ルリと過ごした二年間を覚えている。
存在が公に伏せられていただけだ。
十七年経っても、俺たちの妹であることは変わらない。」
「お前が知らなかったのも当然だよ。」
アレクシスの声も、いつもの軽さを失っていた。
リカルドはルーファスへ向き直る。
「なぜ、ルリスティ殿下の存在を……。」
皇族の秘密へ踏み込みかけ、
言葉を止めたリカルドへ、ルーファスは静かに答えた。
「クリスティを守るためだ。」
十七年前、二歳だったクリスティは、目の前で双子の妹を奈落の歪みへ奪われた。
さらに、同時に発生した魔物の襲撃によって、母フェリシアまで失った。
事件後、クリスティは高熱を出し、一週間近く眠り続けた。
目を覚ました時には、幼い頃の記憶の一部が失われていた。
母と過ごした日々も。
いつも隣にいた双子の妹のことも。
「そんなあの子へ、お前には妹がいたのだと伝えることが、私にはできなかった。」
失われた記憶を無理に呼び起こすことで、
クリスティへ再び大きな負担を掛けるかもしれない。
今度こそ、残された娘まで失うのではないか。
その恐れから、ルーファスはルリスティの存在を知る者を限った。
忘れたかったのでも、存在を消したかったのでもない。
奈落へ消えた娘を探し続けながら、
目の前に残された娘を守るための選択だった。
リカルドは、何も言えなかった。
母の肖像画を見つめながら、
昔のことはよく覚えていないと困ったように笑っていた幼いクリスティ。
その失われた記憶の中には、母だけではなく、双子の妹までいたのだ。
「ルリスティ殿下も、
奈落の歪みによって別の場所へ運ばれたとお考えなのですね。」
「あの子は生きている。」
ルーファスは即座に答えた。
それは、今回の報告によって生まれた希望ではない。
十七年間、一度も揺らぐことのなかった父親の確信だった。
「七十年前、共和国から帝国へ渡った者がいる。
ならば、帝国から共和国へ渡った者がいてもおかしくない。」
クリスティも、ルリスティも。
同じ国へ辿り着いているかもしれない。
「ルリは、クリスティより少しだけ大人しい子だった。」
レオンハルトが、遠い記憶を辿るように呟いた。
「クリスティが転ぶと、自分も隣へ座り込んで、
泣いている姉の手をずっと握っていた。」
「いつも、クリスティのあとを追いかけていたな。」
アレクシスも僅かに笑う。
ヴィオレットは、膝の上でルシアンの手を握った。
「二人の髪に、同じ色のリボンを結んであげたことがあります。」
その瞳から、一粒の涙が零れる。
「お願いだから、どこかで生きていて……。」
ルシアンは何も言わず、ヴィオレットの肩を抱いた。
ルリスティという名は、公に語られることこそなかった。
けれど、家族から忘れられたことなど、一度もない。
十七年間ずっと、彼女は大切な娘であり、妹だった。
リカルドは改めてルーファスへ向き直ると、胸へ手を当てた。
「陛下。一つ、お願いがございます。」
「何だ。」
「クリスティ様だけでなく、ルリスティ様も必ずお探しいたします。」
会ったことも、顔を見たこともない。
どのような女性へ成長したのかも分からない。
それでも、クリスティの双子の妹であり、
この家族が十七年間探し続けてきた皇女だ。
「お二人が再会された時、もう一度姉妹として、
ご家族として向き合えるよう、私にもお支えさせてください。」
ルーファスは、しばらくリカルドを見つめた。
やがて、その言葉を受け止めるように静かに頷く。
「頼む。」
「必ず。」
リカルドは力強く答えた。
共和国がどこにあるのか。
そこへ辿り着く方法があるのか。
まだ、何一つ分かってはいない。
それでも、連れ帰るべき皇女が二人いることだけは、もう分かっている。
クリスティと、その双子の妹ルリスティ。
必ず二人を見つけ出し、帝国へ連れ帰ると、リカルドは胸の内で固く誓った。
その二人が、すでに遠い共和国で出会い、
互いが双子の姉妹であることも知らないまま、
同じ青い鳥の髪飾りを身につけて姉妹のように笑い合っていることを。
帝国にいる誰も、まだ知らなかった。




