第51話 七十年前の少年
「司令官。少し気になる記録が見つかりました。」
午前の執務が終わろうとしていた頃、
分厚い記録簿を抱えたクルトワ中佐が司令官室へ入ってきた。
古い革張りの表紙には何度も修復された跡があり、
黄ばんだ頁を留める綴じ紐も、ところどころ新しい物へ取り替えられている。
「黒淵の調査資料ですか?」
「はい。過去の異常現象を洗い直していたところ、
クリスティさんの件とよく似た事例が見つかりました。」
クリスティが共和国へ現れて以来、辺境防衛軍は軍事記録だけでなく、
各地の役所や警備隊、教会に残る資料まで集め、
黒淵に関する過去の事例を調べ続けていた。
しかし、彼女を共和国へ運んだ現象と明確に結びつく記録は、
これまで一つも見つかっていない。
ルリスティが羽根ペンを置くと、クルトワは机の前で記録簿を開いた。
「約七十年前、セーデラ湖の東にある林で、
十歳の少年が突然現れた黒い亀裂に飲み込まれています。」
窓辺で地図を見ていたクリスティが、すぐに振り返った。
「黒い亀裂に?」
「同行していた子どもたちの証言です。
魔物は現れず、周囲にも被害はありませんでした。
亀裂の方が少年を飲み込むように広がり、その直後に消えたそうです。」
「少年だけが消えたのですか?」
「はい。」
クルトワが頷く。
村人や警備隊、当時の辺境防衛軍による捜索は一か月以上続いたが、
遺体どころか血痕や衣服さえ見つからなかった。
少年の足跡も、亀裂が現れた場所で途切れている。
その話を聞くうちに、クリスティの胸へ、あの日の感覚が蘇った。
孤児院の子どもを庇った直後、目の前に生じた奈落の歪み。
逃げる間もなく身体を包まれ、気づけば共和国の森に倒れていた。
「クリスティ、大丈夫ですか?」
「……うん。少し思い出しただけ」
ルリスティは心配そうに彼女を見たが、
小さく笑い返されると、それ以上は尋ねなかった。
ジェイクが記録簿を覗き込む。
「少年の名前は?」
「イアン・フォスター。行方不明当時、十歳です。
両親と三歳年下の妹がいましたが、この一件以降、
共和国の公的記録へ彼の名が現れることはありません。」
「死亡扱いですか?」
「遺体は見つかっていませんが、終的には死亡扱いとなっています。」
クルトワは別の頁を開いた。
亀裂が消えた後、現場には焦げ跡も、魔力の残滓も、
地面の損傷も残されていなかったという。
ルリスティの表情が変わる。
「クリスティが発見された場所と同じですね。」
「あの森にも、空間魔術の痕跡や周囲への損傷はありませんでした。
まるで、最初から何も起きていなかったように。」
「では、この少年も死んだのではなく、別の場所へ移動した可能性がある。」
ジェイクの言葉に、クルトワが頷いた。
共和国国内へ移動したのであれば、どこかで保護された記録が残るはずだ。
それがないのなら。
「共和国の外へ……?」
クリスティの呟きに、ルリスティが窓の向こうへ目を向けた。
遥か遠くで、大陸を隔てる黒淵が揺らいでいる。
「クリスティが帝国から共和国へ来たのなら、
共和国から帝国へ渡った人間がいても不思議ではありません。」
百五十年間、完全に切り離されていたと思われていた二つの国。
その間を、ごく稀に人が渡っていた可能性がある。
「クルトワ中佐。この一件をさらに調査してください。
家族の手紙や村の記録が残されているかもしれません。」
「了解しました。」
「セーデラ湖周辺の魔力測定も。
七十年前と同じ現象が、再び起きないとも限りません。」
必要な指示を受けたクルトワは敬礼し、記録簿を残して退室した。
扉が閉じると、クリスティは頁に記された名前をそっと指でなぞった。
『イアン・フォスター。十歳。行方不明』
一人の少年が生きた痕跡は、そこで途切れている。
「どこかで、誰かに見つけてもらえていたらいいな。」
七十年前の少年が今も生きているなら、八十歳になる。
故郷へ帰れなかったとしても、
別の場所で家族を得て、幸せに暮らしていてほしい。
クリスティの願いに、ルリスティも静かに頷いた。
「はい。私もそう願います。」
◇
同じ頃。
マーヴェリア帝国、皇城地下資料庫。
高い書架の間では、
文官と魔術師たちが古い戸籍簿や教会の記録を次々と運び出していた。
レオンハルトの命により調査しているのは、
過去百五十年の間に、戸籍も身元も持たず帝国内へ現れた人間の記録だった。
奈落の歪みが人を遠方へ移動させるものなら、
クリスティ以外にも同様の事例があるかもしれない。
ヴィオレットとルシアンは、該当しそうな人物を一人ずつ確認していた。
「七十二年前、北部の村で六歳の少女を保護。家族は後に判明しています。」
「除外ですね。」
ルシアンの魔力によって浮かんでいた紙が、机の端へ移動する。
その作業を何度繰り返した頃だろう。
一冊の古い教会記録を読んでいたヴィオレットの手が止まった。
「ルシアン。これを見て」
差し出された頁には、皇暦四百五十七年、
帝国東部の森林地帯で身元不明の少年を保護したと記されていた。
年齢は、およそ十歳。
衣服は帝国では見られない仕立てで、周辺の村にも該当する子どもはいなかった。
「本人の証言は?」
ヴィオレットの指が、滲んだ文字を追う。
『少年は自らをイアンと名乗る。』
『湖の近くで黒い裂け目に飲み込まれ、気づけば見知らぬ森に倒れていたと証言。』
ルシアンが椅子から立ち上がった。
「姓は?」
「フォスター。」
二人の視線が重なる。
湖。
黒い裂け目。
十歳の少年。
共和国側の記録を知らない彼らにも、クリスティの失踪と無関係とは思えなかった。
「その後は?」
「教会で保護された後、近隣の工房へ引き取られています。
成人後に帝都へ移住し、結婚。子どももいるわ。」
「死亡届は?」
「ありません。」
文官が別の戸籍簿を開いた。
「現在は帝都南区で、長男夫婦と同居しています。
名はイアン・フォルスト。元時計職人です。」
ルシアンは、すぐに外套を掴んだ。
「会いに行きましょう。」
「今から?」
「七十年前に黒い裂け目を通った本人が、まだ生きているかもしれないんですよ。」
ヴィオレットも記録を閉じ、立ち上がった。
疲労の滲んでいた紫水晶の瞳に、久しぶりに強い光が戻る。
「……そうね。行きましょう。」
◇
帝都南区の静かな一角に、イアン・フォルストの家はあった。
小さな庭には手入れの行き届いた植木が並び、
窓辺には幾つもの時計が置かれている。
二人を迎えた孫娘に案内されて居間へ入ると、
窓際の椅子に一人の老人が座っていた。
白くなった髪と、深く刻まれた皺。
膝の上には、分解途中の懐中時計が載っている。
「おじい様、皇城からお客様です。」
老人はゆっくりと顔を上げ、
ヴィオレットの白銀の髪と紫水晶の瞳へ視線を止めた。
「皇族の方ですかな?」
「ヴィオレット・フォン・マーヴェリアと申します。
突然の訪問をお許しください。」
立ち上がろうとする老人を制し、ヴィオレットは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「七十年前、東部の森で保護された、
イアン・フォスターという少年について、お尋ねしたいことがあります。」
老人の目が、大きく開かれた。
壁に掛けられた時計の音だけが、長い沈黙の中へ響く。
「……その名を聞くのは、何十年ぶりでしょうな。」
「あなたで間違いありませんか?」
老人は窓の外へ目を向けた。
庭では、曾孫らしい幼い子どもが母親と遊んでいる。
その姿をしばらく見つめたあと、膝の上で両手を重ねた。
「信じてもらえるか分かりませんが、
私はかつて、アドバンス共和国に住んでいました。」
ヴィオレットの息が止まった。
帝国では、百五十年前に滅びたと考えられている国。
歴史書にしか残されていない名を、目の前の老人が故郷として口にした。
「共和国は、滅びていないのですか?」
「少なくとも、私が十歳だった頃には。」
老人の家は、アドバンス共和国のセーデラ湖近くの村にあった。
父や母、三歳年下の妹ミアと暮らし、夏には湖で魚を釣って遊んでいたという。
「ある日、友人たちと湖の東の林へ出掛けました。
そこで突然、空間が黒く裂けたのです。」
逃げようとしても、身体は亀裂へ引き寄せられた。
友人たちが手を掴んでくれたが、
指が離れ、気づけば見知らぬ森に一人で倒れていた。
「最初は、共和国の別の土地だと思いました。言葉も通じましたから。」
しかし、セーデラ湖も、村も、アドバンス共和国という国さえ、誰も知らなかった。
帝国の人々からは、共和国は百五十年前に滅びたと聞かされた。
「ですが、私には信じられませんでした。
前の日まで、父も母も妹も生きていたのですから。」
十歳で、家族も故郷も失った少年は、何度も帰る方法を探した。
教会の者や旅人へ話を聞き、地図や古い書物を調べたが、
共和国へ続く道は見つからなかった。
「私は、この国で生きるしかありませんでした。」
老人は、再び庭の家族を見つめる。
「教会の方々や、私を引き取った工房の親方は、
とてもよくしてくださいました。
妻と出会い、子どもが生まれ、今では孫も曾孫もおります。」
その表情には、失った故郷への寂しさとともに、
帝国で築いた七十年への確かな愛情があった。
「私は共和国の少年として生まれ、帝国の人間として生きてきました。
若い頃は、どちらが本当の自分なのか悩みましたが……
今は、どちらも私なのだと思っています。」
ヴィオレットは、その言葉を胸の奥へ刻んだ。
「イアン殿。最後に一つだけ、教えてください。」
「はい。」
「あなたを飲み込んだ裂け目は、人間を殺すのではなく、
遠く離れた場所へ移すものだった。そう考えてよいでしょうか?」
老人はしばらく考えたあと、静かに頷いた。
「少なくとも、私にとってはそうでした。」
転移は存在する。
奈落の歪みに飲み込まれても、人は生きて別の土地へ辿り着くことがある。
そして、共和国は少なくとも七十年前まで確かに存在していた。
「クリスティ……。」
ヴィオレットの唇から、妹の名が零れた。
老人が不思議そうに彼女を見る。
「大切な者が、奈落の歪みに巻き込まれました。
私たちは、その者を探しています。」
「そうでしたか。」
老人は静かに二人を見つめた。
「ならば、諦めてはなりません。私がここへ辿り着いたのなら、
その方も、きっとどこかで生きています。」
それは、何の根拠もない慰めではなかった。
七十年前、実際に歪みを越えて生き延びた者の言葉だった。
「ありがとうございます。」
ヴィオレットは深く頭を下げた。
「必ず見つけます。」
◇
皇城へ戻る馬車の中で、ルシアンはイアンの証言を報告書へまとめていた。
「これで、クリスティ様が生きている可能性は格段に高くなりました。
共和国も、現在まで存続している可能性があります。」
「ええ。」
ヴィオレットは窓の外を見つめた。
七十年前の少年は帝国で保護され、家族を得て穏やかに老いていた。
同じように、クリスティも誰かに見つけてもらえているのだろうか。
「誰かが、クリスティを助けてくれているでしょうか。」
「きっと助けていますよ。」
ルシアンは迷いなく答えた。
「クリスティ様ですから。どこへ行っても、放っておけない人が現れます。」
ヴィオレットは一瞬目を見開き、それからほんの少しだけ笑った。
「……そうね。」
◇
その夜。
共和国では、ルリスティが七十年前の行方不明記録を読み返していた。
十歳。
セーデラ湖。
黒い亀裂。
消えた少年。
同じ頃、帝国ではヴィオレットが、
一人の老人から聞き取った証言を報告書へまとめていた。
十歳。
セーデラ湖。
黒い亀裂。
現れた少年。
共和国では行方不明者。
帝国では、身元不明の来訪者。
二つの国で途切れていた一人の人生が、今、初めて繋がろうとしていた。
黒淵と奈落門は、二国を隔てる壁であると同時に、
時折人を遠く離れた土地へ運ぶ、不完全な道でもあった。
その道の先に、クリスティがいる。
帝国と共和国が同じ答えへ辿り着く日は、もう遠くなかった。
◇
同じ夜。
マーヴェリア帝国、皇帝執務室。
ルーファスは、ヴィオレットとルシアンがまとめた報告書を、
一言も発することなく最後まで読み終えた。
七十年前、奈落の歪みへ飲み込まれた少年。
故郷から遠く離れた帝国へ辿り着き、その後も生き続けたという証言。
報告書を持つルーファスの手が、僅かに震えた。
奈落の歪みは、人の命を奪うだけのものではない。
遠く離れた場所へ運ぶことがある。
イアンがそうだったように、クリスティもまた、
どこかへ辿り着いているかもしれない。
誰かに発見され、保護され、今も生きている可能性がある。
そして、その事実は、十七年前からルーファスが信じ続けてきたことを、
初めて明確に裏づけるものでもあった。
「……やはり。」
低い声が、静かな執務室へ落ちる。
「ルリスティは、生きている。」
それは新たに芽生えた希望ではなかった。
幼い娘が奈落へ消えたあの日から、
誰に何を言われても決して捨てなかった確信だった。
これまで、その信念を裏づけるものは何一つなかった。
だが今、目の前の報告書には、
奈落の歪みを越えて生き延びた人間の人生が記されている。
あの日、ルリスティは命を奪われたのではない。
ただ、父の手が届かないほど遠い場所へ運ばれたのだ。
そして今度は、クリスティもまた、同じ道の先へ消えた。
ルーファスは目を閉じる。
金色の髪を揺らして笑うフェリシアと、
その腕に抱かれた幼い双子の姿が、瞼の裏へ浮かんだ。
「待っていろ。」
ゆっくりと目を開き、遠く離れた二人の娘の名を呼ぶ。
「クリスティ。ルリスティ。
必ず見つける。今度こそ、父がお前たちを迎えに行く。」
その二人が、すでに同じ空の下で出会い、
笑い合い、同じ青い鳥の髪飾りを身につけていることを。
ルーファスは、まだ知らなかった。




