第50話 父の語らなかった過去
ルリスティの母について調べ始めてから、数日が経った。
しかし、母親へ繋がる手掛かりは、まだ何一つ見つかっていない。
クラウス・トリウリッドの私物や古い人事記録。
辺境防衛軍に残された資料だけでなく、
ルリスティが生まれたとされる時期の住民記録まで調べたが、
それらしい女性の名前はどこにも残されていなかった。
その日も、司令官室の卓には、
保管庫から運び出された古い資料が何冊も積まれていた。
「……ありませんね。」
最後の頁まで確認したルリスティが、古びた冊子を静かに閉じる。
向かい側に座っていたクリスティは、
落胆を隠しきれない彼女へ励ますように笑いかけた。
「簡単には見つからないよ。まだ調べ始めたばかりでしょう?」
「そうですね。」
そう答えながらも、ルリスティの表情には、
どこか申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
本来なら、クリスティを帝国へ帰すため、
黒淵や空間の歪みに関する調査を優先するべきだ。
それなのに、自分の過去を知るために二人の時間を使わせている。
そんな考えが顔に出ていたのだろう。
少し離れた場所で資料を確認していたジェイクが、
紙面から目を上げずに口を開いた。
「司令、どうせ黒淵に関係する古い記録も、
まとめて調べているんです。ついでですよ」
確認を終えた紙を脇へ除けると、
ルリスティが何か言い返すより先に、クリスティが割って入った。
「はい、それ以上は禁止。
ルリスティは、自分のことになるとすぐ遠慮するんだから。」
「……。」
二人に揃って封じられ、ルリスティは反論を諦めたらしい。
大人しく次の資料へ手を伸ばした。
しばらくの間、司令官室には紙をめくる音だけが響いていた。
やがて、ジェイクの手が一冊の薄い冊子の上で止まった。
「……司令、これを見てください。」
「どうしましたか?」
ジェイクが資料の山から抜き出した冊子には、
四十七年前の日付とともに、
辺境地域で保護された身元不明者の記録がまとめられていた。
開かれた頁へ目を落としたルリスティの表情が、僅かに強張る。
《保護対象 クラウス》
《推定年齢 七歳》
《保護場所 共和国辺境部・森林地帯》
《姓・出身地 不明》
ルリスティは冊子を受け取ると、
記された文字を確かめるように指先で辿った。
「……お父さん?」
掠れた声が零れる。
クリスティも隣から頁を覗き込み、驚いたように目を見開いた。
「クラウスさんも、保護された子どもだったの?」
「……知りませんでした。」
ルリスティの声は、いつもより僅かに小さかった。
「父が、トリウリッド家の養子だったことは知っていました。」
ルリスティは、古い記録に記された父の名を見つめた。
「ですが、どこで生まれ、
どのような経緯で養子になったのかは、何も聞いていません。」
「本人に尋ねたことは?」
「あります。ですが、幼い頃のことはよく覚えていないと。
それ以上は、昔のことをあまり話したくないと言われました。」
クラウスが自らの過去について語ったのは、そこまでだった。
生まれた場所も、血のつながった家族のことも、
幼い頃をどのように過ごしていたのかも。
そして、どうして七歳の子どもが、
辺境の森でたった一人発見されたのかさえ、ルリスティは知らなかった。
「ガレス中佐なら、何か知っているかもしれません。」
ジェイクの言葉に、ルリスティが顔を上げる。
「クラウス司令官とは、若い頃からの付き合いです。」
「そうですね。お話を伺ってみましょう」
◇
その日の夕方、三人はガレスの執務室を訪れた。
低い声に入室を促され、ルリスティが扉を開く。
書類へ向かっていたガレスは、
揃って入ってきた三人を見ると、珍しそうに片眉を上げた。
「随分と珍しい顔ぶれだな。」
「少し、お尋ねしたいことがあります。」
ルリスティが差し出した古い記録を受け取り、
ガレスは紙面へ視線を落とした。
その表情が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……これを見つけたか。」
「ご存じなのですね。」
ガレスはすぐには答えず、椅子へ深く腰を預けながら、もう一度記録へ目を通した。
「ああ。知っている。」
ルリスティの指先が、僅かに動く。
「父は本当に七歳の時、この辺境で保護されたのですか?」
「そうだ。森の中に、たった一人でいるところを保護された。」
ガレスは、四十七年前の記録へ視線を落とした。
「もっとも、保護された当時のことを俺が直接見たわけじゃない。
これは記録と、当時クラウスを保護した連中から聞いた話だ。」
七歳のクラウスは、衣服を泥で汚し、身体のあちこちに傷を負っていたという。
長い間森を彷徨っていたのか、ひどく疲れ切っており、
自分の名前を尋ねられても、最初は「クラウス」と答えるのが精いっぱいだった。
「熱も高く、自分の名前以外はまともに答えられなかったそうだ。
家族のことを尋ねても、知らないと言ったかと思えば、
誰かを探さなければならないと泣き出すこともあったらしい。」
「その後、記憶は戻らなかったのでしょうか。」
「そこから先は、俺も知っている。」
ガレスは椅子へ深く背を預けた。
「少なくとも、俺たちと付き合うようになってから、
記憶が戻ったとは一度も言わなかった。」
身体が回復したクラウスは、トリウリッド家へ引き取られた。
新しい家族のもとで暮らすうちに混乱は収まり、
辺境での生活にも馴染んでいったという。
「俺があいつと知り合った頃には、もう落ち着いていた。
だが、保護される以前のことは、自分から話そうとしなかった。」
幼い頃は、尋ねられても分からないと答えていた。
成長してからは、昔のことは話したくないと答えるようになった。
本当に何も思い出せなかったのか。
それとも、何かを思い出した上で口を閉ざしていたのか。
今となっては、ガレスにも分からなかった。
「父へ、直接尋ねたことはありますか?」
「何度もある。まだ互いに若かった頃にな。」
どこから来たのか。
家族はいなかったのか。
何故、あの森で一人倒れていたのか。
しかし、クラウスはそのたびに適当な言葉で話を逸らした。
『昔のことなんぞ、どうでもいいだろう』
『今、生きてるんだから十分だ』
ガレスが当時の口調を真似ると、ルリスティの口元へ小さな笑みが浮かんだ。
「……父らしいですね。」
「昔からそういう男だった。自分のことは何も話さんくせに、
人の問題には頼まれもしないのに首を突っ込む。」
「それも父らしいです。」
今度は、ルリスティの声にも僅かな笑いが混じった。
その様子を見たガレスの表情も、ほんの少しだけ和らぐ。
「でも、ルリスティと暮らしていた頃は、幸せだったんですよね?」
クリスティが尋ねると、ガレスは不思議そうに彼女を見た。
「クラウスさんは、ルリスティのお話をする時、
いつも嬉しそうだったと聞いたから。」
ガレスは一瞬黙ったあと、小さく鼻を鳴らした。
「ああ。うるさいくらいにな。」
「うるさい?」
目を丸くしたクリスティへ、ガレスは腕を組みながら答えた。
「ルリが初めて魔導銃を撃った。文字を覚えた。訓練で褒められた。
昨日より早く走れるようになった。毎日のように何かしら聞かされた。」
「……お父さん。」
ルリスティは僅かに俯いた。
耳まで赤くなっているのを見て、ジェイクが堪えきれないように肩を揺らす。
「笑わないでください。」
「笑っていませんよ。」
「笑っています。」
「副司令になった時など、三日ほど機嫌が良かったぞ。」
ガレスがさらに続けると、ルリスティが顔を上げた。
「三日もですか?」
「五日だったかもしれん。」
「中佐。」
「昔のことだ。細かい日数までは覚えていない。」
クリスティが声を上げて笑い、
ルリスティも困ったようにしながら、どこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
その表情を見つめながら、ガレスは静かに目を細める。
クラウスは、自分の過去について最後までほとんど語らなかった。
けれど、何より大切にしていた娘のことだけは、周囲が聞き飽きるほど話した。
「……父にも、私の知らない時間があったのですね。」
ルリスティは、古い保護記録へ視線を落とした。
七歳の時、辺境の森で保護された身元不明の少年。
トリウリッド家に引き取られたその少年は、
やがて軍人となり、辺境防衛軍司令官にまで上り詰めた。
ルリスティが知っているクラウスは、
すでに司令官であり、自分を大切に育ててくれた父だった。
それ以前に、彼がどのような人生を歩んできたのか。
ルリスティは、何一つ知らなかった。
「少し驚きました。」
ルリスティは、古びた紙を傷つけないよう、指先でそっと撫でた。
「ですが、それでも父は父です。」
顔を上げたルリスティの声に、迷いはなかった。
「どこで生まれ、どのような過去を持っていたとしても、
私を育ててくれた父がクラウス・トリウリッドであることは変わりません。」
ガレスは何も答えず、しばらくルリスティを見つめていた。
やがて、その言葉を受け止めるように小さく頷く。
「……そうか。」
◇
ガレスの執務室を出たあと、
三人は夕暮れの光が差し込む廊下を歩いていた。
クリスティがルリスティの隣へ並び、その横顔を覗き込む。
「驚いた?」
「……少し。」
「でも、知ることができてよかった?」
ルリスティはしばらく考えたあと、静かに頷いた。
「はい。父が過去を話さなかったのには、きっと理由があったのでしょう。」
胸元へ抱えた記録へ、そっと目を落とす。
「それでも、父がどのような人生を歩んできたのか……
少しくらい知ってみたいと思いました。」
「じゃあ、調べよう。」
クリスティは、何でもないことのように答えた。
「母のことも?」
「もちろん!」
「父のこともですか?」
「それも一緒に調べよう。」
ルリスティは一瞬だけクリスティを見つめたあと、柔らかく笑った。
「……はい。」
少し後ろを歩くジェイクは、今日見つかった保護記録について考えていた。
四十七年前、七歳で辺境の森に現れた、身元不明のクラウス。
十七年前、二歳で出自も分からないまま、同じ男に保護されたルリスティ。
どちらも幼い子どもで、身元を示す物もなく、辺境で突然発見されている。
偶然と考えることもできる。
だが、先日から抱いていた疑念へ、
また一つ新たな事実が加わったことだけは確かだった。
それでも今は、考えを口にすることなく、前を歩く二人を見守る。
クリスティとルリスティは、
次にどの資料を調べるか、楽しそうに相談していた。
ならば今は、それでいい。
◇
三人が立ち去ったあと、静けさを取り戻した執務室で、
ガレスは一人、古い保護記録の写しを見つめていた。
四十七年前、辺境の森へ突然現れた、不思議な少年。
保護された当初は記憶が混乱し、
自分がどこから来たのかも説明できなかった。
やがて軍へ入り、ガレスと肩を並べ、
いつしか誰よりも信頼できる親友となった。
「……クラウス。」
ガレスは、小さくその名を呟く。
ガレスと知り合った頃にはすでに落ち着いていたが、それでも――
クラウスは自分がどこから来たのかを決して語ろうとはしなかった。
ただ一つ、誰の目にも明らかなことがあった。
クラウスは、ルリスティを心から愛していた。
『もし俺に何かあったら、あの子のことを頼む。』
かつて、二人で酒を飲んでいた時、
クラウスが珍しく真剣な顔でそう告げたことがあった。
『あいつは一人で何でも抱え込む。』
『人に頼るのが、本当に下手な子だからな。』
『だから、ちゃんと見ていてやってくれ。』
その時のガレスは、心配しすぎだと笑った。
お前が自分で見ていればいいだろうと、軽く肩を叩いたことも覚えている。
けれど今、閉ざされた扉の向こうから、三人の声が微かに聞こえてきた。
「ルリスティ、夕食は一緒に食べようね。」
「分かりました。」
「絶対だからね?」
「……はい。」
「今、少し間があったでしょう?」
「ありません。」
そこへ、ジェイクの笑う声まで混じる。
ガレスはしばらく黙って聞いていたが、やがて小さく口元を緩めた。
「……心配しすぎだったな。」
窓の外に広がる夕暮れの空へ、静かに目を向ける。
「あの子は、もう一人じゃない。」
親友が命を懸けて守り、育てた娘。
その娘は今、自分の知らなかった過去へ、少しずつ歩き始めている。
ガレスは机の上に置かれた古い記録を閉じた。
その手が、ふと机の一番下にある、鍵の掛かった引き出しへ伸びる。
けれど、指先が鍵へ触れる直前で動きを止めた。
その奥には、三年前。
クラウスが亡くなる少し前に、自らガレスへ託した古びた木箱が収められている。
中身は知らない。
開けるなと言われた。
そして、いつかその時が来たなら、預けるべき相手へ渡してほしいとだけ頼まれた。
何故、クラウスがそんなものを遺したのか。
何が収められているのか。
ガレスは何度か尋ねた。
だが、クラウスは詳しいことを話そうとはしなかった。
『知らない方がいい。お前にも、余計なものを背負わせたくない』
それでも最後には、少し困ったように笑って言った。
『お前にしか頼めない』
だからガレスは、それ以上聞かなかった。
理由など分からなくても。
親友が自分へ託したのなら、それで十分だった。
そして三年間。
一度も箱を開くことなく、ただ約束だけを守り続けている。
ガレスは、鍵へ触れかけた指を止めた。
まだ、その時ではない。
何が起きれば「その時」なのか。
クラウスが何を待っていたのか。
今のガレスにも、すべてが分かっているわけではなかった。
ただ、自分の判断で開くものではないことだけは分かっている。
「まだだ。」
誰に聞かせるでもなく、低く呟く。
「もう少し、待っていろ。」
それが木箱へ向けた言葉なのか。
亡き親友へ向けたものなのか。
ガレス自身にも分からなかった。
クラウスが過去を語らなかった理由。
七歳の少年が、あの森へ現れるまでに何があったのか。
そして死の直前、何も説明しないまま親友へ託した、一つの木箱。
その意味が明らかになる時は、まだ少し先にあった。




