第49話 知らない母
幸運の青い鳥を買った休日から、数日が経った。
辺境防衛軍の砦には、いつもの慌ただしい日常が戻っている。
訓練場からは魔導銃の発射音が響き、
司令部には各地から届いた報告書が次々と運び込まれていた。
そして当然のように、休日を一日満喫したルリスティは、
休日に休んだ分まで取り戻そうとするかのように、仕事へ励んでいた。
「今日は、一緒にお茶を飲む約束だったでしょう?」
午後。
司令官室を訪れたクリスティは、
机の上に積み上げられた書類を見て頬を膨らませた。
「覚えています。」
ルリスティはそう答えながらも、手元の書類から目を離そうとしない。
「『これが終わったら』は禁止だよ。」
「まだ何も言っていませんが。」
「今、言おうとしてた。」
「……。」
反論できなかったらしい。
少し離れた場所で報告書を整理していたジェイクが、
堪えきれないように小さく笑った。
「クリスティさん。随分と司令の扱いに慣れましたね。」
「マルセリア大佐。」
「俺は何も言っていませんよ。」
ルリスティは小さく息を吐くと、ようやく羽根ペンを置いた。
「分かりました。」
「本当?」
「はい。約束ですから。」
その一言で、クリスティの顔がぱっと明るくなった。
◇
三人が向かったのは、司令部の一角にある小さな談話室だった。
室内にあるのは、簡素な長椅子と丸い卓。
窓からは、兵士たちが行き交う砦の中庭を見下ろすことができる。
卓上には紅茶と、先日の街で買った木の実入りの焼き菓子が並べられていた。
クリスティの白銀の髪には、あの日買った青い鳥の髪飾りが揺れている。
そして、ルリスティの髪にも同じ鳥が留められていた。
軍服には少し可愛らしすぎるようにも見える。
それでも、クリスティが嬉しそうにお揃いの髪飾りをつけてくるため、
ルリスティも外す気にはなれないらしい。
「ルリスティ、ここ。」
クリスティが、自分の隣を軽く叩く。
「向かいではいけませんか?」
「駄目。」
「何故でしょう?」
「近い方がお話ししやすいから。」
何の迷いもない答えだった。
ルリスティは少しだけ困った顔をしたものの、
結局は言われた通り、その隣へ腰を下ろした。
ジェイクは向かい側へ座り、三人分の紅茶を注いでいく。
クリスティが焼き菓子へ手を伸ばそうとした時、
ふと棚の上に置かれた物が目に入った。
「……あれは?」
そこには、見慣れない一冊の写真帳が置かれていた。
厚い革張りの表紙は長い年月を経て色褪せ、四隅も擦れている。
「クラウス司令官が以前使っていた執務室を整理した際に見つかったそうです。」
ジェイクが棚へ視線を向けた。
「ガレス中佐が、懐かしい物が出てきたと持ってきまして。
司令にも見せようと思っていたそうですよ。」
「見てもいい?」
クリスティに尋ねられ、ルリスティは写真帳を見つめたあと、小さく頷いた。
「構いません。」
クリスティは嬉しそうに立ち上がり、写真帳を卓へ運んだ。
傷めないよう慎重に表紙を開く。
最初の頁に貼られていたのは、まだ若いクラウスと、小さな少女の写真だった。
「……可愛い!」
思わず、大きな声が出た。
写真の中のルリスティは、三歳か四歳ほどだろう。
今よりも短い白銀の髪に、大きな紫水晶の瞳。
緊張した顔で、隣に立つクラウスの服の裾を握っている。
若いクラウスは困ったように笑いながら、
小さな娘の肩へ大きな手を置いていた。
「これ、ルリスティ?」
「……三歳頃だと思います。」
ルリスティも、クリスティの隣から写真を覗き込む。
「写真を撮られることに、慣れていなかったのでしょうね。」
「だから、クラウスさんのお洋服を掴んでいるの?」
「おそらく。」
「可愛い……。」
「先ほどから、そればかりですね。」
「だって、本当に可愛いんだもん。」
クリスティは写真と、隣に座る現在のルリスティを見比べた。
「今も可愛いよ!」
「……クリスティ。」
ルリスティの頬が、ほんの僅かに赤くなる。
向かい側では、ジェイクが何も言わずに茶を口へ運んでいた。
その口元だけが、微かに緩んでいる。
頁をめくる。
クラウスに肩車をされる幼いルリスティ。
小さな訓練用の魔導銃を両手で持ち、得意そうに胸を張っている姿。
兵士たちに囲まれ、誕生日の菓子を前に目を輝かせている写真もあった。
遊び疲れたのか、
クラウスの腕に抱かれたまま眠っているものまで残されている。
「クラウスさん、本当にルリスティのことが大好きだったんだね。」
写真を眺めながら、クリスティが呟いた。
「はい。」
ルリスティは、迷うことなく頷く。
「父は、私をとても大切に育ててくれました。」
その声には、今も変わらない父への深い愛情が込められていた。
さらに頁をめくると、先日訪れた丘で撮られた写真が現れた。
十歳にも満たないルリスティが、
風に髪を乱されながら、クラウスの手を握って笑っている。
「あ。この前、連れていってくれた場所だね。」
「はい。」
ルリスティの表情も、柔らかく和らいだ。
「父のお気に入りの場所でもありました。」
「ルリスティ、すごく楽しそう。」
「父と一緒でしたから。」
当然のことのように、そう答える。
クリスティは、写真の中のクラウスを見つめた。
大きな身体に、少し無骨な顔立ち。
けれど、隣にいる娘を見る眼差しは、とても優しい。
「私も、会ってみたかったな。」
「きっと父も、クリスティに会えたら喜んだと思います。」
「そうかな?」
「はい。賑やかな方が好きでしたから。」
「じゃあ、きっと気が合ったね。」
「そう思います。」
二人は顔を見合わせ、笑った。
クリスティは写真帳へ視線を戻すと、ふと首を傾げた。
「そういえば、ルリスティのお母さんは、どんな人だったの?」
ルリスティの表情が、僅かに強張った。
向かい側に座っていたジェイクも、静かにカップを卓へ戻す。
「……ルリスティ?」
返事がないことに気づき、クリスティが隣の顔を覗き込んだ。
しばらくして、ルリスティは写真帳へ視線を落としたまま答えた。
「分からないんです。」
「え?」
「母が、どのような人だったのか。」
思いもしなかった答えに、クリスティが目を瞬かせる。
「写真は残っていないの?」
「見たことがありません。」
「お名前は?」
ルリスティは、小さく首を横へ振った。
「知りません。」
クリスティの表情から、それまでの笑顔が消えた。
「……ごめんなさい。」
「何故、謝るのですか?」
「知らなかったから、嫌なことを聞いてしまったのかと思って。」
「嫌ではありませんよ。」
ルリスティは、いつものように穏やかに微笑んだ。
けれど、写真帳へ置かれた指先は、
先ほどより少し強く頁を押さえていた。
「幼い頃に、一度だけ父へ尋ねたことがあります。」
「お母さんのことを?」
「はい。」
ルリスティは、遠い記憶を辿るように目を伏せた。
幼い頃、どうして自分には母親がいないのか。
どんな顔をしていたのかと、クラウスへ尋ねたことがあった。
クラウスは、長い間何も答えなかった。
やがて、幼いルリスティの頭を撫でながら、たった一言だけ告げた。
『お前を、心から愛していた人だ。』
「父が教えてくれたのは、それだけでした。」
「……そうなんだ。」
「当時は、それ以上聞こうとは思いませんでした。
母はもう、この世にはいないのだろうと考えていましたから。」
父が話したがらないのなら、きっと思い出すことが辛いのだろう。
幼いルリスティは、そう思った。
「私には父がいましたから。それで十分でした。」
ルリスティは、静かに微笑む。
「父は一人で私を育ててくれました。
愛されていないと思ったことは、一度もありません。」
それは、疑いようのない本心だった。
けれど、知らなくてもいいと思うことと、
知りたいと思わなかったことは、きっと同じではない。
クリスティは少し迷ったあと、慎重に尋ねた。
「お母さんのことを、知りたいと思ったことはない?」
ルリスティは、すぐには答えなかった。
窓の外へ、静かに視線を向ける。
中庭では、兵士たちがいつも通り行き交っている。
「……あります。」
やがて、小さな答えが返ってきた。
「どのような顔をしていたのか、どのような声だったのか、
どうして、写真が一枚も残されていないのか。
……何故、父は名前さえ教えてくれなかったのか。」
それでもルリスティは、自分へ言い聞かせるように続けた。
「父が話さなかったのなら、きっと理由があったのでしょう。
だから、そういうものなのだと思うことにしていました。」
クリスティは、その横顔を見つめた。
母親を知らない寂しさを、自分には理解できないとは思わなかった。
「……私もね、お母様のことをほとんど覚えていないの。」
ルリスティが、ゆっくりと顔を上げる。
クリスティは、少し寂しそうに笑った。
「私が二歳の頃、ひどい熱を出したことがあったらしいの。
一週間ほど眠ったままで、目を覚ました時には、
幼い頃の記憶の一部が抜け落ちていたんだって。」
それ以前のことを、クリスティはほとんど覚えていない。
特に、母フェリシアと過ごした日々は、記憶にほぼ残っていなかった。
「お母様のお名前も、お顔も知っているよ。
肖像画も残っているし、お父様やみんなも、
どんな人だったのか教えてくれたから。」
明るく、優しく、家族を深く愛した人だった。
それをクリスティは、家族から聞いた言葉として知っている。
「だけど、お母様が、どんな声で私を呼んでくれたのかは分からないの。」
クリスティは、自分の胸元へそっと手を置いた。
「どんなふうに笑ってくれたのか。抱き締めてもらった時、
どんな温かさだったのか、私は何も覚えていない。」
ルリスティは何も言わず、静かにクリスティの横顔を見つめていた。
母の名前も、顔も知らないルリスティ。
母の存在を知り、肖像画を見ることもできるが、
共に過ごした記憶を持たないクリスティ。
二人の事情は同じではない。
それでも、胸の奥に残された空白は、どこかよく似ていた。
「時々、一度でいいから思い出してみたいって思うの。」
クリスティが、小さく笑った。
「お母様が私を呼んでくれた声や、笑ってくれた顔を。」
「……クリスティ。」
「だから、ルリスティがお母さんのことを知りたいと思う気持ち、
少しだけなら私にも分かると思う。」
クリスティは、写真帳の上に置かれていたルリスティの手へ、
そっと自分の手を重ねた。
ルリスティの紫水晶の瞳が、静かに揺れた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがてルリスティが、重ねられた手を見つめながら小さく呟く。
「……知りたいです。」
クリスティが、僅かに目を見開いた。
「これまでは、知らなくてもよいと思っていました。
父が話さなかったのなら、それでよいのだと。」
ルリスティは、言葉を探すように一度息を整えた。
「ですが、もし分かるのであれば……母がどのような人だったのか、
少しだけ知ってみたいです。」
その言葉を聞いた瞬間、クリスティの表情が明るくなった。
「じゃあ、一緒に探そう。」
「……一緒に?」
「うん。」
クリスティは、ルリスティの手を両手で包んだ。
「クラウスさんが話さなかった理由も、
お母さんがどんな人だったのかも、全部は分からないかもしれないけど。」
真っ直ぐに、ルリスティの瞳を見つめる。
「ルリスティが知りたいなら、私も一緒に探すよ。」
「何故、そこまでしてくださるのですか?」
少し戸惑ったように尋ねられ、クリスティは一瞬だけ考えた。
けれど、答えはとても簡単だった。
「だって、ルリスティのことだから。」
にっこりと笑う。
「私、もっとルリスティのことを知りたいの。
嬉しいことも、悲しいことも、クラウスさんのことも、
まだ知らないお母さんのことも。」
ルリスティは、しばらく何も言えなかった。
ただ、胸の奥へ静かに広がっていく温かさを受け止める。
「……ありがとうございます。」
「うん。」
ルリスティは、もう一度写真帳へ視線を落とした。
幼い自分と、その隣で笑う父。
顔も名前も知らない母。
これまで、あえて触れようとはしなかった自分の過去。
けれど今は、隣に一緒に探してくれる人がいる。
「ですが、何から調べればよいのでしょうね。」
ルリスティが、少し困ったように笑った。
「それを探すところからだよ。」
「そこからですか?」
「そこから!」
クリスティの明るい声に、ルリスティも小さく笑った。
向かい側では、二人の話を黙って聞いていたジェイクが、
静かに紅茶へ口をつけていた。
ルリスティの知らない母。
そして、クラウスが語ろうとしなかった過去。
ルリスティにとっては、家族のことを知りたいという、ささやかな願いに過ぎない。
だがジェイクには、彼女の知らない母も、クラウスが語らなかった過去も、
先日から胸に残り続けている疑念と無関係には思えなかった。
写真帳の中では、幼いルリスティの頭を撫でながら、
クラウスが穏やかに笑っている。
その男は、何を知っていたのか。
何故、たった一人で秘密を抱え続けたのか。
母を探そうと交わした小さな約束は、
やがて思いもよらない形で、封じられていた過去へと繋がっていく。
最初に見つかるのは、母の面影ではない。
クラウス・トリウリッドが生涯語ろうとしなかった、彼自身の過去だった。




