第47話 ただのクリスティ
クリスティが辺境防衛軍の砦へ来てから、ひと月が過ぎた。
朝夕の鐘にも、遠くから響く魔導銃の音にも、いつの間にか慣れていた。
食堂へ行けば兵士たちが声を掛け、
廊下ですれ違えば共和国の街や料理を教えてくれる。
詳しい事情を知るのはルリスティとジェイクだけだったが、
砦の人々は皆、司令官が保護した客人としてクリスティを温かく迎えてくれた。
中でもルリスティは、どれほど忙しくても時間を見つけては様子を見に来ていた。
その日の夕方も、控えめな音で自室の扉が叩かれた。
「はい。」
返事をすると、静かに扉が開く。
「失礼します。」
現れたのは、ルリスティだった。
黒を基調とした軍服の腕には、相変わらず数冊の書類を抱えている。
その後ろから、ジェイクが大きな盆を持って続いた。
盆の上には、湯気の立つ茶器と焼きたてらしい菓子が並んでいる。
「クリスティさん。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか。」
「もちろんです。」
クリスティはすぐに立ち上がり、窓際の卓へ二人を招いた。
ルリスティが抱えていた書類を脇へ置く。
その間に、ジェイクは慣れた手つきで卓上へ茶器を並べ始めた。
その様子を見て、クリスティが少し意外そうに目を瞬く。
「今日はマルセリア大佐も一緒なのですね。」
「司令がきちんと休憩を取るか確認するためです。」
何でもないことのように答えたジェイクへ、ルリスティの視線が向く。
「大佐。」
「監視が必要でしょう。」
「必要ありません。」
間髪入れず返されても、ジェイクはまったく動じなかった。
「必要です。」
きっぱりと言い切りながら、最後の皿を卓上へ置く。
薄く焼いた生地には、砕いた木の実と蜂蜜がたっぷりと塗られていた。
それを目にした途端、クリスティが興味深そうに身を乗り出す。
「こちらは何というお菓子ですか。」
「辺境でよく食べられている焼き菓子です。」
ルリスティは皿をクリスティの方へ少し寄せた。
「生地は少し硬いのですが、温かいうちなら食べやすいと思います。」
「美味しそう!」
思わず、弾んだ声が出た。
けれど、その声が自分のものだと気づいた瞬間、
クリスティははっとして口元を押さえた。
「……申し訳ありません。」
ルリスティが不思議そうに首を傾げた。
「なぜ謝るのですか?」
「少し、はしゃいでしまいましたので。」
クリスティはどこか気まずそうに視線を落とした。
けれどルリスティは、それが問題になる理由が分からないという顔をしている。
「お菓子を見て喜ぶことは、謝ることではないと思います。」
「そうでしょうか。」
「はい。」
あまりにも当然のことのように頷かれ、クリスティは少しだけ目を瞬いた。
その横で、ジェイクが焼き菓子を一つ、自分の皿へ移す。
「むしろ、一か月も猫を被っていた方が驚きですよ。」
「猫を……?」
聞き慣れない表現に、クリスティがきょとんとする。
すぐさまルリスティの冷静な声が飛んだ。
「マルセリア大佐。言い方というものがありますよ。」
ジェイクは肩を竦める。
「言葉が悪かったですね。」
焼き菓子を一口かじり、少し考えるように視線を上げた。
「皇女様らしく振る舞いすぎていた、と言うべきでした。」
その言葉に、クリスティの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
ジェイクはそれを見逃さなかった。
茶器へ手を伸ばしながら、先ほどより少しだけ声を和らげる。
「ここには俺たち以外、クリスティさんの身分を知る人間はいませんから。」
「……そうですね。」
「砦の連中も、クリスティさんが元気になったのを喜ぶだけです。」
湯気の立つ茶を注ぎ終えると、ジェイクはその杯をクリスティの前へ置いた。
「少しくらいはしゃいでも、誰も眉をひそめませんよ。」
クリスティは、差し出された茶へ視線を落とした。
「私……。」
ぽつりと口を開いた。
「ずっと、どう振る舞えばいいのか分からなかったんです。」
ルリスティもジェイクも、何も言わず続きを待った。
「皇城にいた頃は、いつも誰かに見られていました。」
第二皇女として。
皇城の太陽として。
自分が笑えば、皆が安心してくれる。
だから、辛い時もできるだけ笑っていた。
共和国へ来てからも、最初は同じだった。
知らない国で、自分がしっかりしなければならないと思っていた。
けれど、毎日自分を気遣い、何も聞かずに受け入れてくれる人たちがいた。
「ここで一か月過ごして、ようやく分かったんです。
ただのクリスティでいても、いいんだって。」
「……はい。」
ルリスティは迷うことなく頷いた。
「ここでは、気兼ねなくそうしていただければと思います。」
ごく自然に返された言葉だった。
その言葉に、胸の奥に残っていた力がゆっくりと抜けていく。
今だけは、皇女であることを少し忘れてもいいのかもしれない。
「それなら――」
クリスティは目の前の焼き菓子を一つ手に取った。
先ほどまでの遠慮を振り払うように、にっこりと笑う。
「いただきまーす!」
明るく宣言して、そのまま一口。
蜂蜜の甘さと、香ばしい木の実の風味が口いっぱいに広がった。
途端に、クリスティの瞳が輝く。
「うーん! 美味しいっ!」
先ほどまでとはまるで違う反応に、ルリスティが目を瞬かせた。
「本当ですか?」
「はい! とっても!」
嬉しそうに頷くクリスティを見て、ルリスティの表情もわずかに和らぐ。
「それは良かったです。」
クリスティはもう一度焼き菓子へ視線を落とした。
そして、一口かじったばかりの一枚を手にしたまま、期待に満ちた顔を上げる。
「もう一つ食べてもいいですか?」
「もちろんです。」
ルリスティが即答した、その時。
「司令。」
向かいから、低い声が飛んできた。
ジェイクが真顔でクリスティの手元を見ている。
「まだ一口目です。」
ルリスティは焼き菓子を見て、それからジェイクを見た。
「美味しいと言ってくれているのですから、良いのではないでしょうか。」
「そうやってすぐ全部与えるから駄目なんです。」
「何が駄目なのですか?」
本気で分かっていないらしい。
ルリスティが首を傾げると、
ジェイクは何か言いたげに口を開き――結局、小さく息を吐いた。
その一連のやり取りを、クリスティは、
焼き菓子を持ったまま二人の間で視線を往復させていた。
そして、
「ふふっ……!」
堪えきれず、笑い声が零れた。
二人の視線が同時にクリスティへ向く。
それがまた可笑しくて、一度零れた笑いは、もう止められなかった。
「お二人って、いつもこうなんですね!」
「司令が人の話を聞かないだけですよ。」
ジェイクが涼しい顔で答える。
するとルリスティも、すぐさま返した。
「マルセリア大佐が心配性なのです。」
「ほら、またそうやって――」
「あははっ!」
ジェイクの反論を遮るように、クリスティの笑い声が室内へ響いた。
今度は、その声を大きすぎたと気にすることも、
慌てて口元を押さえることもなかった。
皇女として、人々を安心させるための笑顔ではない。
誰かへ見せるために、整えられた笑みでもない。
ただ可笑しくて。
ただ楽しくて。
自然に零れた笑顔だった。
その明るい笑い声につられるように、
ルリスティの口元にも、いつの間にか小さな笑みが浮かんでいた。
「本当は、よく笑う方なのですね。」
クリスティは一瞬きょとんとしてから、少し照れたように頷いた。
「はい。それに、甘い物も大好きです。」
「そうなのですか。」
「お花も、可愛い小物も、お祭りも大好きです!」
一度口にしてしまえば、もう止まらなかった。
これまで隠していたものを取り戻すように、次々と言葉が溢れてくる。
「帝国には、薔薇の花びらを砂糖で固めたお菓子があるんですよ。」
ルリスティが、わずかに目を丸くした。
「花を食べるのですか?」
「食用の薔薇です!」
思わず身を乗り出して説明すると、ルリスティは感心したように頷く。
「そのようなものがあるのですね。」
「他にも、蜂蜜をたっぷり使った焼き菓子がありますし、
果実を山ほど載せたタルトもあります。」
「山ほどですか。」
「本当に山みたいに載っているんです!」
クリスティは両手を広げて、その大きさを表してみせた。
先ほどまで「皇女らしく」と肩に力を入れていた姿はもうどこにもない。
その様子に、ジェイクが小さく笑う。
「随分と印象が変わりましたね。」
「今までが大人しすぎたんです。」
「自覚はあったんですね。」
「だって、猫を被っていたんでしょう?」
先ほど覚えたばかりの言葉を使うクリスティに、ジェイクは思わず笑った。
ルリスティも、呆れたように口元を緩める。
その顔を見て、クリスティはぱっと表情を明るくした。
「ルリスティさんも、きっと気に入ります。」
「私が、ですか?」
「はい!」
クリスティは身を乗り出した。
「帝国へ帰ることができたら、一緒に食べましょう。」
ルリスティの表情が止まった。
ほんの一瞬。
クリスティには気づかないほど、わずかな変化だった。
「……私も?」
「もちろんです!」
迷いのない即答だった。
クリスティの中では、それが当然の未来であるかのように。
「あ、マルセリア大佐も一緒ですよ。」
今度はジェイクが自分を指さした。
「俺もですか?」
「はい。皆で食べた方が美味しいですから!」
「それは楽しみですね。」
ジェイクは軽く笑って応じた。
けれど、ルリスティだけは、すぐに言葉を返すことができなかった。
――帝国へ帰ることができたら、一緒に。
クリスティが帝国へ帰る。
それは今、辺境防衛軍が探し続けている答えだ。
彼女を故郷へ帰す。
家族のもとへ送り届ける。
そのために調査を続けている。
けれど、その先に、自分までいる未来など、
ルリスティは一度も考えたことがなかった。
クリスティは帝国へ戻り、自分は共和国に残る。
そう思っていた。
けれどクリスティは、何の迷いもなくその未来に自分を置いた。
「ルリスティさん?」
呼びかけられ、ルリスティは我に返る。
目の前では、クリスティが不思議そうにこちらを見ていた。
「……はい、その時は、ぜひ。」
ルリスティは、ほんの少しだけ微笑んだ。
クリスティの顔が、ぱっと綻ぶ。
「約束ですよ。」
差し出された言葉に、今度は迷わなかった。
「はい。約束です。」
そう答えてから、ルリスティは卓上の焼き菓子へ目を向ける。
「では、その時には共和国のお菓子も持っていきますね。」
「良いのですか?」
「帝国のお菓子だけいただくわけにはいきませんので。」
「ふふっ。それなら交換ですね!」
嬉しそうに笑うクリスティを見ながら、
ルリスティは、胸の奥に広がる温かなものを感じていた。
帝国へ行く未来など。
ほんの少し前まで、想像すらしたことがなかった。
けれど今は、果実を山ほど載せたタルトを前に、クリスティと笑っている自分を、
ほんの少しだけ想像してみてもいいような気がした。
それからしばらく。
三人は菓子をつまみながら、帝国と共和国の料理について話した。
クリスティが帝国の菓子を楽しそうに挙げれば、
ルリスティも辺境で親しまれている料理を紹介する。
途中、ジェイクが「司令は食べる専門ですが」と余計な一言を付け加え、
ルリスティから静かな視線を向けられる一幕もあった。
そのたびに、クリスティは楽しそうに笑った。
やがて笑い声が落ち着いた頃。
ルリスティは、卓上の書類へ目を向けた。
柔らかかった空気に、少しだけ真剣な色が戻る。
「クリスティさん。
一つ、お伝えしておかなければならないことがあります。」
声音が変わり、クリスティも自然と姿勢を正した。
ルリスティは卓上の書類へ視線を落とす。
「こちらへ来られてから、ひと月が経ちました。
黒淵についても調査を続けていますが――」
わずかな間を置いて、顔を上げた。
「現時点では、帝国へ戻る方法は見つかっていません。」
「……そうですか。」
覚悟していた答えだった。
それでも、ルリスティは申し訳なさそうに目を伏せる。
「力になれず、申し訳ありません。」
「謝らないでください。」
クリスティはすぐに首を振った。
「私のために、ずっと調べてくださっているでしょう?
それだけで十分嬉しいです。」
「ですが、このまま何も見つからなければ――」
言葉が途切れる。
軍服の袖から覗く指先が、わずかに握られていた。
自分を帰せないことまで、自分の責任だと思っているのだろう。
クリスティは、そんなルリスティを見て小さく笑った。
「大丈夫です。私は絶対に帰れます。」
ルリスティが顔を上げる。
「なぜ、そう思われるのですか?」
「アークファイントが、必ず私を探し出してくれるからです。」
その名を口にしただけで、
クリスティの表情が、ふっと柔らかくなった。
「アークファイントは、とても頑固なんです。」
「頑固、ですか?」
「はい。一度決めたら、絶対に諦めません。
きっと今も、ほとんど眠らずに私を探しています。」
クリスティは困ったように笑った。
「それで、きっと誰かに叱られています。」
帝国のどこかで、
本当にアレクシスから「寝ろ」と叱られていることなど、知る由もない。
「今度も、きっと見つけてくれます。アークファイントは、そういう人ですから。」
その声には、一片の迷いもなかった。
ルリスティは、そんなクリスティを静かに見つめた。
アークファイントの話をする時だけ、その表情が、少し違う。
皇女として浮かべる微笑みとも、先ほど菓子を前に見せた無邪気な笑顔とも違う。
もっと柔らかく、大切なものを想うような顔だった。
「アークファイントさんのことを、本当に大切に思っていらっしゃるのですね。」
クリスティが目を瞬く。
「……分かりますか?」
「はい。」
ルリスティは小さく微笑んだ。
「お話しされている時、とても幸せそうです。」
クリスティは思わず頬へ手を添えた。
少しだけ、熱い。
帝国にいた頃なら、きっと、こう答えていただろう。
大切な騎士です。
幼い頃から仕えてくれている、かけがえのない臣下です、と。
それ以上の言葉は、胸の奥へしまい込んで。
けれど今は、皇女として言葉を選ばなくてもいい。
クリスティはゆっくりと顔を上げた。
「はい。」
素直に頷く。
「とても大事です。アークファイントは、私だけの騎士ですから。」
そして、柔らかく笑った。
ルリスティの瞳が、わずかに揺れた。
隣で茶を飲んでいたジェイクも、ほんの一瞬だけ手を止める。
それでもクリスティは、もう目を逸らさなかった。
「幼い頃から、ずっと私の隣にいてくれました。」
どんな時も、一番に自分の変化へ気づいてくれた。
誕生日に贈られた、深紅の薔薇。
差し出された手。
そして、奈落の歪みに飲み込まれる直前、初めて呼ばれた、自分の名前。
『クリスティ!』
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
「だから。」
クリスティは窓の外へ目を向けた。
夕闇の向こう、遠くに黒淵が揺らいでいる。
「今度は私が、アークファイントを信じる番なんです。」
ルリスティは何も言わず、その横顔を静かに見つめていた。
大切な誰かを、疑うことなく信じられること。
帰る場所に、自分を待っている人がいること。
それはきっと、とても温かいことなのだろう。
「……少し、羨ましいです。」
思わず零れた言葉に、クリスティが目を瞬かせる。
「そこまで信じられる方がいることが。」
けれどクリスティは、すぐに柔らかく笑った。
「ルリスティさんにも、いますよ。」
「私に?」
「はい。きっと。」
そう言いながら、ほんの一瞬だけ向かいのジェイクへ視線を送る。
その意図に気づいたジェイクが、わずかに眉を上げた。
「……なぜ俺を見るんですか。」
「何となくです。」
「絶対に違うでしょう。」
クリスティは楽しそうに笑い、ルリスティだけが不思議そうに二人を見比べた。
「どういう意味ですか?」
「何でもありません。」
そう答えながら。
クリスティはもう一度だけ、ジェイクを見た。
ジェイクは小さく息を吐き、何も言わず茶を口へ運ぶ。
ルリスティだけが、最後まで理由を分からないままだった。
「それより。」
クリスティは、ルリスティへ向き直った。
「一つお願いがあります。」
「何でしょうか。」
「『クリスティさん』と呼ぶのは、やめてください。」
「……え?」
ルリスティが、完全に動きを止めた。
ジェイクも、今度こそカップを卓上へ置く。
「私も、『ルリスティさん』と呼ぶのをやめたいです。」
「ですが……。」
「ここでは、ただのクリスティでいたいんです。」
クリスティは微笑む。
「それに。」
少しだけ身を乗り出した。
「ルリスティとも、もっと仲良くなりたいです。」
ルリスティは、すぐには答えられなかった。
ただ、「もっと仲良くなりたい」と。
こんなにも真っ直ぐに距離を縮められることに、慣れていなかったからだ。
「……ご迷惑ですか?」
クリスティが、少しだけ不安そうに尋ねる。
「いいえ。」
ルリスティは、すぐに首を振った。
「決して、そのようなことは。」
「では――」
クリスティは、嬉しそうに微笑んだ。
「ルリスティ。」
敬称のない、柔らかな声。
ただ名前を呼ばれただけなのに、
ルリスティの胸の奥へ、ふっと温かなものが広がった。
ずっと昔。
まだ何も知らなかった頃にも、
同じ声で、こうして名前を呼ばれたことがあるような――
そんな、あり得ない懐かしさが胸を掠める。
「……はい。」
返事をしてから、ルリスティは少しだけ迷った。
「クリスティ。」
初めて、敬称を外してその名を呼ぶ。
途端に、クリスティの顔がぱっと輝いた。
「もう一度!」
「え?」
「もう一度、呼んでください!」
勢いに押され、ルリスティは小さく目を瞬く。
「……クリスティ。」
「はい!」
弾んだ返事が部屋に響いた。
あまりにも嬉しそうで、ルリスティも思わず笑みを零す。
「あっ。今、笑いましたね!」
「笑ってはいけませんか?」
「いいえ。もっと笑ってください!」
「無茶を言いますね。」
「では、一日三回から!」
「回数を決めるものなのですか?」
「決めます!」
迷いなく言い切るクリスティに。
ルリスティは、今度こそはっきりと笑った。
ジェイクは、そんな二人のやり取りを眺めながら、静かに笑っていた。
けれど、敬称もなく、互いの名前を呼び合う二人を見ていると。
数日前から胸に残っている疑念が、またほんの少しだけ頭をもたげる。
よく似た二人。
同じ年齢。
同じ皇族色。
それでも今は、何も言わなかった。
この日。
クリスティは、皇女として張りつめていた肩の力を、ようやく少しだけ抜いた。
そしてルリスティも、その素顔を、ごく自然に受け入れた。
けれど、二人は、まだ知らない。
今日初めて、互いの名を呼び合ったわけではないことを。
十九年前、
同じ母の腕に抱かれていた幼い双子は、
まだ舌足らずな声で、互いの名を何度も呼んでいた。
窓の外では、夕日が黒淵を赤く染めている。
失われた姉妹の時間は、
本人たちの知らないところで、静かに、もう一度動き始めていた。




