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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第46話 届かぬ祈り

夜。


辺境防衛軍本部は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

時折、見回りの兵士が廊下を歩く足音が聞こえる。


窓の向こうでは、

遠く、黒淵が夜の闇に溶けるように揺らめいていた。


クリスティは、客室の窓辺に立っていた。

ルリスティが用意してくれた部屋は、

共和国の最前線にあるとは思えないほど温かい。


厚手の絨毯。

柔らかな寝具。

小さな卓には、夜でも冷めにくいよう蓋をされた茶器。


そして、窓辺には、いくつかの花が飾られている。


その中に一輪だけ、見慣れた花があった。

「……赤い薔薇。」


昼間、ルリスティが、温室から持ってきてくれたものだった。


『共和国では、薔薇はあまり多くないんです。』

『そうなのですか?』

『ええ。でも温室で育てているものがありましたので。』


ルリスティは、一輪の薔薇を花瓶へ挿しながら、

少しだけ照れたように笑っていた。


『クリスティさんがお好きかと思いまして。』


思い出して、クリスティの口元に、自然と笑みが浮かんだ。


「ありがとう、ルリスティさん。」

もうこの部屋にはいない彼女へ小さく礼を言う。


そして、そっと、深紅の花弁へ指先を近付けた。


赤。

深い赤。

見ているうちに、別の赤が、記憶の中へ蘇る。


「……アークファイントの髪みたい。」

ぽつりと零れた瞬間。


十九歳の誕生日。

あの日の光景が、鮮明に蘇った。


◇ 


『お誕生日、おめでとうございます。』

『ありがとう。』

『こちらを。』


差し出されたのは、一輪の、深紅の薔薇。


『花言葉は存じ上げません。ですが――』

いつもの真面目な顔で。

けれど、どこか少しだけ困ったように。


『姫様には、この色がよくお似合いになると思いまして。』


◇ 


「ふふっ。」

思わず、小さな笑い声が零れた。

帝国では、誕生日を迎えるたび、数え切れないほどの贈り物を受け取ってきた。


宝石。

装飾品。

ドレス。


遠い領地から届いた、珍しい品々。

第二皇女へ贈られるものは、どれも美しく。

どれも価値のあるものだった。


けれど、これまでで一番嬉しかった贈り物は何かと聞かれたなら。

きっと、迷わずあの一輪を選ぶ。

クリスティは、薔薇からそっと手を離した。


「……みんな、元気かな。」


窓の外へ目を向ける。

夜の向こう。

黒淵。

帝国では、奈落門と呼ばれていたもの。


あの歪みが、自分をここへ運んだ。


ならば、この向こうに。

「お父様。」

父がいる。


「レオン兄様、アレクシスお兄様、ヴィオ姉様。」

家族の顔が、一人ずつ浮かぶ。


きっと探している。

そう信じている。

そして最後に。


「……アークファイント。」

その名を呼んだ瞬間、

胸の奥が、きゅっと締め付けられた。


窓硝子へ、そっと手を添える。

その向こうに彼がいるはずなどない。

分かっている。



「あなたは今も……私を探してくれてる?」

声が、少しだけ震えた。

答えはない。

静かな夜が、そこにあるだけだった。


クリスティは目を伏せた。


分かっている。

アークファイントなら、諦めない。

あの日、最後まで、自分の手を掴もうとしてくれた人だから。


だからこそ怖かった。

彼が、自分を探すために、無茶をしているのではないか。

眠ることも忘れて。

休むことも忘れて。

一人で、責任を背負っているのではないか。


そんな姿が、簡単に想像できてしまう。


「……馬鹿。」

小さく呟く。

けれど、それを叱る自分もまた、同じようにずっと彼のことを考えている。


クリスティは、窓硝子へそっと額を寄せた。

そして、誰にも聞こえない声で。


「……会いたいよ。」

共和国へ来てから、初めてその願いを声にした。


皇女としてではなく、誰かを安心させるためでもなく、

ただ、一人のクリスティとして。


「帰りたい。」

父のもとへ、兄たちのもとへ、姉のもとへ。

あの場所へ帰りたい。


「アークファイントに……会いたい。」


もう一度、あの人の顔が見たい。

声が聞きたい。

今度こそ、あの日の続きをちゃんと話したい。


クリスティは胸の前で、静かに両手を組んだ。


「どうか。」

届くはずなどないと、分かっていても祈る。

「みんなが、無事でありますように。」


そして、ほんの少しだけ間を置いて。

「どうか――」

紫水晶の瞳を閉じる。

「アークファイントが、無事でありますように。」


何も起こらなかった。

光も、声も、奇跡も。

ただ、黒淵の向こうへ届くはずもない祈りが、静かな部屋へ溶けていく。


それでも、目を開いた時、

ほんの少しだけ胸の奥が温かくなったような気がした。


クリスティは、自分の胸元へ手を添える。


「……気のせい、かな。」

小さく笑って、もう一度、窓の向こうを見つめた。


◇ 


同じ夜。

マーヴェリア帝国

奈落騎士団本部


「寝ろ。」

「お断りします。」


アレクシスは、目の前の騎士を睨んだ。


「……リカルド。」

「まだ確認すべき報告が残っています。」


リカルドは、机の上に広げられた報告書から顔を上げない。


各地から集められた、空間異常。

失踪事件。

奈落周辺で確認された、僅かな魔力変動。


クリスティの行方へ繋がる可能性があるなら、

どれほど小さな情報でも見落とすつもりはなかった。


だが、アレクシスが見ているのは報告書ではない。

リカルドだった。


頬には疲労が滲み。

目の下には、隠しようのない影が落ちている。

クリスティが消えてから、

この男がまともに休んでいないことくらい、誰の目にも明らかだった。


「四時間だ。」


リカルドの手が止まる。

「……何がでしょう。」

「四時間寝ろ。」

「必要ありません。」


「必要かどうかを決めるのは、今のお前じゃない。」

アレクシスは、机の上の報告書を取り上げた。


「殿下。」

「クリスティを迎えに行くんだろう?」

その一言でリカルドが黙る。


アレクシスは、真っ直ぐ彼を見た。

「なら、生きていろ。」

「…………。」

「お前が倒れたら、道が見つかった時に誰がクリスティを迎えに行く。」


数秒、沈黙が続いた。

やがてリカルドは、諦めたように目を伏せる。

「……承知しました。」

「よし。」

「四時間後に起こしてください。」


「五時間。」

「四時間で結構です。」

「じゃあ六時間にするぞ。」

「……五時間でお願いいたします。」

「最初からそう言え。」

アレクシスは、深々と息を吐いた。


ようやく少しだけ、いつもの調子が戻った気がした。


◇ 


しばらくして。

執務室のソファでは、リカルドが眠っていた。


結局、横になるよう言っても聞かず、背凭れへ身体を預けたまま眠りに落ちていた。

アレクシスは、呆れたようにその姿を見下ろした。


「……そこまで頑固になる必要あるか?」

返事はない。

完全に眠っている。

それだけ疲れていたのだろう。


リカルドの手元には、二枚の白いハンカチがあった。


一枚は、

クリスティが十歳の頃、初めて彼のために刺したもの。

銀の鷹のつもりが、本人に猫と間違えられた不格好な刺繍。


そしてもう一枚。

彼女が姿を消した夜、その部屋で見つけたもの。

以前よりずっと上手になった銀の鷹。


どちらも、今では、リカルドが決して手放さないものだった。


「……本当に。」

アレクシスは、小さく呟く。

「クリスティしか見えてないんだな、お前。」


もちろん返事など返ってこない。

起こすつもりもなかった。

これほど深く眠っている姿を見るのは久しぶりだった。


アレクシスは自分の机へ戻り、報告書を一枚手に取る。

けれど、ふともう一度、ソファへ目を向けた。


「……?」

気のせいだろうか。


先ほどまで、眉間に僅かな皺を寄せて眠っていたリカルドの顔から、

いつの間にか力が抜けていた。


ほんの少し穏やかな表情になっている。

何か夢でも見ているのだろうか。


アレクシスは、しばらくその顔を見ていた。

やがて、小さく息を吐く。


「……クリスティ。どこにいるんだ。」


騎士団長としてでもなく、

第二皇子としてでもなく、

ただ兄として、妹の名を呼んだ。


返事はない。

当然だった。

けれどアレクシスは知っている。


父も、レオンハルトも、ヴィオレットも、

そして、自分も、

ここで眠っているリカルドも、

誰一人として、クリスティが死んだなどとは思っていない。


遺体はない。

命を失ったと示す痕跡も、

消滅したと断定できる証拠もない。


「生きてろよ。こいつが迎えに行くまで。」

それだけを低く呟いた。


夜風が、僅かに窓を鳴らす。

遠く。

奈落門の向こうへ続く夜を、アレクシスは見つめた。


自分はここを守る。

今ここにいる人々を守り、奈落門を守り。

いつか、道が見つかったその時。

リカルドたちが迷わずその先へ進めるように。


そして、遥か遠く。

黒淵の向こう側では、一人の少女が、同じ夜空を見上げていた。


その祈りが本当に届いたのか、確かめる術は、どこにもない。


ただ、その夜だけ。

眠り続ける騎士の表情は、いつもより少しだけ穏やかだった。



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