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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第44話 安心の理由

クリスティが、

辺境防衛軍の砦で暮らし始めてから半月が過ぎた。


最初の数日は、

目を覚ますたびに自分がどこにいるのか分からなくなった。


見慣れない天井。

厚い石壁。

窓の外に広がる、帝国とは違う深い森。

遠くから響く、聞き慣れない乾いた破裂音と、

兵士たちの規則正しい掛け声。


そして、自分が異国にいるのだと思い出すたび、

奈落の歪みに飲み込まれた瞬間が蘇った。


子どもたちの悲鳴。

自分へ伸ばされたアークファイントの手。

そして、初めて名前を呼ばれたあの声。

胸が締めつけられ、眠れなくなる夜もあった。


けれど、そんな夜も。

どうしても眠れず、ふと廊下へ出ると、

近くの司令室にはまだ灯りが残っていることがあった。


時折、報告に訪れた兵士の足音が止まり、

低く「司令」と呼ぶ声がする。

ほどなく、聞き慣れた穏やかな声が返ってくる。


ルリスティは、ここにいる。

そう確かめるだけで、不思議と呼吸が楽になった。



ルリスティは忙しい人だった。

辺境防衛軍司令官として、朝から夜まで執務に追われていた。

それでも時間を見つけては、クリスティの様子を見に来た。


昨夜は眠れたか。

食事は口に合ったか。

身体に変わったところはないか。


長く話すわけではない。

二人で向かい合い、

ただ静かに茶を飲んでいるだけの日もあった。


それでも、クリスティは気まずいとは思わなかった。

言葉がなくても、そこにいてくれる。


ルリスティと過ごす時間には、

皇女として何かを求められることも、

誰かを安心させるために笑う必要もなかった。

ただ静かに息をしていてもいい。

それが、今のクリスティにはありがたかった。



その日の午後。

クリスティは砦上層の談話室で窓の外を眺めていた。

共和国の空は、帝国よりも広く見える。

皇城では尖塔や城壁に遮られていた視界が、

ここでは遠くの森や荒野まで続いている。


そして、その向こう。

空と大地を切り裂くように、巨大な黒い亀裂が横たわっていた。

黒淵こくえん

帝国では奈落門ならくもんと呼ばれるもの。


百五十年間、二つの国を隔ててきた災厄。

そしておそらく、自分がここへ来たこととも無関係ではない。


何度見ても、胸の奥がざわついた。

「クリスティさん。」

振り返ると、入口に数冊の書類を抱えたルリスティが立っていた。

黒を基調とした軍服。

低い位置で一つにまとめられた白銀の髪。


「ルリスティさん。お仕事はよろしいのですか?」

「マルセリア大佐に、少し休むよう言われましたので。」

「まあ。」

クリスティの口元が緩む。


「大佐は、ルリスティさんのことを、よく見ていらっしゃるのですね。」

「少し心配性なのです。」

「司令官があまり休まないからでは?」


ルリスティが黙った。

その反応だけで、答えは十分だった。

「やはり。」

くすりと笑うと、ルリスティが少し困ったように眉を下げる。


「クリスティさんまで……。」

この半月で、すっかり見慣れた表情だった。

ルリスティは窓際の椅子へ腰掛け、抱えていた書類を脇へ置いた。


「今日は、お身体はいかがですか?」

「もうすっかり元気です。」

「そうですか。」

「毎日、聞いてくださいますね。」

そこでルリスティの手が止まった。


「……ご迷惑でしたか?」

「いいえ。」

クリスティはすぐに首を振る。

「嬉しいのです。」


「……。」

「ここへ来たばかりの頃は、本当に不安でしたから。」

両手でカップを包む。


帝国へ帰れるのか。

家族はどうしているのか。

そして――

アークファイントは。


何一つ分からなかった。


「ですが、ルリスティさんが毎日来てくださって、一人ではないと思えました。」

クリスティは顔を上げた。

自分と同じ紫水晶の瞳が僅かに揺れる。


「私は、何も――」

「何もしていない方は、女性の部屋にクッションが必要か、

何度も確認なさらないと思います。」

ルリスティが目を見開いた。


「……マルセリア大佐の受け売りですね。」

「はい。」

とうとう耐えきれず、クリスティがくすくすと笑う。

「本当に、余計なことばかり……。」

そう言いながら、ルリスティの声もどこか柔らかかった。


その時だった。

低い警鐘が、砦全体へ鳴り響いた。

一度。

二度。

直後、廊下を駆ける幾つもの足音。


ルリスティの表情が変わった。

先ほどまでの穏やかさが消え、紫水晶の瞳が鋭く細められる。

扉が開き、若い兵士が駆け込んでくる。


「司令!」

「黒淵北東部より魔物の群れ!中型種多数、大型種二体を確認!

第六、第八小隊が第一防衛線まで後退中です!」


ルリスティはすでに立ち上がっていた。

「第二、第三小隊を第一防衛線へ。魔導砲部隊は北東砲台へ移動。」

声を荒らげることはない。


それでも、命令に一切の迷いがなかった。

「防護障壁班は負傷者の収容路を確保。

通信班は追加個体の出現を警戒してください。」

「承知しました!」

兵士が駆け去る。


クリスティは、思わずルリスティを見つめた。

ほんの少し前まで、同じテーブルで茶を飲んでいた人とは思えない。


「ルリスティさん……。」

呼ぶと、彼女はクリスティへ顔を向けた。

その瞬間だけ、表情が柔らかくなる。

「申し訳ありません。少し行ってまいります。」


「行くって……まさか。」

「前線です。」

「ルリスティさんご自身が?」

「はい。」

当然のことのような返事だった。


「ですが、司令官なのでしょう?」

「だからこそ、私が必要になる場面もあります。」

廊下へ出ると、すでに装備を整えたジェイクが待っていた。


「マルセリア大佐。」

「はい。」

「第一部隊の指揮は副隊長へ。大佐はここに残ってください。」


ジェイクの眉が上がる。

「俺が?」

「別働隊による砦への襲撃も警戒します。クリスティさんの護衛をお願いします。」


数秒、ジェイクはルリスティを見つめた。

だが、軽口を返すことはなかった。

「了解しました。」

「お願いします。」


ルリスティは、もう一度クリスティを見る。

「この区画からは出ないでくださいね。」

「でも――」

「大丈夫です。」


この半月、何度も聞いた声。

「すぐに戻ります。」

そう言い残し、ルリスティは兵士たちと廊下を進んでいった。



クリスティは、その背中を追うように扉の外へ出た。

「クリスティさん。司令から出ないよう言われています。」

ジェイクに呼び止められる。


「……分かっています。」

それでも、視線だけは離せなかった。


廊下の先。

階段へ向かう途中、

装備室の前でルリスティが二丁の魔導銃を受け取る。


黒銀の銃身。

各所を走る細い魔導回路が、

彼女の魔力へ反応して青白く灯った。


その上から、短い漆黒の外套を肩へ留める。

二丁の銃を腰へ収めた姿に、クリスティは息を呑んだ。


「……あれは?」

「司令の魔導銃です。」

「魔導銃……。」

「使用者の魔力を、魔力弾として射出する兵器ですよ。」


クリスティは、二丁の銃へ視線を戻した。

砦へ来てから何度も耳にしていた、あの乾いた音の正体をようやく知った。

「共和国では、あの武器を皆さんが?」

「基本装備です。用途に応じて種類は違いますけどね。」

ジェイクが窓の外へ目を向ける。


砦の各所で兵士たちが動き、巨大な魔導砲が北東へ向きを変えている。

帝国とは違う武器。

違う軍隊。

違う戦い方。

クリスティは、目の前に広がる光景から目を離せなかった。


「監視室へ移りましょうか。」

ジェイクに促され、二人は防護障壁の張られた上層監視室へ向かった。



厚い強化硝子の向こう。

第一防衛線では、すでに戦闘が始まっていた。

兵士たちが隊列を組み、魔物の群れを迎え撃っている。


その中央。

ルリスティが立っていた。

華奢な身体。

けれど、彼女が片手を上げた瞬間。

ざわめいていた兵士たちが、一斉に静まった。


『第六、第八小隊は後退。

第二小隊は右側面、第三小隊は左側面を支援してください。』

拡声魔導器を通した声が、戦場へ響く。


『負傷者の回収を最優先に。魔導砲は、私の合図まで待機。』

一つの命令ごとに、兵士たちが迷いなく動く。


その時、土煙の向こうから大型種の一体が現れた。

巨大な腕が振り上げられる。

「……っ!」

クリスティが息を呑む。

前線の兵士へ向けて、腕が振り下ろされた。


ルリスティが片手を掲げる。

『多重防護障壁、展開。』

淡い光が、大地を駆け抜けた。

一枚。

二枚。

三枚。

巨大な光壁が、前線を包み込むように展開される。


轟音。

大型種の一撃が直撃し、砦の硝子まで震えた。

それでも、障壁は破れない。


「……あれを、一人で?」

クリスティは硝子へ手を添えたまま目を見開いた。


杖もない。

術式書もない。

ルリスティは、ただそこに立っている。


「司令の十八番です。」

ジェイクが答えた。

「『共和国最強の盾』なんて呼ぶ奴もいます。」

「最強の……盾。」


障壁の内側では、兵士たちが負傷者を回収していく。

ルリスティ自身が守られるためではない。

仲間を守り、立て直す時間を作るための障壁。

それが、クリスティにも分かった。


やがて。

『全員、障壁内へ。』

ルリスティの両手が、腰の魔導銃へ伸びる。

『ここからは、私が引き受けます。』


兵士たちの動きが変わった。

「射線を空けろ!」

「司令が撃つぞ!」

全員が即座に下がる。


ルリスティが二丁の銃を抜いた。

青白い光が、銃身を走る。


右。

乾いた銃声。

先頭の魔物が倒れる。


左。

次の一体。

さらに右。

左。


二つの銃口が、別々の標的を正確に捉えていく。

一発も外れない。

一体が崩れるより先に、次の標的へ照準が移る。

先ほど障壁へ一撃を叩き込んだ大型種も、集中砲火を受けて地面へ崩れ落ちた。


クリスティが知る戦闘とは、まるで違った。

剣戟も。

長い詠唱もない。

短い銃声が響くたび、魔物が次々と倒れていく。


「……すごい。」

思わず零れた声にジェイクが小さく笑う。

「本人には言わないでくださいね。否定するので。」

その返答が、容易に想像できた。


皆さんがいてくださるからです。

きっと、そう言うのだろう。

その時、残っていた大型種が、地面を蹴った。

巨体が障壁を飛び越え、砦へ向かって跳躍する。


「上……!」

クリスティが叫ぶ。

ジェイクは動じず、地上のルリスティを見ている。

「大丈夫です。」

その声音に、迷いはなかった。


ルリスティも、すでに大型種を見上げていた。

二丁の魔導銃を、僅かに異なる角度へ構える。

銃身を走る魔導回路が、一際強い青白い光を放った。


二つの銃声。

一発目が大型種の胸部へ命中し、硬い外殻を砕く。

ほとんど間を置かず、二発目が同じ一点へ突き刺さった。


露出した内部を、青白い魔力弾が貫く。

巨体の動きが止まった。

直後、内側から青白い光が弾ける。

大型種はそのまま、地響きを立てて地面へ崩れ落ちた。

やがて、残る魔物も各部隊と魔導砲によって制圧されていく。


数分後。

戦場に静寂が戻った。


ルリスティは銃を下ろす。

『周辺警戒を継続してください。』

勝利を喜ぶ様子はない。

『怪我人は?』

戦闘を終えたルリスティが、最初に尋ねたのはそのことだった。

『軽傷者三名!重傷者、死者はいません!』


その報告を聞いた瞬間。

ようやく、ルリスティの表情が和らいだ。

『……そうですか。皆さんが無事で何よりです。』

クリスティは、その姿を見つめた。


あれほどの力を持ちながら、

ルリスティが気にしているのは、自分が何体倒したかではない。

誰も失わなかったこと。

ただ、それだけだった。


「ルリスティさんは……いつも?」

「ええ。」

ジェイクの声から、普段の軽さが消える。


「誰かが傷付くくらいなら、自分が前に出る人です。」

「でも、それでは……。」

「本人が危ないと?」

クリスティが頷くのを見て、ジェイクが苦笑した。


「そこが俺たちの頭痛の種なんですよ。」

「止めないのですか?」

「止めていますよ。ずっと。でも、聞かないんですよね。」

呆れたような言葉。

けれど、その目には揺るぎない信頼があった。


「だから俺たちも、守られてるだけじゃいられない。」

ジェイクは戦場を見る。

兵士たちが、ルリスティの周囲へ集まり始めていた。


「司令が俺たちを守るなら、俺たちは司令を守る。」

それだけ言って、ジェイクは小さく笑った。

「辺境防衛軍はそういう部隊です。」



しばらくして、ルリスティが砦へ戻ってきた。

軍服には土埃が付き、白銀の髪も少し乱れている。

けれど、目立った怪我はない。

談話室へ入るなり、真っ先にクリスティの前へ来た。


「お待たせしました。」

「ルリスティさん。」

「お怪我はありませんでしたか?砦も揺れましたから。」


クリスティは目を瞬かせる。

「……私の心配ですか?」

「はい。」


違う。

尋ねたいのは、自分の方だった。

「あの……ルリスティさんは?」


「私も特に問題ありません。」

いつもの穏やかな笑顔。

クリスティは、その人を改めて見つめた。


この半月、静かで、優しくて、少し不器用な人だと思っていた。

けれど、誰よりも多くの命を背負い、

必要なら、誰よりも危険な場所へ立つ。

そして戦いが終われば、真っ先に他人の怪我を気にする。


「……ルリスティさん。」

「はい?」

「とても、お強いのですね。」


案の定、ルリスティは困ったように眉を下げた。

「皆さんがいてくださるからです。」

後ろで、ジェイクが肩を竦める。


「ほら。」

「マルセリア大佐。」

「何も言ってませんよ。」

クリスティの口元が、僅かに緩んだ。

予想通りだった。


「でも。」

クリスティは、ルリスティを真っ直ぐ見る。

「皆さんがルリスティさんを信じている理由が、少し分かった気がします。」

紫水晶の瞳が揺れる。


「私も。」

「……?」

「ルリスティさんが近くにいてくださると、

安心する理由が分かりました。」


ルリスティは、すぐには答えなかった。

やがて、ほんの少し目を細める。

「……そう言っていただけると、嬉しいです。」


窓の外。

戦闘を終えた兵士たちが、次々と砦へ帰ってくる。

魔導銃を手にした者。

魔導砲を整備する者。

負傷した仲間へ、肩を貸す者。


帝国とは違う武器。

違う軍隊。

違う国。


けれど、そこにある願いはきっと同じだった。

誰かを守りたい。

そのために、ここで戦っている。


クリスティは、隣に立つルリスティを見つめた。


なぜだろう。

少しだけ、誇らしいと思った。

この人のことを、もっと知りたいとも。


そして同時に、

どうかこの人自身も、

誰かに守られていますようにと。


心の底から、そう願った。

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