第44話 安心の理由
クリスティが、
辺境防衛軍の砦で暮らし始めてから半月が過ぎた。
最初の数日は、
目を覚ますたびに自分がどこにいるのか分からなくなった。
見慣れない天井。
厚い石壁。
窓の外に広がる、帝国とは違う深い森。
遠くから響く、聞き慣れない乾いた破裂音と、
兵士たちの規則正しい掛け声。
そして、自分が異国にいるのだと思い出すたび、
奈落の歪みに飲み込まれた瞬間が蘇った。
子どもたちの悲鳴。
自分へ伸ばされたアークファイントの手。
そして、初めて名前を呼ばれたあの声。
胸が締めつけられ、眠れなくなる夜もあった。
けれど、そんな夜も。
どうしても眠れず、ふと廊下へ出ると、
近くの司令室にはまだ灯りが残っていることがあった。
時折、報告に訪れた兵士の足音が止まり、
低く「司令」と呼ぶ声がする。
ほどなく、聞き慣れた穏やかな声が返ってくる。
ルリスティは、ここにいる。
そう確かめるだけで、不思議と呼吸が楽になった。
◇
ルリスティは忙しい人だった。
辺境防衛軍司令官として、朝から夜まで執務に追われていた。
それでも時間を見つけては、クリスティの様子を見に来た。
昨夜は眠れたか。
食事は口に合ったか。
身体に変わったところはないか。
長く話すわけではない。
二人で向かい合い、
ただ静かに茶を飲んでいるだけの日もあった。
それでも、クリスティは気まずいとは思わなかった。
言葉がなくても、そこにいてくれる。
ルリスティと過ごす時間には、
皇女として何かを求められることも、
誰かを安心させるために笑う必要もなかった。
ただ静かに息をしていてもいい。
それが、今のクリスティにはありがたかった。
◇
その日の午後。
クリスティは砦上層の談話室で窓の外を眺めていた。
共和国の空は、帝国よりも広く見える。
皇城では尖塔や城壁に遮られていた視界が、
ここでは遠くの森や荒野まで続いている。
そして、その向こう。
空と大地を切り裂くように、巨大な黒い亀裂が横たわっていた。
黒淵。
帝国では奈落門と呼ばれるもの。
百五十年間、二つの国を隔ててきた災厄。
そしておそらく、自分がここへ来たこととも無関係ではない。
何度見ても、胸の奥がざわついた。
「クリスティさん。」
振り返ると、入口に数冊の書類を抱えたルリスティが立っていた。
黒を基調とした軍服。
低い位置で一つにまとめられた白銀の髪。
「ルリスティさん。お仕事はよろしいのですか?」
「マルセリア大佐に、少し休むよう言われましたので。」
「まあ。」
クリスティの口元が緩む。
「大佐は、ルリスティさんのことを、よく見ていらっしゃるのですね。」
「少し心配性なのです。」
「司令官があまり休まないからでは?」
ルリスティが黙った。
その反応だけで、答えは十分だった。
「やはり。」
くすりと笑うと、ルリスティが少し困ったように眉を下げる。
「クリスティさんまで……。」
この半月で、すっかり見慣れた表情だった。
ルリスティは窓際の椅子へ腰掛け、抱えていた書類を脇へ置いた。
「今日は、お身体はいかがですか?」
「もうすっかり元気です。」
「そうですか。」
「毎日、聞いてくださいますね。」
そこでルリスティの手が止まった。
「……ご迷惑でしたか?」
「いいえ。」
クリスティはすぐに首を振る。
「嬉しいのです。」
「……。」
「ここへ来たばかりの頃は、本当に不安でしたから。」
両手でカップを包む。
帝国へ帰れるのか。
家族はどうしているのか。
そして――
アークファイントは。
何一つ分からなかった。
「ですが、ルリスティさんが毎日来てくださって、一人ではないと思えました。」
クリスティは顔を上げた。
自分と同じ紫水晶の瞳が僅かに揺れる。
「私は、何も――」
「何もしていない方は、女性の部屋にクッションが必要か、
何度も確認なさらないと思います。」
ルリスティが目を見開いた。
「……マルセリア大佐の受け売りですね。」
「はい。」
とうとう耐えきれず、クリスティがくすくすと笑う。
「本当に、余計なことばかり……。」
そう言いながら、ルリスティの声もどこか柔らかかった。
その時だった。
低い警鐘が、砦全体へ鳴り響いた。
一度。
二度。
直後、廊下を駆ける幾つもの足音。
ルリスティの表情が変わった。
先ほどまでの穏やかさが消え、紫水晶の瞳が鋭く細められる。
扉が開き、若い兵士が駆け込んでくる。
「司令!」
「黒淵北東部より魔物の群れ!中型種多数、大型種二体を確認!
第六、第八小隊が第一防衛線まで後退中です!」
ルリスティはすでに立ち上がっていた。
「第二、第三小隊を第一防衛線へ。魔導砲部隊は北東砲台へ移動。」
声を荒らげることはない。
それでも、命令に一切の迷いがなかった。
「防護障壁班は負傷者の収容路を確保。
通信班は追加個体の出現を警戒してください。」
「承知しました!」
兵士が駆け去る。
クリスティは、思わずルリスティを見つめた。
ほんの少し前まで、同じテーブルで茶を飲んでいた人とは思えない。
「ルリスティさん……。」
呼ぶと、彼女はクリスティへ顔を向けた。
その瞬間だけ、表情が柔らかくなる。
「申し訳ありません。少し行ってまいります。」
「行くって……まさか。」
「前線です。」
「ルリスティさんご自身が?」
「はい。」
当然のことのような返事だった。
「ですが、司令官なのでしょう?」
「だからこそ、私が必要になる場面もあります。」
廊下へ出ると、すでに装備を整えたジェイクが待っていた。
「マルセリア大佐。」
「はい。」
「第一部隊の指揮は副隊長へ。大佐はここに残ってください。」
ジェイクの眉が上がる。
「俺が?」
「別働隊による砦への襲撃も警戒します。クリスティさんの護衛をお願いします。」
数秒、ジェイクはルリスティを見つめた。
だが、軽口を返すことはなかった。
「了解しました。」
「お願いします。」
ルリスティは、もう一度クリスティを見る。
「この区画からは出ないでくださいね。」
「でも――」
「大丈夫です。」
この半月、何度も聞いた声。
「すぐに戻ります。」
そう言い残し、ルリスティは兵士たちと廊下を進んでいった。
◇
クリスティは、その背中を追うように扉の外へ出た。
「クリスティさん。司令から出ないよう言われています。」
ジェイクに呼び止められる。
「……分かっています。」
それでも、視線だけは離せなかった。
廊下の先。
階段へ向かう途中、
装備室の前でルリスティが二丁の魔導銃を受け取る。
黒銀の銃身。
各所を走る細い魔導回路が、
彼女の魔力へ反応して青白く灯った。
その上から、短い漆黒の外套を肩へ留める。
二丁の銃を腰へ収めた姿に、クリスティは息を呑んだ。
「……あれは?」
「司令の魔導銃です。」
「魔導銃……。」
「使用者の魔力を、魔力弾として射出する兵器ですよ。」
クリスティは、二丁の銃へ視線を戻した。
砦へ来てから何度も耳にしていた、あの乾いた音の正体をようやく知った。
「共和国では、あの武器を皆さんが?」
「基本装備です。用途に応じて種類は違いますけどね。」
ジェイクが窓の外へ目を向ける。
砦の各所で兵士たちが動き、巨大な魔導砲が北東へ向きを変えている。
帝国とは違う武器。
違う軍隊。
違う戦い方。
クリスティは、目の前に広がる光景から目を離せなかった。
「監視室へ移りましょうか。」
ジェイクに促され、二人は防護障壁の張られた上層監視室へ向かった。
◇
厚い強化硝子の向こう。
第一防衛線では、すでに戦闘が始まっていた。
兵士たちが隊列を組み、魔物の群れを迎え撃っている。
その中央。
ルリスティが立っていた。
華奢な身体。
けれど、彼女が片手を上げた瞬間。
ざわめいていた兵士たちが、一斉に静まった。
『第六、第八小隊は後退。
第二小隊は右側面、第三小隊は左側面を支援してください。』
拡声魔導器を通した声が、戦場へ響く。
『負傷者の回収を最優先に。魔導砲は、私の合図まで待機。』
一つの命令ごとに、兵士たちが迷いなく動く。
その時、土煙の向こうから大型種の一体が現れた。
巨大な腕が振り上げられる。
「……っ!」
クリスティが息を呑む。
前線の兵士へ向けて、腕が振り下ろされた。
ルリスティが片手を掲げる。
『多重防護障壁、展開。』
淡い光が、大地を駆け抜けた。
一枚。
二枚。
三枚。
巨大な光壁が、前線を包み込むように展開される。
轟音。
大型種の一撃が直撃し、砦の硝子まで震えた。
それでも、障壁は破れない。
「……あれを、一人で?」
クリスティは硝子へ手を添えたまま目を見開いた。
杖もない。
術式書もない。
ルリスティは、ただそこに立っている。
「司令の十八番です。」
ジェイクが答えた。
「『共和国最強の盾』なんて呼ぶ奴もいます。」
「最強の……盾。」
障壁の内側では、兵士たちが負傷者を回収していく。
ルリスティ自身が守られるためではない。
仲間を守り、立て直す時間を作るための障壁。
それが、クリスティにも分かった。
やがて。
『全員、障壁内へ。』
ルリスティの両手が、腰の魔導銃へ伸びる。
『ここからは、私が引き受けます。』
兵士たちの動きが変わった。
「射線を空けろ!」
「司令が撃つぞ!」
全員が即座に下がる。
ルリスティが二丁の銃を抜いた。
青白い光が、銃身を走る。
右。
乾いた銃声。
先頭の魔物が倒れる。
左。
次の一体。
さらに右。
左。
二つの銃口が、別々の標的を正確に捉えていく。
一発も外れない。
一体が崩れるより先に、次の標的へ照準が移る。
先ほど障壁へ一撃を叩き込んだ大型種も、集中砲火を受けて地面へ崩れ落ちた。
クリスティが知る戦闘とは、まるで違った。
剣戟も。
長い詠唱もない。
短い銃声が響くたび、魔物が次々と倒れていく。
「……すごい。」
思わず零れた声にジェイクが小さく笑う。
「本人には言わないでくださいね。否定するので。」
その返答が、容易に想像できた。
皆さんがいてくださるからです。
きっと、そう言うのだろう。
その時、残っていた大型種が、地面を蹴った。
巨体が障壁を飛び越え、砦へ向かって跳躍する。
「上……!」
クリスティが叫ぶ。
ジェイクは動じず、地上のルリスティを見ている。
「大丈夫です。」
その声音に、迷いはなかった。
ルリスティも、すでに大型種を見上げていた。
二丁の魔導銃を、僅かに異なる角度へ構える。
銃身を走る魔導回路が、一際強い青白い光を放った。
二つの銃声。
一発目が大型種の胸部へ命中し、硬い外殻を砕く。
ほとんど間を置かず、二発目が同じ一点へ突き刺さった。
露出した内部を、青白い魔力弾が貫く。
巨体の動きが止まった。
直後、内側から青白い光が弾ける。
大型種はそのまま、地響きを立てて地面へ崩れ落ちた。
やがて、残る魔物も各部隊と魔導砲によって制圧されていく。
数分後。
戦場に静寂が戻った。
ルリスティは銃を下ろす。
『周辺警戒を継続してください。』
勝利を喜ぶ様子はない。
『怪我人は?』
戦闘を終えたルリスティが、最初に尋ねたのはそのことだった。
『軽傷者三名!重傷者、死者はいません!』
その報告を聞いた瞬間。
ようやく、ルリスティの表情が和らいだ。
『……そうですか。皆さんが無事で何よりです。』
クリスティは、その姿を見つめた。
あれほどの力を持ちながら、
ルリスティが気にしているのは、自分が何体倒したかではない。
誰も失わなかったこと。
ただ、それだけだった。
「ルリスティさんは……いつも?」
「ええ。」
ジェイクの声から、普段の軽さが消える。
「誰かが傷付くくらいなら、自分が前に出る人です。」
「でも、それでは……。」
「本人が危ないと?」
クリスティが頷くのを見て、ジェイクが苦笑した。
「そこが俺たちの頭痛の種なんですよ。」
「止めないのですか?」
「止めていますよ。ずっと。でも、聞かないんですよね。」
呆れたような言葉。
けれど、その目には揺るぎない信頼があった。
「だから俺たちも、守られてるだけじゃいられない。」
ジェイクは戦場を見る。
兵士たちが、ルリスティの周囲へ集まり始めていた。
「司令が俺たちを守るなら、俺たちは司令を守る。」
それだけ言って、ジェイクは小さく笑った。
「辺境防衛軍はそういう部隊です。」
◇
しばらくして、ルリスティが砦へ戻ってきた。
軍服には土埃が付き、白銀の髪も少し乱れている。
けれど、目立った怪我はない。
談話室へ入るなり、真っ先にクリスティの前へ来た。
「お待たせしました。」
「ルリスティさん。」
「お怪我はありませんでしたか?砦も揺れましたから。」
クリスティは目を瞬かせる。
「……私の心配ですか?」
「はい。」
違う。
尋ねたいのは、自分の方だった。
「あの……ルリスティさんは?」
「私も特に問題ありません。」
いつもの穏やかな笑顔。
クリスティは、その人を改めて見つめた。
この半月、静かで、優しくて、少し不器用な人だと思っていた。
けれど、誰よりも多くの命を背負い、
必要なら、誰よりも危険な場所へ立つ。
そして戦いが終われば、真っ先に他人の怪我を気にする。
「……ルリスティさん。」
「はい?」
「とても、お強いのですね。」
案の定、ルリスティは困ったように眉を下げた。
「皆さんがいてくださるからです。」
後ろで、ジェイクが肩を竦める。
「ほら。」
「マルセリア大佐。」
「何も言ってませんよ。」
クリスティの口元が、僅かに緩んだ。
予想通りだった。
「でも。」
クリスティは、ルリスティを真っ直ぐ見る。
「皆さんがルリスティさんを信じている理由が、少し分かった気がします。」
紫水晶の瞳が揺れる。
「私も。」
「……?」
「ルリスティさんが近くにいてくださると、
安心する理由が分かりました。」
ルリスティは、すぐには答えなかった。
やがて、ほんの少し目を細める。
「……そう言っていただけると、嬉しいです。」
窓の外。
戦闘を終えた兵士たちが、次々と砦へ帰ってくる。
魔導銃を手にした者。
魔導砲を整備する者。
負傷した仲間へ、肩を貸す者。
帝国とは違う武器。
違う軍隊。
違う国。
けれど、そこにある願いはきっと同じだった。
誰かを守りたい。
そのために、ここで戦っている。
クリスティは、隣に立つルリスティを見つめた。
なぜだろう。
少しだけ、誇らしいと思った。
この人のことを、もっと知りたいとも。
そして同時に、
どうかこの人自身も、
誰かに守られていますようにと。
心の底から、そう願った。




