第43話 異国で眠る夜
数日後。
辺境防衛軍本部の救護所を出られるまでに回復したクリスティは、
ルリスティに案内され、砦の中央棟へ移ることになった。
夕刻。
窓の向こうでは、
西へ傾いた陽が厚い石壁を淡く染めている。
共和国最前線を守る辺境防衛軍本部は、
一つの城塞と呼んでも差し支えないほど大きかった。
物見塔には絶えず兵士が立ち、
訓練場からは聞き慣れない乾いた破裂音や剣戟、
兵士たちの掛け声が響いてくる。
帝国の騎士団とは、装備も、組織の在り方も違う。
それでも、ここにいる者たちが、
自分たちの国を守るために戦っていることだけは、
見ていれば分かった。
「こちらです。」
ルリスティに促され、クリスティは中央棟へ足を踏み入れた。
階段を上り、人の往来が次第に少なくなっていく。
「随分と上まで来ましたね。」
「司令官区画が上層にありますので。」
「司令官区画……。」
ルリスティは振り返り、小さく微笑んだ。
「砦の中でも、特に警備の厳しい場所です。」
それだけ聞けば、自分を監視するためとも考えられる。
けれど、数日間ルリスティと接した今では、
クリスティには違う理由のように思えた。
やがて辿り着いたのは、上層部の静かな廊下だった。
下階の喧騒は遠く、窓の向こうには深い森と、
夕暮れに染まり始めた辺境の空が広がっている。
ルリスティは、一つの扉の前で足を止めた。
「こちらをお使いください。」
扉が開く。
「……まあ。」
クリスティは思わず室内を見回した。
大きすぎない寝台に、既に火の入った暖炉。
窓辺には共和国で咲く小さな花が飾られ、
柔らかそうな毛布やクッション、
小机には水差しと茶器まで用意されている。
皇城の客室のような豪奢さはない。
けれど、使う者が少しでも快適に過ごせるよう、
一つ一つ丁寧に整えられた部屋だった。
「とても素敵なお部屋ですね。」
「……そう仰っていただけるなら良かったです。」
ルリスティが、僅かに安堵したように息を吐く。
「辺境ですので、
皇城と同じようなものはご用意できませんが――」
「そんなことはありません。」
思わず強く否定してから、
クリスティは少し恥ずかしそうに笑った。
「十分すぎるほどです。ありがとうございます。」
その時、後ろにいたジェイクが小さく笑う。
「それを聞いたら、司令も安心するでしょうね。」
「……マルセリア大佐?」
「昨日から何度確認しました?
花の種類に暖炉の温度、寝具の硬さ。それから――」
ジェイクは室内のクッションへ目をやる。
「『女性の部屋なら、これくらい必要でしょうか』って、
随分真剣に悩んでましたよ。」
「大佐。」
ルリスティの声が低くなる。
「もう結構です。」
珍しく頬を赤らめて視線を逸らした姿に、
クリスティは堪えきれず小さく吹き出した。
「ふふっ……。」
笑ってから、クリスティ自身が一番驚いた。
奈落の歪みに飲み込まれて以来、
何かを考えるより先に笑ったのは、初めてだった。
「……申し訳ありません。」
反射的に謝ると、ルリスティは小さく首を振った。
「いいえ。」
そして、柔らかく笑う。
「笑っていただけて良かったです。」
数日前。
無理に笑わなくてもいいと言ってくれた人が、
今は自分の自然な笑顔を喜んでくれている。
そのことが、少しくすぐったかった。
「こちらこそ。ありがとうございます。」
クリスティが改めて部屋を見回していると、ジェイクが廊下の隣の扉を示した。
「ちなみに、司令の私室はすぐ隣です。」
「え?」
振り返ると、ルリスティが当然のことのように頷いた。
「何かありましたら、いつでも声を掛けてください。」
「ですが、私のためにそこまでしていただかなくても……。」
「私が、ここが良いと思ったのです。」
迷いのない返事だった。
警備上、安全な場所であることは確かだった。
身分を伏せたクリスティを置くなら、
人の出入りが少なく、警備の厳しい司令官区画は都合がいい。
けれど、それだけではないことを、ルリスティ自身も分かっていた。
目を離したくない。
この人がまた、
突然どこかへ消えてしまうような気がしてならない。
理由の分からない不安が、出会った時から胸の奥に残っている。
「……近くにいた方が、私も安心しますから。」
クリスティが僅かに目を瞬かせた。
「ルリスティ司令官が?」
「はい。」
その答えに、クリスティの表情がゆっくりと和らいだ。
「では、お言葉に甘えさせていただきます。」
ジェイクは二人を眺めながら、
小さく息を吐いた。
出会ってまだ数日しか経っていない。
それなのに二人の間には、
妙に自然な空気が流れている。
「まあ、この区画なら安全面も問題ありません。」
ジェイクが廊下へ視線を向けた。
「ここまで何かが入り込んでくる頃には、砦中が大騒ぎになってますから。」
「それは……確かに安心ですね。」
「それに、すぐ隣には司令もいますし。」
ジェイクは軽く肩を竦めた。
「この砦で、司令の近くより安全な場所を探す方が難しいですよ。」
「マルセリア大佐。」
「事実でしょう?」
ルリスティは何か言い返しかけたが、小さく息を吐いた。
そのやり取りを見ながら、クリスティは改めて思う。
穏やかで、どこか不器用な人。
けれど同時に、共和国最前線を預かり、
この砦にいる多くの兵士の命を背負う司令官でもある。
優しいだけではない。
必要なら戦い、必要なら決断する。
だからこそ、今自分へ向けられている優しさも、
決して軽いものではないのだろう。
クリスティが帝国から来た人物であることは、
砦内にも周知されることになった。
ただし、皇女であることは伏せたまま。
これまで通り、ただの「クリスティ」として過ごすことになった。
食事はしばらく部屋へ運び、
完全に回復するまでは無理に出歩かないこと。
困ったことがあれば、
昼夜を問わずルリスティたちへ伝えること。
必要な説明を終えると、ルリスティは扉の前で足を止めた。
「それでは、今日はゆっくりお休みください。」
「はい。」
「おやすみなさい、クリスティさん。」
「おやすみなさい、お二人とも。」
ルリスティが廊下へ出る。
その後に続こうとしたジェイクが、ふと足を止めて振り返った。
「クリスティさん。」
「はい?」
いつもの軽い調子はなかった。
「今夜くらいは、安心して眠ってください。」
クリスティが彼を見る。
「ここなら、もう大丈夫です。何かあっても、俺たちが守りますから。」
その言葉に、紫水晶の瞳が僅かに揺れた。
三日前。
掴めなかった手。
遠ざかっていく声。
『クリスティ!!』
胸の奥が痛む。
けれど――
「……はい。」
今度は、ちゃんと頷くことができた。
「ありがとうございます。」
ジェイクも僅かに笑う。
「それじゃあ、おやすみなさい。」
扉が静かに閉じた。
一人になった室内には、暖炉の薪が爆ぜる音だけが残る。
窓の外では、辺境の森へゆっくりと夜が降り始めていた。
帝国では今も、皆が自分を探しているだろう。
父も。
兄たちも。
ヴィオレットも。
そして――。
(アークファイント……。)
きっと、彼も諦めずに探し続けている。
簡単に諦める人ではない。
そう信じると決めた。
クリスティは、ゆっくりと寝台へ身体を預けた。
柔らかな毛布を胸元まで引き上げる。
ここは、百五十年間隔てられていた異国だ。
家族も、アークファイントも、今は遠い。
それでも一人ではない。
壁一枚隔てた先には、ルリスティがいる。
そう思うだけで、
胸の奥に残っていた強張りが少しずつ解けていった。
その夜、クリスティは、
奈落の歪みに飲み込まれて以来初めて、
深く、穏やかな眠りについた。




