第42話 帰りを待つ者たち
クリスティが、
奈落の歪みに飲み込まれてから三日が経った。
マーヴェリア帝国では、第二皇女の捜索が今も続いている。
帝都の門は厳重に管理され、街道には騎士たちが派遣された。
周辺の村。
森。
洞窟。
廃屋。
僅かな可能性すら取りこぼさぬよう、
捜索範囲は日ごとに広げられている。
宮廷魔術師団もまた、
転移魔術や空間異常に関する記録を、
昼夜を問わず洗い直していた。
だが、三日が経った今も、
クリスティの姿は見つかっていない。
それでも、誰一人として捜索をやめようとは言わなかった。
◇
帝都郊外の孤児院。
普段なら子どもたちの声が響く庭は、
今は静まり返っていた。
孤児たちは別の建物へ移され、
庭の周囲には騎士が配置されている。
クリスティが消えた場所には、
いくつもの魔法陣が重なるように展開されていた。
淡い光を放つ文字列が地面を走り、
空中には複雑な術式が幾重にも浮かぶ。
その中央に立つルシアンが、ゆっくりと右手を下ろした。
光が一つ。
また一つと消えていく。
「……やはり、何も残っていません。」
少し離れた場所に立っていたヴィオレットが、静かに顔を上げる。
「残留魔力も?」
「ありません。空間の揺らぎもありませんでした。」
ルシアンは足元へ視線を落とした。
そこには、何の変哲もない地面が広がっている。
土が抉れた跡もない。
焼け焦げた痕跡もない。
魔力によって変質した箇所も見つからない。
三日前。
確かにここで、一人の皇女が奈落の歪みに飲み込まれた。
それなのに。
まるで最初から何も起きなかったかのように、
この場所には何一つ残されていなかった。
ヴィオレットは、あの日の光景を思い出す。
泣きじゃくる子どもたち。
青ざめた孤児院の職員たち。
そして、誰もいなくなった庭で、
立ち尽くしていたリカルド。
クリスティだけが、きれいに消えていた。
「通常の転移魔術なら、必ず何らかの痕跡が残ります。」
ルシアンが空中へ小さな術式を描く。
術者の魔力。
移動した対象の魔力。
空間を接続した際に生じる揺らぎ。
どれほど高度な術であっても、
そのすべてを完全に消すことはできない。
「ですが、ここには何も残っていない。」
ヴィオレットは、三日前と変わらぬ地面を見つめた。
「……なら、通常の転移魔術とは別の現象と考えるべきね。」
「僕もそう思います。」
ルシアンの指先で、浮かんでいた術式が静かに回転する。
「空間そのものを破壊したのではなく、対象だけを別の場所へ移したと仮定すれば、
説明できる部分はいくつかあります。」
「別の場所へ……。」
ヴィオレットの声が僅かに揺れた。
それが意味する可能性を、ルシアンも分かっていた。
「現時点で、消滅したと断定できる根拠はありません。」
ヴィオレットはゆっくりと目を閉じる。
「それなら十分よ。」
再び開いた紫の瞳が、真っ直ぐ地面を見据えた。
「三日間、何度調べても、ここには死や破壊を示す痕跡がない。」
僅かに息を吸う。
「なら、死んだと決めつける理由もないわ。」
ルシアンの表情が僅かに和らいだ。
「ええ。移された可能性を前提に調べましょう。」
「過去の発生記録も、古い術式も。残っているものは全部洗い直すわ。」
「禁書庫も?」
「当然でしょう。」
即答だった。
ルシアンは、そんな彼女をしばらく見つめる。
「ヴィオ様。」
いつもより少し低い声に、ヴィオレットが振り返った。
「何?」
「一人で全部やろうとしないでください。」
「してないわ。」
「しています。」
「……」
ルシアンは小さく息を吐き、手元の資料を持ち上げた。
「空間転移と歪みの解析は、僕が中心になって進めます。
ヴィオ様は、過去の発生記録と古い術式の照合を。」
ヴィオレットは、少しだけ眉を寄せたけれど、やがて頷いた。
「……分かったわ。」
ルシアンも頷き返す。
「今すぐ見つけられるとは言えません。」
その言葉に、ヴィオレットが彼を見る。
「ですが、見つけられないと証明されるまでは、僕は探し続けます。」
試せる可能性が、すべて尽きるまで。
ヴィオレットは、しばらくして口を開いた。
「絶対に見つけるわよ、ルシアン。」
「もちろんです。」
「クリスティを――」
十七年前の記録が脳裏を過った。
消失者
第三皇女ルリスティ・フォン・マーヴェリア
当時、二歳
「……ルリスティも。」
ルシアンは、迷わなかった。
「ええ。」
穏やかな声で答える。
「二人とも、見つけましょう。」
二人は再び、幾重にも広げられた資料へ向き直った。
一人の皇女を連れ戻すため。
そして、十七年前に奪われた、
もう一人の皇女へ辿り着くため。
奈落の歪みの先を探る研究は、静かに続いていた。
◇
皇城。
第一皇子の執務室では、
ひっきりなしに人が出入りしていた。
机の上には、
帝国各地から届けられた報告書が積み上がっている。
郊外の捜索状況。
街道の検問記録。
目撃情報。
宮廷魔術師団の調査結果。
奈落騎士団からの報告。
レオンハルトは一枚ずつ内容を確認し、
必要な指示を書き込んでいく。
「西方街道の捜索範囲を広げろ。森だけではない、
洞窟と廃坑も調べさせる。」
「はい。」
「北方の目撃情報は?」
「誤認でした。白銀の髪を持つ旅人を、
クリスティ殿下と見間違えたものかと。」
「……そうか。」
短く答え、次の書類へ手を伸ばす。
三日。
まだ三日。
けれど、何の手掛かりも得られないまま過ぎる時間は、
あまりにも長かった。
「レオン様。」
長く彼に仕える侍女が、新しい紅茶を机へ置いた。
その隣には、手をつけられないまま冷えた茶が残っている。
「先ほどのお茶もそのままです。
お食事も、ほとんど召し上がっておられません。」
「あとで取る。」
「昨日もそう仰いました。」
レオンハルトの手が止まる。
「……何が言いたい。」
「僅かでも、お休みになってください。」
「まだ捜索は終わっていない。」
「存じています。」
侍女は一歩も引かなかった。
「ですが、レオン様まで倒れてしまわれては困ります。」
「私の代わりなら、いくらでもいる。」
返事は早かった。
だが侍女も、迷わなかった。
「クリスティ様のお兄様の代わりは、どこにもいらっしゃいません。」
ペン先が止まった。
レオンハルトが、ゆっくりと顔を上げる。
「クリスティ様がお戻りになった時、
レオン様まで倒れておられたら、きっと悲しまれます。」
しばらくして、レオンハルトは深く息を吐いた。
「……口うるさいやつだ。」
「長くお仕えしておりますので。」
「……十分だけだ。」
侍女の表情が僅かに緩む。
「十分だけ休む。」
「はい。」
ほんの僅かに、その声が安堵した。
レオンハルトは、椅子の背へ身体を預ける。
目を閉じた。
けれど、浮かぶのは妹の顔だった。
三日前まで、当たり前のように皇城を歩き、
笑いながら自分を呼んでいた妹。
今すぐ、自分自身で探しに行きたい。
クリスティが消えた場所へ。
街道へ。
森へ。
どこまでも走って、妹の名を呼び続けたい。
だが、第一皇子である自分には、それが許されなかった。
誰かが、帝国全体を動かさなければならない。
騎士を、魔術師を、文官を、帝国中の情報を。
クリスティを取り戻すために。
兄として走れないのなら。
第一皇子として、すべてを動かす。
それが、今の自分にできることだった。
十分後。
レオンハルトは目を開く。
「……次の報告を。」
休息は終わった。
再びペンを取り、帝国を動かし始めた。
◇
同じ頃。
帝国北部。
奈落門の前線へ、一人の騎士が到着していた。
馬を乗り継ぎ、ほとんど休むことなく、
帝都から三日。
白銀の外套には土埃が付き、
赤い髪も乱れている。
それでも、リカルド・アークファイントは、
眼前にそびえる奈落門から目を離さなかった。
巨大な亀裂、底の見えない闇。
百五十年前から、北へ続く道を断ち切っている場所。
「……姫様。」
誰へ聞かせるでもなく、低く呟く。
「必ず、生きておられる。」
信じるというより。
それ以外の可能性を、受け入れるつもりがなかった。
背後から、足音が近付く。
「リカルド。」
振り返ると、奈落騎士団長アレクシスが立っていた。
リカルドの土埃に汚れた外套と、乱れた赤い髪を一瞥する。
「……最後にまともに寝たのは?」
リカルドは答えなかった。
それだけで十分だった。
「馬鹿野郎……。」
怒鳴るよりも低い声が落ちる。
「クリスティを迎えに行くんだろう?」
「……はい。」
「なら、生きていろ。」
リカルドの瞳が揺れた。
「迎えに行く前に倒れてどうする。」
「……申し訳ございません。」
「謝れとは言ってない。」
アレクシスは僅かに息を吐き、奈落門へ視線を向けた。
「ヴィオレットたちから報告が来た。
消失地点に、死や破壊を示す痕跡はないそうだ。」
リカルドが顔を上げる。
問いを待つことなく、アレクシスは言った。
「クリスティは生きている。」
リカルドの拳が強く握られた。
「……姫様は、生きておられる。」
「ああ。」
掠れた声に、アレクシスは迷いなく頷いた。
「だから、数時間でいい。眠れ。」
「ですが――」
「迎えに行く時に走れなければ、何の意味もない。」
リカルドは黙った。
「団長命令だ。」
長い沈黙の後、深く頭を下げる。
「……承知しました。」
その時だった。
「団長!」
前線の奥から、よく通る声が響いた。
書類を抱えた奈落騎士団副団長、
リディア・フォン・エーヴァルトがこちらへ駆けてくる。
「第五区画、異常ありません!
それから、補給部隊からの報告です!」
「分かった。寄越せ。」
アレクシスが書類を受け取ると、
リディアは隣に立つリカルドへ気付き、姿勢を正した。
「アークファイント卿。お久しぶりです!」
「エーヴァルト副団長。」
一礼したあと、リディアはリカルドの顔をじっと見た。
「……酷いお顔ですね。」
「否定はできません。」
「団長もですけど。」
「リディア。」
「事実です!」
アレクシスが眉間を押さえる。
周囲の騎士たちは、そっと視線を逸らした。
「次の交代まで、私がここを見ます。お二人とも休んでください。」
「俺は――」
「指揮官が二人とも倒れたら困ります!」
有無を言わせぬ勢いだった。
アレクシスは暫く黙ったあと、諦めたように息を吐く。
「……一時間半だ。」
「承知しました!」
リディアは満足そうに頷くと、
書類を抱えて再び前線の奥へ走っていった。
その後ろ姿を見送り、リカルドがぽつりと呟く。
「……アレクシス様も、人のことを仰えないのでは。」
「うるさい。」
短い返事だった。
それでも、先ほどまでの張り詰めた空気は少しだけ和らいでいた。
◇
やがて二人は、並んで奈落門を見上げた。
「ルシアンたちは、
奈落の歪みが対象を別の場所へ移す現象である可能性を調べている。」
アレクシスが巨大な闇を見据える。
「奈落門と同じものに由来するなら、ここにも何か手掛かりがあるかもしれない。」
リカルドは黙って奈落門を見つめた。
三日前。
届かなかった右手。
指先までは触れたのに、掴むことができなかった。
「姫様へ辿り着く道があるのなら、私は必ず見つけます。」
アレクシスは静かに頷いた。
「なら、俺はここを守る。」
「アレクシス様……。」
「奈落門の守備を空にするわけにはいかない。
俺はここで、今いる奴らを守る。」
巨大な闇から視線を外し、アレクシスはリカルドを見た。
「お前は探せ。道が見つかったら、迎えに行け。」
リカルドは、ゆっくりと右手を握った。
「はい。」
あの日、届かなかった手を思う。
「今度こそ。必ず、姫様の手を掴みます。」
冷たい風が、奈落門から吹き抜けた。
帝国では、誰も諦めていなかった。
父は、
十七年前に奪われた娘と、
三日前に奪われた娘の帰りを待つ。
兄は、帝国を動かし。
姉は、奈落の歪みの先を探す。
もう一人の兄は、
帝国を守るため奈落門に立つ。
そして一人の騎士は、再びその手を掴む日のため、
迎えに行く道を探し続けていた。




