第41話 失われた国の皇女
「……マーヴェリア帝国の、
皇女殿下でいらっしゃるのですね。」
沈黙を破ったのは、ルリスティだった。
「はい。」
クリスティは、掛け布の上へ両手を揃えたまま頷いた。
肩には、まだ痛みが残っているはずだ。
それでも背筋を伸ばし、
正面からルリスティの視線を受け止めている。
つい先ほどまで、
見知らぬ場所で目を覚ました一人の少女だった。
だが、今そこにいるのは、
マーヴェリア帝国の第二皇女だった。
「先ほどは、名だけをお伝えして、
家名と身分を伏せてしまいました。申し訳ありません。」
「謝罪は必要ありません。」
ルリスティは、すぐに首を横へ振った。
「何も分からない場所で、
ご自身の身分を明かすことへ慎重になられるのは当然です。」
「ですが、結果としてお二人を試すような形になってしまいました。」
「私が同じ立場でも、同じ判断をしたと思います。」
責めるでもなく、
ルリスティは当然のことのようにそう答えた。
その言葉に、クリスティの胸が僅かに緩む。
「……ありがとうございます。」
僅かに頭を下げた瞬間、肩へ痛みが走ったのだろう。
ほんの一瞬、眉が寄る。
ルリスティはすぐに気付いた。
「無理に姿勢を正されなくて大丈夫ですよ。」
「ですが――」
「今は皇女殿下である前に、治療を受けている方です。
どうか、お身体を優先してください。」
ルリスティの言葉に、クリスティが目を瞬かせる。
皇女ではなく、治療を受けている者。
皇城であれば、誰もがまず皇女としての自分を扱う。
体調を気遣われる時でさえ、
その前には必ず『殿下』という立場があった。
けれど、この人は、自分が皇女だと知った後も、
変わらず目の前の負傷者を気遣っている。
「……分かりました。」
クリスティは少しだけ背中の力を抜き、枕へ身体を預けた。
ジェイクは、その小さな変化を見逃さなかった。
先ほどまで、柔らかく笑いながらも身体には僅かな隙もなかった。
ルリスティの一言で、ようやくほんの少しだけ緊張が緩んだのだ。
「お聞きしたいことはいくつかありますが、
一度にすべて伺うつもりはありません。」
ルリスティはクリスティの様子を確かめてから続けた。
「まず、こちらへ来られた経緯を教えていただけますか。」
「はい。」
クリスティは頷いた。
だが、すぐには話し始めなかった。
掛け布の上へ置いた右手を、左手でそっと包む。
ほんの一瞬。
触れたはずの温もりが蘇った。
「昨日……いえ。丸一日眠っていたのでしたら、一昨日ですね。」
静かに口を開く。
「帝都郊外にある孤児院を視察しておりました。」
「孤児院を?」
「はい。皇族としての公務の一環で、
以前から定期的に訪れている場所です。」
子どもたちの笑い声が蘇る。
『クリスティお姉ちゃん!』
『今日も来てくれた!』
小さな手、無邪気な顔、抱きついてくる温もり。
あの時まで、何も変わらない一日だった。
「子どもたちと庭で過ごしていた時です。」
クリスティの指先へ、僅かに力が入る。
「突然、空間が歪みました。」
ジェイクが僅かに目を細めた。
「空間が……?」
「はい。空中に黒い亀裂のようなものが現れました。」
景色が捻じれ、風が止まり、
そして周囲のすべてがその亀裂へ引き込まれていった。
「帝国では、同様の現象を『奈落の歪み』と呼んでいます。」
「奈落門とは異なるのですか。」
「はい。」
クリスティは頷いた。
「奈落門は、百五十年前から帝国北部に存在する巨大な裂け目です。
ですが奈落の歪みは、全く別の場所へ突発的に現れるもので――」
僅かに言葉を止める。
「人や物を、どこかへ飲み込んでしまいます。」
「……どこかへ。」
ルリスティが小さく繰り返した。
何かが引っ掛かったように見えたが、それ以上問い返すことはなかった。
「その時、一人の子どもが歪みの近くで転びました。」
クリスティの声が、ほんの少しだけ揺れた。
泣きながら、黒い亀裂へ引き寄せられていく小さな身体。
考える時間などなかった。
「私は、その子を助けるために飛び出しました。」
ジェイクの視線が、一瞬だけルリスティへ向いた。
自分の身を顧みず、誰かを守るために前へ出る。
何度も見た。
よく知っている。
ルリスティもまた、同じことを繰り返す人間だった。
「子どもは、助かったのですか?」
ルリスティが尋ねる。
「はい。」
クリスティは小さく頷いた。
「近くにいた騎士が受け止めてくれました。」
あの子は助かった。
その事実だけは、今も胸の奥へ温かなものを残している。
「ですが、代わりに私が、歪みへ引き寄せられました。」
――手を伸ばした。
必死にこちらへ駆けてくる赤い髪の騎士へ。
『姫様!!』
何が起きても、ほとんど表情を崩さなかった人。
そんな彼が、あの時だけは恐怖を露わにしていた。
「クリスティ殿下。」
ルリスティの声が、静かに届く。
気付けば、右手を胸元へ引き寄せていた。
「無理に続きをお話しになる必要はありません。」
「……いいえ、大丈夫です。」
クリスティは小さく首を横へ振る。
そして、いつもの笑みを浮かべた。
柔らかく誰にも心配を掛けないための笑顔を。
けれど、ルリスティもジェイクも、
それを見て本当に大丈夫なのだとは思わなかった。
「護衛の騎士が、私へ手を伸ばしました。」
クリスティは、右手を左手でそっと包んだ。
「私も手を伸ばして――、指先までは、触れたんです。」
声が僅かに掠れる。
「でも……掴むことはできませんでした。」
窓から吹き込んだ風が、白銀の髪を静かに揺らした。
『クリスティ!!』
あの瞬間。
初めて、彼が自分の名前を呼んだ。
ずっと『姫様』としか呼ばなかった人が、最後の瞬間だけ。
クリスティ、と。
(アークファイント……。)
胸の奥が痛む。
子どもを助けたことに、後悔はない。
もう一度同じことが起きても、きっと自分は同じ選択をする。
それでも――
彼をあんな顔にさせてしまったことだけは、今も胸に残っていた。
「……その方は、殿下にとって、大切な方なのですね。」
ルリスティがゆっくり尋ねる。
「……はい。」
皇女として答えるだけなら、
『専属騎士です』の一言でよかった。
「私の……、大切な騎士です。」
小さな声だった。
だが、部屋の中にはっきりと響いた。
ジェイクの眉が僅かに上がる。
その一言に込められたものが、
単なる主従の情ではないことくらいは分かった。
「いつも、自分より前へ出ないでくださいと言われるのです。」
クリスティは、どこか申し訳なさそうに目を伏せる。
「それなのに私は、また約束を守れませんでした。」
紫水晶の瞳に、笑顔とは似合わない悲しみが浮かんでいた。
「きっと今頃、私を探して無理をしていると思います。」
食事も睡眠も後回しにして。
自分を守れなかったと、責め続けているかもしれない。
「本当に、困った人なんです。」
クリスティは、少し困ったように笑った。
ルリスティはしばらくその横顔を見つめてから、静かに口を開く。
「でしたら、その方はきっと、
殿下が思っておられる以上に強い方なのでしょうね。」
クリスティが顔を上げる。
「殿下がそれほど信頼していらっしゃる方なら、
今も諦めずに、帰る道を探しているはずです。」
ルリスティの声は穏やかだった。
「ですから今は、
その方の強さも信じて差し上げてください。」
「……。」
アークファイントは強い。
どんな時も、自分の傍に立ち続けてくれた人だ。
誰よりも信頼している。
それなのに離れている今は、彼が傷付いている姿ばかりを想像していた。
「……そうですね。アークファイントは、簡単に諦める人ではありません。」
クリスティはゆっくりと頷いた。
その名を口にすれば、今も胸が痛む。
それでも先ほどとは少し違った。
必ず探してくれている。
必ず、諦めずにいてくれる。
そう思えた。
「では、こちらでも帰る方法を探しましょう。」
「……協力してくださるのですか。」
「もちろんです。」
ルリスティは迷いなく答えた。
「ただ、今すぐ帰れるとはお約束できません。
今のお話にあったような空間の歪みについては、
共和国でも分かっていないことが多いのです。」
クリスティを真っ直ぐ見つめる。
「ですが、分からないからといって、
何もせず諦める理由にはなりません。」
「黒淵や空間の歪みに関する記録を調べ、
必要なら魔術や技術に詳しい者にも協力を求めます。」
できないことは約束しない。
けれど、できることは迷わず差し出してくれる。
その言葉に、
張り詰めていたクリスティの心が僅かに緩んだ。
「……ありがとうございます。」
「そのためにも、まずはお身体を治してください。」
ルリスティが少しだけ笑う。
「回復されましたら、砦の中にお部屋をご用意します。」
「砦に?」
「いつまでも救護所で過ごしていただくわけにはいきませんから。」
室内を見回す。
寝台。
小机。
医療道具。
負傷者のための部屋であって、生活する場所ではない。
「警備の都合上、
しばらく砦の外へ自由に出ていただくことは難しいと思います。」
「もちろんです。私の身分と現在の状況を考えれば、当然です。」
クリスティがすぐに頷くと、ルリスティも静かに応じた。
「ありがとうございます。ですが、拘束するつもりはありません。」
必要な衣服や日用品はこちらで用意すること。
オリビアや女性兵士にも話を通し、
不自由があれば遠慮なく申し出てほしいこと。
一つずつ説明してから、ルリスティは改めてクリスティを見た。
「今の殿下は、共和国に保護された方です。」
少しだけ言葉を置く。
「帰る方法が見つかるまで、辺境防衛軍が責任を持ってお守りします。」
「……そこまでしていただけるのですか。」
「はい。」
その返事にも、迷いはなかった。
守る。
その言葉に、クリスティの胸が小さく痛んだ。
『姫様をお守りするために、私はここにいます。』
また、アークファイントの声が蘇る。
けれど。
今度は、悲しいだけではなかった。
遠い場所で、自分を探している騎士。
そして、見知らぬ国で自分を守ると告げてくれる司令官。
一人ではない。
そう思えた。
「ご厚意に、心より感謝いたします。」
クリスティは静かに頭を下げた。
完璧な言葉。
完璧な礼。
皇女として整えられた微笑み。
けれど、掛け布の上へ重ねた指先はまだ僅かに強張っている。
ジェイクは、その姿を黙って見つめていた。
(司令も、あんな顔をする。)
何も問題がないと、周囲を安心させたい時、
ルリスティも穏やかに笑う。
顔立ちだけではない。
似ている。
自分の不安を隠して、先に周囲を安心させようとするところまで。
「クリスティ殿下。」
ルリスティが静かに名を呼ぶ。
「はい。」
「今は、皇女として気丈に振る舞われなくても構いませんよ。」
クリスティの笑顔が止まった。
ジェイクも僅かに視線を動かす。
「ここには、殿下の臣下も帝国の民もおりません。
誰かを安心させるために、無理をして笑わなくても大丈夫です。」
「……。」
言葉が出なかった。
見抜かれている。
皇城では、皆が自分を愛してくれた。
自分の笑顔を喜んでくれた。
だから、苦しい時ほど笑わなければならないと思っていた。
けれど、目の前の人は、その笑顔へ安心するのではなく、
その奥に隠したものを静かに見つめている。
「私は……。」
皇女だから大丈夫です。
そう答えるつもりだった。
でも、声にならなかった。
ルリスティは急かさない。
ただ、穏やかな瞳で待っている。
ジェイクも何も言わず、窓の向こうへ視線を逸らした。
やがて、小さく呟いた声は皇女としてのものではなかった。
「……本当は、少し……怖かったんです。」
ルリスティの瞳が僅かに見開かれる。
「目を覚ましたら知らない場所で、知っている人が誰もいなくて。」
指先へ力が入る。
「帝国へ帰れるかも分からなくて、
皆が今どうしているのかも分からなくて。」
一度言葉にすれば、押し込めていた不安が次々に形を持ち始める。
「お父様も、お兄様たちも、お姉様も、きっととても心配しています。」
クリスティは目を伏せた。
「それに……アークファイントにも。」
声が僅かに震える。
「早く会いたいです。」
一度口にしてしまえば、押し込めていた思いは止まらなかった。
「早く帰りたいです。早く……みんなに会いたい……。」
それは、一国の皇女の言葉ではなかった。
一人の少女の、偽りのない願いだった。
「……はい。帰りましょう。」
ルリスティは静かに頷く。
クリスティが顔を上げた。
「今すぐ必ずとは、申し上げられません。」
ルリスティは椅子から立ち上がり、寝台の傍へ一歩近付く。
「帰るためにできることを、一つずつ探しましょう。」
「殿下お一人ではありません。私たちも共に探します。」
「……。」
「ですから、今は少しだけお休みになってください。」
掛け布の端を、クリスティの肩へ掛かるよう静かに整える。
その手付きは、ひどく自然で優しかった。
クリスティは、その横顔を見つめた。
今日、初めて会った人。
百五十年間、帝国と断絶していた国の司令官。
なぜ自分と同じ色を持つのかも分からない女性。
それなのに――。
(不思議。)
張り詰めていた胸の奥が、少しずつ緩んでいく。
(この人の前では、平気じゃないって、
言ってもいいような気がする。)
クリスティの口元へ、小さな笑みが浮かんだ。
誰かを安心させるために作った笑顔ではない。
不安を残したまま。
それでも、差し出された優しさへ素直に応える笑顔。
「ありがとうございます。」
同じ言葉。
けれど、先ほどとは響きが違っていた。
ルリスティも、その違いへ気付いて僅かに目を細める。
「どういたしまして。」
二人の間へ、静かな時間が流れた。
ジェイクは窓へ向けていた視線を、ゆっくりと二人へ戻す。
同じ髪。
同じ瞳。
よく似た顔立ち。
だが、似ているのは外見だけではない。
自分の痛みを隠し、誰かのために笑うところ。
相手を安心させる言葉を、自然に選ぶところ。
そして、初めて会ったはずの互いへ、
理由も分からないまま心を許し始めているところまで。
(……本当に、ただの偶然なのか?)
胸の奥に生まれた疑念は、先ほどよりも確かな形を持ち始めていた。
だが、今は口にするべきではない。
ジェイクはそう判断し、二人を静かに見守った。
失われたと思われていた国から来た皇女と、自らの過去を知らない司令官。
二人はまだ何も知らなかった。
十七年前、
奈落の歪みによって引き離された姉妹が、
今こうして再び同じ場所で、互いの心へ触れ始めていることを。




