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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第40話 同じ厄災の向こう側

「ルリスティ……。」

クリスティは、

もう一度その名を胸の内で繰り返した。


クリスティ。

ルリスティ。


どこか似た響きを持つ名前。

けれど今は、

それ以上に気になることがあまりにも多かった。


目の前にいる女性は、

自分と同じ白銀の髪と、同じ紫水晶の瞳を持っている。


そして、

百五十年前の災厄以降、

帝国から存在を確認する術を失った国で、

辺境防衛軍司令官を務めているという。


何から尋ねるべきなのか、すぐには決められなかった。


「……。」

クリスティは、掛け布の上で両手を静かに重ねた。

指先は震えていない。

背筋も、いつも通り伸びている。

どのような場でも取り乱さないこと。


感情に任せて言葉を選ばないこと。

皇族として幼い頃から教え込まれ、

今では身体に染み付いている振る舞いだった。


自分がどこにいるのか。

目の前の者たちは何者なのか。

帝国へ帰る方法があるのか。

何一つ分からない。


だからこそ、軽率に動いてはならない。

胸の奥で渦巻く混乱を、柔らかな表情の奥へ押し込める。


「ルリスティ司令官。」

「はい。」

「少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか。」

「もちろんです。ただ――」

ルリスティは、クリスティの肩へ視線を落とした。

「その前に、診てもらいましょう。」


扉際のジェイクへ顔を向ける。

「マルセリア大佐。オリビアをお願いします。」

「了解。」

ジェイクは短く答え、壁から背を離した。


扉へ向かう途中、一度だけクリスティへ目を向ける。

深い青の瞳には警戒が残っていたが、敵意はない。

ただ、こちらが何をするのか見極めているような目だった。


「すぐ戻ります。」

ジェイクが部屋を出ていく。

扉が閉じると、クリスティは小さく息を吐いた。

「……皆様へ、随分ご迷惑をお掛けしているようですね。」

「迷惑ではありませんよ。」


ルリスティは椅子へ座り直し、膝の上の報告書を閉じた。

「ここは救護所です。怪我をした方を助けるための場所ですから。」

「ですが――」

「不安なのは分かります。」


穏やかな声だった。

「見知らぬ場所で目を覚まして、知らない者に囲まれているのです。

不安にならない方がおかしいでしょう。」


クリスティは、僅かに目を伏せた。

否定できなかった。


今すぐ、皇城へ帰りたい。

父に、兄たちに、ヴィオレットに。

そして――

あの赤い髪の人に、もう一度会いたい。

(アークファイント……。)


きっと今頃、誰よりも自分を責めながら、

休むこともなく探している。

そう思うだけで、胸の奥が痛んだ。


「帰りたい場所が、あるのですね。」

静かな声に、クリスティは顔を上げた。

ルリスティがこちらを見ている。

自分と同じ紫水晶の瞳。

けれど、そこに宿る光は、クリスティが知る誰とも違っていた。

静かで、揺らがず、それでいて決して冷たくない。


「……はい。大切な人たちが私を待っています。」

「そうですか。」

ルリスティの表情が僅かに和らぐ。

「では、帰る方法を探しましょう。」


あまりにも自然な言葉に、クリスティは瞬きをした。

「……私が何者なのかも、

どこから来たのかも分からないのに?」

「ええ。」

ルリスティは水差しから杯へ水を注ぎ、クリスティの手元へ置いた。


「少なくとも、

あなたが自分の意思であの森へ来たとは思えません。」

旅装ではない服。

長距離を歩くには不向きな靴。

森へ入った痕跡も、身元につながるような所持品もない。


「何か、あなたにも説明できない事情がある。

そう考える方が自然でしょう。」

クリスティは、差し出された杯へ目を落とした。

眠っている間に、そこまで確かめていたらしい。


拘束することもなく。

手荒な尋問をすることもなく。

ただ、何が起きたのかを、冷静に見極めようとしている。


「それに。」

ルリスティが少しだけ笑う。

「今のあなたは、事情を聞き出すべき相手である以前に、

保護された負傷者です。」


その言葉にクリスティの肩から、僅かに力が抜けた。

そこで初めて、自分がずっと緊張していたことに気付く。

「……ありがとうございます。」

「礼を言われるようなことではありませんよ。」

「いいえ。」


クリスティは、杯を両手で持ち上げた。

冷たい水が、乾いていた喉を潤す。

「目を覚ますまで、拘束もせず、

ここで看ていてくださったのでしょう?」

「私は、ただ傍にいただけです。」

「それでもです。」


杯を戻し、クリスティは真っ直ぐルリスティを見た。

「ありがとうございます。」

ルリスティは少しだけ目を瞬かせた後、

「どういたしまして。」

穏やかに答えた。


ほどなくして、ジェイクがオリビアを連れて戻ってきた。

「目が覚めたのね。」

オリビアは手早く脈を取り、痛むという肩の状態を確認する。

「打撲ね。骨に異常はないわ。気分が悪かったり、眩暈は?」

「ありません。」

「なら大丈夫そうね。ただ、魔力の流れはまだ乱れているから、

今日は術式を使わないこと。無理もしない。」

「分かりました。」


オリビアは今度はルリスティを見る。

「話をするなら、疲れさせない程度にね。」

「はい。」

「何かあったら呼んで。」

それだけ言い残し、

オリビアが部屋を出ると、ジェイクが静かに扉を閉じた。


室内へ静けさが戻る。

ルリスティは、クリスティの背中の枕をそっと直した。

「ありがとうございます。」

「無理はなさらないでください。」


椅子へ腰掛けると、今度は少しだけ表情を改める。

「話せる範囲で構いません。

何があったのか、教えていただけますか。」

穏やかな声。

だが、先ほどまでとは少しだけ違う。


一人の負傷者を気遣う女性ではなく、

辺境を預かる司令官としての問いだった。

クリスティにも、それは理解できた。

自分が逆の立場なら同じことをする。


「分かりました。」

クリスティは、背筋を伸ばした。

肩へ痛みが走るが、それを表情には出さない。

口元には、変わらず柔らかな微笑み。

その一方で、瞳の奥には慎重な光が宿っていた。


先ほどまで戸惑いを見せていた女性とは、

纏う空気が僅かに違う。

ジェイクは何も言わず、その変化を見ていた。

家名を伏せたこと。

未知の場所にいながら、

一つずつ状況を確かめようとしていること。

その振る舞いが、妙に引っ掛かった。


「まず、一つだけ確認させてください。」

クリスティは、二人へ視線を向けた。

「ここは、本当にアドバンス共和国なのですね。」


ルリスティが静かに頷く。

「はい。アドバンス共和国、辺境防衛軍本部です。」

「……そして、共和国は今も国家として存続しているのですね。」

今度は、ルリスティの方が僅かに眉を寄せた。


「もちろんです。ですが……」

少し間を置き、クリスティを見る。

「何故、そのような確認を?」

クリスティは膝の上で両手を重ねた。


「私の故郷では、アドバンス共和国は百五十年前の災厄以来、

存続を確認できていない国として伝えられています。」

「……存続を?」

ルリスティの表情が変わる。

扉際にいたジェイクも、黙ってクリスティへ目を向けた。

「はい。」

クリスティは慎重に言葉を続ける。


「百五十年前。二つの国を繋いでいた大地に巨大な次元の裂け目が生じ、

そこから大量の魔物が現れた。」

「……。」

「陸路は失われ、それ以来、

向こう側の国と連絡を取ることはできなくなったと。」


ルリスティの紫水晶の瞳が、僅かに見開かれる。

「あなたの故郷にも……同じ出来事が伝わっているのですか。」

「同じ……?」

今度は、クリスティがその言葉に反応した。


ルリスティは小さく頷く。

「あなたの故郷では、その裂け目を何と呼んでいますか?」

奈落門ならくもんです。」

一瞬。

室内の空気が変わった。

ジェイクが僅かに姿勢を起こす。


ルリスティは、その名を確かめるように繰り返した。

「……奈落門。」

穏やかだったルリスティの表情が引き締まる。


「共和国では、その裂け目を黒淵こくえんと呼んでいます。」

「黒淵……。」

名前は違う。

けれど、二人が話しているものは間違いなく同じだった。


「黒淵が現れて以降、共和国も向こう側との陸路を完全に失いました。」

ルリスティが続ける。

「海には海魔。空にはドラゴン。

海路も空路も、完全に閉ざされています。」


クリスティが息を呑んだ。

帝国と、同じだ。

ルリスティは、クリスティの目をまっすぐ見た。

「ですから共和国も、黒淵の向こう側にあった国が今も存在しているのか、

百五十年間、確かめることができていません。」


クリスティの指先へ、僅かに力が入った。

「……その国の名を、教えていただけますか。」

「マーヴェリア帝国です。」


クリスティの動きが止まった。

「……マーヴェリア帝国。」

「はい。」

ルリスティは静かに頷いた。


「共和国でも、帝国が滅びたと確認されたわけではありません。

ただ――」

僅かに目を伏せる。

「百五十年間、一人の使者も現れなかった。」

そして再び、クリスティを見る。

「だから今では、滅亡した可能性が高いと考える者がほとんどです。」


「……。」

クリスティは、顔を伏せた。

鼓動が、激しく胸を打っている。


共和国は、帝国が失われたと考えていた。

帝国も、共和国が失われた可能性が高いと考えていた。

百五十年。

互いに、亀裂の向こうで相手の存在を確かめることすらできず。

同じ災厄と戦い続けていた。


(そんな……。)

百五十年前の災厄に、共和国が関わっていたのではないか。

長い年月の中で、そんな憶測が語られたこともあった。


けれど、違う。

共和国も同じだった。

魔物に襲われ、陸路を失い、海と空を閉ざされていた。

少なくとも、百五十年前に二つの国を断絶させた原因は、

相手国ではなかった。


「……クリスティさん、大丈夫ですか?」

ルリスティの声に、クリスティは顔を上げた。

自分の呼吸が、僅かに浅くなっている。


「……失礼しました。」

息を整える。

そして微笑んだ。

いつものように、誰にも心配を掛けないための顔で。

「少し、驚いただけです。」


ルリスティは、その笑顔をしばらく見ていた。

柔らかいのに、あまりにも整った微笑み。

何かを見せるためではなく、何も見せないための顔。

ルリスティには分かった。

自分にも、覚えがある。


「そうですか。」

それ以上は尋ねず、水差しから杯へ水を注いで差し出した。

「今は、無理に整理しなくても大丈夫ですよ。

分からないことが多すぎますから。」


「……ありがとうございます。」

クリスティは、静かに杯を受け取った。

指先が、ほんの一瞬ルリスティの指へ触れる。

温かい。

不思議なほど安心する温もりだった。


「ルリスティ司令官。」

「はい。」

クリスティは、杯を手にしたまま尋ねた。

「身元も分からない私を、拘束しなくてよいのですか?」


ルリスティは少しも迷わなかった。

「今のところ、その必要はないと判断しています。」

「ですが、私が共和国へ害意を持っている可能性も――」

「もちろん、否定はしていません。」


ルリスティはそう答え、扉際のジェイクへ一度だけ視線を向ける。

「そのために、私たちがここにいます。」

「必要なら対処しますよ。」

ジェイクも淡々と応じた。


脅しではない。

ただ、それができるという事実を告げただけだった。

ルリスティは再びクリスティを見る。


「ですが今のあなたは、抵抗もしていない負傷者です。」

「……。」

「警戒はします。けれど、

何も分からないうちから敵だと決めつける必要もないでしょう?」

穏やかな声音だった。


優しいだけではない。

危険を理解した上で、

それでも目の前の人間を一人の人間として扱っている。

クリスティは、手の中の杯へそっと視線を落とした。


(この人なら。)

胸の奥へ、一つの思いが浮かんだ。

すべてを信じられるわけではない。


共和国が、

帝国へどういう感情を抱いているのかも分からない。

自分が皇女だと知れば、政治的に利用される可能性だってある。


それでも、少なくとも、目の前のルリスティは、

自分へ偽りを告げているようには見えなかった。

そして、何故なのか。

クリスティ自身も、この人へは嘘をつきたくないと思った。


「一つ、お願いがあります。」

杯を小机へ戻し、掛け布の上へ両手を揃える。

「何でしょう。」

クリスティは、ルリスティとジェイクを順に見た。

「これからお伝えすることを、

すぐにはこの部屋の外へ漏らさないと、お約束いただけますか。」


ルリスティは、横目でジェイクを見る。

ジェイクは何も言わず外の気配を確かめ、

そのまま扉へ鍵を掛けた。


「外の警備には、司令が事情を聞いている間、

誰も入れるなと伝えてあります。」

「ありがとうございます。」

ルリスティはジェイクへ小さく頷くと、

クリスティへ向き直った。


「辺境防衛軍司令官として、この場でお聞きしたことは、

まず私たちの間に留めると約束します。」

ジェイクも、僅かに表情を改めた。

「俺もです。ただし、共和国の安全に関わると判断した場合は、

司令と相談の上で対応します。」


クリスティは、ほんの僅かに目を見開いた。

秘密は守る。

けれど、無条件ではない。

自分たちが背負うものまで、放棄するつもりはない。

だからこそ、むしろ信頼できると思った。


「……十分です。ありがとうございます。」

クリスティは頷くと、ゆっくりと目を閉じた。


皇城。

父、兄たち、ヴィオレット。

そして――アークファイント。

皆の姿が次々と脳裏へ浮かぶ。

自分は、マーヴェリア帝国の皇女だ。

知らない国にいても、たった一人でも、その事実は変わらない。

怖くないわけではない。

それでも、恐怖へ身を委ねるわけにはいかなかった。


目を開く。

そして、背筋を伸ばした。

肩へ鋭い痛みが走り、一瞬だけ呼吸が止まる。

それでも姿勢は崩さなかった。


それを見たルリスティの表情が変わる。

ジェイクも、扉際で僅かに姿勢を正した。

先ほどまで、救護所の寝台にいた一人の負傷者。


けれど今、目の前にいる女性は、

明らかに纏う空気を変えていた。

静かで、柔らかく、それでも軽んじることを許さない。

人の前へ立ち、自分の言葉が多くの者へ影響を与えることを、

幼い頃から知っている者の姿だった。


ジェイクが僅かに目を細める。

上質な衣服。

洗練された所作。

状況を見極める慎重さ。

先ほどから感じていた違和感が、

ようやく一つの形を取り始める。


「私の名は……。」

クリスティは、真っ直ぐ二人を見た。

「クリスティ・フォン・マーヴェリア。」

ルリスティの瞳が大きく見開かれた。

ジェイクも、表情を失った。

「マーヴェリア帝国、第二皇女です。」

一言ずつ明確に告げる。


静寂が広がり、誰もすぐには言葉を発しなかった。


百五十年間。

存続を確認できなかった国。

その国の皇女が。

今。

共和国の救護所で、

真っ直ぐ二人を見つめている。


ジェイクは、ゆっくりと二人の女性を見比べた。


同じ白銀の髪。

同じ紫水晶の瞳。

よく似た顔立ち。

年の頃も、そう離れてはいない。


片方は二歳の頃、

クラウス・トリウリッドが突然連れてきた少女。

実の娘ではない。

どこから来たのか、

クラウスは最後まで語らなかった。


そして、もう片方は。

百五十年間、失われたと思われていた国から現れた皇女。

マーヴェリア。

その名が、ジェイクの脳裏へ重く残る。


偶然。


そう呼ぶには、

あまりにも多くのものが重なりすぎていた。


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