第39話 目覚めた太陽
朝の光が、閉じた瞼を淡く照らしていた。
眩しい。
そう思った次の瞬間、肩へ鈍い痛みが走る。
「……っ。」
クリスティは眉を寄せ、ゆっくりと瞼を開いた。
見知らぬ天井だった。
白い石造りの部屋。
開いた窓から吹き込む、涼しい朝の風。
鼻をくすぐる薬草の香り。
ぼんやりとした意識のまま、何度か瞬きを繰り返す。
ここは、どこなのだろう。
どうして自分は、寝台の上にいるのだろう。
そう考えた瞬間。
脳裏へ、黒い歪みが蘇った。
奈落の歪み。
子どもたちの悲鳴。
伸ばされた手。
そして。
『クリスティ!!』
「――……。」
シーツを掴んだ指へ、無意識に力が入った。
あと少しだった。
触れたと思った。
それでも届かなかった。
最後に見た彼の顔が、鮮明に蘇る。
いつも冷静で。
どれだけ困らせても、
最後には仕方がないというように眉を下げる人。
滅多に感情を露わにしない彼が。
あの時だけは、自分の名前を悲痛な声で叫んでいた。
『姫様。』
『どうか、自分より前へ出ないでください。』
『姫様をお守りするために、私はここにいます。』
何度、そう言われただろう。
視察へ出るたび。
少し無茶をするたび。
その度に、呆れたような顔で言われてきた。
それなのに。
(……また、守れなかった。)
クリスティは、静かに目を閉じた。
子どもを助けたことを、後悔しているわけではない。
もう一度、同じことが起きても。
きっと自分は、同じように飛び出してしまう。
(ごめんね。)
胸の奥が、ひどく痛んだ。
(約束、守れなかった。)
来年も、その次も。
また孤児院へ来ると約束した。
そして、彼とも。
来年も、その先も、誕生日を祝うと。
(アークファイント……。)
今頃、皇城はどれほどの騒ぎになっているだろう。
お父様。
レオンハルトお兄様。
アレクシスお兄様。
ヴィオレットお姉様。
そして、きっと。
誰よりも、自分自身を責めている人。
(お願いだから、あなたのせいだなんて思わないで。)
クリスティは、ゆっくりと息を吐いた。
今は、帰るためにもまず状況を把握しなければならない。
そう自分へ言い聞かせ、ようやく、
クリスティは周囲へ視線を巡らせた。
最初に目に入ったのは、
扉の傍にいる一人の男だった。
背が高い。
アークファイントくらいの高さだ。
黒を基調とした見慣れない制服に身を包み、
壁際へ寄せた簡素な椅子に浅く腰掛けている。
少し乱れた黒髪。
深い青の瞳。
片腕を背凭れへ預けた姿だけを見れば、
随分と気安い雰囲気の男だった。
(……違う。)
クリスティは、ほんの僅かに目を細めた。
椅子が置かれている位置が絶妙だった。
寝台から扉まで。
窓から室内全体まで。
何かあれば、どちらへもすぐ動ける場所。
身体からは力が抜けているように見えるのに、
視線だけは一度も周囲への警戒を解いていない。
腰には見たことのない武器。
制服には、意味の分からない徽章。
どの程度の地位にいる人物なのかは分からない。
それでも、普通の兵士ではないことくらいは見て取れた。
誰かに命じられてそこにいるというより、自分の意思で残っているように見える。
そして何より。
クリスティが目を開けた時には、
男は既にそれに気付いていた。
視線が合う。
その瞬間。
男の目が、ほんの僅かに細められた。
何かを見定めるような、一瞬の変化だった。
けれど、男は何も言わない。
近付いてもこなかった。
ただ、こちらの様子を窺いながら、
必要以上の圧迫を与えない距離を保っている。
(兵士……?)
けれど、帝国の騎士とはどこか違う。
装いも、武器も、周囲への警戒の仕方も。
それでも、
戦うことを生業としている人間だということだけは分かった。
アークファイントとはまるで違う。
あの人が研ぎ澄まされた剣なら、
この男は、
鞘へ収めたままでも油断できない武器のようだった。
なのに、不思議と恐ろしさは感じなかった。
鋭い視線の奥に、こちらを傷付けようとする意思がないからだろう。
クリスティは、ほんの少し肩の力を抜いた。
そして、寝台の傍へ視線を移したクリスティは、
そこで目を止めた。
椅子に、一人の女性が座っていた。
長い白銀の髪が、朝日を受けて淡く輝いていた。
自分のものよりも真っ直ぐで、
低い位置で一つに束ねられている。
黒い制服に包まれた細身の身体。
膝の上には、開かれたままの報告書。
女性は椅子へ凭れ、静かな寝息を立てていた。
恐らく、夜通しここにいたのだろう。
(綺麗な人……。)
最初に浮かんだのは、そんな感想だった。
白銀の髪は珍しい。
マーヴェリア皇族を象徴する色ではあるが、
帝国内にも同じ髪色を持つ者は僅かながら存在する。
だから、髪の色だけならそれほど不思議なことではない。
けれど――。
クリスティは、
眠る女性の顔をもう一度見つめた。
(……なんだろう。)
どこか、似ている。
目元。
鼻筋。
顔の輪郭。
鏡を見ているほどではない。
けれど、初めて会った人とは思えないほど、
見覚えのあるものがそこにあった。
その時。
扉際の男が、静かに椅子から立ち上がった。
だが、こちらへ近付いてはこない。
代わりに、寝台の傍で眠る女性へ視線を向ける。
「司令、目を覚ましたようですよ。」
低い声が、静かな室内へ響く。
声に反応するように、女性の長い睫毛が微かに震えた。
ゆっくりと、瞼が持ち上がる。
その瞬間。
クリスティは息を呑んだ。
――紫水晶の瞳。
朝の光を映したその色は、何度も鏡の中で見てきたものと同じだった。
白銀の髪。
紫水晶の瞳。
どちらか一方だけなら、帝国内にも同じ色を持つ者はいる。
けれど、その二つを生まれながらに併せ持つ者は――
マーヴェリア皇族だけだった。
(……どうして?)
クリスティは、目の前の女性から目を離せなかった。
見覚えのない黒い制服。
知らない場所。
知らない女性。
それなのに。
白銀の髪も、紫水晶の瞳も。
何度も鏡の中で見てきた、自分と同じ色だった。
ふと、扉際の男へ視線を向ける。
彼は驚いてはいなかった。
ただ、先ほどクリスティと目が合った時よりも、
ずっと真剣な目で二人を見比べている。
クリスティを見て。
次に、女性を見る。
そしてもう一度、クリスティへ。
まるで、先ほど気付いた何かを、改めて確かめているように。
クリスティが戸惑っていると、目の前の女性もまた、
こちらを見つめたまま僅かに瞳を見開いた。
「……。」
何故そんな顔をするのか。
クリスティには分からない。
ただ。
同じ白銀の髪と、同じ紫水晶の瞳を持つ二人は、
しばらく言葉もなく互いを見つめていた。
先に我に返ったのは、目の前の女性だった。
「……お目覚めになりましたか。」
寝起きとは思えないほど穏やかな声だった。
女性は膝の上の報告書を閉じ、椅子から立ち上がる。
「お身体に、異常はありませんか?」
その声を聞いた瞬間。
クリスティの胸の奥に、不思議な温かさが広がった。
初めて聞く声のはずなのに、何故か、ひどく安心する。
「……大丈夫です。」
クリスティは、痛む肩へ軽く手を添えた。
「少し肩が痛みますが、動けないほどではありません。」
女性の表情が、僅かに和らぐ。
「そうですか。よかった。」
小さく息を吐いた一言が、ひどく優しく聞こえた。
クリスティは、改めて部屋を見回した。
「ここは……?」
女性は、少し姿勢を正える。
「アドバンス共和国、辺境防衛軍本部の救護所です。」
「……え?」
クリスティの思考が、一瞬止まった。
「共和……国……?」
聞き間違いかと思った。
けれど女性は、静かに頷いて、
ごく当たり前のことを告げるように繰り返す。
「はい。アドバンス共和国です。」
「……。」
クリスティは、言葉を失った。
アドバンス共和国。
百五十年前。
奈落門の発生によって、帝国との陸路を失った国。
海は海魔に阻まれ、空はドラゴンによって閉ざされ。
それ以来、
帝国は一度も、共和国との連絡を取ることができていない。
存続している証拠もなく。
長い年月の中で、滅びた可能性が高いと考えられてきた国。
その名を、
目の前の女性はあまりにも当然のように口にした。
(まさか……。)
奈落の歪みに飲み込まれたその先が。
(奈落門の……向こう側……?)
何一つ理解が追いつかない。
それなのに。
もっと理解できないものが、目の前にいる。
白銀の髪。
紫水晶の瞳。
自分によく似た女性。
クリスティが呆然と見つめていると、
女性はそれを混乱ゆえの反応だと受け取ったのだろう。
「申し遅れました。私は、ルリスティ・トリウリッド。」
胸元へ手を添え、静かに名乗る。
クリスティの心臓が。
一度。
強く脈打った。
「アドバンス共和国辺境防衛軍司令官を務めています。」
「……ルリスティ……。」
思わず。
その名前だけを、小さく繰り返していた。
女性――ルリスティが、僅かに首を傾げる。
「はい。」
何故。
今、胸がこんなにも騒いだのだろう。
知らない名前。
聞いたことなど、一度もないはずなのに。
「……失礼しました。」
クリスティは、小さく首を振った。
「何故か、とても懐かしい響きに聞こえて。」
「懐かしい……?」
ルリスティの表情が、ほんの僅かに揺れる。
今度はクリスティが、僅かに背筋を伸ばした。
目の前にいるのは、自分を保護してくれた辺境防衛軍の司令官。
ならば、こちらも、何も名乗らないわけにはいかない。
ただし、ここが本当に共和国であるのなら。
自分がマーヴェリア皇族であることを、
今すぐ明かすべきかは判断できない。
百五十年間、交流のなかった国。
現在、帝国をどう認識しているのかも分からない。
まずは、共和国の現状と、
自分が置かれた立場を見極める必要がある。
「……クリスティと申します。」
家名は告げなかった。
身分も、まだ伏せておく。
けれど、名前まで偽るつもりはなかった。
「クリスティさん。」
ルリスティは、その名を確かめるように繰り返した。
今度は、彼女の瞳が僅かに揺れた。
「……。」
「どうかしましたか?」
クリスティが尋ねる。
ルリスティは、ほんの少し迷ってから首を振った。
「いいえ。」
それから、自分でも理由が分からないというように、静かに続ける。
「ただ……」
ルリスティの紫水晶の瞳が、まっすぐクリスティを見つめる。
「クリスティというお名前が、とても、懐かしく聞こえました。」
「……。」
クリスティも、ルリスティを見つめる。
クリスティ。
ルリスティ。
似た響きを持つ、二つの名前。
初めて会ったはずの二人。
互いのことなど、何一つ知らない。
それなのに。
その名前だけが。
ずっと昔から、互いを知っていたように。
胸の奥へ、静かに響いていた。




