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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第四章 巡り合う太陽と星
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第38話 星が太陽を見つけた日

夜明け前。

辺境防衛軍本部には、冷たい風が吹いていた。

空はまだ薄暗く、

東の地平線だけが僅かに白み始めている。


辺境防衛軍司令官。

ルリスティ・トリウリッド准将は、

外套の留め具を閉じながら足早に回廊を進んでいた。


長い白銀の髪は、

移動の邪魔にならないよう低い位置で一つに束ねている。

腰には二丁の魔導銃。

軍靴が石床を打つ音は静かだったが、

その歩みに迷いはなかった。


「司令。」

階段を下りたところで、聞き慣れた声に呼び止められ、

ルリスティが足を止める。

壁へ背を預け、黒い軍服を着た長身の男がこちらを見ていた。


ジェイク・マルセリア大佐。

二年前、少佐として辺境防衛軍へ配属された男は、

数々の戦功と実績を積み重ね、

わずか二年で大佐まで昇進していた。

階級章こそ増えたものの、

少し乱れた黒髪もどこか気だるげな立ち方も。

本人の纏う空気は、相変わらずだった。


「マルセリア大佐。……待っていたのですか?」

ルリスティが僅かに眉を上げる。

「ええ。」

悪びれもせず、ジェイクは壁から背を離した。


辺境森林地帯で身元不明の女性を保護。

意識なし。外傷は軽度。

通常の巡回路から外れた場所で発見され、現在、本部へ搬送中。

さらに、その報告を受けたルリスティが、

自ら南門へ向かうと告げたことも、

すでにジェイクの耳へ入っているのだろう。


「南門へ向かうことは伝えましたが、出発時刻までは知らせていません。」

「二年も一緒にいれば、それくらい分かりますよ。」

ルリスティは何も返さず、再び歩き出した。

ジェイクも自然にその隣へ並ぶ。

しばらくして、彼が横目でルリスティを見る。


「司令。」

「何でしょう。」

「歩くの、いつもより速いですよ。」

ルリスティの歩みが僅かに緩む。

「……気のせいです。」

「では、そういうことにしておきます。」


それ以上、ジェイクは追及しなかった。

代わりに、そのまま歩調を合わせる。

「大佐も来るのですね。」

「そのつもりです。」

「同行を頼んだ覚えはありませんよ。」

「知っています。」

ルリスティは小さく息を吐いたが、追い返そうとはしなかった。


やがて外へ続く扉へ着くと、

ジェイクが一歩先に出て押し開ける。

冷たい外気が、夜明け前の回廊へ流れ込んだ。

「護衛は必要ありませんよ。」

扉をくぐりながら、ルリスティが念のため告げる。


「それも知っています。俺が行きたいだけです。」

ジェイクは扉を押さえたまま、僅かに口元を緩めた。

ルリスティは一瞬だけ彼を見る。

「……では、同行をお願いします。」

「了解、司令。」

そう言うと、当然のように後へ続いた。




南門へ近付くにつれ、本部の中は慌ただしくなっていった。

救護班が担架を準備し、門兵たちが巡回隊の到着を待っている。

その中心に、白い外套を羽織った女性がいた。


「オリビア。」

声を掛けると、

彼女が振り返った。

「司令官まで来たの?」

「はい。」

その後ろのジェイクを見て、オリビアが眉を上げる。


「……大佐も?」

「護衛です。」

「頼んでいませんが。」

ルリスティが淡々と挟む。

「知ってます。」

オリビアは呆れたように息を吐いたが、

すぐに医療担当者の顔へ戻った。


「巡回隊からの報告では、大きな外傷はないそうよ。」

ルリスティの表情も引き締まる。

「ただ、発見された場所が場所だから。

魔力障害や瘴気の影響を受けている可能性もある。

意識が戻るまでは詳しいことは分からないわ。」

「命に別状は?」

「今のところ。呼吸も脈も安定していると聞いているわ。」


その言葉を聞いた瞬間、

ルリスティの肩から僅かに力が抜けた。

ほんの少し。

他の者なら見逃していただろう。

隣にいたジェイクだけが、

何も言わずその横顔を見ていた。


その時、遠くから門兵の声が響く。

「巡回隊、到着!」

南門がゆっくりと開かれた。

冷たい朝の風と共に、数人の兵士が本部へ駆け込んでくる。


その中央。

四人の兵士が一台の担架を運んでいた。

「道を開けて!」

オリビアの声が響き、待機していた救護班が即座に動く。

ルリスティとジェイクも、自然と進路を空けた。


担架が近付く。


最初に見えたのは、緩やかに波打つ長い髪だった。

夜明けの淡い光を受けて、

銀色に輝いている。


「……。」

ルリスティの呼吸が、一瞬だけ止まった。

白銀の髪。

自分と同じ色。


だが、ルリスティの真っ直ぐな髪とは違う。

担架に横たわる女性の髪は、

柔らかく波打ちながら白い布の上へ広がっていた。

隣でジェイクの表情も変わる。

「……これは。」


担架が三人の前で止まった。

「発見時の状況を。」

オリビアが巡回隊へ確認する。


「第三区域北東部の森で発見しました。

周囲に魔物は確認されず、争った形跡もありません。

女性は一人で倒れており、呼び掛けにも反応なし。

衣服や所持品には必要以上に触れておりません。」

「分かったわ。」

オリビアは担架の女性へ視線を落とした。


年の頃は、ルリスティとそう変わらないだろう。

手の甲には、地面へ倒れた際についたらしい擦り傷。

ドレスの裾には土と草が付着している。


だが、着ているものが、明らかにこの辺境には似つかわしくない。

柔らかな淡い色の生地。

控えめでありながら極めて繊細な刺繍。

軍服でも旅装でもない。

身分の高い女性が、

公の場へ出るために仕立てられたような衣装だった。


「見慣れない服ね。」

オリビアが呟く。

ルリスティも生地や刺繍へ目を向けた。

「共和国のものではありませんね。」

「北部の民族衣装とも違うわ。」

「少なくとも、辺境地域で用いられるものではないでしょう。」

「ずいぶん上等な生地だな。」


ジェイクもドレスへ視線を落とし、

そのまま女性の顔を見て言葉が止まった。

「……。」

ルリスティが横を見る。

「大佐?」

ジェイクは答えず。

担架に横たわる女性と、隣に立つルリスティを交互に見た。


一度。

もう一度。


「……何ですか。」

さすがに気になったのか、ルリスティが眉を寄せる。

「いや。」

ジェイクは女性を見つめたまま答えた。

「雰囲気は全然違うんですが、似てますね。」

ルリスティの指先が、僅かに動いた。

それは彼女自身にも分かっていた。


目元。

鼻筋。

輪郭。


瞳は閉じられているため、色までは分からない。

それでも。

担架に横たわる女性の顔には、

鏡の中の自分を思わせるものがあった。


だが、全く同じではない。

ルリスティの髪は、真っ直ぐに背へ流れている。

対して目の前の女性の髪は、

柔らかく波打ちながら白い布の上へ広がっていた。

似た顔立ちでありながら、受ける印象はまるで違う。


「……姉妹だと言われても、俺は信じるかもしれませんね。」

ジェイクの声は、先ほどまでと違って真剣だった。

「私に姉妹はいませんよ。」

そう言って、ルリスティは再び担架へ視線を戻す。


ジェイクは答えなかった。

以前、ガレスから聞いた話が脳裏を過ぎる。

まだ二歳だったルリスティを、クラウスが保護したこと。

そして、二人に血の繋がりがないこと。

ルリスティ本人は、何も知らない。


ならば、

どこかに血を分けた家族がいたとしても不思議ではない。

ましてや目の前には、同じ白銀の髪を持ち、

驚くほどよく似た女性がいる。

偶然。

その一言だけで、本当に片付けていいのだろうか。


「マルセリア大佐?」

呼ばれ、ジェイクは我に返った。

「何か気になることが?」

少し迷ってから、担架の女性へ視線を戻す。

「……司令に、似すぎています。」

それだけ答えた。

似ているというだけで、

本人の知らない過去を揺さぶるつもりはなかった。


「珍しい偶然なのでしょう。」

ルリスティは、

自分へ言い聞かせるように女性を見つめた。

ジェイクもそれ以上は何も言わず、二人を見比べる。


「似てはいますけど。

やっぱり、同じには見えませんね。」

「そうでしょうか。」

「ええ。」

少し考えてから、ジェイクはルリスティへ視線を戻した。


「司令は、星みたいです。」

「星?」

「静かで、遠くまで見渡していて。

迷った時に、進む方角を教えてくれる。」

いつもの軽口ではなかった。

ルリスティは数秒、何も言わず彼を見つめる。


「……大佐がそのようなことを言うとは思いませんでした。」

「褒めたんですが。」

僅かに口元を緩めたルリスティを見て、ジェイクも小さく笑う。


そして、今度は眠る女性へ目を向けた。

「この人は……春の光ですね。」

「春の光?」

「よく晴れた日の、暖かい日差しみたいな。」

ルリスティも、つられるように女性を見る。


柔らかく波打つ白銀の髪。

穏やかな寝顔。

確かに。

そんな言葉が、不思議なほど似合った。


「二人とも。」

オリビアの冷静な声が割って入る。

「星だの春の光だの言ってる暇があるなら、

救護所まで運ぶのを手伝って。」

ルリスティが素直に頭を下げる横で、

ジェイクは苦笑しながら担架の端へ手を掛けた。


ルリスティも反対側へ回ろうとする。

「司令官は結構。」

即座に止められ、ルリスティが足を止める。

「ですが――」

「あなたまで持ったら、兵士たちが困るでしょう。」

言われて周囲を見れば、確かに何人かが困ったような顔をしている。


「……分かりました。」

少し残念そうに手を下ろすルリスティを見て、

ジェイクが小さく笑った。

「本当に放っておけないんですね。」

「負傷者を保護するのは当然です。」

それだけ答え、ルリスティは担架の横へ付いた。



救護所の個室へ、女性はすぐに運び込まれた。

オリビアは補助の医療兵と共に、診察を開始する。


脈。

呼吸。

顔色。


手首、肘、肩、足首。

外傷や骨への異常がないか、

一つずつ確認していく。


肩へ触れた時だけ、

眠る女性の眉が僅かに寄った。

「ここは痛むようね。」

オリビアはそれ以上強く触れず、補助の兵士へ冷却布を求めた。


ルリスティは少し離れた場所から診察を見守り、

ジェイクは扉の傍で、女性と出入口の両方へ目を配っていた。

やがてオリビアが女性の手首を取り、

掌から薄く魔力を流す。


淡い光が腕へ走ったものの、

肘へ届く前に不規則に揺らぎ、細い筋へ散って消えた。

「……魔力の流れが酷く乱れてる。」

もう一度試しても結果は同じだった。


枯渇しているわけではない。

身体には十分な魔力が残っているのに、

正常な経路を流れていない。

毒や呪いの兆候もなく、

今は身体そのものが回復を優先しているらしい。


「無理に術式を使わせるのは危険ね。

しばらく休ませましょう。」

オリビアは女性へ掛け布を整え、ルリスティを見る。

「目覚めた時は混乱するでしょうから、

武装した兵士を大勢置かない方がいいわ。」


「では、警備は部屋の外へ二名。

室内は必要最低限にします。」

ルリスティは眠る女性へ視線を落とす。

「拘束も不要です。

危険な兆候が確認されれば、その時に対応しましょう。」

ジェイクも異論なく頷いた。

診察を終えたオリビアは、静かに器具を片付け始めた。


「では、司令官と大佐も仕事へ戻って。」

「私は残ります。」

即答だった。

オリビアが手を止める。

「ルリスティちゃん。昨夜から一睡もしてないでしょう。」

「私は大丈夫です。」

「出た。」

ジェイクの呟きに、ルリスティが眉を寄せる。


「何ですか。」

「その『大丈夫です』、もう信用してません。」

実際、過去に何度もジェイクやクルトワから、

仕事を取り上げられている。

ルリスティは反論せず、小さく息を吐いた。

「……分かりました。」


けれど、眠る女性から視線は離れなかった。

その様子を見たオリビアが、先に折れる。

「本当に少しだけよ。」

「ありがとうございます。」


オリビアが隣室へ移っても、ジェイクはその場を離れなかった。

何も言わず、扉の傍の壁へ背を預ける。

ルリスティも、彼が残った理由を尋ねなかった。


室内にはただ、眠る女性の穏やかな寝息だけが残った。



ルリスティは、

寝台の脇に置かれた椅子へ腰掛けた。

近くで見れば見るほど、

やはり女性は自分によく似ている。


同じ色の髪。

似た輪郭。

長い睫毛。

閉じられた瞼。


だが、手は、自分のものよりずっと柔らかそうだった。

指先には軍人特有の硬いまめがない。

代わりに、指の腹にはごく小さな針跡が幾つか残っている。

刺繍か裁縫でもするのだろうか。


ドレスも、改めて見れば見るほど上質だった。

けれど華美すぎる印象はない。

柔らかく、上品で、

身に纏う者の品格を、静かに引き立てるような衣服だった。


「あなたは……、どちらから来たのですか。」

ルリスティが小さく問い掛ける。

当然、返事はない。

「どうして、あのような場所へ……。」


森を歩いた痕跡はほとんどない。

旅をしてきたようにも見えず、

履いていた靴も長距離歩行に適したものではなかった。

まるで、何の前触れもなく、突然そこへ現れたかのような。


「司令。」

扉の傍から、ジェイクが静かに呼ぶ。

「この人に、何か覚えは?」

ルリスティは少し考え、ゆっくり首を振った。

「記憶にはありません。」


それでも、眠る女性から視線は離れない。

「ですが……気になるのは確かです。

報告を聞いた時から、

何故か私が迎えに行かなければならない気がして。」

ジェイクはそれ以上追及せず、同じように女性を見る。


「なら、来て正解だったんでしょう。」

「……そうでしょうか。」

「司令の勘は、よく当たりますから。」

その言葉に、ルリスティの表情が僅かに和らいだ。

「……ええ。私も、そう思います。」


その時。

寝台の上で、女性の指先が微かに動いた。

ルリスティがすぐに身を乗り出す。

「……目を覚ましましたか?」

返事はない。

けれど呼吸が僅かに乱れ、眉間に薄く皺が寄る。


「オリビアさんを呼んできます。」

ジェイクも壁から背を離し、扉へ向かおうとしたその瞬間。

女性の唇が微かに動いた。

「……アーク……。」

掠れた声。


ルリスティが耳を澄ませる。

「何と?」

「……ファイント……。」

途切れ途切れの言葉。


それが誰かの名前なのだと、すぐに分かった。

「アークファイント……。」

今度は、はっきり聞こえた。


閉じられた瞼の端から一筋の涙が零れ、

白い頬を伝い、枕へ落ちた。

「……ごめんね……。」

あまりにも悲しげな声だった。


ルリスティの胸が、不意に締め付けられた。

何を謝っているのか。

アークファイントという名が、誰を指すのか。

何一つ分からない。


それでも、その名を呼ぶ声が、

ひどく大切な誰かへ向けられたものだということだけは分かった。

気付けば、ルリスティは女性の手へ触れていた。

僅かに震える指先を、両手でそっと包む。


「大丈夫ですよ。」

何故そんな言葉が出たのか、自分でも分からない。

「ここは安全です。」

涙の跡が残る頬を見つめる。


「きっと、その方も、あなたが目を覚ますのを待っています。」

返事はない。

ただ。

包まれた手の中で、女性の指が微かに動いた。

そして、縋るようにルリスティの指へ絡む。

ルリスティは、その手を離さなかった。


少し離れた場所で、

ジェイクもまた、何も言わず二人を見守っていた。


この時。

ルリスティはまだ知らなかった。

目の前で眠る女性が、

十七年前、

黒淵の向こうへ引き離された、双子の姉であったことを。

そして、

彼女が涙と共に呼んだ名を持つ騎士が、

その遥か向こうで、今度こそ、その手を掴むために、

彼女を探し続けていることを。


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