第37話 封じられた部屋
深夜。
皇城の最奥。
長い間、誰の足音も響かなかった回廊を、
ルーファス・フォン・マーヴェリアは一人で歩いていた。
「陛下。」
後ろから、秘書官の声がする。
「お供いたします。」
「必要ない、下がれ。」
低い声だった。
皇帝としての命令。
そして、これ以上誰にも踏み込ませないための言葉。
「……承知いたしました。」
足音が遠ざかっていく。
ルーファスは振り返らなかった。
今から向かう場所へ、
皇帝としての自分を連れていくことはできない。
あそこへ入れるのは、
十七年前に娘を奪われた一人の父親だけだった。
◇
回廊の突き当たり。
そこに白い扉があった。
小さな花と、二羽の鳥が彫られている。
幼い双子の皇女たちのために用意された部屋。
扉には、幾重もの封印術式。
すべて、十七年前ルーファス自身が命じ、
最後には自らの手で閉ざした。
誰にも入らせなかった。
自分自身さえ、この扉へ触れなかった。
触れれば、あの日へ戻ってしまう気がしたから。
二歳だった娘が、目の前から奪われたあの日へ。
「……ルリスティ。」
十七年間、呼ぶたびに胸を抉った名。
返事はない。
ルーファスはもう一度呼ぶ。
「ルリスティ。」
そして、初めて扉へ手を触れた。
白銀の光が広がる。
一つ。
また一つ。
封印が静かに解かれていった。
最後の光が消えると、
ルーファスはゆっくりと扉を開いた。
◇
部屋の中では、十七年前から時が止まっていた。
二つの小さな寝台。
幼い子どものための机。
積み木。
絵本。
色鮮やかな玩具。
二人で着るはずだったお揃いの小さな服。
そして、寝台の上には、
白銀の羽を持つ小さな鳥のぬいぐるみ。
フェリシアが娘たちへ選んだものだった。
『ルリスティには、白い鳥を。』
『クリスティには、青い鳥を。』
遠い日の声が蘇る。
『二人が離れていても、いつでもお互いを思い出せるように。』
「……フェリシア。」
あの頃、本当に離れる日が来るなど誰も思っていなかった。
同じ皇城で育ち、共に笑い、共に大人になる。
そう信じていた。
ルーファスは、ゆっくりと部屋の奥へ進んだ。
やがて、並んだ二つの寝台の前で足を止める。
ルリスティが消えた後、
クリスティは、この部屋へ戻されることはなかった。
高熱と混乱の末、
幼い娘はあの日の出来事だけでなく、
フェリシアとルリスティの記憶まで失っていたからだ。
自分に双子の妹がいたことさえ、覚えていない娘を。
二人で過ごした部屋へ戻すことなどできなかった。
それでも。
この部屋だけは、あの日のまま残された。
二人の痕跡を、何一つ失わないように。
「……長かったな。」
寝台の縁へ腰を下ろす。
かつて、何度も幼い娘たちを寝かしつけた場所。
『おとうしゃま、もういっかい。』
『先ほど読んだだろう。』
『もういっかい。』
同じ絵本を何度も読まされた。
眠ったと思い、立ち上がれば、
小さな手が服の袖を掴んだ。
『いかないで。』
あの時自分は答えた。
『ここにいる。』
ずっと守る。
そう約束したはずだった。
「……守れなかった。」
十七年前。
「お前を。」
そして、今日。
「クリスティまで……。」
もう一人の娘まで、同じ奈落の歪みに奪われた。
ルーファスは白い鳥を手に取った。
何度も握られた小さな翼。
「ルリスティ。」
ぬいぐるみへ問い掛ける。
「お前は、どこで生きている?」
返事はない。
十七年間、ずっとそうだった。
「私は……。」
白い鳥を握る手へ力が入る。
「お前が生きていると信じることだけを理由に、
永遠に国のすべてを動かし続けることはできなかった。」
自分は皇帝だった。
残された子どもたちと、帝国の民を守らなければならなかった。
捜索の規模を縮小した。
それでも、父として諦められた日など一日たりともなかった。
「すまない。」
十七年間、言えなかった言葉。
「お前を諦めたわけではなかった。
ただ、皇帝であることもやめられなかった。」
フェリシアを失った。
ルリスティを奪われた。
それでも、立っていなければならなかった。
そして今日、クリスティまで奪われた。
「……帰ってきてくれ。」
初めて声が震えた。
命令ではない、皇帝の言葉でもない。
「ルリスティ。」
「クリスティ。」
二人の娘の名を呼ぶ。
「もう……父を置いていくな。」
白い鳥を胸へ抱いた。
本来なら、同じ十九歳で並んでいるはずだった双子。
その一人が、もし今もどこかで生きているのなら。
「ルリスティ。」
声を絞り出す。
「今、お前がどこかで生きているなら。」
今、父の知らない場所で、
十九歳の女性として生きているのなら。
「クリスティを、あの子を見つけてやってくれ。」
何故そんな願いが浮かんだのか、
自分でも分からなかった。
同じ奈落の歪み。
同じ場所へ繋がっている保証などない。
それでも、双子なら。
血が、祝福が。
互いを導いてくれるのではないか。
そう信じたかった。
「お前たちは、姉妹だ。」
互いの顔を覚えていなくても。
奈落によって、長い間引き裂かれていても。
「頼む。」
一国の皇帝が誰もいない部屋で、
幼い娘のぬいぐるみを抱き締め深く頭を垂れた。
「姉を、見つけてくれ。」
一滴。
涙が白銀の羽へ落ちた。
「そして……。」
声が震える。
「二人で、私のもとへ帰ってきてくれ。」
長い沈黙の後。
ルーファスは白い鳥を元の寝台へ戻した。
十七年前と同じ場所へ。
娘がいつ帰ってきてもいいように。
「待っている。」
十七年間そうしてきたように。
「何年でも。」
二人が帰ってくるまで。
「私は、ここで待っている。」
◇
同じ頃。
奈落の遥か北。
長い夜が、明けようとしていた。
アドバンス共和国
辺境防衛軍本部
一人の女性が、夜通し届いた報告書へ目を通していた。
長い白銀の髪。
紫水晶の瞳。
漆黒の軍服。
机の脇には、二丁の魔導銃が置かれている。
静かな執務室に、紙を捲る音だけが響いていた。
その時、廊下を駆けてくる軍靴の音が近付き、
勢いよく扉が開いた。
「司令官!」
女性は、読んでいた報告書から顔を上げる。
「どうしましたか?」
兵士は机の前で足を止め、息を整える間もなく敬礼した。
「巡回部隊より緊急報告です!辺境森林地帯で、身元不明の女性を発見。
意識を失っていたところを保護しました!」
女性の眉が僅かに寄る。
手にしていた報告書を、静かに机へ置いた。
「怪我は?」
「目立った外傷はありません。現在、本部へ搬送中です!」
「発見場所は?」
「第三区域北東部。通常の巡回路から外れた森林地帯です。」
その答えに、紫水晶の瞳が僅かに細められた。
人里から遠く、通常の移動経路からも外れた場所。
そこへ、一人の女性が忽然と現れた。
遭難者と判断するには、あまりにも不自然だった。
「……分かりました。」
女性は迷うことなく席を立つ。
椅子の背に掛けていた漆黒の外套を取り、肩へ羽織った。
続いて、机の脇に置かれていた二丁の魔導銃を手に取り、
慣れた動作で腰へ収める。
「私も南門へ向かいます。」
兵士が目を瞬いた。
「司令官自らですか?」
「通常の遭難とは考えにくい状況です。」
留め具を閉じながら、女性は扉へ向かう。
「身元も、そこへ至った経緯も不明。危険人物である可能性も否定できません。」
「でしたら、なおさら護衛を――」
「ですから。」
扉の前で足を止める。
振り返った表情は、いつもと変わらず穏やかだった。
「私が確認します。」
反論を許さないほど、静かな声だった。
兵士が姿勢を正す。
「救護班へ伝えてください。」
女性は再び歩き出しながら告げる。
「その方の安全を最優先に。
危険な兆候が確認されない限り、拘束は不要です。」
「承知いたしました!」
兵士が敬礼し、先に廊下を駆けていく。
その足音が遠ざかったところで、
女性は、ふと足を止めた。
「……?」
無意識に、胸元へ手を当てる。
規則正しいはずの鼓動が、いつもより僅かに速い。
何かを恐れているわけではない。
それなのに。
胸の奥が、妙に落ち着かなかった。
「……何でしょう。」
理由など分からない。
ただ、どこか懐かしく。
それでいて、胸を締め付けられるような。
これまで一度も覚えたことのない感覚がそこにあった。
遠くから声が響く。
「司令官!南門へ向かう準備が整いました!」
女性は顔を上げた。
窓の向こうでは、夜の色が少しずつ薄れている。
差し込み始めた朝の光が、長い白銀の髪を淡く照らした。
そして、胸元から手を離す。
「今、行きます。」
迷うことなく、彼女は歩き出した。
その名は、
ルリスティ・トリウリッド。
十七年前。
奈落の歪みによって帝国から奪われた、
第三皇女ルリスティ・フォン・マーヴェリア。
けれど本人は、そのことを何一つ知らない。
そして、今から会いに行く女性が、
自分と同じ白銀の髪と、紫水晶の瞳を持っていることも。
遠く、黒淵の向こう側では。
一人の父が、二人の娘の帰りを願っていた。
その祈りを、ルリスティは知らない。
それでも、十七年間。
別々の場所で流れていた二人の時間は、
今、
再び交わろうとしていた。




