第36話 太陽を取り戻すために
その夜。
皇城で最も多くの者が行き交っていたのは、
レオンハルトの執務室だった。
「孤児院周辺の封鎖、完了しております。」
「発生地点には騎士団と宮廷魔術師団を配置。」
「現場の残留魔力についても、回収を開始しております。」
「過去の奈落の歪みに関する記録は、現在皇室文書庫より搬出中です。」
次々と届く報告。
積み上がる書類。
その中心でレオンハルトは、休むことなく指示を出していた。
「目撃した子どもたちへ無理な聞き取りをするな。
同じ質問を繰り返すことも禁止だ。」
「承知いたしました。」
「孤児院の警備を増員しろ。」
「はっ。」
「現場に残されたものは、魔術師団の確認が終わるまで誰にも触れさせるな。」
「御意。」
迷いはなかった。
兄としてなら、今すぐ孤児院へ戻り、
妹が消えた場所で何度でも名前を呼びたかった。
けれど、それではクリスティを連れ戻すことはできない。
今自分がやるべきことは、
帝国にある力を、ただ一つの目的へ向けることだった。
「次を。」
「奈落騎士団への連絡についてです。」
レオンハルトの手が止まった。
奈落騎士団。
アレクシス。
離れた最前線で騎士団長として奈落門を守る弟は、
まだ妹が消えたことを知らない。
「早馬を出せ。」
静かに命じる。
「交代の馬と騎手を用意しろ。夜通し走らせる。」
「書簡は?」
「俺が書く。」
便箋を引き寄せる。
けれど、すぐにはペンを動かせなかった。
十七年前。
ルリスティが消えた時、自分はまだ幼かった。
昨日までそこにいた妹が、
突然どこにもいなくなった。
父は眠らず捜し続け、
皇城から、幼い妹の名を呼ぶ声が消えていった。
あの静けさを今も覚えている。
そして今日。
奈落は、また自分たちの妹を奪った。
「……二度も。」
ペンを握る指へ力が入る。
けれど、十七年前とは違う。
今の自分には動かせる人間がいる。
使える権限がある。
「今度こそ、必ず連れ戻す。」
そして、ペンを走らせた。
『アレクシスへ。』
『本日、帝都郊外の孤児院において奈落の歪みが発生した。』
『クリスティは、取り残された子どもを救出した後、歪みに飲み込まれた。』
『現在、帝国の総力を挙げて捜索を開始している。』
『クリスティは生きている。』
根拠などない。
それでも兄としてそう書いた。
続けて。
『奈落門の守備を放棄してはならない。』
『お前が任務を離れれば、さらに多くの命が失われる。』
『クリスティも、それを望まない。』
『続報は必ず送る。』
『それまで、奈落門を頼む。』
最後に、迷って。
『すまない。』
一言だけ書き加えた。
兄として、弟へ。
「これを、何があってもアレクシス本人へ届けろ。」
待機する騎士へ封書を渡す。
「命に代えましても。」
「命は捨てるな。」
レオンハルトは、真っ直ぐ騎士を見た。
「生きて届けろ。」
「そして、生きて帰ってこい。」
「御意。」
騎士が去る。
扉が閉まった。
ほんの一瞬だけ、レオンハルトは机へ手をついた。
「……すまない。」
アレクシスへか、クリスティへか。
それとも、二度も妹を奪われたのに何一つできなかった自分へか。
分からない。
けれど、俯いたのはそれだけだった。
顔を上げる。
「次の報告を。」
扉が開く。
そこにはもう、妹を奪われた兄ではなく。
帝国を動かす第一皇子が立っていた。
◇
同じ頃。
宮廷魔術師団研究棟。
夜を忘れたように、無数の灯りが点っていた。
奈落の歪みに関する記録。
空間魔術。
転移術式。
古代術式。
現場から回収された土や草。
「残留魔力の分析を急いでください。」
ヴィオレットの声が響く。
「歪みの発生前後で、魔力にどのような変化があったのか。
過去の事例との共通点も、すべて洗い出して。」
「承知いたしました。」
孤児院から戻って以来、ヴィオレットも一度も休んでいなかった。
泣くのはまだ早い。
諦めるなどあり得ない。
「ヴィオレット様。」
声を掛けたのはルシアンだった。
普段の柔らかな笑みはない。
その手には、一枚の許可証が握られている。
「陛下より、皇室禁書庫、封印文書庫を含む、
奈落関連資料すべてについて閲覧許可が出ました。」
「……すべて?」
「はい。使えるものは、すべて使えと。」
ヴィオレットは一度だけ目を閉じた。
「分かったわ。すぐに禁書庫を――」
立ち上がろうとした彼女の手を、ルシアンがそっと押し留めた。
「そちらは僕が行きます。」
「でも――」
「ヴィオ様。」
いつもより僅かに低い声だった。
その呼び方に、ヴィオレットの言葉が止まる。
ルシアンの視線は、
机の上ではなく彼女の指先へ向いていた。
先ほどから、僅かに震えている。
「一人で全部やろうとしないでください。」
「……してないわ。」
「しています。」
即答され、ヴィオレットが眉を寄せる。
普段なら、そこで言い返しただろう。
けれど今は、それ以上の言葉が出てこなかった。
ルシアンも追及しなかった。
ただ彼女の隣へ立ち、机の上へ現場の分析資料を広げる。
「奈落の歪みの解析は、僕が中心となって進めます。
空間魔術と転移術式は僕の専門です。」
「……ええ。」
「ヴィオレット様には、
過去の記録と術式の照合をお願いします。」
仕事の話へ戻った声は、いつものルシアンだった。
だからこそ、ヴィオレットも僅かに息を吐くことができた。
「奈落の歪みは、
人を何もない場所へ消しているわけではありません。」
ルシアンが資料の一点を指す。
「空間が裂けたのなら、その先には別の空間がある。
道が開いたのなら、
閉じた後にも必ず痕跡が残る。」
ヴィオレットの瞳が揺れた。
机の端には、
十七年前の記録がある。
消失者。
第三皇女ルリスティ・フォン・マーヴェリア。
当時二歳。
ヴィオレットには、幼い妹との記憶が今も残っている。
二つ並んだ小さな寝台。
同じ白銀の髪をした双子。
クリスティの隣で、
幼い声を上げて笑っていたルリスティ。
十七年という歳月の中で、
細部は少しずつ遠くなっていった。
それでも、妹がそこにいたことだけは、
決して忘れたことがない。
「……また。」
ヴィオレットの指先が、
古い記録の上で止まった。
「また何も分からないまま、待つことしかできないの……?」
皇女でも、魔術師でもない。
ただ、妹を奪われた姉の声だった。
「いいえ。」
ルシアンは即答した。
そして、震える彼女の手へ自分の手を重ねる。
ほんの一瞬。誰にも見せるつもりなどない、
二人だけの触れ方だった。
「十七年前とは違います。」
ヴィオレットが顔を上げる。
「空間魔術の技術も、残されている記録も、使える人員も、
すべてあの頃より進歩しています。」
そして今回は、歪みが閉じた直後の痕跡まで残っている。
「必ず、以前には見つけられなかったものがあります。」
「……見つけられる?」
ルシアンは安易に頷かなかった。
「今は、必ずとは言えません。」
その答えに、ヴィオレットの瞳が僅かに伏せられる。
「ですが、見つけられないと証明されるまでは、
僕は探し続けます。」
重ねた手へ、僅かに力が込められた。
「試せる可能性が、すべて尽きるまで。」
「ルシアン……。」
「クリスティ様には、戻る場所も、待っている人も、
果たしていない約束もあります。」
静かに笑う。
いつもの軽やかな笑みではない。
ただ、彼女を支えるための笑顔だった。
「だから帰る道を探しましょう。」
僕が、ではなく。
私が、でもなく。
「二人で。」
ヴィオレットはしばらく、
ルシアンを見つめていた。
やがて、重ねられた手を握り返す。
「……ええ。」
小さく息を吐いてから、
いつもの彼女らしく顔を上げた。
「絶対に見つけるわよ、ルシアン。」
「もちろんです。」
「クリスティも。」
ヴィオレットは、十七年前の記録へ視線を落とす。
そこに記された、もう一人の妹の名前へ。
「ルリスティも。」
ルシアンもその名を見て、迷いなく答えた。
「ええ。二人とも、見つけましょう。」
◇
やがて、ルシアンは奈落門出現以前の古い地図を広げた。
そこには現在、奈落によって分断されている地域が、
一続きの大地として描かれている。
「旧共和国領の資料も集めてください。」
ヴィオレットが顔を上げる。
「共和国?」
「現在も国家として存続している、と考えているわけではありません。」
百五十年前。
奈落門によって陸路が断たれ。
海は海魔。
空はドラゴンによって閉ざされた。
それ以来、帝国は北側の国と一度も連絡を取れていない。
「ですが。」
ルシアンの指が、古い街道をなぞる。
「国が滅びたとしても、その土地まで世界から消えたわけではありません。」
奈落門によって分断された大地。
「もし奈落の歪みが、かつて繋がっていた空間同士へ、
何らかの影響を受けているのなら。」
指先が街道の反対側へ進む。
「奈落の向こう側も、捜索対象から外すべきではありません。」
ヴィオレットの目が見開かれた。
「クリスティが……向こう側へ?」
「可能性の一つです。」
何も分からない。
その土地が、今どうなっているのかさえ。
それでも。
「……調べましょう。」
ヴィオレットは十七年前の記録へ手を置いた。
「クリスティだけではありません」
その下に記された、もう一人の妹の名。
「ルリスティの行方にも、繋がるかもしれない。」
「その可能性も含めて、すべて調べます。」
その夜。
一人の皇女を連れ戻すため、
奈落の向こう側を探す研究が始まった。
それがいつか。
百五十年間分断されていた二つの国が、
再び巡り会うための礎となることを。
まだ、誰も知らなかった。
◇
その夜。
泣き崩れた騎士は再び立ち上がった。
兄は、帝国を動かし。
姉は、奈落の向こう側へ辿り着く術を探し始めた。
離れた最前線へは、
もう一人の兄へ向けた早馬が走っている。
悲しみに立ち止まっている暇などなかった。
皆、ただ一つ。
皇城の太陽を、必ずこの場所へ連れ戻す。
その願いだけを胸に。
残された者たちは、それぞれの戦いを始めていた。




