第35話 残された贈り物
皇城へ戻った頃には、
すでに夜が深くなっていた。
いつもなら、灯りの落ちた回廊にもどこかしら人の気配がある。
遅くまで働く文官。
夜警へ向かう騎士。
仕事を終え、静かに言葉を交わす侍女たち。
だが、その夜の皇城は。
まるで、すべての者が息を潜めているようだった。
誰も笑わない。
誰も大きな声を出さない。
廊下ですれ違う者たちはリカルドの姿を見るたび、
何かを言おうとして、
結局、何も言えないまま深く頭を下げた。
第二皇女専属騎士。
紅蓮の騎士。
そのどちらも。
今のリカルドには、何の意味もなかった。
守ると誓った人を守ることができなかった。
ただ、その事実だけが胸の奥へ重く沈んでいた。
◇
気が付けば。
リカルドは、第二皇女の居住区へ続く回廊を歩いていた。
誰かに命じられたわけではない。
執務室へ戻り、報告書を書き。
奈落の歪みについて、
魔術師たちと捜索方針を詰めなければならない。
やるべきことは、いくらでもあった。
それなのに、身体は。
長い間繰り返してきた習慣のまま姫様の部屋へ向かっていた。
回廊の先、見慣れた扉の前には今夜も、
皇城の騎士たちが立っていた。
主人のいない部屋を、
まるで今も中で眠っているかのように守っている。
「アークファイント卿。」
騎士が深く頭を下げる。
「……異常は。」
自分でも、何を確認しているのか分からなかった。
「ございません。」
「そうか。」
いつも通りの確認。
いつも通りの返答。
けれど、扉の向こうから。
『アークファイント。』
そう呼ぶ声だけが、もう聞こえない。
「……。」
リカルドは、ただ扉を見つめた。
専属騎士であっても、姫様の許しなく、
その私室へ入ったことはない。
だから、一歩を踏み出すことができなかった。
その時。
「アークファイント様。」
内側から、静かな声がした。
扉を開いたのは、幼い頃からクリスティへ仕えてきた侍女だった。
赤く腫れた目。
それでも侍女としての礼を崩さず、
深く頭を下げる。
「お戻りを、お待ちしておりました。」
「……私を?」
「はい。」
少し迷ってから。
「クリスティ様のお部屋に、
アークファイント様へご確認いただきたいものがございます。」
リカルドの胸が大きく鳴った。
「……姫様の?」
「はい。」
その一言だけで、息が苦しくなる。
「姫様は。」
思わず、強い声が出た。
侍女の肩が揺れる。
リカルドは目を伏せた。
「……申し訳ございません。」
「いいえ。」
侍女は首を振った。
「クリスティ様は、必ずお帰りになります。」
「……はい。」
「ですから。」
声が僅かに震える。
「お戻りになるまで。
私どもが、すべてこのままお守りいたします。」
リカルドは、ゆっくりと頷いた。
「頼む。」
騎士としてではなく。
ただ、大切な人の帰りを待つ一人として。
「姫様がお戻りになるまで。
何一つ、変えないでいてくれ。」
「承知しております。」
◇
部屋は、今朝のままだった。
窓辺には、リカルドが贈った真紅の薔薇。
水を替えられた花は、まだ瑞々しく咲いている。
机には、読みかけの本。
これから先の予定表。
書きかけの視察報告書。
その端に、
『次回は子どもたちへ新しい絵本を持っていくこと。』
見慣れた筆跡。
次回。
来年も、その次も。
クリスティは。
今日も明日が来ることを疑っていなかった。
「今朝。クリスティ様は、こちらでお支度をされていました。」
侍女が静かに言う。
「……。」
「孤児院の子どもたちに会えることを、
とても楽しみにしておられました。」
『晴れてよかったね。』
朝、そう笑っていた。
昨日あれほど泣いていた人が、何事もなかったように。
「こちらの薔薇も、何度も、ご覧になっておられました。」
侍女の視線が窓辺へ向く。
「……そうか。」
「とても、大切そうに。」
リカルドは、薔薇を見ることができなかった。
ただ、姫様に似合うと思った。
自分の髪と同じ色であることさえ、深く考えずに選んだ花。
昨日。
『アークファイントが好き。』
そう告げてくれた姫様は、
この薔薇をどんな気持ちで見つめていたのだろう。
それを知った今。
自分はもう、その想いを拒んでしまった後だった。
「アークファイント様。」
侍女が、机の引き出しを開いた。
「こちらです。」
中には小さな白い箱。
丁寧に銀の紐が結ばれている。
そして、箱の上には。
『アークファイントへ』
たった一言。
見慣れた筆跡。
リカルドの呼吸が止まった。
「……これは。」
「少し前から、夜遅くまでお作りになっておられました。」
侍女は泣きそうな顔で笑った。
「今度こそ、猫だなんて言わせないのだと。」
「……。」
九年前、十歳だったクリスティが、
専属騎士となった自分へくれた白いハンカチ。
銀糸で刺繍された少し不格好な鷹。
『猫でしょうか。』
そう言って姫様を怒らせた。
そのハンカチは今も、リカルドの騎士服の内側。
心臓に最も近い場所にある。
震える手で、胸元へ触れる。
薄い布越しに古い刺繍の感触があった。
そして、目の前には。
十九歳になった姫様が自分のために作っていた、
もう一つの贈り物。
「……開けても、よろしいのでしょうか。」
声が掠れた。
「アークファイント様のために、お作りになったものです。」
手を伸ばす。
けれど、紐へ触れる直前。
指が止まった。
怖かった。
本当なら、姫様自身の手から受け取るはずだった。
きっと、得意そうに箱を差し出して。
『今度はちゃんと鷹に見えるでしょう?』
そう笑って。
自分は、
『はい。今度は誰が見ても鷹でございます。』
そう答えて。
また、姫様に笑ってもらうはずだった。
なのに。
「……姫様。」
返事はない。
リカルドは、ゆっくりと銀の紐を解いた。
蓋を開く。
白いハンカチ。
その隅には、銀糸で刺繍された一羽の鷹。
九年前とは比べ物にならないほど美しい刺繍だった。
翼を広げ、今にも飛び立ちそうな銀の鷹。
そして、その上に小さなカード。
『お誕生日おめでとう、アークファイント。』
『今年も、お祝いできて嬉しい。』
『来年も、その先も。』
『ずっと、お祝いできますように。』
「……。」
一滴。
カードの上へ、雫が落ちた。
もう一滴。
インクが僅かに滲む。
「……あ。」
自分が泣いていることに気付くまで少し時間が掛かった。
孤児院では泣かなかった。
姫様は、生きている。
どこかで助けを待っている。
なら、立たなければならない。
探さなければならない。
迎えに行かなければならない。
そう思っていた。
それなのに。
この一枚のハンカチを見た瞬間、
張り詰めていたものがすべて崩れた。
「何故……。」
震える声が落ちる。
「何故、渡してくださらなかったのですか。」
返事はない。
そして、すぐに分かった。
違う、渡さなかったのではない。
渡せなかったのだ。
自分が、そうさせた。
昨日、姫様は泣きながら自分へ想いを告げてくれた。
なのに自分は、
『私は、姫様の騎士です。』
彼女が望む未来を聞こうともせず、
勝手にその幸せを決めた。
自分では、姫様を幸せにできないのだと。
「……私が。」
声が震える。
「私が、あなたの想いを……。」
ハンカチを胸へ抱き締める。
「受け取ろうとしなかったから……。」
膝から力が抜け、床へ崩れ落ちる。
侍女が息を呑んだ。
侍女は、近付かなかった。
帝国最強と呼ばれた騎士が、一枚のハンカチを抱き締め。
声を押し殺して泣いていた。
「クリスティ……。」
奈落へ消える瞬間にしか呼ぶことのできなかった名。
今度は誰もいない部屋へ落ちた。
「姫様……。」
返事はない。
「私は、まだ……。」
言葉が涙に遮られる。
「何一つ、あなたにお返しできておりません……。」
長い年月。
姫様から、数え切れないほどのものをもらった。
笑顔を。
信頼を。
自分が帰る場所を。
騎士として生きる理由を。
そして。
誰かを、これほどまでに愛するということを。
なのに。
最後に彼女へ返したものは、拒絶だった。
「どうか……。」
ハンカチを、強く胸へ押し当てる。
「生きていてください。」
騎士としてではない。
一人の男として。
「もう一度、あなたに会いたい。」
声を聞きたい。
名前を呼んでほしい。
笑ってほしい。
そして、今度こそ。
「私に……お返事をさせてください。」
それは、祈りだった。
◇
どれほどの時間が過ぎたのか。
やがて、リカルドはゆっくりと顔を上げた。
手元には二枚のハンカチ。
十歳の姫様から受け取った不格好な銀の鷹。
そして、十九歳の姫様が渡せなかった、美しい銀の鷹。
二枚目も、一枚目と同じ場所へ収めた。
心臓に最も近い場所へ。
「アークファイント様。」
侍女が声を掛ける。
「この薔薇も、大切に残しておいてくれ。」
「はい……必ず。」
侍女は涙を拭い、深く頭を下げた。
「クリスティ様がお戻りになるその日まで、
このお部屋をお守りいたします。」
「頼む。」
リカルドは自らの足で立ち上がった。
まだ胸は痛い。
何も掴めなかった右手も今なお疼いている。
それでも姫様はどこかで待っている。
ならば。
「必ず、お迎えに参ります。」
胸元へ手を当てる。
二羽の銀の鷹がそこにいる。
「待っていてください、姫様。」
黒い瞳へ再び光が宿る。
「今度こそ、必ずあなたの手を掴みます。」
二羽の銀の鷹が、
誰にも気付かれないほど小さく、きらりと光を宿した。




