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マーヴェリア帝国物語<二つの国と二人の皇女>  作者: 北村えり
第三章 皇城を照らす太陽
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第35話 残された贈り物

皇城へ戻った頃には、

すでに夜が深くなっていた。

いつもなら、灯りの落ちた回廊にもどこかしら人の気配がある。


遅くまで働く文官。

夜警へ向かう騎士。

仕事を終え、静かに言葉を交わす侍女たち。


だが、その夜の皇城は。

まるで、すべての者が息を潜めているようだった。


誰も笑わない。

誰も大きな声を出さない。

廊下ですれ違う者たちはリカルドの姿を見るたび、

何かを言おうとして、

結局、何も言えないまま深く頭を下げた。


第二皇女専属騎士。

紅蓮の騎士。


そのどちらも。

今のリカルドには、何の意味もなかった。

守ると誓った人を守ることができなかった。

ただ、その事実だけが胸の奥へ重く沈んでいた。



気が付けば。

リカルドは、第二皇女の居住区へ続く回廊を歩いていた。

誰かに命じられたわけではない。

執務室へ戻り、報告書を書き。

奈落の歪みについて、

魔術師たちと捜索方針を詰めなければならない。

やるべきことは、いくらでもあった。


それなのに、身体は。

長い間繰り返してきた習慣のまま姫様の部屋へ向かっていた。


回廊の先、見慣れた扉の前には今夜も、

皇城の騎士たちが立っていた。


主人のいない部屋を、

まるで今も中で眠っているかのように守っている。

「アークファイント卿。」

騎士が深く頭を下げる。

「……異常は。」

自分でも、何を確認しているのか分からなかった。

「ございません。」

「そうか。」

いつも通りの確認。

いつも通りの返答。


けれど、扉の向こうから。

『アークファイント。』

そう呼ぶ声だけが、もう聞こえない。

「……。」

リカルドは、ただ扉を見つめた。


専属騎士であっても、姫様の許しなく、

その私室へ入ったことはない。

だから、一歩を踏み出すことができなかった。


その時。

「アークファイント様。」

内側から、静かな声がした。

扉を開いたのは、幼い頃からクリスティへ仕えてきた侍女だった。


赤く腫れた目。

それでも侍女としての礼を崩さず、

深く頭を下げる。


「お戻りを、お待ちしておりました。」

「……私を?」

「はい。」

少し迷ってから。

「クリスティ様のお部屋に、

アークファイント様へご確認いただきたいものがございます。」

リカルドの胸が大きく鳴った。

「……姫様の?」

「はい。」

その一言だけで、息が苦しくなる。


「姫様は。」

思わず、強い声が出た。

侍女の肩が揺れる。

リカルドは目を伏せた。

「……申し訳ございません。」

「いいえ。」

侍女は首を振った。

「クリスティ様は、必ずお帰りになります。」

「……はい。」

「ですから。」

声が僅かに震える。

「お戻りになるまで。

私どもが、すべてこのままお守りいたします。」


リカルドは、ゆっくりと頷いた。

「頼む。」

騎士としてではなく。

ただ、大切な人の帰りを待つ一人として。

「姫様がお戻りになるまで。

何一つ、変えないでいてくれ。」

「承知しております。」



部屋は、今朝のままだった。

窓辺には、リカルドが贈った真紅の薔薇。

水を替えられた花は、まだ瑞々しく咲いている。


机には、読みかけの本。

これから先の予定表。

書きかけの視察報告書。

その端に、

『次回は子どもたちへ新しい絵本を持っていくこと。』

見慣れた筆跡。


次回。

来年も、その次も。

クリスティは。

今日も明日が来ることを疑っていなかった。


「今朝。クリスティ様は、こちらでお支度をされていました。」

侍女が静かに言う。

「……。」

「孤児院の子どもたちに会えることを、

とても楽しみにしておられました。」


『晴れてよかったね。』

朝、そう笑っていた。

昨日あれほど泣いていた人が、何事もなかったように。

「こちらの薔薇も、何度も、ご覧になっておられました。」

侍女の視線が窓辺へ向く。

「……そうか。」

「とても、大切そうに。」

リカルドは、薔薇を見ることができなかった。


ただ、姫様に似合うと思った。

自分の髪と同じ色であることさえ、深く考えずに選んだ花。

昨日。

『アークファイントが好き。』

そう告げてくれた姫様は、

この薔薇をどんな気持ちで見つめていたのだろう。

それを知った今。

自分はもう、その想いを拒んでしまった後だった。


「アークファイント様。」

侍女が、机の引き出しを開いた。

「こちらです。」

中には小さな白い箱。

丁寧に銀の紐が結ばれている。


そして、箱の上には。

『アークファイントへ』

たった一言。

見慣れた筆跡。

リカルドの呼吸が止まった。


「……これは。」

「少し前から、夜遅くまでお作りになっておられました。」

侍女は泣きそうな顔で笑った。

「今度こそ、猫だなんて言わせないのだと。」

「……。」

九年前、十歳だったクリスティが、

専属騎士となった自分へくれた白いハンカチ。

銀糸で刺繍された少し不格好な鷹。


『猫でしょうか。』

そう言って姫様を怒らせた。

そのハンカチは今も、リカルドの騎士服の内側。

心臓に最も近い場所にある。


震える手で、胸元へ触れる。

薄い布越しに古い刺繍の感触があった。

そして、目の前には。

十九歳になった姫様が自分のために作っていた、

もう一つの贈り物。


「……開けても、よろしいのでしょうか。」

声が掠れた。

「アークファイント様のために、お作りになったものです。」

手を伸ばす。

けれど、紐へ触れる直前。

指が止まった。


怖かった。

本当なら、姫様自身の手から受け取るはずだった。

きっと、得意そうに箱を差し出して。

『今度はちゃんと鷹に見えるでしょう?』

そう笑って。

自分は、

『はい。今度は誰が見ても鷹でございます。』

そう答えて。

また、姫様に笑ってもらうはずだった。


なのに。

「……姫様。」

返事はない。


リカルドは、ゆっくりと銀の紐を解いた。

蓋を開く。

白いハンカチ。

その隅には、銀糸で刺繍された一羽の鷹。

九年前とは比べ物にならないほど美しい刺繍だった。

翼を広げ、今にも飛び立ちそうな銀の鷹。


そして、その上に小さなカード。

『お誕生日おめでとう、アークファイント。』

『今年も、お祝いできて嬉しい。』

『来年も、その先も。』

『ずっと、お祝いできますように。』


「……。」

一滴。

カードの上へ、雫が落ちた。

もう一滴。

インクが僅かに滲む。


「……あ。」

自分が泣いていることに気付くまで少し時間が掛かった。

孤児院では泣かなかった。

姫様は、生きている。

どこかで助けを待っている。

なら、立たなければならない。

探さなければならない。

迎えに行かなければならない。

そう思っていた。


それなのに。

この一枚のハンカチを見た瞬間、

張り詰めていたものがすべて崩れた。


「何故……。」

震える声が落ちる。

「何故、渡してくださらなかったのですか。」

返事はない。


そして、すぐに分かった。

違う、渡さなかったのではない。

渡せなかったのだ。

自分が、そうさせた。


昨日、姫様は泣きながら自分へ想いを告げてくれた。

なのに自分は、

『私は、姫様の騎士です。』

彼女が望む未来を聞こうともせず、

勝手にその幸せを決めた。

自分では、姫様を幸せにできないのだと。


「……私が。」

声が震える。

「私が、あなたの想いを……。」

ハンカチを胸へ抱き締める。

「受け取ろうとしなかったから……。」

膝から力が抜け、床へ崩れ落ちる。

侍女が息を呑んだ。


侍女は、近付かなかった。

帝国最強と呼ばれた騎士が、一枚のハンカチを抱き締め。

声を押し殺して泣いていた。

「クリスティ……。」

奈落へ消える瞬間にしか呼ぶことのできなかった名。

今度は誰もいない部屋へ落ちた。

「姫様……。」

返事はない。

「私は、まだ……。」

言葉が涙に遮られる。

「何一つ、あなたにお返しできておりません……。」


長い年月。

姫様から、数え切れないほどのものをもらった。

笑顔を。

信頼を。

自分が帰る場所を。

騎士として生きる理由を。

そして。

誰かを、これほどまでに愛するということを。

なのに。

最後に彼女へ返したものは、拒絶だった。


「どうか……。」

ハンカチを、強く胸へ押し当てる。

「生きていてください。」

騎士としてではない。

一人の男として。

「もう一度、あなたに会いたい。」

声を聞きたい。

名前を呼んでほしい。

笑ってほしい。

そして、今度こそ。

「私に……お返事をさせてください。」

それは、祈りだった。



どれほどの時間が過ぎたのか。

やがて、リカルドはゆっくりと顔を上げた。

手元には二枚のハンカチ。


十歳の姫様から受け取った不格好な銀の鷹。

そして、十九歳の姫様が渡せなかった、美しい銀の鷹。


二枚目も、一枚目と同じ場所へ収めた。

心臓に最も近い場所へ。

「アークファイント様。」

侍女が声を掛ける。


「この薔薇も、大切に残しておいてくれ。」

「はい……必ず。」

侍女は涙を拭い、深く頭を下げた。

「クリスティ様がお戻りになるその日まで、

このお部屋をお守りいたします。」

「頼む。」

リカルドは自らの足で立ち上がった。


まだ胸は痛い。

何も掴めなかった右手も今なお疼いている。

それでも姫様はどこかで待っている。

ならば。


「必ず、お迎えに参ります。」

胸元へ手を当てる。

二羽の銀の鷹がそこにいる。

「待っていてください、姫様。」

黒い瞳へ再び光が宿る。

「今度こそ、必ずあなたの手を掴みます。」

二羽の銀の鷹が、

誰にも気付かれないほど小さく、きらりと光を宿した。




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